八月九日の空
『幸と恵のものがたり』
第41話 八月九日の空
昭和二十年八月九日。
木曜日。
広島に原子爆弾が投下されてから、三日目の朝。
長崎の空は、雲に覆われていた。
夏の湿気を含んだ風が、坂の町をゆっくり通り抜けていく。
路面電車のモーター音。
造船所から響く金属音。
長崎機関区の汽笛。
市場へ向かう足音。
町は、まだいつもの朝を保っていた。
けれど、大村家の中だけは違っていた。
幸からの手紙が来ない。
勝男の無事を伝える電報もない。
広島で何が起きたのか。
二人がどこにいるのか。
何も分からない。
恵は、姉夫婦の安否を心配しながら、自分の体を少しずつ回復させようとしていた。
龍弥から届いた葉書。
幸から届いた最後の手紙。
魚のように描かれた飛行機。
北海道への汽車旅の約束。
それらを枕元へ並べ、何度も読み返していた。
一 八月九日の朝
「恵、起きとる?」
節子が襖の向こうから声をかけた。
「うん」
恵は布団の中から答えた。
以前ほど熱はない。
だが、長く起きているとすぐに息が切れる。
体力は、まだ完全には戻っていなかった。
節子が、薄い粥を持って入ってくる。
「少しでも食べなさい」
「お腹すいとらん」
「すいとらんでも食べる」
「お母さんも食べた?」
「食べたよ」
恵は母の顔を見る。
「嘘」
節子の動きが止まった。
「何が」
「お母さん、自分の分ばうちに入れたやろ」
「少しだけ」
「やっぱり」
恵は椀を見つめた。
少ない麦。
刻んだ大根の葉。
平戸家から分けてもらった芋の欠片。
「うちだけ食べてもいいと?」
また、同じ問いだった。
節子は娘の隣へ座った。
「今は、恵が食べると」
「でも」
「幸が帰ってきたら、何て言うと思う?」
恵は、少し考えた。
「うちが広島で大変なときに、何また倒れよるとって」
節子が笑う。
「そうやろ」
「あと、雑炊独り占めしたやろって言う」
「それも言いそうね」
恵は、ほんの少し笑った。
そして一口食べた。
二 空の郵便受け
朝食のあと。
恵は、節子に支えられながら玄関へ出た。
「まだ無理せんでよかよ」
「郵便受けだけ」
「昨日も見たやろ」
「今日は来とるかもしれん」
恵は、ゆっくり蓋を開けた。
空。
紙一枚入っていない。
手を奥まで入れる。
何もない。
「今日も来とらん」
節子は何も言わなかった。
「幸姉ちゃん、字が汚くて配達の人が読めんかったとかな」
恵が冗談を言う。
「幸は字、きれいやったやろ」
「なら、飛行機の絵が変すぎて止められたとかな」
「それはあるかもしれんね」
二人は少し笑った。
だが、笑いは長く続かなかった。
広島から返事がない。
その事実は、何をしていても胸の奥に残っていた。
三 父・勝一の加工場
自宅に併設された加工場では、勝一が朝から仕事をしていた。
ボルト。
ナット。
工具。
機関車の部品。
軍需品の注文は減っていない。
むしろ、広島の被害によって鉄道や軍需施設の修理が必要になり、新たな依頼が来る可能性さえあった。
勝一は、旋盤の前へ立った。
だが、手が止まる。
広島機関区。
勝男。
鉄道官舎。
幸。
頭から離れない。
「お父さん」
恵が加工場の入口から声をかけた。
「起きてよかと?」
「少しだけ」
勝一は機械を止めた。
「まだ無理するな」
「お父さんこそ」
「俺は仕事だ」
「手、震えとる」
勝一は、自分の右手を見た。
確かに、わずかに震えていた。
「幸姉ちゃんたち、生きとるよね」
恵が尋ねる。
勝一は娘の顔を見る。
父親として。
大丈夫だと言いたかった。
だが、家族はもうその言葉を軽く使わない。
「生きとってほしい」
勝一は答えた。
恵は小さくうなずいた。
四 佐世保の龍弥
同じ頃。
佐世保方面の軍需施設。
龍弥は、損傷した艦艇の区画で溶接作業をしていた。
広島の知らせを聞いて以来、集中することが難しくなっている。
幸。
勝男。
長崎で待つ恵。
三人の顔が交互に浮かぶ。
「篠田さん」
中村浩一が声をかける。
「また手、止まっとります」
「すみません」
「恵さんから返事は?」
「まだです」
「広島のことも?」
「何も」
龍弥は面を上げた。
「まさか、二人とも死んでないよな」
中村は答えられない。
「勝男さんは危険なら止める人です」
龍弥は自分へ言い聞かせる。
「幸さんも、きっと防空壕へ」
声が途切れる。
連絡しようにも、手段がない。
電話は使えない。
電報も軍務優先。
郵便も遅れている。
長崎へ帰る許可も出ない。
「大事なときに」
龍弥は拳を握った。
「何で家族のそばにおれんとやろ」
五 長崎機関区の朝
長崎機関区では、原田正勝と山崎信吾が広島から届いた新しい報告を読んでいた。
鉄道施設。
広島駅。
路面電車。
機関区。
職員官舎。
被害は壊滅的。
だが、個人名はほとんどない。
「今日も勝男の名前はなかですか」
原田が尋ねる。
「ない」
「幸さんも?」
「官舎の家族名簿は、まだ整理できていない」
原田は目を閉じた。
「広島へ行ける列車は」
「まだ無理だ」
「いつなら」
「分からん」
また、その言葉。
原田は机へ拳を置いた。
「俺は、勝男に家へ帰れって言いました」
山崎は黙って聞く。
「危険なら止めろ」
「必ず帰れ」
「そう教えた」
原田の声が震える。
「でも、空から町ごと消す爆弾が落ちたら、どうやって止めるとですか」
山崎には答えられなかった。
六 空襲警報
午前中。
長崎では空襲警報が繰り返された。
遠くで警報音が響く。
大村家でも、勝一が加工場から出てきた。
「防空壕へ行くぞ」
節子は必要なものをまとめる。
水。
手拭い。
少量の食料。
恵の手紙。
「手紙まで持っていくと?」
節子が尋ねる。
「置いていけん」
恵は、幸と龍弥の手紙を胸へ抱いた。
三人は近くの防空壕へ向かった。
だが、しばらくすると警報は解除された。
敵機は去ったらしい。
あるいは、別の場所へ向かったらしい。
人々は、また家へ戻っていく。
「また何も落とさん飛行機やったとかな」
恵が言う。
勝一は空を見る。
「分からん」
「広島のときも、警報が解除されたって」
節子の顔が曇る。
「恵」
「うん」
「今日は家の中におりなさい」
「分かった」
三人は戻った。
七 小倉から長崎へ
その頃。
一機のB-29爆撃機は、本来の第一目標へ向かっていた。
小倉。
だが、上空は雲と煙に覆われていた。
目標を確認できない。
燃料にも限りがある。
爆撃機は進路を変えた。
第二目標。
長崎。
大村家の人々は、そのことを知らない。
長崎機関区の原田も。
佐世保の龍弥も。
町を走る路面電車の乗客も。
造船所で働く者も。
学校の子どもも。
病院の患者も。
誰一人として知らなかった。
広島を破壊した兵器と同じ種類の爆弾が。
今度は長崎へ近づいていることを。
八 姉の手紙
午前十時半を過ぎた頃。
恵は、布団へ座り、幸から届いた最後の手紙を読んでいた。
『四人で汽車に乗ろう。
最初は――』
その先はない。
「お姉ちゃん」
恵は紙へ話しかける。
「最初はどこにすると?」
返事はない。
「北海道?」
少し笑う。
「いきなり遠すぎやろ」
窓の外から、飛行機の音が聞こえた。
恵は顔を上げた。
「また飛行機?」
節子が台所から答える。
「空ば見に行ったらいかんよ」
「分かっとる」
恵は手紙を畳む。
枕元へ置く。
その隣には、龍弥の葉書。
『俺は生きています』
恵は二つの紙へ手を置いた。
姉。
夫。
離れた場所で生きていると信じたい二人。
九 午前十時五十分
勝一は加工場へ戻っていた。
節子は台所で、昼の食事を用意している。
大根の葉。
少量の麦。
水を多くした粥。
恵は布団の上で体を休めていた。
「お母さん」
「何?」
「今日、龍弥さんに手紙書く」
「体がきつくなかったらね」
「幸姉ちゃんにも」
節子の手が止まる。
「広島へ届くか分からんよ」
「それでも書く」
「うん」
「届かんでも」
恵は言った。
「待っとる言葉になるけん」
龍弥へ言われた言葉。
届くまで、待っている言葉。
節子は静かにうなずいた。
十 長崎の空
雲の切れ間。
長崎の市街地。
浦上。
工場。
住宅。
川。
路面電車。
爆撃機の乗員は、目標を探していた。
予定していた地点とは異なる。
雲のため、視界は悪い。
それでも一瞬。
地上が見えた。
爆弾が投下された。
プルトニウム型原子爆弾。
「ファットマン」。
午前十一時二分。
落下地点は、長崎市北部の浦上地区へずれた。
その下には。
教会。
学校。
病院。
工場。
家。
人々の暮らしがあった。
十一 午前十一時二分
光。
広島から三日後。
長崎の空にも、太陽とは異なる閃光が生まれた。
恵は、布団の上で幸の手紙へ手を伸ばしていた。
勝一は、加工場で工具を持っていた。
節子は、台所で鍋の蓋を開けようとしていた。
三人とも。
何が起きたか理解する時間はなかった。
窓の外が、白く染まる。
部屋の壁。
畳。
食器。
机。
手紙。
すべてが、一瞬だけ強烈な光の中へ浮かび上がった。
次いで。
熱線。
爆風。
建物全体が、巨大な力で押し潰された。
十二 崩れる大村家
屋根が飛ぶ。
壁が倒れる。
窓ガラスが砕ける。
加工場の工具や鉄片が吹き飛ぶ。
勝一の体は、爆風と倒壊した柱に巻き込まれた。
声を上げる間もなかった。
節子は台所から投げ出され、崩れた梁の下敷きになった。
恵も、布団ごと壁際へ吹き飛ばされた。
頭。
肩。
背中。
全身へ衝撃が走る。
熱。
痛み。
暗闇。
耳鳴り。
何も聞こえない。
何も見えない。
口の中へ土と埃が入る。
「……お母さん」
声が出ない。
「……お父さん」
返事はない。
十三 手の中の紙
恵は、瓦礫の下で意識を取り戻した。
どれほど時間がたったか分からない。
左脚が動かない。
背中に重いものが乗っている。
呼吸をするたび、胸が痛む。
目を開けても、埃で何も見えない。
その右手には。
紙が握られていた。
幸の手紙。
爆風で破れ。
焦げ。
一部が読めなくなっている。
それでも。
恵は手放さなかった。
「幸姉ちゃん……」
かすかな声。
広島で何が起きたのか。
今、自分の町で何が起きたのか。
ようやく。
一つの恐ろしい可能性が、恵の中で重なり始めた。
十四 父と母
「お父さん……」
恵は、もう一度呼んだ。
瓦礫の向こう。
加工場のあった方向。
返事はない。
「お母さん……」
台所の方向。
何も聞こえない。
耳が壊れているのか。
二人が声を出せないのか。
それとも。
恵は考えないようにした。
「返事して」
力を込める。
「お母さん!」
声が咳に変わる。
口から血が混じる。
それでも呼ぶ。
「お父さん!」
返事はなかった。
勝一と節子は。
この時すでに、命を失っていた。
十五 燃える町
長崎の町でも、至るところで火災が発生した。
家屋。
工場。
学校。
病院。
路面電車。
爆風で倒れた建物から火が広がる。
生き残った人々が、瓦礫の中から這い出す。
火傷。
裂傷。
骨折。
意識を失った人。
家族を探す人。
水を求める人。
「助けて」
「水」
「母ちゃん」
「子どもがおる」
声が重なる。
だが。
助ける側も被災している。
病院も壊れている。
医師も看護師も負傷している。
薬も包帯も足りない。
広島と同じ光景が。
三日後。
長崎でも繰り返された。
十六 恵の救出
大村家の近所に住む男性が、瓦礫の下から声を聞いた。
「誰かおる!」
数人が集まる。
火が近づいている。
急がなければならない。
柱をどける。
瓦礫を持ち上げる。
「もう少し!」
「中に女の人がおる!」
恵は、かすかな光を見た。
「聞こえますか!」
「……はい」
「名前は!」
「大村……恵……」
「家族は!」
恵は答えようとした。
「お父さんと……お母さんが……」
声が途切れる。
救助した人々は周囲を探す。
だが、勝一と節子に生存の兆候はなかった。
恵だけが、瓦礫の隙間に守られるような形で生き残っていた。
十七 運ばれる恵
恵は、戸板の上へ載せられた。
左脚。
背中。
頭。
全身へ傷。
皮膚には熱線による火傷。
呼吸も弱い。
それでも、右手は握ったまま。
「それ、離して」
救助者が言う。
恵は首を横へ振った。
「手紙……」
「あとで返すけん」
「嫌……」
力は弱い。
だが、手放さない。
「幸姉ちゃんの……」
救助者は、それ以上何も言わなかった。
焦げた紙ごと、恵の手を布で包んだ。
十八 長崎機関区
長崎機関区も激しい爆風と被害を受けた。
原田と山崎は、建物の中で投げ出された。
窓ガラス。
瓦礫。
鉄片。
負傷者。
機関車も貨車も損傷する。
だが、二人はその場では生き残った。
原田は、耳鳴りの中で立ち上がろうとする。
「区長!」
山崎が瓦礫の向こうから答える。
「ここだ!」
「今のは……」
「分からん!」
「広島と同じ……」
二人は顔を見合わせた。
広島。
新型爆弾。
壊滅。
その言葉が、同時に浮かぶ。
「大村家!」
原田が叫んだ。
「恵さんたちが!」
原田は立ち上がろうとする。
足を負傷していた。
それでも這うように出口へ向かった。
十九 佐世保から見えた雲
佐世保。
龍弥たちは、遠くの空に異様な雲が立ち上るのを見た。
大きく。
高く。
通常の爆撃とは違う形。
「長崎の方角やないですか」
中村が言う。
龍弥の顔から血の気が引いた。
「長崎……」
恵。
勝一。
節子。
慶一。
梅。
原田。
山崎。
皆がいる。
「まさか」
龍弥の声が震える。
「広島と同じ爆弾やないよな」
誰も答えられない。
警報。
命令。
情報の混乱。
帰る許可は出ない。
龍弥は上役へ詰め寄った。
「長崎へ帰らせてください!」
「今は移動できん!」
「妻がおるんです!」
「全員、家族がおる!」
「恵さんが!」
龍弥は叫んだ。
「やっと体が戻ってきたとに!」
上役に止められながら。
龍弥は長崎の空を見続けた。
二十 姉の町と妹の町
広島。
八月六日。
長崎。
八月九日。
三日違い。
双子の姉妹が暮らした二つの町へ。
二つの原子爆弾が投下された。
姉の幸は。
夫の勝男とともに広島で命を奪われた。
妹の恵は。
両親を失い。
自らも重傷を負いながら。
長崎の瓦礫の中から救い出された。
だが。
恵はまだ。
幸が死んだことを知らない。
父と母が、もう返事をしない理由も。
完全には受け入れられていない。
握った手紙。
焦げた文字。
消えかけた約束。
『四人で汽車に乗ろう』
その言葉だけが。
恵の手の中に残っていた。
次回予告
昭和二十年八月九日。
午前十一時二分。
長崎へ投下された原子爆弾。
大村家は崩壊し、勝一と節子は命を失った。
恵は瓦礫の隙間に守られ、重傷を負いながら救出される。
その手には、幸から届いた最後の手紙が握られていた。
一方、長崎機関区で被爆した原田と山崎も負傷しながら生き残り、町の惨状を目の当たりにする。
佐世保の龍弥は、長崎方面へ立ち上る巨大な雲を見つめる。
「恵さんがおるとです!」
帰郷を願う龍弥。
だが鉄道も道路も寸断され、長崎へ向かう手段はない。
やがて臨時の救護所へ運ばれた恵は、意識を取り戻す。
「お父さんは?」
「お母さんは?」
「幸姉ちゃんから、返事は?」
誰も答えられない。
次回、第42話。
「三つの返事」
父の返事。
母の返事。
姉の返事。
恵が待ち続けた三つの声は、もうどこからも返ってこなかった。




