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幸と恵の物語  作者: リンダ


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午前八時十五分

『幸と恵のものがたり』

 第39話 午前八時十五分


 昭和二十年八月六日。


 月曜日。


 広島の朝は、夏らしい青空に包まれていた。


 前夜まで空を覆っていた雲は薄くなり、朝の日差しが町へ差し込み始めている。


 川面が光る。


 蝉が鳴く。


 路面電車が走る。


 駅では列車を待つ人々が並び。


 学校へ向かう子どもたちが歩き。


 建物疎開へ動員された生徒や市民が、市内中心部へ集まっていた。


 いつもの朝だった。


 少なくとも。


 広島で暮らしている人々には、そう見えていた。


 一 午前六時 勝男の出勤


 勝男は、まだ朝の空気が少しだけ涼しいうちに鉄道官舎を出た。


 幸が用意した小さな握り飯を持ち。


 煤のついた作業着を着て。


 広島機関区へ向かう。


「今日も帰ってきてね」


 背後から聞こえた幸の声。


 勝男は振り返り。


「はい」


 と答えた。


 手を振る。


 幸も振り返す。


 それが、二人が交わした最後の言葉だった。


 勝男は、何度か後ろを振り返りながら歩いた。


 幸は戸口に立っている。


 やがて、官舎の建物に隠れて見えなくなった。


 二 午前七時 機関区の朝


 広島機関区。


 勝男は、藤原重治とともに軍需貨物列車へ使用する機関車の点検へ入った。


 足回り。


 ボルト。


 軸受。


 潤滑油。


 水位計。


 火室。


 石炭。


 一つずつ確認する。


 部品は不足している。


 油の質も悪い。


 それでも、列車を走らせる以上、安全を守らなければならない。


「右側の軸受、少し熱を持っとります」


 勝男が言った。


 藤原が触れて確かめる。


「まだ運転前じゃぞ」


「はい」


「油の回りが悪いんかもしれん」


「一度開けて見ます」


「そうせえ」


 近くでは、木村修司が若い見習いへ火床の見方を教えていた。


 包帯の巻かれた両手。


 それでも耳と目と声を使い、後輩へ伝える。


「中央へ入れすぎるな」


「はい」


「火は強けりゃええんじゃない」


「はい」


「必要なところへ、必要なだけじゃ」


 勝男が振り返る。


 修司と目が合う。


 修司は、小さくうなずいた。


 勝男も返す。


 機関区には、いつもの仕事の音が響いていた。


 三 午前七時過ぎ 警報


 広島の町へ、空襲警報が出された。


 人々は空を見る。


 だが、敵機の大編隊は見えない。


 少数の飛行機が接近しているという情報。


 やがて警報は解除された。


 また偵察機だろう。


 何も落とさずに去るだろう。


 そう考えた者も多かった。


 機関区でも、一度止まりかけた作業が再開される。


「また何も落とさん飛行機ですかね」


 勝男が尋ねる。


 藤原が空を見上げる。


「分からん」


「警報は解除されました」


「解除されたからいうて、空が安全とは限らん」


 藤原は勝男を見る。


「上ば気にしすぎて、足元を見落とすなよ」


「はい」


 二人は、機関車の点検へ戻った。


 四 幸の朝


 鉄道官舎。


 幸は朝食の後片づけを済ませていた。


 勝男の使った椀。


 自分の椀。


 少量の麦粥を炊いた鍋。


 それらを洗う。


 このあと、官舎周辺の建物疎開や防火作業を手伝う予定だった。


 水桶を運び。


 避難経路を確かめ。


 高齢者の家へ声をかける。


 出かける準備をしながら、幸は机の上の手紙を見た。


 恵への書きかけ。


『明日の夜、また続きを書きます』


 そう書いたまま。


「今夜、北海道の続き書かんばね」


 幸は一人で言った。


 髪をまとめる。


 恵が作った白い髪飾りへ手を伸ばす。


 だが、作業で汚れると思い、箱へ戻した。


「これは旅行の日に使おう」


 いつか。


 四人で汽車へ乗る日。


 その日に着けるつもりだった。


 五 官舎の家族たち


 隣の棟では、三宅澄江が洗濯物を取り込んでいた。


 三次へ疎開した娘・千代の手紙が、窓辺へ置かれている。


『戦争が終わったら、また帰ります』


 澄江は、その一文を何度も読んでいた。


「幸さん」


 戸口から声をかける。


「そろそろ作業へ行くん?」


 幸が顔を出す。


「はい。もう少ししたら」


「一緒に行こうや」


「うん」


「水、持った?」


「まだ」


「また忘れとる」


「今入れようと思っとった」


「昨日もそう言いよったよ」


「澄江さん、恵みたいになってきましたね」


「誰ね、それ」


「妹です。うちにツッコミば入れる」


 澄江が笑う。


「ほいじゃあ、ええ妹さんじゃ」


「そうなんです」


 幸も笑った。


 その笑い声が、官舎の間へ広がった。


 六 午前八時


 広島の空は、よく晴れていた。


 雲は少ない。


 視界もよい。


 市内では。


 通勤する人。


 電車へ乗る人。


 建物疎開の作業へ向かう学生。


 配給を受け取りに行く女性。


 病院へ向かう人。


 幼い子どもの手を引く母親。


 皆が、それぞれの朝を生きていた。


 広島機関区では、勝男が機関車の下へ潜り込み、軸受の状態を見ていた。


 藤原は工具を確認する。


 修司は見習いへ声を飛ばす。


 鉄道員たちは、列車を動かす準備を続けていた。


 鉄道官舎では、幸が手拭いを首へかけた。


 水筒を持つ。


 恵への手紙へ、もう一度目をやる。


「帰ってからね」


 そう言って、机を離れる。


 七 上空の機影


 午前八時を少し過ぎた頃。


 空の高いところから、飛行機の音が聞こえた。


 大編隊ではない。


 一機、あるいはわずかな数。


 警報は鳴らなかった。


 これまでにも、何度もあった。


 何も落とさない飛行機。


 高い空を飛び。


 町を見て。


 去っていく。


 幸は戸口から空を見た。


「また来とる」


 澄江も顔を上げる。


「ほんまじゃ」


「今度も何も落とさんとかな」


「そうじゃとええね」


 幸は目を細める。


 以前、恵へ送った絵。


 魚のような飛行機。


 恵から返ってきたツッコミ。


『姉の想像上の生き物です』


 思い出し、少しだけ笑う。


「今度は上手に描けるかもしれん」


 澄江が言う。


「まだ描くん?」


「記録たい」


「飛行機が迷惑するよ」


「何で飛行機の味方すると」


 二人は、また少し笑った。


 八 勝男が聞いた音


 機関区。


 勝男は機関車の下から出た。


 遠くから飛行機の音が聞こえる。


「藤原さん」


「ああ」


 藤原も空を見る。


「高いですね」


「そうじゃの」


「前に来た偵察機と同じですかね」


「分からん」


 藤原は、目を細めた。


 勝男も見上げる。


 銀色の機体。


 青空。


 何も異常はないように見えた。


「点検を続けるぞ」


 藤原が言う。


「はい」


 勝男は工具を持ち直した。


 その瞬間。


 上空では、一つの爆弾が投下された。


 九 落下


 爆弾は、空中を落ちていく。


 誰にも見えないほど高いところから。


 静かに。


 地上の人々が気づくより早く。


 広島の中心部へ向かって。


 幸は空を見ている。


 勝男は工具を持っている。


 澄江は洗濯物を抱えている。


 藤原は機関車のそばに立っている。


 修司は包帯の手で見習いを指導している。


 路面電車には乗客がいる。


 学生たちは作業場所へ集まっている。


 川辺を歩く人がいる。


 橋を渡る人がいる。


 朝食を片づける人がいる。


 手紙を書く人がいる。


 家族へ「行ってきます」と言った人がいる。


 誰も知らない。


 次の瞬間。


 自分たちの世界が失われることを。


 十 午前八時十五分


 閃光。


 太陽が地上へ落ちたような光。


 目で追うことも。


 声を上げることもできない。


 光は、一瞬で町を覆った。


 幸の視界は、白く染まった。


 熱線。


 体を包むという感覚すらない。


 あまりにも強い熱。


 官舎。


 戸口。


 手拭い。


 水筒。


 机の上の手紙。


 木製機関車。


 白い髪飾り。


 すべてが、同じ瞬間に光へ飲み込まれた。


 広島機関区。


 勝男が持っていた工具。


 藤原の作業着。


 修司の包帯。


 機関車の鋼鉄。


 レール。


 建物。


 人間。


 すべてへ熱線が襲いかかった。


 爆心地から近い地域では。


 人々が何が起きたか理解する前に、命を失った。


 幸も。


 勝男も。


 互いの名前を呼ぶ時間すらなかった。


 最後に見たものが何だったのか。


 最後に思った人が誰だったのか。


 それを語る者はいない。


 二人は、ほぼ即死の状態だった。


 十一 爆風


 光の直後。


 巨大な爆風が町を襲った。


 建物が押し潰される。


 屋根が飛ぶ。


 壁が倒れる。


 窓が砕ける。


 電柱が折れる。


 路面電車が脱線する。


 鉄道施設も破壊される。


 機関区の建物。


 修繕庫。


 詰所。


 官舎。


 倉庫。


 機関車や貨車。


 重たい鉄の塊さえ、爆風と瓦礫にさらされた。


 耳をつんざく音。


 だが、爆心地に近い人々の多くは、その音を認識する前に命を失っていた。


 音より先に。


 熱と光が日常を奪った。


 十二 鉄道官舎


 鉄道官舎では、多くの家族が命を失った。


 朝食を終えた家族。


 出勤する夫を見送った妻。


 疎開した子どもの手紙を読んでいた母。


 洗濯物を干していた人。


 防火作業へ向かおうとしていた人。


 爆心地に近い建物は、熱線と爆風によって破壊された。


 その場で亡くなった者。


 瓦礫の下敷きになった者。


 炎の中から逃げられなかった者。


 重傷を負い、当日のうちに息を引き取った者。


 澄江の家も。


 幸と勝男の官舎も。


 もう、元の形を残してはいなかった。


 机の上に置かれていた恵への手紙は、炎に包まれた。


『明日の夜、また続きを書きます』


 その先が書かれることはなかった。


 十三 広島機関区


 機関区にいた職員たちも、大きな被害を受けた。


 建物の倒壊。


 熱線。


 飛び散るガラスと鉄片。


 火災。


 多くの鉄道員が、その場で亡くなった。


 あるいは、重傷を負った。


 藤原。


 修司。


 見習いたち。


 整備員。


 事務員。


 運転士。


 機関助手。


 誰が生き残ったのか。


 誰がどこにいるのか。


 すぐには分からなかった。


 鉄道を動かしてきた人々が。


 町を支えてきた人々が。


 一瞬で散り散りになった。


 十四 燃える町


 熱線と爆風のあと。


 広島市内では、至るところから火が上がった。


 倒壊した家屋。


 木材。


 紙。


 衣服。


 油。


 燃えるものすべてへ火が広がる。


 町は、巨大な火災へ包まれていった。


 生き残った人々は、瓦礫の中から這い出す。


 全身へ火傷を負った人。


 衣服が焼け落ちた人。


 顔や腕から血を流す人。


 家族の名を呼ぶ人。


 自分がどこにいるのか分からない人。


「水……」


 多くの人が、同じ言葉を口にした。


「水を……」


 熱。


 火傷。


 煙。


 喉の渇き。


 人々は川へ向かった。


 十五 元安川へ


 元安川。


 本川。


 その他、市内を流れる川。


 広島は川の町だった。


 その川へ、生き残った人々が集まった。


 歩ける者。


 這う者。


 誰かに支えられる者。


 家族を探しながら進む者。


「水」


「水をください」


「熱い」


「助けて」


 川岸には、多くの人が倒れた。


 水へ手を伸ばす。


 口をつける。


 そのまま力尽きる。


 川へ入ったまま、戻れなくなる。


 水を求めた人々が。


 水辺で次々と亡くなっていった。


 川面には。


 瓦礫。


 衣服。


 木材。


 そして、人の姿が流れた。


 十六 名前を呼ぶ声


「母ちゃん!」


「お父ちゃん!」


「先生!」


「誰か!」


「助けて!」


「水!」


 広島の町は、名前を呼ぶ声で満ちた。


 だが、返事はない。


 呼ばれた人が。


 すでに亡くなっているのか。


 瓦礫の下にいるのか。


 別の場所へ逃げたのか。


 誰にも分からない。


 生き残った者同士が、互いを支えようとする。


 だが、救護所も病院も被害を受けている。


 医師も。


 看護師も。


 薬も。


 包帯も。


 水も。


 何も足りない。


 大勢の負傷者へ対し。


 助ける手は、あまりにも少なかった。


 十七 汽笛の消えた町


 朝まで聞こえていた汽笛。


 路面電車の音。


 列車の車輪。


 機関区の金属音。


 それらは消えていた。


 線路は寸断され。


 架線は倒れ。


 駅や機関区は大きな被害を受けた。


 列車を動かす人々も倒れている。


 広島の鉄道は、止まった。


 幸と勝男が愛した汽車。


 人を結び。


 家族を運び。


 夢を遠くへ連れていくはずだった汽車。


 その汽笛は。


 爆発と火災の中へかき消された。


 十八 残されたもの


 鉄道官舎の跡。


 瓦礫。


 燃えた柱。


 溶けたガラス。


 焼けた食器。


 判別できない生活用品。


 二人の部屋があった場所には。


 もう暮らしの形は残っていなかった。


 白い髪飾り。


 木製機関車。


 原田の手紙。


 恵から届いた便り。


 勝男の作業着。


 幸の水筒。


 それらがどこまで残ったのか。


 誰にも分からない。


 二人が生きた証しは。


 形としては、ほとんど失われた。


 だが。


 長崎には。


 幸の手紙が残っていた。


 魚のような飛行機の絵。


 北海道へ行こうという約束。


 四人で汽車に乗ろうという夢。


 恵の手元には、姉の言葉が残っていた。


 十九 広島の外では


 その日の朝。


 広島から離れた町では。


 いつものように列車が走っていた。


 長崎でも。


 路面電車が動き。


 造船所では作業が始まり。


 大村家では、恵が体を起こしていた。


 誰もまだ知らない。


 広島が、一瞬で壊滅したことを。


 幸と勝男が。


 もうこの世にいないことを。


 恵は、姉からの返事を待っていた。


「今日くらい、届くかな」


 そう言いながら。


 郵便受けを見た。


 何も入っていない。


「明日かな」


 恵は呟いた。


 まだ。


 姉が死んだとは思っていない。


 勝男が死んだとも。


 広島が、どのような兵器で破壊されたのかも知らない。


 二十 途切れた約束


「今日も帰ってきてね」


 幸が言った。


「帰ります」


 勝男が答えた。


 その約束を。


 二人は破ろうとしたわけではない。


 勝男は、本当に帰るつもりだった。


 幸は、本当に待つつもりだった。


 夜になれば。


 二人で食卓を囲む。


 恵への手紙の続きを書く。


 北海道への経路を相談する。


 いつものように、くだらないことで笑う。


 そのはずだった。


 だが。


 一つの爆弾が。


 二人の意思も。


 愛も。


 約束も。


 未来も。


 すべてを、一方的に断ち切った。


 戦争が奪ったのは。


 命だけではない。


 明日の予定。


 書きかけの手紙。


 帰宅を待つ時間。


 食卓の会話。


 汽車で旅をする夢。


 誰にでもある、ごく普通の未来だった。


 次回予告


 昭和二十年八月六日。


 午前八時十五分。


 広島へ投下された一発の原子爆弾。


 幸と勝男は、互いの名を呼ぶ時間さえ与えられず、熱線によって命を奪われた。


 広島機関区。


 鉄道官舎。


 路面電車。


 学校。


 病院。


 家族の暮らし。


 一瞬で町の姿が変わった。


 生き残った人々は、水を求めて元安川や本川へ集まる。


 川岸には、助けを求める声があふれる。


 だが、病院も医師も薬も足りない。


 一方、長崎。


 恵は幸からの手紙を待ち続ける。


 一日。


 二日。


 返事は来ない。


 ラジオは、広島に「新型爆弾」が投下されたと伝える。


 被害の全容は分からない。


 恵は、姉が住む官舎の場所を思い浮かべる。


「幸姉ちゃんは?」


「勝男さんは?」


 誰も答えられない。


 そして原田と山崎は、鉄道を通じて広島機関区壊滅の知らせを受ける。


 次回、第40話。


「広島から返事がない」


 死んだという知らせはない。


 生きているという知らせもない。


 恵は、姉の名前を呼びながら、届かない返事を待ち続ける。

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