八月五日の夜
『幸と恵のものがたり』
第38話 八月五日の夜
昭和二十年八月五日。
日曜日。
広島の朝は、雲の多い空から始まった。
夏の湿った空気が、町を覆っている。
川面を渡る風も生ぬるく、鉄道官舎の小さな部屋では、窓を開けてもほとんど涼しさを感じられなかった。
幸は、寝苦しそうに布団の上で何度も寝返りを打っていた。
隣では、勝男がすでに目を覚ましている。
翌日は早番だった。
まだ夜が明け切る前に起き、広島機関区へ向かわなければならない。
勝男は音を立てないように起き上がり、壁に掛けられた乗務予定表を確認した。
八月六日。
早朝出勤。
広島機関区待機。
軍需貨物列車の整備。
瀬野方面への運行準備。
特別な指示はない。
いつもと大きく変わらない勤務だった。
「……何見よると?」
布団の中から幸の声がした。
勝男が振り返る。
「起きとったとですか」
「勝男さんが、紙ばじっと見よるけん」
「明日の乗務表です」
「何時?」
「朝六時までには機関区へ入ります」
幸は布団の中で顔をしかめた。
「早すぎる」
「仕事ですから」
「機関車に、もう少し朝寝坊を覚えさせたら?」
「貨物列車まで遅れます」
「一日くらい寝かせてもよかやろ」
「軍需貨物です」
幸は、天井を見つめた。
「まだ運ぶとね」
勝男は答えなかった。
鉄。
燃料。
食料。
兵器の部品。
戦争を続けるための荷物。
ポツダム宣言を「黙殺」すると政府が表明したあとも、軍需列車は止まらなかった。七月二十八日の「黙殺・戦争邁進」表明から、この八月五日まで、わずか八日しかたっていなかった。(国立国会図書館)
一 壊されていく町
その日も、広島市内では建物疎開の作業が続けられていた。
空襲による火災が広がらないように、家屋を取り壊し、町の中へ空地を作る。
まだ使える家。
家族が暮らしていた家。
商売を続けていた店。
思い出の詰まった建物。
それらを、住民自身の手で壊していく。
学生。
女性。
老人。
町内会の人々。
多くの者が作業へ動員されていた。
鉄道官舎の近くでも、火災に備えて水桶を並べ、砂を運び、避難経路を広げる作業が行われていた。
幸も朝から、澄江たちと一緒に水を運んだ。
「これ、何杯運べば終わると?」
幸が桶を地面へ置く。
澄江が額の汗を拭った。
「終わりはないんよ」
「水桶増やして、爆弾ば消せると?」
「消せる火もあるじゃろ」
「大きな爆弾やったら?」
澄江は答えなかった。
幸も、それ以上は聞かなかった。
防空訓練では、焼夷弾が落ちたら水や砂をかけるよう教えられている。
だが、東京や大阪、呉で何が起きたか。
広い範囲が炎に包まれたとき、家庭の水桶でどこまで消せるのか。
誰も本当のことを言わなかった。
「千代ちゃんから、手紙来た?」
幸が尋ねた。
澄江の表情が少しやわらぐ。
「昨日来たよ」
「元気って?」
「大丈夫じゃないって書いとった」
「前も書いとったね」
「夜になると、家へ帰りとうなるんじゃって」
澄江は桶を持ち直した。
「それでも、うちらより安全な場所におる」
「うん」
「そう思わんと、やっとれん」
幸は、遠くの空を見上げた。
何も落とさない飛行機が、また来るかもしれない。
警報が鳴るかもしれない。
けれど、その日の空は静かだった。
二 木村修司の新しい仕事
広島機関区。
勝男は、木村修司が見習いへ指導している様子を見ていた。
両手には、まだ包帯が巻かれている。
自分でショベルを握ることはできない。
それでも、火室をのぞき込み、若い見習いへ声をかけていた。
「左奥が薄い」
「どこですか」
「火の色ば見い」
見習いが目を凝らす。
「分かりません」
「赤いところだけ見るんじゃない」
修司は少し身を乗り出した。
「炎が揺れとるところと、動かんところがあるじゃろ」
「はい」
「空気の通り方が違う」
見習いが石炭を投げる。
「そこへ入れすぎるな!」
修司の声が強くなる。
見習いが驚いて動きを止める。
「すみません」
「謝る前に火ば見ろ」
藤原が少し離れたところで腕を組んでいる。
「もう藤原さんそっくりですね」
勝男が言った。
藤原が横目で見る。
「誰がじゃ」
「木村さんです」
「わしは、あそこまで怖うない」
修司が振り返った。
「聞こえとりますよ」
勝男が笑う。
藤原は機関車の方へ顔を向けながら、わずかに口元を緩めた。
焼けた手は戻らない。
だが、修司が覚えた鉄道の知識は、次の者へ渡り始めていた。
三 最後の日曜日
昼過ぎ。
勝男は翌日の早番に備え、いつもより少し早く官舎へ戻った。
戸を開ける。
「ただいま」
返事がない。
「幸さん?」
台所から物音がする。
勝男がのぞくと、幸が鍋の前で格闘していた。
「何しよるとですか」
「夕食」
「昼過ぎですよ」
「夜になって慌てたらいかんやろ」
鍋の中には、少量の芋と大根の葉。
それに、わずかな麦。
「雑炊ですか」
「煮込み御飯」
「雑炊ですね」
「料理人が煮込み御飯と言ったら、煮込み御飯たい」
勝男は鍋を見る。
水が少し多い。
「水、入れすぎでは」
「増えるやろ」
「味が薄くなります」
「量は増える」
「食事の目的が変わっとります」
幸は勝男を睨んだ。
「文句言う人は食べんでよか」
「食べます」
「素直でよろしい」
いつものやり取り。
特別なことは何もない。
それが、二人にとって最後の日曜日だった。
四 恵への途中の手紙
部屋の隅には、幸が書きかけている手紙があった。
勝男が紙を見る。
「まだ送っとらんとですか」
「明日続きを書く」
「何を書いたとですか」
「勝手に読まんで」
「机の上に広げとるでしょう」
「見えるのと読むのは違う」
幸は手紙を折り畳もうとした。
勝男が笑う。
「恵さんへの手紙でしょう」
「うん」
「体のこと?」
「それも」
「龍弥さんのこと?」
「それも」
「飛行機の絵?」
「もう描かん」
「恵さんに、想像上の生き物と言われたけんですか」
幸は頬を膨らませた。
「芸術が分からん妹たい」
手紙には、途中までこう書かれていた。
『恵へ。
元気になったって聞いて、安心しました。
龍弥さんも生きとって、本当によかった。
こっちは暑かです。
広島の夏も長崎に負けんくらい暑か。
勝男さんは、汗臭いです。
本人は石炭の匂いと言い張っとります。
どっちにしても臭かです。
戦争が終わったら、まず長崎へ帰ります。
四人で汽車に乗ろう。
最初は――』
そこで文章は止まっていた。
行き先を決められなかったからだ。
五 最初の旅はどこへ
夕方。
二人は官舎の前へ腰を下ろした。
西の空が少しずつ赤くなる。
遠くを路面電車が走っている。
汽笛。
鐘の音。
人々の話し声。
まだ広島の町には、日常の音が残っていた。
「最初の旅、どこにする?」
幸が尋ねた。
「まず長崎へ帰るでしょう」
「それは旅やなくて里帰り」
「長崎まで十分遠いです」
「そのあと」
勝男は考える。
「宮島」
「近すぎる」
「京都」
「寺ば見て、何が面白かと?」
「歴史があります」
「歴史は学校で十分」
「では、どこがよかとですか」
幸は待ってましたとばかりに言った。
「北海道」
勝男はため息をつく。
「やっぱりですか」
「函館」
「はい」
「札幌」
「はい」
「旭川」
「どこまで行くとですか」
「稚内」
「日本の一番北まで?」
「行ける汽車があるなら、行く」
「何日かかると思っとるとですか」
「勝男さん、鉄道員やろ。調べて」
「食事も宿も必要です」
「戦争が終わったら、全部戻るやろ」
勝男は、その言葉に少し黙った。
全部戻る。
食べ物。
列車。
宿。
自由に旅できる日々。
本当に戻るのか。
「戻ります」
勝男は言った。
自分へ言い聞かせるように。
「時間はかかっても」
「うん」
「また、普通に旅できるようになります」
幸は笑った。
「なら北海道」
「分かりました」
「恵と龍弥さんも一緒」
「はい」
「四人で」
「はい」
「途中で勝男さんが仕事始めたら怒るけんね」
「旅客として乗ります」
「機関車見たら、勝手に点検しそう」
「しません」
「絶対?」
「たぶん」
「怪しか」
二人は声を上げて笑った。
六 長崎の夕暮れ
同じ頃。
長崎。
恵は、龍弥から届いた葉書を読み返していた。
体調は少しずつ戻っている。
まだ工場へ復帰することは許されていない。
節子は、娘が無理をしないように見張っていた。
「また手紙?」
「うん」
「何回目ね」
「数えてない」
「朝から五回は読んどる」
「お母さん、数えとるやん」
節子が笑う。
恵は、葉書の一文へ指を置いた。
『必ず帰ります』
「幸姉ちゃんにも、また手紙書かんば」
「昨日書いたやろ」
「返事が来る前に、次を書いてもよかやん」
「紙がもったいなかよ」
「なら、端っこまで書く」
恵は便箋を広げた。
『幸姉ちゃんへ。
体はだいぶ戻りました。
でも、まだ工場へ行ったらいかんって、お母さんが見張っとります。
龍弥さんからも葉書が来ました。
生きとるって。
今度手紙を書くときは、変な飛行機の絵やなくて、北海道の地図でも描いて。
四人でどこへ行くか決めよう。
ただし、お姉ちゃんの絵では北海道が魚になる可能性があります。
恵』
書きながら、自分で笑った。
「何がおかしかと?」
節子が尋ねる。
「お姉ちゃんの絵」
「また怒られるよ」
「怒った顔も見たか」
恵は、ぽつりと言った。
「早く帰ってこんかな」
七 原田の胸騒ぎ
長崎機関区。
原田正勝は、広島から届いた勝男の短い手紙を読んでいた。
『原田さんへ。
広島では、空襲への警戒が続いています。
木村修司さんは、見習いへの指導を始めました。
両手はまだ動きませんが、機関車の音や火床の見方を伝えています。
俺も、藤原さんから毎日怒られています。
原田さんより広島弁の方が怖いです。
幸は元気です。
戦争が終わったら、長崎へ帰ります。
勝男』
原田は最後の行を何度も読んだ。
戦争が終わったら、長崎へ帰ります。
「早う帰ってこい」
小さく呟く。
山崎区長が横から声をかけた。
「勝男からか」
「はい」
「元気そうか」
「元気です」
「ならよかった」
原田は手紙を畳んだ。
それでも、胸の奥に妙な不安が残る。
呉。
大阪。
神戸。
東京。
空襲の被害は広がっていた。
広島だけが、このまま無事である保証はない。
「区長」
「何だ」
「広島、大丈夫でしょうか」
山崎は答えなかった。
「大丈夫」という言葉を、二人とも軽々しく使わなくなっていた。
八 ささやかな夕食
夜。
幸と勝男は、小さな食卓を囲んだ。
煮込み御飯。
薄い味噌汁。
平戸家から以前送られてきた乾燥野菜の残り。
豪華なものは何もない。
それでも、二人で食べる夕食だった。
勝男が一口食べる。
「どう?」
幸が尋ねる。
「おいしかです」
「本当?」
「はい」
「薄くない?」
「少し」
「正直すぎる」
「聞いたでしょう」
幸も食べる。
顔をしかめる。
「薄かね」
「水を入れすぎたけんです」
「量は増えた」
「味は減りました」
「人生は量が大事」
「食事は味も大事です」
「戦争が終わったら」
幸が箸を止める。
「何ですか」
「味の濃いもの、いっぱい食べよう」
「はい」
「すき焼き」
「はい」
「チーズケーキ」
「はい」
「白い御飯」
「はい」
「卵焼き」
「はい」
「メイボの煮つけ」
「それは長崎で」
「恵が食べたって聞いて、食べたくなった」
「恵さんは病気やったけんです」
「うちも病気になったら?」
「病気にならんでください」
勝男の声が少し強くなる。
幸は顔を上げた。
「冗談たい」
「その冗談は嫌です」
勝男は幸の手を握った。
「元気でおってください」
「うん」
「俺が帰ってくる場所でおってください」
幸は、握られた手を見る。
「なら、勝男さんも帰ってきて」
「はい」
「毎日」
「はい」
「明日も」
「はい」
九 明日の予定
食事を終えたあと。
二人は翌日の予定を確認した。
勝男は早朝から機関区。
幸は午前中、官舎周辺の防火作業を手伝う。
水桶の補充。
避難経路の確認。
近所の高齢者の手助け。
「無理せんでください」
勝男が言う。
「水運ぶだけやろ」
「暑いです」
「勝男さんの方が火室で暑いやん」
「慣れとります」
「うちも暑さには慣れとる」
「長崎とは違います」
「暑さに県境あると?」
「そういう意味では」
「なら大丈夫」
勝男が眉をひそめる。
幸はすぐに言い直した。
「無理はせん」
「約束です」
「はいはい」
「返事が軽い」
「はい」
今度は背筋を伸ばす。
勝男は、ようやくうなずいた。
十 木製機関車
寝る前。
幸は窓辺の木製機関車を手に取った。
龍弥が勝男へ贈ったもの。
「これ、北海道まで走れるかな」
「木ですから走りません」
「夢の話たい」
「なら走れます」
「急に話合わせるね」
勝男は布団を敷きながら言った。
「早く寝んば、明日起きられません」
幸は木製機関車を畳の上へ置いた。
「この機関車には」
「はい」
「うちら四人が乗る」
「小さすぎません?」
「夢の中では大きくなる」
「はい」
「運転は勝男さん」
「はい」
「龍弥さんは船の話ばする」
「はい」
「恵はうちにツッコミ入れる」
「はい」
「うちは歌う」
勝男が手を止める。
「それだけは、別の車両でお願いします」
幸が振り返る。
「何で!」
「長旅で全員疲れます」
「失礼やね!」
「恵さんも同意すると思います」
「夫婦で妹側につくと?」
「音楽の問題です」
幸は木製機関車を勝男へ向けた。
「ひかれるよ」
「木製です」
二人はまた笑った。
十一 書きかけの続きを
勝男が布団へ入ったあと。
幸は、恵への手紙の続きを書いた。
『最初の旅は北海道にしました。
勝男さんは遠すぎるって言いよります。
鉄道員のくせに、遠くへ行くのを嫌がるとは何事ね。
四人で函館へ行って。
札幌へ行って。
旭川へ行って。
最後は稚内まで行こう。
恵は寒がりやけん、服ばいっぱい持ってきてね。
龍弥さんには、船も見せてやらんば。
勝男さんには、仕事をせずに客車へ座る練習をさせます。
うちは汽車の中で歌います。
今、勝男さんが横で、それだけはやめてくれって言いました。
何で読んどるとやろね。
明日は朝から、官舎の水桶ば増やす作業です。
勝男さんは早番。
明日の夜、また続きを書きます。
幸』
幸は筆を止めた。
明日の夜、また続きを書きます。
それが、恵へ送る最後の文章になった。
十二 いつもの「おやすみ」
幸は手紙を机へ置いた。
封筒には入れない。
翌日の夜、続きを書くつもりだったから。
「もう寝ました?」
幸が尋ねる。
布団の中から勝男が答える。
「まだです」
「早番やろ」
「幸さんが寝ないけん」
「うちのせい?」
「灯りがついとるけん」
幸は灯りを小さくした。
灯火管制の黒い布が、窓を覆っている。
外からは、ほとんど光が見えない。
幸も布団へ入った。
「勝男さん」
「はい」
「戦争、今年中には終わるかな」
勝男は少し考えた。
「終わってほしかです」
「答えになっとらん」
「分からんけん」
「また分からん」
「嘘を言うよりよかでしょう」
幸は、しばらく黙った。
「でも」
「はい」
「うちら、生きて戦争の終わりば見ようね」
勝男は、幸の手を握った。
暗い部屋。
手の温かさ。
「はい」
「恵たちとも会おう」
「はい」
「北海道も行こう」
「はい」
「幸さんの歌は」
「歌う」
「そこだけは」
「歌う」
勝男が小さく笑った。
「分かりました」
「よろしい」
沈黙。
遠くで汽笛が鳴った。
幸は目を閉じる。
「勝男さん」
「はい」
「おやすみ」
「おやすみなさい」
いつもと同じ言葉だった。
特別な別れではない。
愛しているとも。
永遠にとも。
最後だとも言わない。
明日も同じ朝が来ると信じている人たちの、ごく普通の「おやすみ」だった。
十三 離れた町の双子
長崎。
恵も、布団へ入る前に幸への手紙を畳んでいた。
『幸姉ちゃんへ。
北海道の地図を描くなら、今度はちゃんと地図帳ば見て描いて。
飛行機みたいに魚になったら、北海道の人に怒られるよ。
うちは少しずつ元気になっています。
龍弥さんも生きとります。
お姉ちゃんも、勝男さんも、絶対生きて帰ってきてね。
また会ったら、まずお姉ちゃんの音痴から直します。
おやすみ。
恵』
恵は手紙を枕元へ置いた。
「幸姉ちゃん」
小さく呼ぶ。
「おやすみ」
広島と長崎。
離れた町。
同じ夜。
双子の姉妹は、互いの姿を知らないまま、ほぼ同じ時刻に眠りへついた。
十四 空の向こう側
海の向こうでは。
一機の爆撃機が準備されていた。
B-29爆撃機。
機体名、エノラ・ゲイ。
その爆弾倉へ搭載されるのは、通常の爆弾ではない。
「リトルボーイ」と名づけられた原子爆弾。
広島市への原爆投下は、翌八月六日午前八時十五分に実行されることになる。(広島市公式サイト)
だが、広島の人々は何も知らない。
幸も。
勝男も。
藤原も。
澄江も。
木村修司も。
誰も知らない。
何も落とさなかった飛行機が確認した空へ。
今度は、一つの都市を消し去るほどの兵器が運ばれてくることを。
十五 午前零時
八月六日。
午前零時。
日付が変わった。
官舎の中で、幸と勝男は眠っている。
机の上には、恵への書きかけの手紙。
窓辺には、木製機関車。
箱の中には、白い髪飾り。
原田からの手紙。
長崎から届いた家族の便り。
小さな部屋には、二人が生きてきた証しが詰まっていた。
明日の朝。
勝男は機関区へ行く。
幸は水桶を運ぶ。
夜になれば、二人はまた食卓を囲む。
恵への手紙の続きを書く。
そう信じている。
十六 午前三時
勝男が一度だけ目を覚ました。
暑さのためだった。
隣を見る。
幸は静かに眠っている。
薄い布団を蹴り、片足を出している。
勝男は、その足へ布団を戻した。
「暑か……」
幸が寝言のように呟く。
勝男は小さく笑った。
水を一口飲み。
再び横になる。
それが、勝男が眠る幸の姿を見た最後になった。
十七 午前五時
夜明けが近づく。
東の空が少しずつ明るくなる。
蝉が鳴き始める。
川の上に朝靄。
線路の上には、まだ夜の湿気が残っている。
広島機関区では、早番の職員たちが動き始めた。
蒸気機関車の火が起こされる。
水。
石炭。
潤滑油。
点検。
いつもの一日を始めるための準備。
十八 午前五時半
目覚まし代わりの小さな時計が鳴る。
勝男が起きた。
幸も目を開ける。
「もう朝?」
「はい」
「早すぎる」
「昨日も言いました」
幸は眠そうな顔で起き上がる。
「握り飯、作らんば」
「昨日の残りでよかです」
「初めからそのつもり」
「なら、作ると言わんでも」
「気持ちたい」
勝男は顔を洗う。
幸は麦飯の残りを小さく握り、布へ包む。
「今日も遅くなる?」
「分かりません」
「その答え嫌い」
「すみません」
幸は勝男の襟を整えた。
昨日と同じ。
何度も繰り返してきた朝。
「危なかったら止めて」
「はい」
「無理して大丈夫って言わんで」
「はい」
「必ず帰ってきて」
勝男は、幸の目を見る。
「帰ります」
十九 最後の「行ってらっしゃい」
戸口。
勝男は靴を履く。
幸は、まだ眠そうな顔で見送る。
「勝男さん」
「はい」
「今夜、手紙の続き書くけん」
「はい」
「北海道の経路、考えとって」
「仕事中に?」
「休憩中」
「時刻表がありません」
「鉄道員なら頭に入っとるやろ」
「北海道までは」
「役に立たんね」
勝男は苦笑した。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
勝男が外へ出る。
数歩進む。
幸が呼び止める。
「勝男さん!」
振り返る。
「何ですか」
「今日も帰ってきてね」
勝男は笑った。
「はい」
手を上げる。
幸も手を振る。
そして勝男は、機関区へ向かって歩き始めた。
幸は、その背中が見えなくなるまで戸口に立っていた。
それが、二人が互いの無事な姿を見た最後の瞬間だった。
⸻
次回予告
昭和二十年八月六日。
午前七時過ぎ。
広島では、一度空襲警報が出されたものの、やがて解除される。
人々は職場へ向かい。
学生たちは建物疎開の作業場所へ集まり。
路面電車は乗客を乗せ。
広島機関区では、勝男たちが機関車の点検を続ける。
鉄道官舎では、幸が共同井戸から水を運ぶ。
午前八時。
空は晴れ始める。
一機のB-29が、広島上空へ接近する。
警報は間に合わない。
幸は、空を見上げる。
以前見た、何も落とさない飛行機とは違う。
勝男は機関区で、聞き慣れない飛行機の音へ顔を上げる。
午前八時十五分。
一つの爆弾が投下される。
次回、第39話。
「午前八時十五分」
光。
熱。
爆風。
そして、音よりも先に消えた日常。
幸と勝男が交わした「今日も帰ってきて」という約束は、一瞬の閃光によって断ち切られる。




