↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
幸と恵の物語  作者: リンダ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
35/64

届かない手紙

『幸と恵のものがたり』

 第35話 届かない手紙


 昭和二十年、初夏。


 長崎では、朝から湿った風が吹いていた。


 港から上がる潮の匂い。


 造船所から響く金属音。


 路面電車のモーター音。


 遠くで鳴る汽笛。


 町は動いている。


 人々も働いている。


 だが、その暮らしはもう、ぎりぎりのところまで削られていた。


 食料は足りない。


 薬も足りない。


 衣服も足りない。


 眠る時間も足りない。


 それでも、仕事だけは減らなかった。


 恵は、軍服縫製工場で働き続けていた。


 佐世保方面へ移った龍弥からの手紙は、しばらく届いていない。


 三日。


 五日。


 十日。


 毎朝、郵便受けを見る。


 仕事から帰れば、もう一度見る。


 何も入っていない。


 それでも翌日になれば、また確かめる。


「今日は来とるかもしれん」


 そう思わなければ、立っていられなかった。


 一 空の郵便受け


 朝。


 恵は、まだ薄暗いうちに玄関を出た。


 郵便受けを開ける。


 空だった。


 手を入れて、奥まで確かめる。


 何もない。


「また来とらんね」


 背後から節子の声がした。


 恵は振り返る。


「うん」


「空襲で遅れとるかもしれんよ」


「うん」


「検閲で止まっとるかもしれん」


「うん」


 節子は娘の顔を見た。


 頬が痩せている。


 目の下には濃い影。


 唇も乾いていた。


「今日は工場、休めんと?」


「休めん」


「でも、顔色悪かよ」


「大丈夫」


 節子の表情が変わる。


「その言葉、嫌いやったやろ」


 恵は、少しだけ笑おうとした。


「龍弥さんには言うたらいかんって言いよったのにね」


「自分にも言わんで」


「うん」


 だが、恵はそのまま工場へ向かった。


 待つだけでも苦しい。


 何もせずに家にいれば、龍弥のことばかり考えてしまう。


 だから働く。


 針を動かす。


 布を縫う。


 考えないように。


 けれど、心は少しも休まらなかった。


 二 縫えない指


 軍服縫製工場。


 機械の音が響く。


 針が上下する。


 布が送られる。


 同じ形。


 同じ色。


 同じ作業。


 恵は袖口を縫っていた。


 いつもなら迷わず進められる作業だった。


 だが、その日は指が動かなかった。


 糸を針へ通そうとしても、穴が二重に見える。


「恵さん」


 隣の美代が声をかけた。


「手、止まっとるよ」


「ごめん」


 恵は目をこする。


 もう一度。


 糸を持つ。


 だが、指先が震える。


 針が指へ刺さった。


「痛っ」


 血がにじむ。


 美代がすぐに布を取った。


「休みんさい」


「これくらい」


「これくらいやなか」


「仕事、遅れる」


「恵さん」


 美代が恵の顔を見る。


「顔、真っ白よ」


「眠れてないだけ」


「食べとる?」


 恵は答えなかった。


 朝は薄い粥。


 昼は芋の欠片。


 夜も、家族で分けた少量の麦飯。


 龍弥からの手紙も来ない。


 眠ろうとすると、悪い想像ばかり浮かぶ。


 空襲。


 倒壊した工場。


 焼けた船。


 消息不明。


 戦死公報。


「少し座る」


 恵は立ち上がろうとした。


 その瞬間。


 視界が揺れた。


 床が傾く。


 機械の音が遠くなる。


「恵さん!」


 美代の声。


 次の瞬間、恵の体は崩れ落ちた。


 三 倒れた恵


 工場は一時、騒然となった。


 同僚たちが機械を止める。


 恵を床へ寝かせる。


 額へ手を当てる。


 熱がある。


 呼吸は浅い。


「医務室へ!」


 誰かが叫ぶ。


 工場の責任者が駆けつける。


「作業を止めるな!」


 美代が振り返った。


「人が倒れたとですよ!」


「医務係へ任せろ!」


「同じ班の人間が倒れとるとに、何もなかったように縫えって言うとですか!」


 責任者は言葉を詰まらせる。


 だが、軍服の納期は迫っている。


 誰かが止まれば、ほかの者へ負担が回る。


 それでも美代は、恵の手を離さなかった。


「この人は布やなか」


 美代は低い声で言った。


「糸が切れたら替えればよかって話やなかとです」


 四 薬のない診察室


 恵は、近くの診療所へ運ばれた。


 診察室。


 古い診察台。


 少ない器具。


 棚には、ほとんど薬がない。


 医師は恵の脈を取り、胸の音を聞いた。


「過労です」


 勝一と節子が、診察室で聞いている。


「それに、栄養状態もよくない」


 節子の顔がこわばる。


「熱もあります」


「肺炎ですか」


 勝一が尋ねる。


「今のところ、そこまではいっていません」


 医師は言葉を選ぶ。


「ただ、このまま無理をすれば、感染症や心臓への負担も心配です」


「薬は」


 節子が尋ねる。


 医師は、棚へ目を向けた。


「十分にはありません」


「何かないとですか」


「解熱剤も限られています」


「滋養のあるものを食べさせて、休ませてください」


 その言葉に。


 節子の表情が変わった。


「滋養?」


 医師は黙る。


 節子の声が震えた。


「この日本のどこに、滋養なんかあるとですか」


 診察室が静まり返る。


「配給は減る」


「米もない」


「魚もない」


「卵もない」


 節子は涙をこぼしながら続けた。


「野菜だって、少しずつ分けて食べよる」


「それで滋養あるものば食べさせろって」


 医師は俯いた。


「すみません」


「先生が悪いんやなか」


 節子はすぐに言った。


「分かっとります」


 声が崩れる。


「でも、娘が倒れとるとに」


「食べさせたくても、食べさせるものがなかとです」


 医師は何も答えられなかった。


 五 龍弥の夢


 恵は、熱に浮かされていた。


 時折、龍弥の名前を呼ぶ。


「龍弥さん……」


「手紙……」


「まだ……来んと……」


 節子が濡らした布を額へ置く。


「恵」


「お母さん」


「うん」


「龍弥さん、生きとるかな」


「生きとるよ」


 節子は言った。


 保証はない。


 それでも、そう答えるしかなかった。


「うち、手紙書かんば」


「今は休みなさい」


「返事、待っとるかもしれん」


「体が戻ってからでよか」


「でも」


 恵の目から涙がこぼれる。


「うちが書かんかったら、帰る場所がないって思うかもしれん」


 節子は娘の手を握った。


「龍弥さんは、ここが帰る場所って分かっとるよ」


「本当?」


「本当」


 恵は少しだけ目を閉じた。


 だが、眠りは浅かった。


 爆発音の夢。


 炎。


 走る龍弥。


 届かない手紙。


 そのたびに目を覚ました。


 六 慶一の訪問


 翌朝。


 大村家の戸が叩かれた。


 勝一が開ける。


 そこに立っていたのは、篠田慶一だった。


 手には、小さな桶。


 中には、一匹の魚が入っていた。


「慶一さん」


「今朝、網にかかっとった」


「これは」


「メイボたい」


 長崎で呼ばれる、カワハギの仲間。


 身は淡白で、煮つけにすれば柔らかい。


 肝も、状態がよければ栄養になる。


「恵さんが倒れたって聞いた」


 慶一は桶を差し出した。


「食べさせてやってください」


 勝一は受け取ろうとしない。


「篠田さんの家も食べるものがなかでしょう」


「うちは海へ出られる日がある」


「でも」


「龍弥がおらん間」


 慶一の声が少し震えた。


「恵さんば守るのは、うちらの役目でもある」


 勝一は、ようやく桶を受け取った。


「ありがとうございます」


「煮込めば食べやすか」


「はい」


「骨ば気をつけて」


「はい」


 慶一は、奥の部屋を見る。


「顔、見てもよかですか」


 七 義父の言葉


 恵は、布団の中にいた。


 慶一が部屋へ入る。


「恵さん」


 恵は、ゆっくり目を開けた。


「お義父さん」


 慶一の表情が少し緩む。


 その呼び方に、今でも胸が熱くなる。


「メイボば持ってきたよ」


「魚?」


「今朝、網にかかった」


「皆で食べんと」


「恵さんが食べると」


「でも」


「龍弥に怒られる」


 恵が少し笑う。


「何て?」


「恵さんが倒れたとに、何で食べさせんかったって」


「龍弥さん、そがん怒り方するかな」


「する」


 慶一はきっぱり答えた。


「妻を大事にせん父親やったって」


 恵の目に涙が浮かぶ。


「手紙、来んとです」


「うん」


「何かあったとかな」


 慶一も、不安を隠せなかった。


 それでも言う。


「龍弥は帰ってくる」


「うん」


「そのとき、恵さんが寝込んどったら心配する」


「うん」


「だから食べて、少しずつ元気になろう」


 恵は、小さくうなずいた。


 八 平戸家からの野菜


 その日の昼前。


 再び戸が叩かれた。


 今度は、平戸和徳と真子だった。


 籠には、今朝採れたばかりの野菜が入っている。


 大根の葉。


 小さな人参。


 白菜。


 形の不揃いな芋。


 どれも、平戸家にとって貴重な食料だった。


 真子が籠を差し出す。


「恵さんに食べさせて」


 節子は首を横に振る。


「こんなに、もらえません」


「持ってきたものは持って帰らんよ」


 和徳が言う。


「平戸家も食糧供出で大変でしょう」


 勝一が言う。


「大変たい」


 和徳は答えた。


「でも、倒れた子がおる」


「うちの畑の野菜は、人ば生かすために作りよる」


「軍へ出すためだけやなか」


 真子も続ける。


「勝男が長崎におったら、絶対持っていけって言うよ」


「幸さんも」


「恵は妹やけんって」


 節子の目から涙がこぼれた。


 家族は離れている。


 幸と勝男は広島。


 龍弥は佐世保方面。


 それでも、残った家族たちは互いを支えようとしていた。


 九 小さな台所


 節子は、もらった食材を前にした。


 無駄にはできない。


 メイボは丁寧にさばく。


 骨を取り。


 身を小さくほぐす。


 平戸家の野菜は、細かく刻む。


 白菜。


 人参。


 大根の葉。


 芋。


 少量の米と麦。


 水を多めにして、やわらかな雑炊にする。


 魚の身は、別の鍋で薄味に煮た。


 調味料も少ない。


 それでも、魚と野菜から出る味があった。


 台所に、久しぶりに温かな匂いが広がる。


 勝一が鍋を見る。


「昔なら、普通の食事やったのにな」


 節子が答える。


「今は、ごちそうたい」


「皆に分けたら、恵の分が減る」


「恵に食べさせる」


「でも」


 節子は夫を見る。


「今日は、恵に食べさせる」


 母親の決意だった。


 十 起き上がる恵


 恵は、節子に支えられながら上体を起こした。


 背中へ布団を重ねる。


 顔色はまだ悪い。


 体も重い。


 節子が、小さな椀を持ってくる。


「少しずつね」


 湯気。


 やわらかな野菜雑炊。


 メイボの煮物。


 恵は、匂いをかいだ。


「おいしそう」


「食べられそう?」


「うん」


 一口。


 白菜は、舌でつぶせるほど柔らかい。


 人参も。


 芋も。


 魚の身も、ほろりと崩れる。


 恵は、ゆっくり噛んだ。


「おいしか」


 節子の目が潤む。


「よかった」


 もう一口。


 そして、恵の手が止まった。


「どうしたと?」


 恵は、部屋の外を見る。


 勝一。


 節子。


 慶一。


 和徳。


 真子。


 皆が見守っている。


「皆も」


 声が弱い。


「お腹すいとるやろ?」


 誰も答えない。


「うちだけ食べてもいいと?」


 その言葉に、節子は顔をそむけた。


 慶一が答える。


「よか」


「でも」


「よかと」


 和徳も言う。


「今日は恵さんが食べる日たい」


「皆も食べんば」


「皆は、また分けて食べる」


 真子が笑おうとする。


「恵さんが元気になったら、その分働いて返してもらうけん」


 恵も少し笑った。


「そがん言われたら、食べんばね」


 十一 分ける食卓


 それでも恵は、全部を一人では食べなかった。


 メイボの身を少し取り分ける。


 雑炊も、少しだけ別の椀へ移す。


「お父さん」


「恵」


「一口だけ」


「お前が食べろ」


「一口だけでよか」


 勝一は、しばらく娘を見る。


 やがて一口だけ受け取った。


 節子にも。


 慶一にも。


 和徳と真子にも。


 ほんの少しずつ。


 恵の分がなくならないように。


「皆で食べた方が、おいしかけん」


 恵が言う。


 それは、幼い頃から大村家で繰り返されてきたことだった。


 食べ物が少なくても。


 大根が一枚しかなくても。


 一人だけで食べるより、皆で分ける。


 節子が涙を拭う。


「恵は、昔から変わらんね」


「何が?」


「自分が一番きついときでも、人のこと心配する」


 恵は、また一口食べた。


「うちだけ元気になっても、皆が倒れたら困るけん」


 十二 届かない理由


 その頃。


 佐世保方面の軍需施設。


 空襲警報が鳴り響いていた。


 修理中の艦内。


 職人たちが避難していく。


 だが、一人の若い工員が戻ってこない。


「中村がまだじゃ!」


 誰かが叫ぶ。


 龍弥は足を止めた。


「どこにおる!」


「機関区画!」


 艦内の奥。


 狭い通路。


 複雑な区画。


 空襲が迫る。


「篠田、戻るな!」


 上役が叫ぶ。


「爆撃が来るぞ!」


 龍弥は、避難口と艦内を見比べた。


 恵との約束。


 必ず帰る。


 無理をしない。


 人を助けるために、自分まで死んではいけない。


 それでも。


 中に一人残っている。


「誘導員を呼んでください!」


 龍弥が叫ぶ。


「一人では戻りません!」


 以前の龍弥なら、一人で飛び込んでいたかもしれない。


 だが今は違う。


 周囲へ助けを求める。


 二人の職人と防護具を持つ係員が集まる。


「行くぞ!」


 三人で艦内へ入った。


 十三 艦内の救出


 薄暗い通路。


 金属の壁。


 響く警報。


 遠くの爆発音。


 艦がわずかに揺れる。


「中村!」


 返事がない。


 龍弥たちは機関区画へ向かう。


 煙。


 油の匂い。


 倒れた工具箱。


 その奥。


 若い工員・中村浩一が、足を挟まれて倒れていた。


「篠田さん!」


「動くな!」


「すみません!」


「謝るな!」


 工具箱と資材をどける。


 一人が持ち上げ。


 一人が支え。


 龍弥が中村の足を引き抜く。


 再び爆発音。


 照明が消える。


 暗闇。


「出るぞ!」


 中村を二人で支え、通路を戻る。


 一人では助けられなかった。


 複数で戻ったからこそ。


 全員で出られた。


 防空壕へ入った直後。


 大きな爆発が響いた。


 艦の近くへ爆弾が落ちた。


 十四 書けなかった手紙


 空襲が終わったあと。


 龍弥は、宿舎へ戻れなかった。


 負傷者の手当て。


 施設の確認。


 損傷箇所の応急処置。


 何日も長時間作業が続く。


 手紙を書く時間がない。


 便箋はある。


 鉛筆もある。


 だが、机へ向かう前に眠ってしまう。


「恵さんへ」


 そこまで書いた手紙。


 続きが書けない。


 翌朝には、また仕事。


 その次の日も。


 さらに空襲。


 郵便の輸送も滞っていた。


 龍弥は、書きかけの手紙を作業着の内側へ入れた。


「生きとるって」


 小さく呟く。


「早く知らせんば」


 だが、その一行さえ送れなかった。


 十五 原田の訪問


 恵が倒れた知らせは、長崎機関区にも届いた。


 原田正勝は、仕事を終えたあと大村家を訪れた。


「恵さん」


「原田さん」


 恵は、少しだけ体を起こしていた。


「勝男から手紙が来とった」


 原田は封筒を出す。


「幸さんも、恵さんのことば心配しとる」


「もう伝わったと?」


「節子さんが手紙ば出した」


 恵は少し困った顔をした。


「幸姉ちゃん、広島から飛んできそう」


「汽車で来るやろ」


 恵が少し笑った。


「その前に、音痴で病気治そうとするかも」


 原田も笑う。


「それは悪化するかもしれん」


「原田さんまで」


 久しぶりの軽いやり取り。


 だが、原田の表情はすぐに真面目になる。


「龍弥君のこと」


「はい」


「佐世保方面で、大きな空襲があった」


 恵の顔が青ざめる。


 原田はすぐに続ける。


「ただし、職員の名簿や安否情報はまだ届いとらん」


「分からんと?」


「うん」


「また」


 恵の声が震える。


「分からん」


 原田は俯いた。


 その言葉が、どれほど人を苦しめるか。


 川瀬家でも見てきた。


「でも」


 原田が言う。


「龍弥君は、一人で無茶せんようになっとる」


「はい」


「伊藤さんから教わったことを守る男たい」


 恵は目を閉じる。


「生きとって」


 小さく呟いた。


 十六 幸からの手紙


 数日後。


 広島から、幸の手紙が届いた。


 節子が恵へ読み聞かせる。


『恵へ。


 倒れたって聞きました。


 何しよると!


 龍弥さんに無理したら怒るって言いよった人が、自分で無理してどうすると!


 でも、本当は怒っとらん。


 心配でたまらん。


 今すぐ長崎へ帰りたか。


 うちの分まで食べて。


 勝男さんの分も食べて。


 龍弥さんが帰ってきたら、少し丸くなった恵ば見せて安心させんば。


 それから、手紙が来んことは怖いと思う。


 でも、来ん理由が悪いこととは限らん。


 空襲で遅れとる。


 仕事が忙しい。


 郵便が止まっとる。


 うちも何回も、勝男さんの帰りが遅いだけで最悪のことば考えた。


 考えてしまう自分を責めんでよか。


 怖いときは怖いって言って。


 うちが遠くから全部聞くけん。


 早く元気になって。


 またうちにツッコミ入れて。


 幸』


 恵は、目を閉じたまま笑った。


「お姉ちゃんらしか」


「返事、書く?」


 節子が尋ねる。


「うん」


「でも、今日は短くね」


 恵は、少し考えた。


『幸姉ちゃんへ。


 うちは生きとる。


 雑炊も魚も食べた。


 でも、お姉ちゃんの分まで食べるのは無理。


 そっちは勝男さんの御飯ば取らんように。


 音痴で病気ば治そうとせんで。


 恵』


 節子は読み終え、笑った。


「元気、少し戻ったね」


「ツッコミは、まだできる」


 十七 待つ家族


 恵の体は、少しずつ回復した。


 熱は下がる。


 雑炊を一椀食べられるようになる。


 布団から起き上がる時間も増える。


 だが、龍弥からの手紙はまだ来ない。


 毎日、誰かが郵便受けを見る。


 勝一。


 節子。


 慶一。


 梅。


 時には原田も。


 誰も恵へ、


「来とらん」


 とすぐに言えない。


 その表情だけで、恵には分かった。


「今日も?」


「うん」


 それでも恵は、以前のように一人で郵便受けへ行こうとはしなかった。


 体を壊して。


 皆が食べ物を持ち寄り。


 自分を支えてくれた。


 待つことも、一人で抱えなくてよいと知った。


 十八 一通の葉書


 空襲から十数日後。


 昼。


 戸が強く叩かれた。


 節子が開ける。


 そこに立っていたのは郵便配達員だった。


「篠田恵さん宛てです」


 一枚の葉書。


 汚れている。


 角が折れている。


 差出人。


 篠田龍弥。


 節子は息をのんだ。


「恵!」


 恵が布団から起き上がる。


「来たと?」


 葉書を受け取る。


 文字は急いで書かれていた。


『恵さんへ。


 手紙が出せず、すみません。


 空襲がありました。


 俺は生きています。


 若い工員を、皆で助けました。


 怪我はありません。


 大丈夫とは書きません。


 怖かったです。


 でも、帰る約束を忘れていません。


 恵さんも、無理をしないでください。


 必ず帰ります。


 龍弥』


 恵は、何度も最初の一行を読んだ。


 俺は生きています。


「生きとる」


 声が震える。


「龍弥さん、生きとる」


 節子が娘を抱きしめる。


 勝一も目を閉じる。


 慶一と梅へ知らせるため、すぐに人が走った。


 十九 皆で泣く


 篠田家。


 大村家。


 原田。


 伊藤。


 親しい者たちが集まった。


 葉書は、何度も回された。


 梅は息子の文字へ指を触れる。


「龍弥の字や」


 慶一は、声を出さずに泣いた。


 原田も読み終え、深く息を吐く。


「皆で助けたって書いとる」


「一人で戻らんかったとね」


 恵が言う。


「約束、守った」


 伊藤は、葉書の文面を見ながらうなずいた。


「少しは成長した」


 声が震えていた。


 恵は、メイボの煮物を持ってきてくれた慶一を見る。


 野菜を持ってきた和徳と真子を見る。


 皆が腹を空かせている中で、自分へ食べさせてくれた。


「うち」


 恵が言う。


「一人で待っとったんやなかったね」


 節子が答える。


「最初から、一人やなかよ」


 二十 食べること、生きること


 その夜。


 恵は、残っていた野菜雑炊を食べた。


 前より少し多く。


 自分から椀を持つ。


 節子が尋ねる。


「食べられる?」


「うん」


「無理せんで」


「無理やなか」


 一口。


 二口。


「龍弥さんが帰ってきたとき」


 恵は言った。


「痩せたって心配させたくなか」


「うん」


「少し元気になっとかんば」


 勝一が小さく笑う。


「それでよか」


 恵は、また一口食べた。


 食べること。


 眠ること。


 体を休めること。


 それは怠けることではない。


 生きるための仕事だった。


 戦争は、人々へ命を差し出せと命じる。


 だが家族は、恵へ食べろと言った。


 生きろと言った。


 帰ってくる人を待つために。


 自分自身が帰る場所であり続けるために。


 二十一 届いた言葉


 広島の幸にも、龍弥の無事と恵の回復が手紙で伝えられた。


 幸は読み終えると、勝男へ抱きついた。


「よかった」


「はい」


「二人とも生きとる」


「はい」


「まだ四人で汽車に乗れる」


 勝男はうなずく。


「乗れます」


 幸は窓辺の木製機関車を見る。


「約束、絶対叶えんば」


「はい」


「長崎から」


「はい」


「どこまで行こう」


 勝男は少し考える。


「まずは近いところから」


「北海道」


「近いところって言いましたよね」


 幸は、少し笑った。


 その笑いの奥で。


 誰も、残された時間がどれほど短いか知らなかった。


 昭和二十年の夏。


 広島と長崎の運命は、静かに近づいていた。


 次回予告


 過労と心労で倒れた恵。


 薬も食料も不足する中、篠田家から届いたメイボと、平戸家から届いた野菜が、恵の命をつないだ。


「うちだけ食べてもいいと?」


 そう尋ねる恵に、家族たちは答える。


「今日は、恵が食べる日たい」


 そして、途絶えていた龍弥からの葉書。


「俺は生きています」


 その一文によって、恵は再び食べ、生きようとする力を取り戻す。


 だが昭和二十年の夏。


 広島の空には、高高度を飛ぶ偵察機が現れるようになる。


 警報が鳴る日。


 鳴らない日。


 敵機が来ても、爆弾を落とさず去っていく日。


 勝男は、広島機関区の構内で空を見上げる。


 幸も官舎の窓から、一機の飛行機が町を確かめるように旋回する姿を見る。


 次回、第36話。


「何も落とさない飛行機」


 爆弾を落とさない敵機。


 何も起きなかった朝。


 だが、その静かな飛行は、広島の町を狙うための準備だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。