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幸と恵の物語  作者: リンダ


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34/64

疎開列車

『幸と恵のものがたり』


第34話 疎開列車


昭和二十年、初夏。


広島の朝は、薄い雲に覆われていた。


川面を渡る風。


まだ人通りの少ない路面。


遠くから聞こえる蒸気機関車の汽笛。


けれど、町の人々が空を見上げる回数は、以前より明らかに増えていた。


東京。


大阪。


神戸。


呉。


各地の都市が、次々と空襲に襲われている。


広島でも、防空訓練が繰り返されていた。


警報が鳴れば灯りを消す。


水桶と砂を用意する。


子どもを防空壕へ連れていく。


そして最近では、都市部に暮らす子どもたちを、比較的空襲の危険が少ない山間部へ移す動きが広がっていた。


疎開。


子どもたちを守るため。


そう説明された。


だが、そのために子どもたちは、父や母から引き離されなければならなかった。


一 見慣れない乗務表


広島機関区。


勝男は壁に掲示された乗務表を見つめていた。


これまでのような瀬野八の重量貨物列車ではない。


呉線の燃料輸送でもない。


広島から北へ向かう列車。


三次。


さらに備後庄原方面。


芸備線を走る旅客列車だった。


藤原重治が隣へ立つ。


「今度は貨物じゃないんですね」


勝男が尋ねた。


「ああ」


藤原は乗務表を見た。


「子どもらを乗せる」


「疎開ですか」


「そうじゃ」


勝男の表情が曇る。


「親元から離すとですね」


藤原は短く息を吐いた。


「空襲から守るためじゃいう話じゃ」


「でも」


勝男は言葉を止めた。


守るために、家族を引き離す。


それを本当に「守る」と呼んでよいのか。


答えは出なかった。


「機関車はC11じゃ」


藤原が言う。


「C11?」


「支線や勾配の多い線区でも使いやすい、タンク機関車じゃ」


勝男は構内の一角を見る。


そこには、D51よりも小柄な蒸気機関車が止まっていた。


炭水車を後ろへ連結せず、機関車本体へ水と石炭を積む構造。


動輪は三対。


大きな貨物機関車ほどの力はない。


しかし、曲線や勾配の多い地方線区を走るために扱いやすく、前後どちらの方向へも運転しやすい。


「小さいですね」


「D51と比べりゃあの」


藤原はC11の側面を軽く叩いた。


「じゃが、小さいからいうて甘う見るな」


「はい」


「今日は、兵隊でも燃料でもない」


藤原は勝男を見る。


「子どもの命を運ぶんじゃ」


二 C11との出会い


勝男はC11の運転室へ上がった。


D51に比べれば火室は小さい。


投炭の量も少ない。


だが、火床が狭いぶん、石炭の置き方が少し偏っただけでも、燃焼状態へ影響が出やすい。


「右へ寄せすぎるなよ」


藤原が言う。


「はい」


「お前、焦ると右へ入れる癖がまだ残っとるけえ」


「まだ覚えとったんですか」


「忘れると思うたか」


勝男は苦笑した。


「C11は小回りが利く」


藤原は計器を確認しながら説明する。


「じゃが、編成が重うなれば、勾配で無理もかかる」


「子どもたちの荷物もありますね」


「ああ。学校の道具。布団。着替え」


「家族から持たされた食べ物も」


「あるじゃろう」


藤原は運転室の外を見る。


ホームには、まだ列車が入っていない。


それでも、遠くから子どもたちの声が聞こえ始めていた。


明るい声ではない。


泣き声。


呼びかける声。


親の名を呼ぶ声。


勝男の胸が締めつけられた。


三 鉄道官舎の千代


その朝。


鉄道官舎では、澄江が娘の千代の荷物をまとめていた。


布団。


着替え。


手拭い。


小さな弁当箱。


名前を書いた布札。


幸は隣で手伝っていた。


「千代ちゃんも行くと?」


「うん」


澄江は荷物へ紐をかけながら答えた。


「三次の近くへ行くことになったんよ」


千代は、部屋の隅へ座っていた。


いつものような元気はない。


「幸お姉ちゃん」


「何?」


「お母ちゃんは一緒に来んの?」


幸は答えられなかった。


澄江が振り返る。


「お母ちゃんは、ここへ残るんよ」


「何で?」


「お父ちゃんの帰る家を守らにゃいけんけえ」


「うちも家におりたい」


「千代」


「空襲が来たら、防空壕へ入ればええんじゃろ?」


澄江の手が止まった。


「それでも危ないんよ」


「お母ちゃんは危なくないん?」


「お母ちゃんは大人じゃけえ」


「大人は爆弾に当たっても死なんの?」


澄江は何も言えなくなった。


幸は千代の前へしゃがんだ。


「怖かよね」


千代はうなずいた。


「うん」


「お母ちゃんと離れたくなかよね」


「うん」


幸は、無理に笑わせようとはしなかった。


「泣いてよかよ」


千代の目から涙がこぼれた。


「戦争が終わったら」


千代は尋ねた。


「お父ちゃんとお母ちゃんと、また一緒に暮らせるん?」


幸は、澄江を見る。


澄江の目にも涙が浮かんでいる。


「暮らせるよ」


幸は言った。


絶対だとは言えない。


それでも、そう願うしかなかった。


「戦争が終わったら、またこの家に帰ってくるとよ」


「幸お姉ちゃんもおる?」


「おる」


「本当?」


「うん」


その約束を、幸自身も信じたかった。


四 ホームに集まる家族


広島駅。


疎開する子どもたちを乗せる列車のホームには、朝早くから大勢の家族が集まっていた。


学校ごとに並ばされた子どもたち。


胸元へ縫いつけられた名札。


肩から下げた水筒。


背負った荷物。


大きな布団包み。


引率する教師。


駅員。


鉄道員。


そして、子どもを送り出す父や母。


「列を崩さんように!」


教師が声を張る。


「荷物を持ったまま、順番に乗って!」


しかし、子どもたちはなかなか前へ進めない。


母親の手を離さない。


父親の服をつかむ。


泣きながら、その場へしゃがみ込む。


「嫌じゃ!」


一人の男の子が叫んだ。


「行きとうない!」


母親が抱きしめる。


「行かんといけんのよ」


「何で!」


「空襲が来るけえ」


「お母ちゃんも来て!」


「お母ちゃんは行けん」


「なら、うちも行かん!」


別の場所では、少女が父親の手を握っていた。


「お父ちゃん」


「何じゃ」


「うちがおらん間に、死なんでね」


父親は、すぐに答えられなかった。


「何を言いよる」


笑おうとした。


だが、声が震えていた。


「お父ちゃんは死なん」


「本当?」


「ああ」


「絶対?」


父親は娘を抱きしめた。


「絶対じゃ」


誰にも保証できない約束だった。


五 機関車から見える別れ


C11がゆっくりホームへ入った。


白い蒸気。


短い汽笛。


勝男は運転室から、ホームの様子を見た。


子どもたち。


泣く母親。


唇をかみしめる父親。


大きく手を振る祖父母。


そして、離れようとしない小さな手。


勝男は、かつて兵員輸送列車を見送った長崎駅を思い出した。


戦地へ向かう青年。


手を振る家族。


帰ると約束する兵士たち。


今回は子どもだった。


戦場へ送るわけではない。


安全な場所へ送る。


そう説明されている。


それなのに、ホームにあふれる叫びは、出征列車のときと変わらなかった。


「お母ちゃーん!」


「戻ってきてね!」


「手紙書くんよ!」


「先生の言うことを聞くんよ!」


「妹の面倒を見てやって!」


「お父ちゃーん!」


客車の窓からも声があふれる。


ホームからも声が飛ぶ。


同じ家族が。


ほんの数歩しか離れていないのに。


列車が動けば、その距離は何十キロ、何百キロへ広がっていく。


勝男は火室を見る。


炎が揺れていた。


「平戸」


藤原が声をかける。


「はい」


「前を見い」


「はい」


「辛いんは分かる」


藤原もホームを見た。


「じゃが、わしらが止まったら、この子らは行き先へ着けん」


「はい」


「安全に運ぶんじゃ」


勝男は、強くうなずいた。


六 千代の乗車


幸と澄江も、千代を連れてホームへ来ていた。


千代は澄江の手を握ったまま離さない。


「お母ちゃん」


「うん」


「毎日手紙書いて」


「書くよ」


「一日も忘れんで」


「忘れん」


「お父ちゃんにも書かせて」


「書かせる」


「幸お姉ちゃんも」


幸がうなずく。


「うちも書く」


「歌は書かんでええよ」


幸は一瞬、言葉を失った。


「手紙で歌は聞こえんやろ」


千代は、少しだけ笑った。


「音ば外した字が来そうじゃもん」


澄江も涙を流しながら笑った。


「幸さん、広島へ来てまで音痴が広まっとるよ」


「澄江さんが広めたんやないですか」


「わしゃ何も言うとらんよ」


ほんの短い笑い。


それでも、別れの恐怖が少しだけ和らいだ。


教師が呼ぶ。


「三宅千代さん、乗ってください!」


千代の顔が再び曇る。


「お母ちゃん」


「行きんさい」


「嫌」


「千代」


「嫌じゃ!」


澄江は娘を強く抱きしめた。


「お母ちゃんも嫌じゃ」


初めて本音を言った。


「離したくない」


千代が泣く。


「なら、一緒におろう」


「じゃけど」


澄江は娘の頬へ触れた。


「空襲が来たら、お母ちゃんは千代を守り切れんかもしれん」


「……」


「じゃけえ、今だけ行って」


「いつまで?」


「戦争が終わるまで」


「いつ終わるん?」


澄江は答えられなかった。


幸が千代の荷物を持つ。


「一緒に客車まで行こう」


千代は泣きながら、二人に連れられて列車へ乗った。


七 発車の汽笛


乗車が終わった。


扉が閉まる。


ホームでは、家族たちが窓へ駆け寄る。


子どもたちも、窓ガラスへ顔を寄せる。


「お母ちゃーん!」


「元気でね!」


「お父ちゃん!」


「泣くんじゃない!」


「手紙書くけえ!」


「絶対帰ってきて!」


藤原が時計を見る。


駅員の合図。


発車時刻。


勝男は汽笛の紐へ手をかけた。


鳴らしたくなかった。


汽笛が鳴れば、列車は出る。


列車が出れば、親子は離れる。


だが、鳴らさなければならない。


勝男は短く汽笛を鳴らした。


その瞬間。


客車とホームの両方から、さらに大きな泣き声が上がった。


「お母ちゃーん!」


「千代ー!」


「帰ってくるんよ!」


「お母ちゃーん!」


C11が動き始める。


車輪がゆっくり回る。


連結器が伸びる。


客車が一両ずつ動く。


親たちは列車に合わせて走った。


母親。


父親。


祖父母。


泣きながら手を振る。


客車の中からも、小さな手が振られる。


勝男は前を見た。


目が潤んでいた。


八 なぜ、ここまで


列車は広島駅を離れた。


市街地を抜け。


川を渡り。


次第に山間部へ入っていく。


客車の中からは、しばらく泣き声が聞こえていた。


母親を呼ぶ声。


すすり泣き。


教師が励ます声。


藤原が前方を見ながら言う。


「辛いのう」


勝男は答える。


「はい」


「じゃが、空襲から逃がすためじゃ」


「分かっとります」


「なら、運ばんといけん」


「はい」


勝男は火室へ石炭を入れた。


それでも、胸の中の疑問は消えない。


なぜ。


なぜここまでして、戦争を続けるのか。


子どもを親から引き離して。


都市を焼かれ。


船を失い。


飛行機を失い。


油も鉄も食料もなくなり。


それでも「勝っている」と言い続ける。


現場にいれば、誰にでも分かる。


勝ち目など、もうほとんど残っていない。


だが、それを口に出せば。


非国民。


臆病者。


敵の味方。


そう呼ばれる。


家族まで責められる。


近所から疎まれる。


仕事を失うかもしれない。


勝男は唇をかみしめた。


怒り。


悲しみ。


悔しさ。


どの言葉でも表し切れない感情が、胸の中へ渦巻いた。


「藤原さん」


「何じゃ」


「いつまで続くとですか」


藤原は、すぐには答えなかった。


「分からん」


「子どもまで家族から離して」


「ああ」


「町が焼かれて」


「ああ」


「それでも続けるとですか」


藤原は周囲へ目を配った。


運転室には二人だけ。


それでも声を落とす。


「わしにも分からん」


「負けるって、皆分かっとるでしょう」


藤原の表情が険しくなる。


「平戸」


「すみません」


「謝るんじゃない」


藤原は前を見たまま言った。


「わしも、同じことを思うとる」


勝男は顔を上げた。


「じゃが、口へ出せん」


「はい」


「家族を守らにゃいけん」


「はい」


「仕事もある」


「はい」


「じゃけえ、皆、黙っとる」


藤原の拳が、わずかに震えていた。


「黙っとるから、賛成しとるわけじゃない」


九 客車の中の姉弟


途中駅で、列車はしばらく停車した。


給水。


点検。


行き違い列車の待避。


勝男は機関車を降り、編成の状態を確認した。


客車の窓から、一人の少女が顔を出していた。


隣には、幼い弟がいる。


弟は泣き疲れ、少女の膝へ頭を載せていた。


勝男が声をかける。


「大丈夫ね」


少女はうなずこうとした。


だが、唇が震えた。


「弟が、お母ちゃんのところへ帰りたいって」


「うん」


「うちも帰りたい」


「うん」


「でも、うちがお姉ちゃんじゃけえ」


少女は涙を拭いた。


「泣いたらいけんのんです」


勝男は静かに答えた。


「泣いてよかよ」


少女が顔を上げる。


「お姉ちゃんでも?」


「お姉ちゃんでも」


勝男は、長崎の幸と恵を思い出した。


姉だから。


妹だから。


強くいなければならないわけではない。


「弟さんと一緒に泣いてよか」


少女の目から涙がこぼれた。


「汽車は、ちゃんと目的地まで連れていくけん」


「本当?」


「はい」


「事故せん?」


「事故させません」


勝男は、はっきり言った。


「必ず、安全に運びます」


少女は弟の頭を撫でた。


「お兄ちゃん、機関士さん?」


「機関助手です」


「違うん?」


「少し違います」


少女は、ほんの少し笑った。


「難しいね」


「はい。鉄道の話は長くなります」


「今はええです」


勝男は、幸と同じ反応に少し笑った。


十 三次への道


列車は再び動き始めた。


山間の線路。


川沿い。


小さな駅。


田畑。


都市部とは違う景色が、窓の外へ広がる。


子どもたちの泣き声は、少しずつ小さくなった。


疲れて眠る子。


窓の外を見る子。


持たされた握り飯を、少しずつ食べる子。


教師が数を確認して回る。


勝男は、C11の火を整えた。


「圧力、安定しとります」


「よう見とけ」


藤原が答える。


「山間部じゃ、勾配も曲線も続く」


「はい」


「子どもを乗せとるけえ、急な制動はするな」


「はい」


「客車の中で転ばせるなよ」


「はい」


軍需列車とは違う。


一分でも早く運べと言われる列車ではない。


安全に。


揺れを抑えて。


小さな乗客を怖がらせないように。


その一点へ、勝男は神経を集中した。


十一 三次駅


三次駅へ到着すると、地元の人々や受け入れ先の関係者が待っていた。


教師。


寺の関係者。


農家。


役場の職員。


子どもたちは、学校ごとに降ろされる。


だが、列車を降りても不安は消えない。


知らない町。


知らない大人。


父も母もいない。


千代は客車から降りると、辺りを見回した。


「お母ちゃん、おらん」


当然だった。


それでも、姿を探してしまう。


引率の教師が声をかける。


「千代さん、こっちよ」


千代は動かない。


勝男は少し離れた場所から、その姿を見ていた。


声をかけようか迷う。


だが自分は、広島駅で千代と幸たちが別れる場面を見ていない。


千代の名前も知らなかった。


少女が、ぽつりと言う。


「帰りたい」


周囲の子どもたちも、同じ思いだった。


三次は安全かもしれない。


だが、家ではない。


十二 さらに備後庄原へ


一部の子どもたちは三次で降りた。


残った編成は、さらに備後庄原方面へ向かう。


列車は山あいへ深く入っていく。


小さな駅。


木造のホーム。


田畑。


遠くの山。


空襲の危険は、広島市内より低いとされている。


しかし、食べ物が十分にあるわけではない。


受け入れ先にも余裕はない。


それでも、子どもたちを守ろうと、人々は場所を用意していた。


途中の駅で、地元の女性が子どもたちへ水を配った。


「よう来たね」


広島弁よりも少し山間部の柔らかな言葉。


「怖かったじゃろ」


男の子が尋ねる。


「お母ちゃんは、いつ来るん?」


女性は言葉に詰まった。


「戦争が終わったら、迎えに来てくれるよ」


また同じ言葉。


戦争が終わったら。


誰も、その日を知らない。


十三 空になった客車


子どもたちを全員降ろしたあと。


客車の中は、急に静かになった。


座席には、忘れられた手拭い。


床には、小さな紙包み。


窓際には、母親へ渡すはずだったのか、折り紙で作った花が一つ残っていた。


勝男は、それを拾った。


花の裏側には、子どもの字で書かれていた。


『お母ちゃんへ』


勝男の手が止まる。


藤原が近づく。


「忘れ物か」


「はい」


「駅へ預けときんさい」


「届けてもらえますか」


「できる限りのことはしてくれるじゃろ」


勝男は折り紙の花を見つめた。


子どもは、どんな気持ちで作ったのだろう。


列車の中で。


母親を思いながら。


「守るために離す」


勝男が呟く。


藤原は何も言わなかった。


「本当に、これで守ったことになるとですか」


「爆弾からは守れるかもしれん」


藤原は答えた。


「じゃが、心まで無傷とはいかん」


十四 広島駅に残った親たち


一方。


子どもたちを乗せた列車が去ったあとも、広島駅のホームから動けない親たちがいた。


澄江も、その一人だった。


線路の先を見つめている。


もう列車は見えない。


汽笛も聞こえない。


それでも、そこに立っていた。


幸が隣へ寄る。


「澄江さん」


「行ってしもうた」


「はい」


「うちの子、行ってしもうた」


澄江の声は空っぽだった。


「守るためじゃって、何回も言われた」


「はい」


「でも」


涙があふれる。


「自分の手で守れんけえ、遠くへやるんじゃ」


幸は澄江を抱きしめた。


「千代ちゃん、手紙書きますよ」


「うん」


「うちも書く」


「うん」


「一緒に待ちましょう」


澄江は、幸の肩へ顔を伏せた。


「待つんは、しんどいね」


幸は静かに答えた。


「はい」


勝男を待った夜。


恵からの手紙を待つ日。


千代の帰りを待つ澄江。


待つ人の苦しみは、形が違ってもよく似ていた。


十五 長崎の恵


長崎。


軍服縫製工場。


恵は、龍弥から届いた手紙を作業着の内側へしまっていた。


休憩時間になると、何度も読み返す。


『大丈夫とは書きません。


正直、怖いです。


でも、必ず帰る努力をします。』


その言葉に、恵は少し安心した。


無理に強がっていない。


怖いと書いている。


それでも、佐世保方面から届く手紙は少なくなっていた。


空襲。


輸送の遅れ。


検閲。


勤務の長時間化。


返事を書いても、いつ届くか分からない。


美代が恵へ尋ねる。


「今度はいつ来たと?」


「五日前」


「前より間が空いたね」


「うん」


「心配?」


「心配」


恵は正直に答えた。


「でも、待つ」


姉からの手紙を思い出す。


待つことは、帰る場所を守ること。


「龍弥さんが帰ったとき」


恵は言った。


「お帰りって言えるようにしとく」


十六 帰路の勝男


空になった客車を引き、C11は広島方面へ戻っていた。


行きとは違い、車内は静かだった。


泣き声もない。


子どもの話し声もない。


それなのに、勝男の耳には、ホームで聞いた声が残っていた。


お母ちゃん。


お父ちゃん。


行きたくない。


絶対迎えに来て。


勝男は火室を見ながら言った。


「藤原さん」


「何じゃ」


「戦争が終わったら」


「ああ」


「この汽車で、子どもたちば家に返したかです」


藤原は前方を見た。


「そうじゃの」


「今度は泣かせんように」


「帰りの汽車でも泣くじゃろ」


「うれしくて?」


「ああ」


勝男は少し笑った。


「その汽笛なら、鳴らしたかです」


「わしもじゃ」


二人は、同じ線路の先を見た。


十七 非国民という言葉


機関区へ戻ったあと。


休憩所では、疎開列車について話す鉄道員たちがいた。


「子どもまで遠くへやるようになったか」


「もう戦争は終わらんのか」


「そがんこと言うたらいけんぞ」


一人が周囲を見る。


「誰が聞いとるか分からん」


「でも、皆思うとるじゃろ」


「思うても言うな」


「何でじゃ」


「非国民と言われる」


休憩所が静かになる。


勝男は、その言葉を聞いた。


非国民。


戦争を終わらせたいと言えば、非国民。


子どもを家族から離したくないと言えば、非国民。


命を守りたいと言えば、非国民。


ならば、国民とは何なのか。


命令に従い。


家族を差し出し。


黙って死ぬ者だけが、立派な国民なのか。


勝男の胸に、怒りがこみ上げた。


だが、口には出せなかった。


幸を危険にさらしたくない。


長崎の家族にも迷惑をかけられない。


その沈黙が、さらに苦しかった。


十八 幸への告白


夜。


勝男は官舎へ帰った。


「ただいま」


「お帰りなさい」


幸は、いつものように迎えた。


食卓には、わずかな麦飯と野菜の煮物。


勝男は座ったが、箸を取らなかった。


「どうしたと?」


幸が尋ねる。


「今日、疎開する子どもたちば運びました」


「千代ちゃんも?」


「千代ちゃんという子がおったかは、分かりません」


「三次の近くへ行ったとよ」


「なら、乗っとったかもしれません」


勝男は、ホームで見た別れを話した。


母親から離れない子。


父親へ死なないでと頼む少女。


お姉ちゃんだから泣いてはいけないと思っていた子。


空の客車へ残された折り紙の花。


「何で」


勝男の声が震えた。


「何でここまでして、戦争ば続けるとですか」


幸は黙って聞いた。


「もう勝てんことは、皆分かっとる」


「うん」


「船もなか。油もなか。食べ物もなか」


「うん」


「子どもまで親から離す」


「うん」


「それでも、やめようって言えん」


勝男は拳を握った。


「言ったら非国民です」


幸は勝男の手へ触れた。


「ここでは言ってよかよ」


勝男が顔を上げる。


「うちしかおらん」


幸は言った。


「勝男さんが思っとること、全部言ってよか」


勝男の目に涙が浮かんだ。


「俺は」


声が詰まる。


「戦争ばやめてほしかです」


「うん」


「もう誰も運びたくなか」


「うん」


「兵士も」


「うん」


「燃料も」


「うん」


「泣いとる子どもも」


「うん」


「ただ、普通に旅する人ば乗せたか」


幸の目からも涙がこぼれた。


「うちも乗りたか」


「はい」


「恵と龍弥さんも一緒に」


「はい」


「皆で、遠くへ」


「はい」


勝男は、幸の手を握った。


十九 千代からの手紙


数日後。


三次方面へ疎開した千代から、澄江へ手紙が届いた。


澄江は、すぐに幸の部屋へ来た。


「来た!」


封筒を握っている。


「千代ちゃんから?」


「うん」


二人で手紙を読む。


『お母ちゃんへ。


三次につきました。


汽車ではいっぱい泣きました。


知らないところです。


夜はお母ちゃんの夢を見ます。


ごはんは少ないです。


でも、先生が大丈夫じゃと言いました。


うちは大丈夫じゃないです。


お母ちゃんに会いたいです。


幸お姉ちゃんへ。


歌はまだ下手ですか。


戦争が終わったら、また聞きます。


千代』


澄江は、途中から読めなくなった。


幸も泣いた。


「大丈夫じゃないって、ちゃんと書いとる」


「うん」


「我慢せんかった」


「うん」


幸は、手紙の最後をもう一度見る。


戦争が終わったら。


また歌を聞く。


千代も、その日を信じている。


「返事書きましょう」


幸が言った。


「うん」


「うち、音痴は少し治ったって」


澄江が涙を拭きながら言う。


「嘘を書いちゃいけんよ」


「そこは励ましでよかやろ」


二人は泣きながら、少し笑った。


二十 帰るための列車


蒸気機関車は、さまざまなものを運んだ。


石炭。


鉄。


燃料。


兵士。


負傷者。


軍服。


そして今度は、親から離された子どもたち。


列車に意思はない。


行き先を決めるのは人間だった。


勝男は願った。


いつか。


戦争が終わったら。


同じ線路を逆方向へ走りたい。


三次から広島へ。


備後庄原から故郷へ。


子どもたちを家族のもとへ返したい。


ホームでは、今度こそ。


「行かないで」ではなく。


「お帰り」と言ってもらえる。


そんな列車を走らせたい。


夜。


官舎の窓辺には、龍弥が作った木製機関車が置かれていた。


幸はそれを手に取る。


「皆で乗れる日、来るよね」


勝男は答えた。


「来ます」


「大丈夫って言葉?」


「願いです」


幸は小さくうなずいた。


「なら、信じる」


遠くで汽笛が鳴った。


疎開する子どもを運ぶ汽車か。


軍需列車か。


それとも、いつか家族を再会させる汽車か。


その答えは、まだ誰にも分からなかった。



次回予告


三次、備後庄原方面へ、疎開する子どもたちを運んだ勝男。


ホームを埋めた親子の叫びは、出征列車を見送った長崎駅の記憶と重なった。


幸は、三次へ疎開した千代から届いた手紙を読む。


「うちは大丈夫じゃないです」


幼い少女が初めて書いた、本当の気持ち。


一方、長崎では。


佐世保方面へ移された龍弥からの手紙が、次第に届かなくなっていく。


三日。


五日。


十日。


恵は毎日、郵便受けを確認する。


空襲による輸送の遅れなのか。


検閲なのか。


それとも、龍弥の身に何か起きたのか。


そして佐世保では、軍港を狙う大規模な空襲警報が鳴り響く。


修理中の艦内へ残された若い職人。


龍弥は避難する人の流れに逆らい、その職人を助けるため船内へ戻ろうとする。


次回、第35話。


「届かない手紙」


返事がない。


知らせもない。


それでも恵は、夫が生きていると信じて待ち続ける。

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