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幸と恵の物語  作者: リンダ


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33/63

離される二人

『幸と恵のものがたり』

 第33話 離される二人


 昭和二十年、春。


 戦争が始まってから、いくつもの季節が過ぎた。


 だが、春が来ても町は明るくならなかった。


 長崎の坂道には桜が咲き始めている。


 薄桃色の花びら。


 港から吹く風。


 路面電車のモーター音。


 本来なら、新しい生活の始まりを感じる季節だった。


 しかし、人々が見上げるのは花よりも空だった。


 敵機の影はないか。


 飛行機の音は聞こえないか。


 空襲警報は鳴らないか。


 造船所でも。


 長崎機関区でも。


 軍服縫製工場でも。


 仕事は続いていた。


 資材は足りない。


 食料も足りない。


 働く者の体力も、もう残り少ない。


 それでも命令は止まらなかった。


 もっと造れ。


 もっと運べ。


 もっと働け。


 そしてある日。


 長崎の造船所へ、新たな人員配置の命令が届いた。


 若い技術者と職人の一部を、佐世保方面の軍需施設へ移す。


 その名簿の中に――


 篠田龍弥の名前があった。


 一 掲示板の名前


 昼前。


 造船所の詰所前へ、職人たちが集められた。


 壁には、新しい人員配置表が掲示されている。


 誰も声を出さなかった。


 紙へ書かれた名前を、一人ずつ確認していく。


 別の工場。


 別の港。


 別の作業場。


 戦争が悪化するほど、必要とされる場所へ人間が動かされる。


 本人の希望は聞かれない。


 家族の事情も関係ない。


 技術。


 年齢。


 体力。


 経験。


 それだけで、行き先が決められる。


 龍弥は、自分の名前を見つけた。


 篠田龍弥。


 佐世保方面軍需施設へ配置転換。


 着任日は、一週間後。


「一週間……」


 声が漏れた。


 隣に立っていた川瀬清一も、紙を見つめている。


「龍弥さん」


「うん」


「行くとですか」


 龍弥は答えられなかった。


 行きたいかどうかではない。


 行くしかない。


 その事実が、ゆっくり胸へ沈んでいった。


 二 伊藤の怒り


 伊藤勝は、事務所へ呼ばれていた。


 机の向こうには、造船所の上役と軍関係者が座っている。


「篠田は外せません」


 伊藤は、はっきり言った。


 上役が答える。


「命令だ」


「この造船所でも必要な人材です」


「佐世保方面では、さらに必要とされている」


「代わりは」


「現場で補え」


 伊藤の表情が険しくなる。


「またそれですか」


 軍関係者が眉をひそめた。


「何が言いたい」


「人を抜いておいて、現場で補え」


 伊藤は机へ手を置いた。


「材料を減らして、工期は守れ」


「油も鉄も足りんのに、もっと造れ」


 声が強くなる。


「人間を何だと思っとるんですか」


「戦時下だ」


「戦時下なら、家族から引き離してよかとですか」


「国家の要請だ」


「国家が、篠田の婚約者の代わりになってくれるとですか」


 部屋の空気が凍る。


 上役が低い声で言った。


「伊藤、言葉に気をつけろ」


「命令には従います」


 伊藤は相手を見据えた。


「でも、正しいとは言いません」


「篠田は一週間後に出す」


「分かりました」


 伊藤は唇を噛んだ。


「ただし、移動前に休みを一日ください」


「そんな余裕はない」


「婚約者へ別れも言わせんつもりですか」


「手紙で済む」


 その言葉に、伊藤の拳が震えた。


「人の人生ば、紙切れだけで済ませるな」


 三 龍弥からの知らせ


 夕方。


 軍服縫製工場の仕事を終えた恵は、いつもの坂道を歩いていた。


 道の途中。


 龍弥が待っていた。


 作業着のまま。


 顔には煤が残っている。


 だが、いつものように笑っていなかった。


 恵は足を止める。


「何かあったと?」


 龍弥は口を開こうとした。


 言葉が出ない。


 恵の胸へ、嫌な予感が広がる。


「召集?」


「違います」


「怪我?」


「違います」


「なら何ね」


 龍弥は、ようやく言った。


「佐世保方面へ行くことになりました」


 恵は動かなかった。


「仕事で?」


「はい」


「いつまで?」


「分かりません」


「いつから?」


「一週間後」


 恵の目が大きくなる。


「一週間?」


「はい」


「何で、そがん急に」


「軍需施設で、溶接のできる職人が足りんそうです」


「長崎も足りんやろ」


「はい」


「龍弥さんがおらんようになったら、伊藤さんたちも困るやろ」


「はい」


「なら、何で行かんばいかんと!」


 声が坂道へ響いた。


 龍弥は俯く。


「命令です」


 恵の目から涙がこぼれた。


「また命令」


「はい」


「徴兵検査も」


「はい」


「軍艦の仕事も」


「はい」


「今度は佐世保」


 龍弥は何も返せなかった。


 恵は両手で顔を覆った。


「何で、うちらば何回も離そうとすると」


 四 行かないで


 龍弥は、恵のそばへ一歩近づいた。


 だが、すぐには触れなかった。


 恵が顔を上げる。


「行かないで」


 あの徴兵検査のときと同じ言葉だった。


「恵さん」


「行かないで」


「俺も行きたくなかです」


「なら断って」


「断れん」


「何で!」


「俺一人が断ったら、伊藤さんや家族に迷惑がかかる」


「またそれ」


 恵は泣きながら首を振った。


「皆、誰かに迷惑がかかるけんって我慢する」


「うん」


「誰も行きたくないって言えん」


「うん」


「それで、皆ばらばらになる」


 龍弥の目にも涙が浮かぶ。


「すみません」


「謝らんで!」


 恵は龍弥の胸を軽く叩いた。


「龍弥さんが悪いんやなか!」


 一度。


 二度。


 力は弱かった。


「悪いのは、勝手に人の人生ば決める方たい!」


 龍弥は、ようやく恵を抱きしめた。


 恵は胸へ顔を埋め、泣いた。


「幸姉ちゃんも広島」


「はい」


「龍弥さんは佐世保」


「はい」


「うちだけ、長崎に残ると?」


「勝一さんと節子さんがおる」


「そういうことやなか」


「分かっとります」


 龍弥は恵の背中へ腕を回した。


「俺も、恵さんのそばにおりたか」


 五 大村家の夜


 その夜。


 龍弥は大村家を訪れた。


 勝一。


 節子。


 恵。


 三人へ、配置転換の事情を説明する。


 勝一は腕を組み、長く黙っていた。


「佐世保方面か」


「はい」


「軍需工場の名前は」


「着任まで詳しく知らされんそうです」


「住む場所は」


「工員の宿舎になると思います」


 節子が尋ねる。


「食べ物は、ちゃんと出るとね」


 龍弥は少し困った顔をした。


「分かりません」


「手紙は?」


 恵が聞く。


「出せると思います」


「毎日?」


「毎日は難しかかもしれん」


「なら、二日に一回」


「恵さん」


「三日に一回」


 龍弥は、少しだけ笑った。


「分かりました」


「絶対よ」


「はい」


 勝一が龍弥を見る。


「逃げろとは言えん」


「はい」


「だが、命令に従うことと、命を粗末にすることは別だ」


「はい」


「危険な作業を無理に続けろと言われたら、止めろ」


「はい」


「伊藤さんから教わったことを忘れるな」


 龍弥は深くうなずいた。


 六 長崎から広島へ


 その頃。


 恵は、幸へ手紙を書いた。


『幸姉ちゃんへ。


 龍弥さんが、佐世保方面へ行くことになりました。


 一週間後です。


 軍需工場で溶接の仕事ばするそうです。


 うちは、行かないでって言いました。


 でも、また命令です。


 お姉ちゃんが広島へ行ったときも寂しかったけど、今度はもっと寂しか。


 お父さんとお母さんがおるけん、一人ではなか。


 でも、大切な人が近くにおらんって、そがん簡単なことやなかね。


 お姉ちゃんも、勝男さんが呉線から帰ってこん夜、怖かったやろ。


 うちも、これから毎日待つことになる。


 手紙ば待って。


 汽車の音ば聞いて。


 龍弥さんが帰ってくる日ば待つ。


 戦争は、何で愛する人ば遠くへ持っていくとかな。


 恵』


 広島の官舎で、その手紙を読んだ幸は言葉を失った。


 勝男も隣で読んだ。


「龍弥さんまで」


 幸の声が震える。


「はい」


「恵、一人で強がっとる」


「手紙には、寂しかって書いとります」


「前より、ちゃんと言えるようになった」


 幸は手紙を胸へ抱いた。


「でも、隣で聞いてやれん」


 勝男は、幸の手へ触れた。


「返事を書きましょう」


「うん」


「寂しかって、俺たちにも全部書いてよかって」


 幸はうなずいた。


 七 姉からの返事


 数日後。


 恵へ、幸からの手紙が届いた。


『恵へ。


 龍弥さんのこと、読みました。


 本当は、すぐ長崎へ帰って、恵の隣に座りたか。


 でも、今はできん。


 ごめんね。


 寂しかときは、寂しかって言ってよか。


 泣きたかときは泣いてよか。


 うちも勝男さんが帰らん夜、何回も悪いことば考えた。


 汽笛が聞こえるたびに立ち上がって、違う機関車やったら座り込んだ。


 待つしかできん自分が、情けなくもなった。


 でも、待つことは何もしてないことやなか。


 帰る場所ば守ることたい。


 龍弥さんが帰ってきたとき、恵がお帰りって言える場所ば残しとって。


 それから、手紙は毎回うちにも送って。


 うちは姉ちゃんやけん、遠くてもツッコミくらいは入れられる。


 ただし、うちの音痴の話はもう書かんでよか。


 幸』


 恵は涙を拭いながら笑った。


「最後は音痴の話ね」


 節子が尋ねる。


「幸、何て?」


 恵は答える。


「待つことは、帰る場所ば守ることやって」


 勝一が静かにうなずいた。


 八 龍弥の荷造り


 篠田家。


 梅は、また息子の衣服を畳んでいた。


 徴兵検査のとき。


 龍弥が戦地へ行くかもしれないと考え、作業着を抱いて泣いた。


 今度は、本当に息子が家を離れる。


 軍服ではない。


 作業着。


 兵士としてではなく、職人として。


 それでも、戦争のために連れていかれることに変わりはなかった。


「これも持っていきなさい」


 梅が、古い手拭いを包む。


「母さん、そがんに入らんよ」


「向こうで手に入らんかもしれん」


「荷物が重くなる」


「重かったら、少しずつ持っていけばよか」


「汽車に乗るとよ」


 梅の手が止まる。


「そうやったね」


 龍弥は母の顔を見る。


「帰ってきます」


「いつ?」


「分からん」


「いつかでは困る」


 梅の目に涙が浮かぶ。


「毎日、帰ってくるって恵さんと約束しとったやろ」


「はい」


「佐世保からでも帰ってきて」


「毎日は無理たい」


「なら」


 梅は息子の作業着を握った。


「絶対、生きて戻ってきて」


 龍弥は母の前へ座る。


「戻ります」


「約束よ」


「はい」


 九 伊藤からの道具


 移動前日。


 伊藤は龍弥を工具庫へ呼んだ。


「これば持っていけ」


 差し出したのは、使い込まれた小さな溶接用の工具と、検査用の金具だった。


「伊藤さんの?」


「ああ」


「もらえません」


「貸すだけたい」


「なら、帰って返さんばですね」


 伊藤は龍弥を見る。


「そのために渡す」


 龍弥は両手で受け取った。


「向こうでも、急げと言われる」


「はい」


「工期ば守れと言われる」


「はい」


「少しの不良は見逃せとも言われるかもしれん」


「はい」


 伊藤の声が強くなる。


「見逃すな」


「はい」


「人が乗るものなら、なおさらたい」


「はい」


「軍が急げと言うても、鉄は急いだから強うなるわけやなか」


 龍弥は深くうなずいた。


「分かりました」


「それから」


 伊藤は少し言葉を止めた。


「生きて帰れ」


 龍弥の目が潤む。


「はい」


「恵さんば待たせすぎるな」


「はい」


「手紙も書け」


「はい」


「俺にも書け」


 龍弥は少し笑った。


「仕事の質問だけですか」


「夫婦の相談は受け付けん」


「原田さんと同じですね」


「誰ね、それ」


「勝男さんの指導員です」


「よか指導員なんやろうな」


「はい」


 十 川瀬清一の願い


 清一は、龍弥へ小さな紙包みを渡した。


 中には、古い鉛筆と便箋が入っている。


「向こうで使ってください」


「清一君のやろ」


「兄ちゃんへ手紙を書くために取っとったものです」


 龍弥の表情が変わる。


「それは使えん」


「もう、どこへ送ればよかか分からんです」


「でも」


「龍弥さんは、恵さんへ書いてください」


 清一は無理に笑った。


「返事が届く相手がおるうちに」


 龍弥は言葉を失った。


「兄ちゃんから、まだ何も来ません」


「うん」


「でも、茶碗は置いとります」


「うん」


「母さんは、今日も飯ばよそいました」


 清一は軍艦の方を見る。


「龍弥さんは、必ず帰ってきてください」


「はい」


「消息不明にならんでください」


 龍弥は、紙包みを強く握った。


「約束します」


 十一 最後の喫茶店


 出発前日の夕方。


 龍弥と恵は、坂の上の喫茶店へ向かった。


 二人が初めて出会った場所。


 老婆の荷物を一緒に押し。


 温かい紅茶とチーズケーキをごちそうになった。


 今では、茶葉も砂糖もほとんどない。


 店内も昔より暗い。


 それでも老婆は、二人のために薄い茶を用意した。


「龍弥さん、遠くへ行くとね」


「はい」


「佐世保方面です」


「いつ戻ると?」


「分かりません」


 老婆は小さく息を吐いた。


「戦争は、分からんことばっかり増やすね」


 三人は黙った。


 恵が、最初に座った席を見る。


「あの日、龍弥さん、名前言うときしどろもどろやったね」


「恵さんもです」


「うちは普通やった」


「大村……って言ったあと、黙ったでしょう」


「お姉ちゃんと間違えそうになっただけ」


「双子でも自分の名前は間違えんでしょう」


 二人は少し笑った。


 老婆は、その笑顔を静かに見守った。


「また二人で来んさい」


「はい」


「今度は、ちゃんとしたチーズケーキば作るけん」


 恵の目に涙が浮かぶ。


「戦争が終わったら?」


「うん」


「砂糖も小麦粉も、また手に入るようになったら」


 龍弥が答える。


「必ず来ます」


 十二 結婚の約束


 店を出たあと。


 二人は坂の上から長崎の町を見下ろした。


 港。


 造船所。


 路面電車。


 家々。


 遠くの山。


「龍弥さん」


「はい」


「帰ってきたら」


 恵は少し言葉を止めた。


「結婚しよう」


 龍弥は恵を見る。


 これまでも婚約していた。


 いつか夫婦になると約束していた。


 だが、時期を決められずにいた。


 戦争。


 仕事。


 家族。


 召集の不安。


「帰ってきたら、すぐ?」


 龍弥が尋ねる。


「うん」


「豪華な式はできんですよ」


「幸姉ちゃんたちも、指輪なかった」


「家もすぐには用意できん」


「大村家で一緒に暮らせばよか」


「御飯も少ない」


「二人で分ければよか」


 龍弥の目に涙が浮かぶ。


「本当に?」


「うん」


 恵は龍弥の手を握った。


「戦争が終わるまで人生ば待ちたくなか」


 幸が勝男との結婚を決めたときと、同じ思いだった。


「帰ってきたら、夫婦になろう」


「はい」


「絶対よ」


「約束します」


 十三 出発の朝


 一週間後。


 長崎駅。


 朝のホーム。


 佐世保方面へ向かう列車を待つ人々が集まっていた。


 軍人。


 工員。


 学生。


 家族。


 荷物は少ない。


 龍弥も、小さな鞄だけを持っている。


 慶一。


 梅。


 恵。


 勝一。


 節子。


 伊藤。


 清一。


 原田と山崎も、仕事の合間を縫って姿を見せていた。


「原田さんまで」


 龍弥が言う。


「勝男の友達やけんね」


 原田が答える。


「お前まで遠くへ行くと聞いたら、見送りに来んわけにはいかん」


 山崎も言う。


「佐世保方面の鉄道も混雑しとる。途中で長時間止まる可能性がある」


「はい」


「水は持ったか」


「はい」


「食べ物は」


 梅が包みを見せる。


「芋と握り飯です」


「それならよか」


 恵は、龍弥の襟元を直した。


「曲がっとらん?」


「曲がってません」


「恵さんには曲がって見えると」


「皆、同じこと言いますね」


「お母さんも?」


「はい」


 梅が涙を拭う。


 十四 離れたくない


 列車がホームへ入ってくる。


 蒸気。


 汽笛。


 人々が動き始める。


 龍弥は、一人ずつに頭を下げた。


 父へ。


 母へ。


 勝一と節子へ。


 伊藤へ。


 清一へ。


 原田と山崎へ。


 最後に恵。


 二人は向かい合った。


「行ってきます」


 龍弥が言う。


 恵は答えようとした。


 だが声が出ない。


「恵さん」


「嫌」


「うん」


「行ってらっしゃいって言いたくなか」


「うん」


「帰ってくる保証がない人に、行ってらっしゃいって言えん」


 龍弥の目から涙がこぼれる。


「でも」


 恵は震える声で続けた。


「行ってらっしゃいって言わんかったら、帰ってこれん気がする」


 龍弥は、恵の手を握った。


「帰ってきます」


「絶対?」


「絶対」


「消息不明になったら怒るよ」


「はい」


「手紙書かんでも怒る」


「はい」


「怪我ば隠しても怒る」


「はい」


「大丈夫って嘘ついても怒る」


 龍弥は泣きながら笑った。


「全部、気をつけます」


 恵は、ようやく言った。


「行ってらっしゃい」


「行ってきます」


 十五 走り出す列車


 龍弥は列車へ乗った。


 窓際へ立つ。


 恵たちはホームに残る。


 汽笛。


 列車が動き始める。


 ゆっくり。


 龍弥は窓から手を振った。


 恵も手を振る。


「龍弥さーん!」


「恵さーん!」


「手紙書いてー!」


「書きます!」


「絶対帰ってきてー!」


「帰ります!」


 列車が速度を上げる。


 恵はホームを走った。


 かつて幸を見送ったときと同じように。


 姉を乗せた列車。


 今度は婚約者を乗せた列車。


 大切な人が、また長崎から遠ざかっていく。


「龍弥さーん!」


 姿が小さくなる。


 窓。


 手。


 顔。


 やがて、列車はホームの先へ消えた。


 恵は立ち止まった。


 息を切らし。


 涙を流しながら。


「帰ってきてよ……」


 十六 空いた席


 その夜。


 大村家の食卓。


 勝一。


 節子。


 恵。


 幸が座っていた席は、広島へ行ってから空いたまま。


 そして、龍弥が訪ねてきたときによく座っていた場所も空いている。


 恵は、二つの空席を見つめた。


「静かやね」


 節子が言う。


「うん」


「幸がおったら、何か言いよるね」


「御飯少なかって文句言う」


 勝一が少し笑う。


「龍弥君なら、幸を止める」


「止めきれんやろ」


 三人は小さく笑った。


 だが、すぐに静かになる。


 恵は箸を置いた。


「戦争って」


「うん」


「命ば奪う前から、家族の席ば空けていくね」


 節子は娘の手を握った。


 十七 最初の手紙


 数日後。


 龍弥から最初の手紙が届いた。


『恵さんへ。


 無事に着きました。


 詳しい場所や仕事は書けません。


 宿舎は狭く、何人かで暮らしています。


 食事は少ないですが、食べられています。


 伊藤さんから借りた道具も無事です。


 清一君からもらった便箋で書いています。


 こちらでも、急げ、もっと作れと言われています。


 でも、溶接不良は見逃しません。


 恵さんと約束したけん。


 毎日帰ることはできませんが、必ず長崎へ帰ります。


 帰ったら、結婚しましょう。


 龍弥』


 恵は何度も読み返した。


 最後の一文へ指を置く。


「帰ったら、結婚しましょう」


 声に出して読む。


 節子が隣で微笑んだ。


「よかったね」


「うん」


「返事書かんば」


「うん」


 恵は便箋を広げた。


『龍弥さんへ。


 無事に着いてよかったです。


 御飯が少なかなら、ちゃんとゆっくり食べて。


 大丈夫って無理したら、手紙でも分かるけんね。


 帰ってきたら、本当に結婚するよ。


 約束やけん。


 恵』


 十八 広島の幸


 広島でも、幸は龍弥の手紙の内容を知らされた。


 恵から届いた手紙には、少し明るさが戻っていた。


「帰ったら結婚するって」


 幸が勝男へ言う。


「よかったです」


「龍弥さん、絶対帰らんばね」


「はい」


「四人で汽車に乗る約束もある」


「はい」


 幸は窓辺の木製機関車を手に取る。


「これ作った人が帰ってこんかったら、困る」


 勝男が言う。


「俺の機関車ですけど」


「まだ言うと?」


「夫婦の共有財産でしたね」


「分かればよろしい」


 二人は少し笑った。


 だが、広島の空では警戒警報が鳴る日が増えていた。


 呉。


 大阪。


 神戸。


 東京。


 各地の空襲。


 戦争の火は、日本の都市へ広がっている。


 勝男は窓の外を見る。


「長崎も、安全ではなかです」


 幸の表情が曇る。


「恵たち、大丈夫かな」


「龍弥さんは佐世保方面」


「皆、離ればなれ」


 幸は木製機関車を両手で包んだ。


「戦争が終わったら、全部元に戻るとかな」


 勝男は答えられなかった。


 十九 引き離されても


 幸と勝男は広島。


 恵は長崎。


 龍弥は佐世保方面。


 大村家。


 平戸家。


 篠田家。


 原田。


 伊藤。


 山崎。


 清一。


 同じ町で出会い、同じ喫茶店で笑った人々は、戦争によって別々の場所へ引き離された。


 それでも。


 手紙を書く。


 返事を待つ。


 無事を祈る。


 帰る場所を守る。


 それぞれにできることを続けた。


 恵は毎晩、龍弥の手紙を枕元へ置いた。


 幸からの手紙も、その隣へ置く。


 姉。


 婚約者。


 二人とも近くにはいない。


 けれど、言葉は残っている。


「離れとっても」


 恵は、二通の手紙へ語りかけた。


「うちは待っとるけんね」


 窓の外から汽笛が聞こえる。


 長崎駅を出る列車。


 佐世保へ向かう列車かもしれない。


 広島へつながる列車かもしれない。


 恵は目を閉じた。


 いつか、この汽車が大切な人たちを長崎へ連れ戻してくれる。


 そう信じていた。


 次回予告


 佐世保方面の軍需施設へ移された龍弥。


 劣悪な宿舎。


 不足する食料。


 長時間の溶接作業。


 空襲への警戒。


 それでも龍弥は、恵との約束を胸に、検査の手を緩めない。


 長崎に残った恵は、軍服を縫いながら龍弥と幸から届く手紙を待ち続ける。


 一方、広島では。


 呉空襲から帰還した勝男が、再び瀬野八の補機運用へ戻る。


 だが昭和二十年になると、兵士や軍需物資だけでなく、都市から避難する子どもたちを乗せた列車も増え始めていた。


 親元を離れ、不安そうに汽車へ乗る子どもたち。


 勝男は、幼い乗客を安全な場所へ運ぶ任務に強い責任を感じる。


 そして幸も、鉄道官舎で出会った少女・千代から尋ねられる。


「戦争が終わったら、お父ちゃんとお母ちゃんと、また一緒に暮らせるん?」


 次回、第34話。


「疎開列車」


 子どもたちを守るために、家族から引き離す。


 それは本当に、守ることなのか。


 汽車は今度、小さな乗客たちの涙を乗せて走り出す。

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