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幸と恵の物語  作者: リンダ


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32/63

帰らない兄

『幸と恵のものがたり』


第32話 帰らない兄


昭和十八年、夏。


長崎の造船所では、昼も夜も金属音が鳴り続けていた。


鋼板を打つ音。


溶接の火花。


足場を歩く靴音。


建造途中の軍艦を急げとせき立てる号令。


その音の中で、川瀬清一は何度も造船所の門を振り返っていた。


兄からの手紙は、もう四か月届いていなかった。


最初の一か月は、部隊の移動だと思った。


二か月目には、輸送が遅れているのだと家族で言い聞かせた。


三か月目には、母親が毎朝、郵便受けを確かめるようになった。


そして四か月目。


川瀬家を訪ねてきたのは、郵便配達員ではなかった。


役所の男だった。


手には、一通の封筒が握られていた。


一 封を切れない弟


その日の夕方。


龍弥は、作業を終えて休憩所へ入った。


川瀬清一が、長椅子の端へ座っていた。


作業着のまま。


膝の上には、開かれていない封筒が置かれている。


「清一君」


返事がない。


「どうしたと?」


清一は、ゆっくり顔を上げた。


目が赤かった。


「家に、役所の人が来ました」


龍弥の胸が沈んだ。


「兄さんの?」


清一がうなずく。


封筒の表には、兄の名前が書かれていた。


川瀬正雄。


二十二歳。


召集され、南方へ送られた兄。


出征の日には、


「すぐ帰ってくる」


と笑っていた。


清一へは、


「母さんば頼むぞ」


と言った。


母親には、


「戦争が終わったら、家の屋根ば直す」


と約束した。


その兄についての知らせが、今、薄い封筒の中に入っている。


「開けんとですか」


龍弥が静かに尋ねた。


清一は封筒を握った。


「開けたら」


声が震える。


「本当になる気がするとです」


「何が」


「兄が帰ってこんことが」


龍弥は隣へ座った。


「まだ、中に何が書かれとるか分からん」


「役所の人の顔で分かりました」


清一は俯いた。


「母さんも、封筒ば見た途端に座り込んだ」


「うん」


「父さんは、俺に開けろって」


「うん」


「でも、開けられん」


清一は両手で封筒を持った。


「兄ちゃんが、この紙の中で死んどるかもしれん」


龍弥は、何も言えなかった。


励ます言葉。


生きているかもしれないという希望。


どれも、今の清一へ軽々しく渡してよいものではなかった。


「一人で開けんでもよか」


龍弥は言った。


「家族と一緒に開けたらよか」


「母さん、見たくないって」


「見たくなかよ」


「でも、知らんままにもできん」


龍弥は清一の肩へ手を置こうとした。


途中で止める。


急に触れられることを嫌がる者もいる。


松尾敬一との出会い以来、龍弥はそのことを覚えていた。


「俺も一緒に行こうか」


清一が顔を上げる。


「よかとですか」


「伊藤さんに話す」


「でも、仕事が」


「人の兄さんの命より、今日の溶接一本が大事とは思わん」


二 伊藤の判断


龍弥は、伊藤勝へ事情を話した。


伊藤は作業表を見た。


次に、清一の顔を見た。


「今日は帰れ」


清一が驚く。


「でも、まだ作業が」


「その顔で足場へ上がらせられるか」


「大丈夫です」


伊藤の眉が動く。


「その言葉ば使うな」


清一は口を閉じた。


伊藤は龍弥へ言う。


「篠田、一緒に行け」


「はい」


班長が近づいてくる。


「二人も抜けたら、工程が遅れるぞ」


伊藤は振り返った。


「清一の兄さんの公報が来た」


班長の顔が少し変わる。


それでも言う。


「戦時中だ。どこの家にもあることだろう」


伊藤の目が鋭くなった。


「どこの家にもあることなら、悲しむ時間まで奪ってよかとですか」


「そういう意味では」


「今日は帰します」


「上へ何と報告する」


「俺が止めたと書いてください」


伊藤は退かなかった。


「人間ば働かせとるんです。機械の部品を外す話やなか」


三 川瀬家の公報


川瀬家。


小さな居間。


父親。


母親。


清一。


龍弥。


四人が、封筒を囲んで座っていた。


母親は、兄・正雄の写真を胸へ抱いている。


学生服姿の写真。


まだ召集される前。


少し照れたように笑う青年。


父親が言った。


「清一」


「うん」


「開けよう」


清一の手は震えていた。


糊づけされた封を、少しずつ剥がす。


紙を取り出す。


折り目を開く。


文字が並んでいる。


部隊名。


日付。


戦闘。


そして。


「消息不明」


清一が、かすれた声で読んだ。


母親が顔を上げる。


「戦死ではなかと?」


清一は紙を見つめる。


「消息不明」


「なら、生きとるかもしれん」


母親が言った。


誰よりも早く。


誰よりも強く。


「捕虜になっとるかもしれん」


父親も言う。


「負傷して、別の部隊におるかもしれん」


清一は公報を握った。


戦死とは書かれていない。


だが、生存とも書かれていない。


どこにいるのか。


いつから分からないのか。


誰と一緒だったのか。


何も書かれていない。


「消息不明って、何ね」


母親の声が震え始めた。


「分からんってことやろ」


父親が答える。


「国が連れていったとやろ」


誰も答えない。


「国が連れていって、どこにおるか分からんって、何ね!」


母親は写真を抱きしめた。


「うちの息子やろ!」


声が崩れる。


「鉄砲でも、荷物でもなか!」


龍弥は俯いた。


何もできない。


ただ、そこにいることしかできなかった。


四 待ち続ける家族


それからも、川瀬家は正雄を待った。


戦死ではない。


だから葬儀はしない。


位牌も作らない。


毎日の食卓には、正雄の茶碗が置かれた。


母親は、少しだけ飯をよそう。


「帰ってきたら、腹減っとるけん」


父親は止めなかった。


清一も止められなかった。


造船所へ戻った清一は、以前より黙るようになった。


金属音が鳴る。


火花が散る。


兄も、どこかで同じ空を見ているかもしれない。


そう思いながら働いた。


ある日の休憩時間。


清一が龍弥へ尋ねた。


「消息不明のまま、帰ってきた人っておるとですか」


「おると思う」


「本当に?」


「戦場が混乱して、別の部隊へ移った人もおるやろ」


「兄ちゃんも?」


龍弥は、確実ではないことを確実とは言えなかった。


「そうであってほしい」


清一は目を伏せた。


「また、それですね」


「うん」


「生きとってほしい」


「うん」


二人は、建造中の軍艦を見上げた。


その船も。


正雄のいる戦地へ向かうかもしれない。


五 昭和十九年


季節は巡った。


昭和十九年。


戦局は、さらに悪化していた。


新聞には勇ましい言葉が並ぶ。


だが、町の人々は現実から気づいていた。


配給は減る。


空襲警報は増える。


船は足りない。


飛行機も足りない。


油も足りない。


鉄も足りない。


人も足りない。


それでも、もっと作れ。


もっと運べ。


もっと働け。


命令だけは増えていった。


広島機関区で働く勝男は、瀬野八の補機運用に慣れ始めていた。


D51の火床。


蒸気圧。


先頭機関車との呼吸。


急勾配。


切り離し。


藤原重治の厳しい指導を受けながら、少しずつ自分の体へ覚え込ませていった。


「平戸」


「はい」


「前より火はようなった」


「ありがとうございます」


「じゃが、褒めたら終わりじゃ思うなよ」


「思いません」


「返事はええ」


藤原は火室をのぞく。


「戦争が悪うなるほど、機関車へ回ってくる石炭も油も悪うなる」


「はい」


「腕が上がっても、条件は下がる」


「はい」


「昨日と同じやり方で、今日も走れると思うな」


勝男は深くうなずいた。


「分かりました」


六 幸の広島暮らし


幸も、広島の暮らしへ少しずつなじんでいた。


共同井戸。


配給所。


鉄道官舎。


路面電車。


川の多い町。


近所の三宅澄江とも、よく話すようになった。


澄江の娘・千代は、幸を見ると駆け寄ってくる。


「幸お姉ちゃん、歌って」


「うちの歌、聞いたことあると?」


「お母ちゃんが、長崎から来た面白い人じゃ言いよった」


澄江が慌てる。


「面白いとは言うたけど、音痴とは言うとらんよ」


幸は澄江を見る。


「今、自分から音痴って言いましたよね」


「言うとらん、言うとらん」


千代が言う。


「歌って」


幸が歌い始める。


最初の音から、わずかに外れる。


千代が笑う。


「ほんまじゃ!」


「何がほんまね!」


官舎に笑いが広がった。


それでも夜になれば、幸は汽笛を待った。


勝男が帰る音。


戸の開く音。


「ただいま」


その声を聞くまで、胸の奥の緊張は消えなかった。


七 呉線への乗務


昭和二十年、春。


ある日。


勝男へ、新たな乗務が命じられた。


呉線。


広島方面から呉、広方面へ向かう軍需貨物列車。


積み荷は、大量の燃料だった。


ドラム缶。


油槽車。


軍港と海軍施設へ送る燃料。


一度に大量の燃料を運ぶ危険な列車。


勝男は運行表を見た。


「これだけの燃料を?」


藤原が答える。


「呉へ急いで送れいう命令じゃ」


「空襲が増えとるのに」


「ああ」


呉は軍港を抱える町。


艦艇。


海軍施設。


工場。


敵軍から見れば、大きな攻撃目標だった。


「もし、この列車が爆撃を受けたら」


勝男は言葉を切った。


藤原が続きを口にする。


「列車だけじゃ済まん」


燃料へ火がつけば。


爆発。


火災。


周囲の住宅。


駅。


線路。


乗務員。


近くにいるすべての人を巻き込む。


「じゃけえ、何かあったら迷うな」


藤原は勝男を見る。


「人家から離せ」


「はい」


「駅へ入れるな」


「はい」


「トンネルが使えるなら、そこへ逃がせ」


「はい」


「燃料を運ぶいうことは、火を抱えて走るいうことじゃ」


八 出発前の幸


乗務の朝。


幸は、いつもより口数が少なかった。


勝男へ握り飯を渡す。


「今日は呉線?」


「はい」


「燃料ば運ぶと?」


「はい」


「危なかね」


勝男は嘘をつかなかった。


「危なかです」


幸の手が止まる。


「空襲警報が鳴ったら?」


「決められた場所へ退避します」


「列車は?」


「安全な場所へ移します」


「勝男さんは?」


「列車から離れられんこともあります」


幸の顔が曇った。


「また仕事が先ね」


「燃料列車ば駅へ置いたまま逃げたら、町の人が危険になります」


「分かっとる」


幸は勝男の襟を整えた。


「でも、勝男さんも人たい」


「はい」


「燃料でも、機関車でもなか」


「はい」


「必ず帰ってきて」


勝男は幸の手を握った。


「帰ります」


「絶対?」


「約束します」


九 呉線を東へ


軍需貨物列車は、広島方面を発った。


海沿いを進む呉線。


坂。


海。


集落。


トンネル。


軍港へ向かう線路。


先頭の蒸気機関車には、藤原と勝男が乗っていた。


後方には、燃料を積んだ油槽車や貨車が長く連なっている。


藤原が前方を見る。


「速度を上げすぎるな」


「はい」


「急ぐ列車ほど、止まる余裕を残しとかにゃいけん」


「はい」


勝男は火室を見る。


質の悪い石炭。


火床を整える。


蒸気圧を保つ。


燃料列車は、通常の貨物以上に慎重な扱いを求められる。


強い衝撃。


急な制動。


脱線。


どれも許されない。


列車は海を見ながら進んだ。


穏やかな海。


その上空が、いつ敵機の飛来する空へ変わるか分からない。


十 空襲警報


呉が近づいた頃だった。


遠くから警報音が聞こえた。


最初は風に混じったような音。


次第にはっきりする。


空襲警報。


藤原の表情が変わった。


「来たぞ」


勝男が空を見る。


高い空。


黒い点。


敵機。


数はまだ判別できない。


しかし確実に、呉方面へ近づいている。


駅から、停止や退避に関する合図が出る。


「このまま呉駅へ入れたら危なかです!」


勝男が叫ぶ。


「ああ!」


呉駅周辺には人がいる。


建物もある。


軍需施設も集中している。


燃料列車をそこへ入れるわけにはいかない。


藤原は前方の線路を見た。


「次のトンネルまで行く!」


「はい!」


「速度は上げすぎるな! 燃料が暴れたら終わりじゃ!」


「はい!」


十一 空からの攻撃


敵機の音が近づく。


高射砲の音。


遠くで爆発。


地面が震える。


海の方角から黒い煙が上がった。


勝男は火室へ石炭を入れ続ける。


「圧力、保っとります!」


「トンネルまで持たせえ!」


前方。


山腹へ口を開けるトンネル。


そこへ入れば、少なくとも上空から直接狙われにくくなる。


だが、長い編成すべてを中へ入れなければ意味がない。


機関車だけ入って、燃料車が外へ残れば危険は変わらない。


「列車の長さ、入りますか!」


勝男が尋ねる。


「ぎりぎりじゃ!」


「後部が残ったら」


「その時は、さらに奥へ進む!」


爆発音。


今度は近い。


機関車の窓が震えた。


「伏せろ!」


藤原が叫ぶ。


勝男は一瞬身を低くする。


だが、すぐに火室へ向き直る。


今、火を失えば、トンネルへ届かない。


十二 決死の進入


トンネルが迫る。


機関車が暗闇へ入る。


音が一気に反響する。


排気音。


車輪。


連結器。


長い貨物列車が、次々とトンネルへ吸い込まれていく。


藤原は速度を落とす。


「急に止めるな!」


「はい!」


燃料を積んだ貨車へ大きな衝撃を与えない。


少しずつ。


少しずつ制動する。


先頭機関車は奥へ進む。


後部の貨車が、まだ外に残っている。


車掌から合図。


まだ。


さらに進む。


トンネル内には煙がたまり始めた。


蒸気機関車の煙。


視界が悪くなる。


呼吸も苦しい。


「まだ全部入っとらん!」


藤原が叫ぶ。


「進め!」


勝男は火を保つ。


あと少し。


貨車一両。


二両。


最後尾。


やがて車掌から、全編成がトンネルへ入ったという合図が届いた。


「全車、入りました!」


「止めるぞ!」


藤原が慎重にブレーキを扱う。


長い燃料列車は、暗いトンネルの中でゆっくり停止した。


十三 暗闇の燃料列車


機関車の火を必要最低限へ抑える。


煙を増やさない。


外へ目立つ蒸気を出さない。


乗務員たちは、トンネル内で息を潜めた。


外では爆撃が続いている。


爆発音が、山を通じて響く。


トンネルの壁から、小さな土や砂が落ちる。


勝男は計器を見る。


水位。


圧力。


火室。


機関車を完全に冷やすことはできない。


再び動かす必要がある。


だが火を強くすれば、煙と熱が増す。


「藤原さん」


「何じゃ」


「もし、トンネルの入口が崩れたら」


「今は考えるな」


「でも」


「考えることは、列車を安全に保つことじゃ」


藤原は外の音へ耳を澄ませた。


「爆撃が止むまで、ここで待つ」


「はい」


「燃料へ火を移すな」


「はい」


「煙で人を倒すな」


「はい」


「生きて出るぞ」


藤原の声は低かった。


「はい」


勝男は幸の顔を思い浮かべた。


官舎。


小さな食卓。


冷めた飯。


「お帰りなさい」


あの声を、もう一度聞かなければならない。


十四 幸の見た煙


広島の官舎。


遠くの空が、いつもと違って見えた。


呉の方角。


黒い煙。


空襲警報。


近所の人々は、防空壕へ入っている。


幸も澄江や千代と一緒に避難していた。


「呉がやられよるらしい」


誰かが言った。


幸の顔が青ざめる。


「勝男さん、今日、呉線です」


澄江が幸の手を握る。


「トンネルへ逃げとるかもしれん」


「燃料ば運びよるとです」


「幸さん」


「もし、爆弾が列車に当たったら」


その先を言えない。


澄江は簡単に大丈夫とは言わなかった。


ただ、幸の手を強く握った。


「帰ってくるまで、一緒に待とう」


幸の目から涙がこぼれた。


「うち、待つしかできん」


「待つんも、しんどい仕事じゃ」


暗い防空壕。


幸は両手を握りしめた。


「勝男さん」


何度も名前を呼んだ。


十五 長崎へ届いた知らせ


呉空襲の知らせは、鉄道関係者の間を通じて長崎にも届いた。


長崎機関区。


区長・山崎信吾の机へ、広島方面の運行障害について報告が入る。


呉線。


空襲。


軍需列車。


運行停止。


燃料列車が、トンネルへ退避した可能性。


乗務員の詳細は、まだ不明。


山崎の顔が変わった。


「広島から転属した平戸が乗っとる可能性は」


職員が帳面を確認する。


「あります」


「原田を呼べ」


十六 原田の沈黙


原田正勝は、区長室へ入った。


山崎から報告を聞く。


最初は何も言わなかった。


「呉線の燃料列車」


山崎が続ける。


「乗務員名簿の確認が取れとらん」


原田は机の端へ手をついた。


「勝男かもしれんとですか」


「ああ」


「燃料列車?」


「ああ」


原田の脳裏へ、若い勝男の姿が浮かぶ。


初めてトルクレンチを持った日。


火室の前で汗を流した日。


水位計の異常を見つけた夜。


軍の命令より安全を優先した判断。


結婚式。


広島へ送り出したホーム。


「家へ帰れ」


そう書いた手紙。


自分の息子のように可愛がってきた青年。


「何で、燃料列車ば空襲の中へ走らせるとですか」


原田の声が震えた。


山崎は答えられない。


「呉へ送る命令だ」


「列車も爆撃の標的になる」


「ああ」


「鉄道員は兵士やなか」


原田が拳を握る。


「でも、線路の上で戦場へ放り込まれとるやないですか」


山崎も机の上の報告書を見つめた。


「列車はもう、安全な後方ば走るものではなくなった」


軍需品を運ぶ列車。


兵士を運ぶ列車。


燃料を運ぶ列車。


鉄道そのものが、攻撃対象になっている。


「勝男は」


原田が言う。


「危険なら止める男です」


「ああ」


「必ず、列車ばどこかへ逃がしとる」


「そう信じよう」


原田は区長を見る。


「大丈夫とは言わんでください」


山崎は黙った。


「勝男が帰ったという知らせが来るまで、大丈夫やなか」


十七 恵へ伝わる


その夜。


原田は大村家を訪れた。


勝一。


節子。


恵。


三人が、原田の顔を見た瞬間に異変を察した。


「勝男さんに何かあったと?」


恵が尋ねる。


原田は、分かっていることだけを話した。


呉への燃料列車。


空襲。


列車が途中で停止していること。


トンネルへ退避したという情報。


乗務員の安否は確認中。


節子が口元を押さえる。


勝一は立ったまま動けない。


恵は原田を見る。


「幸姉ちゃんは?」


「広島の官舎におる」


「一人で待っとると?」


「ああ」


恵の目から涙があふれた。


「お姉ちゃん、待つの苦手やけん」


誰も笑えなかった。


「勝男さん、帰ってきますよね」


原田は答えに詰まった。


いつもなら、必ず帰れと言う。


だが今は、自分がその言葉を保証できない。


「帰ってきてほしい」


原田は、そう答えた。


恵は俯いた。


「神様」


小さく呟く。


「幸姉ちゃんから、勝男さんまで取らんで」


十八 トンネルの中の時間


燃料列車は、トンネル内で停止し続けていた。


外の爆発音は、少しずつ遠のいている。


だが、警報はまだ解除されない。


煙。


熱。


暗闇。


乗務員たちは交代で外の様子を確認しようとしたが、入口へ近づくのも危険だった。


藤原が計器を見る。


「圧力を落としすぎるな」


「はい」


「警報解除になったら、すぐ動けるようにしとけ」


勝男は火床を慎重に整える。


火を殺さない。


だが煙を出しすぎない。


その細い境目を守る。


「藤原さん」


「何じゃ」


「幸が待っとります」


藤原は勝男を見る。


「知っとる」


「絶対、帰らんば」


「帰るんじゃ」


藤原は言い切った。


「お前一人じゃない」


「はい」


「この列車の乗務員も」


「はい」


「沿線の人間も」


「はい」


「燃料へ火をつけずに、全員で帰る」


藤原は暗いトンネルの先を見る。


「それが、わしらの仕事じゃ」


十九 警報解除


長い時間のあと。


外から、警報解除の知らせが届いた。


しかし、すぐには動かない。


トンネル出口の状態。


線路。


落石。


爆撃による損傷。


すべてを確認しなければならない。


保線員が先へ出る。


時間がかかる。


勝男は何度も時計を見る。


幸は今、どんな顔をしているだろう。


泣いているか。


怒っているか。


「帰ってきたら、遅くなるなら汽笛で知らせろって、また言われるじゃろうの」


藤原が言った。


勝男が驚く。


「何で知っとるとですか」


「お前、前に話しよったじゃろ」


「覚えとったんですか」


「似たような話を何度もするけえ、嫌でも覚える」


勝男は、少しだけ笑った。


やがて、線路の安全が確認された。


燃料列車は、慎重に動き始めた。


トンネルから出る。


空には、まだ黒い煙が残っている。


遠くの呉。


燃える施設。


崩れた建物。


空襲の跡。


列車は速度を抑えながら進んだ。


二十 帰宅


その日の深夜。


官舎の戸が開いた。


「ただいま」


幸は、部屋の奥から走ってきた。


「勝男さん!」


勝男の胸へ飛び込む。


強く。


離さない。


「生きとる?」


「はい」


「怪我は?」


「ありません」


「列車は?」


「トンネルへ入れました」


「燃料は?」


「爆発してません」


「本当に?」


「はい」


幸は勝男の作業着をつかんだ。


「怖かった」


「すみません」


「謝らんで」


「でも」


「帰ってきたけん、よか」


声が崩れる。


「帰ってこんかったら、絶対許さんかった」


勝男は幸を抱きしめた。


「帰ってきました」


「うん」


「約束どおり」


「うん」


外から、澄江の声がした。


「幸さん、帰ってきんさったん?」


幸は泣きながら答える。


「帰ってきました!」


澄江も息を吐いた。


「ほうね。ほんまによかった」


官舎の暗い夜。


小さな安堵が広がった。


二十一 長崎への電報


翌日。


広島機関区から長崎機関区へ、乗務員の無事が伝えられた。


山崎は報告書を確認すると、すぐに原田を呼んだ。


「平戸は無事だ」


原田は動かなかった。


「本当ですか」


「ああ」


「怪我は」


「ない」


「列車は」


「トンネル内へ全編成を退避。燃料への引火なし」


原田は、大きく息を吐いた。


椅子へ座る。


「よかった」


それだけ言った。


山崎は、原田の顔を見る。


「自分の息子みたいなもんか」


原田は少し黙った。


「指導員は」


声が低くなる。


「育てた若いのが、どこへ行っても気になるもんです」


「そうか」


「手紙に、必ず家へ帰れって書きました」


「ああ」


「守ったんですね」


原田は、目元を手で拭った。


すぐに立ち上がる。


「大村家へ知らせてきます」


二十二 恵の涙


大村家。


原田から勝男の無事を聞いた恵は、その場へ座り込んだ。


「よかった」


何度も繰り返す。


「よかった……」


節子も泣いた。


勝一は目を閉じた。


恵は、すぐに手紙を書いた。


『幸姉ちゃんへ。


勝男さんが無事って聞きました。


本当によかった。


お姉ちゃん、きっと泣いたやろ。


うちも泣きました。


勝男さんに、もう危ない列車へ乗らんでって言いたかけど、仕事やけん無理やね。


でも、必ず帰ってきてって、うちからも言うとって。


お姉ちゃんも、必ず生きて帰ってきてね。


二人で長崎へ帰ってきて。


うちら、まだ一緒に汽車で旅しとらんけん。』


恵は最後の一文を見つめた。


いつか。


戦争が終わったら。


幸と勝男。


恵と龍弥。


四人で汽車へ乗る。


長崎を出て。


遠くの町へ行く。


そんな未来を、まだ信じていた。


二十三 列車も戦場になる


呉への燃料列車は、爆撃を免れた。


勝男も藤原も無事だった。


大惨事は起きなかった。


だが、山崎と原田の中には、新たな危機感が残った。


鉄道は、兵士や軍需物資を運ぶだけではない。


鉄道そのものが、攻撃される。


線路。


駅。


橋。


機関区。


列車。


乗務員。


乗客。


すべてが空から狙われる可能性がある。


山崎は会議で言った。


「これからは、運行の安全だけ考えればよい時代ではない」


職員たちは黙って聞く。


「空襲時に、どこへ列車を逃がすか」


「燃料や弾薬を積んだ列車を、どの駅へ入れてはいけないか」


「旅客列車の乗客を、どこへ避難させるか」


「機関車を、どう分散するか」


鉄道員は、列車を走らせるだけでなく。


爆撃から人と列車を守る判断まで求められるようになっていた。


「軍は、運べと言う」


山崎の声には怒りが混じる。


「だが、空から狙われたとき、現場を守るのは俺たちしかおらん」


原田がうなずく。


「なら、俺たちの判断で止めます」


「ああ」


「トンネルへ逃がします」


「ああ」


「命令より、命ば優先します」


山崎は、はっきり答えた。


「それでよか」


二十四 返らない兄


川瀬正雄は、まだ帰ってこなかった。


消息不明のまま。


手紙もない。


新しい知らせもない。


川瀬家の食卓には、今も正雄の茶碗が置かれていた。


清一は仕事から帰ると、その茶碗を見る。


「兄ちゃん」


小さく呼ぶ。


返事はない。


「今日は、呉が空襲に遭うたって」


母親が顔を上げる。


「正雄のおるところも、爆撃されよるとかな」


「分からん」


「寒くなかかな」


「分からん」


「腹減っとらんかな」


「分からん」


分からないことばかりだった。


それでも母親は、茶碗へ少し飯をよそう。


「帰ってくるけん」


清一は止めなかった。


戦死と書かれていない限り。


姿を見るまでは。


家族は待ち続ける。


だが、清一の心のどこかでは分かり始めていた。


消息不明という言葉は、希望を残す言葉ではない。


家族へ、終わりのない待ち時間を与える言葉なのだと。


二十五 幸と勝男の夜


空襲の翌夜。


幸と勝男は、官舎で並んで座っていた。


食卓には、少量の麦飯。


薄い味噌汁。


野菜の煮物。


「トンネルの中、怖かった?」


幸が尋ねる。


「はい」


勝男は正直に答えた。


「爆発音が聞こえて」


「うん」


「もし入口が崩れたらって思いました」


「うん」


「でも、列車ば外へ出すわけにはいかんかった」


「うん」


「燃料が爆発したら、町の人まで巻き込むけん」


幸は勝男の手を握った。


「勝男さん」


「はい」


「立派なこと言わんでよか」


「立派なつもりでは」


「怖かったって言って」


勝男は黙った。


やがて、手を握り返す。


「怖かったです」


「うん」


「死ぬかもしれんと思いました」


「うん」


「幸さんに、もう会えんかもしれんって」


幸の目から涙がこぼれた。


「うちも」


二人は、しばらく黙っていた。


「でも、帰ってきた」


幸が言う。


「はい」


「今日も、お帰りって言えた」


「はい」


「明日も言わせて」


勝男は、深くうなずいた。


「必ず」


窓の外。


遠くで汽笛が鳴った。


それは軍需列車かもしれない。


負傷兵を運ぶ列車かもしれない。


燃料を運ぶ列車かもしれない。


戦争のために走る汽車。


それでも幸にとっては。


愛する人が帰ってくる音だった。



次回予告


呉への燃料輸送中、空襲に遭遇した勝男と藤原。


二人は、爆発すれば沿線一帯を巻き込む燃料列車をトンネル内へ退避させ、大惨事を防いだ。


長崎で知らせを待っていた原田と山崎は、勝男の無事に安堵する。


しかし、列車や線路そのものが爆撃対象となる時代が始まっていた。


昭和二十年。


本土空襲は、さらに激しさを増していく。


広島でも防空訓練が繰り返され、鉄道官舎の住民たちは、夜ごと空を見上げるようになる。


一方、川瀬清一の兄・正雄は、消息不明のまま帰らない。


母親は、今も食卓へ息子の茶碗を置き続ける。


そして長崎の造船所へ、新たな命令が届く。


若い職人の一部を、別の軍需工場へ移す。


その名簿の中には、篠田龍弥の名前があった。


次回、第33話。


「離される二人」


戦争は、命を奪う前に、人を引き離す。


恵と龍弥にも、再び別れの時が迫っていた。

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