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幸と恵の物語  作者: リンダ


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31/61

瀬野八の急勾配

『幸と恵のものがたり』

 第31話 瀬野八の急勾配


 昭和十八年七月。


 広島へ移り住んでから、幸と勝男の暮らしは、まだ始まったばかりだった。


 小さな鉄道官舎。


 二組の布団。


 わずかな食器。


 長崎から持ってきた裁縫道具。


 窓辺に置かれた、龍弥手作りの木製機関車。


 箱の中へ大切にしまわれた、恵の縫った白い髪飾り。


 物は少ない。


 それでも、そこは幸と勝男が初めて夫婦として暮らす家だった。


 朝。


 まだ空が白み始める前に、勝男は目を覚ました。


 隣では、幸が薄い布団へくるまっている。


 起こさないように静かに体を起こしたつもりだったが、畳がわずかに鳴った。


「……勝男さん?」


 幸が目を開ける。


「起こしました?」


「ううん。今日は初めての訓練やろ」


 幸も起き上がった。


 勝男は顔を洗い、作業着へ着替える。


 その間に幸は、小さな握り飯を布へ包んだ。


「今日からD51に乗ると?」


「はい。まずは訓練乗務です」


「D51って、どがん機関車?」


 勝男の目が少し輝いた。


「大型の貨物用機関車です」


「うん」


「動輪が四つあって、重たい貨物列車ば引く力があります」


「足が四本?」


「動輪です」


「機関車の足やろ?」


「まあ、間違いではなかですけど」


 勝男は身振りを交えながら説明を続けた。


「勾配にも強くて、貨物用としては速度も出せます」


「力持ちで足も速かとね」


「はい」


 幸は少し考えたあと、真顔で言った。


「勝男さんより優秀やん」


「何で俺と比べるとですか」


「勝男さん、走るの遅そうやけん」


「機関助手に走力は要りません」


「列車に置いていかれたら?」


「乗る前に確認します」


 幸は吹き出した。


「やっぱり鉄道員の返しは真面目やね」


 勝男も苦笑しながら、包みを受け取った。


「今日は遅くなるかもしれません」


「何時ごろ?」


「訓練と列車の運行次第です」


「分からんと?」


「はい」


 幸の表情が少し曇った。


「その答え、一番嫌か」


「すみません」


「謝らんでよか」


 幸は勝男の襟を整えた。


「危なかったら止めて」


「はい」


「無理して大丈夫って言わんで」


「はい」


「必ず帰ってきて」


 勝男は幸の目を見つめた。


「帰ります」


 それが、二人の毎朝の約束になり始めていた。


 一 広島機関区


 広島機関区の構内には、朝から蒸気と煤煙が立ち込めていた。


 何両もの蒸気機関車。


 白い蒸気。


 黒い煙。


 鉄と油の匂い。


 工具の音。


 忙しく行き交う鉄道員たち。


 その中でも、勝男の目を引いたのは、一際大きな貨物用蒸気機関車だった。


 D51形。


 長いボイラー。


 力強い足回り。


 四対の動輪。


 煙室扉には、大きな番号板が取り付けられている。


 長崎で乗務してきた機関車とは、明らかに大きさも迫力も違っていた。


「でかいじゃろ」


 背後から声をかけられた。


 勝男が振り返る。


 そこに立っていたのは、がっしりした体格の中年機関士だった。


 日に焼けた顔。


 油の染みた作業着。


 鋭いが、どこか人をよく見ている目。


「平戸勝男です。長崎機関区から来ました。よろしくお願いします」


 勝男が深く頭を下げる。


 男は短くうなずいた。


「藤原重治じゃ。瀬野八の補機は長いこと乗っとる」


 四十一歳。


 広島機関区で、補機運用を長く担当してきた機関士だった。


「長崎じゃ、何に乗っとったんじゃ」


 勝男はこれまでの経験を話した。


 軍需貨物列車。


 急勾配。


 重連運転。


 質の悪い石炭。


 水位計の異常。


 異常を確認し、軍の係官に反対されながらも列車を止めたこと。


 藤原は黙って聞いていた。


「止める判断をしたことがあるんか」


「はい」


「ほうか」


 藤原はD51を見上げた。


「そりゃ、ええ経験をしとる」


 勝男は少し意外に思った。


 広島でも最初に評価されたのは、速く走らせたことではない。


 危険を察知し、止めたことだった。


「瀬野八じゃあ、押す力だけ覚えても駄目じゃ」


 藤原が言う。


「はい」


「押す時。緩める時。止める時。離れる時」


 藤原はD51の動輪へ手を向けた。


「こいつは力がある」


「はい」


「じゃが、力があるいうことは、扱いを間違えりゃあ、列車全体へ大きな無理をかけるいうことじゃ」


 勝男は機関車を見上げた。


 大きな力は、それだけでは安全を意味しない。


 扱う人間の判断が必要だった。


 二 瀬野八


 山陽本線。


 瀬野駅から八本松駅へ向かう区間。


 長く続く急勾配。


 後に「瀬野八」と呼ばれる、山陽本線最大の難所の一つだった。


 重量貨物列車は、先頭の機関車だけでは急勾配を上り切れないことがある。


 そのため、列車の最後尾へ補助機関車を連結する。


 先頭が引く。


 後ろが押す。


 二両の機関車が、長い貨物列車を挟むようにして勾配を上る。


「前の機関車が引き過ぎてもいけん」


 藤原が説明する。


「補機が押し過ぎてもいけん」


「連結器へ無理がかかるとですね」


「そうじゃ」


「押す力が弱かったら」


「列車の速度が落ちる」


「強過ぎたら」


「貨車同士が押し合う。編成全体におかしな力がかかる」


 藤原は勝男を見た。


「後ろからじゃ、先頭の機関車は見えん」


「音と速度で読むとですか」


「それだけじゃ足りん」


 藤原は指を折りながら続ける。


「汽笛。排気音。列車全体の伸び縮み。勾配の変わり方。それから線路の響き」


 最後に、藤原は自分の胸を軽く叩いた。


「体で覚えるんじゃ」


 勝男はうなずいた。


 原田から教わったことと、よく似ていた。


 計器だけを見るな。


 機関車の音を聞け。


 振動を感じろ。


 異変は、機械が先に教えてくれる。


 三 D51の火室


 勝男は、初めてD51の運転室へ上がった。


 火室は広い。


 火床も長い。


 石炭を投げ込む距離も、長崎で扱ってきた機関車とは違う。


「右奥へ入れてみい」


 藤原が言う。


「はい」


 勝男はショベルで石炭をすくい、火室へ投げ込んだ。


 藤原がすぐに言う。


「浅い」


「はい」


「もっと奥じゃ。手前へ落としたら火床が偏るじゃろ」


 もう一度。


 今度は少し強く投げる。


「中央へ寄り過ぎじゃ」


「すみません」


「謝る前に、次を見い」


 勝男は再びショベルを握った。


 火室の右。


 中央。


 左。


 どこが燃えているか。


 どこが薄いか。


 どこに空気を通すか。


「火を作るんじゃない」


 藤原が言う。


「火を整えるんじゃ」


 その言葉は、原田の教えにも通じていた。


 一度に入れ過ぎるな。


 燃える場所を見ろ。


 石炭の量だけでなく、空気の流れを読め。


 勝男は何度もショベルを振った。


 肩。


 腰。


 腕。


 大きな火室へ石炭を投げ込むたび、体力が削られる。


 訓練だけでも、作業着の背中は汗で濡れた。


「休むな」


 藤原が言う。


「はい」


「じゃが、力任せにもすんな」


「はい」


「瀬野八へ入ったら、途中で腕が上がらんようになっても、誰も代わっちゃくれんぞ」


 勝男は息を整えた。


「体に覚えさせえ」


 藤原は続ける。


「考える前に、手が動くようになるまでじゃ」


 四 共同井戸


 その頃、幸は鉄道官舎の共同井戸へ向かっていた。


 桶を持ち、近所の女性たちの列へ並ぶ。


 広島へ来たばかりの幸には、まだ分からないことばかりだった。


 配給所の場所。


 共同井戸の使い方。


 町内の防空壕。


 路面電車の停留所。


 どの店に何が入るのか。


 どこへ行けば少しでも野菜が手に入るのか。


 前に並んでいた女性が振り返った。


 三十代半ばほど。


 頭へ手拭いを巻き、幼い娘を連れている。


「平戸さんとこの奥さんじゃろ?」


「はい。幸です」


「長崎から来たんじゃって?」


「はい」


「遠かったじゃろう」


「丸一日近くかかりました」


 女性は笑った。


「わしゃ三宅澄江。隣の棟じゃ。主人も機関区で働いとる」


「よろしくお願いします」


「困ったことがありゃあ、遠慮せんと言いんさい」


 幸は頭を下げた。


「ありがとうございます」


 澄江は桶へ水をくみながら尋ねた。


「ご主人、瀬野八へ行くん?」


「今日から訓練です」


「ほうか」


 澄江の表情が少し真面目になる。


「瀬野八へ行く人は、帰りが遅うなることも多いけえね」


 幸の顔が曇った。


「やっぱり、危なか仕事ですか」


「危ないいうより、何が起きるか分からん仕事じゃ」


「慣れます?」


 澄江は少し考えた。


「待つことには慣れる」


「はい」


「じゃが、心配することには、いつまでたっても慣れんよ」


 幸の胸へ、その言葉が残った。


 五 帰る場所


 官舎へ戻った幸は、部屋を少しずつ整えた。


 小さな台所。


 二人分の食器。


 長崎から持ってきた裁縫道具。


 窓辺の木製機関車。


 幸は壁の一角を空けた。


「ここに、恵の手紙」


 まだ届いていない。


 それでも、届くと信じて場所を作った。


「こっちは、お父さんとお母さんの手紙」


 次に、勝男が仕事から帰ったときに座る場所を決める。


 小さな座布団を敷いた。


「ここね」


 幸は一人でつぶやく。


 勝男が帰ってくる。


「お帰りなさい」と言う。


 食事を出す。


 機関車の話を聞く。


 途中までは真面目に聞く。


 長過ぎたら少し眠る。


 そんな暮らしを、幸は作ろうとしていた。


「勝男さんが帰ってこん家じゃ、意味なかけんね」


 窓の外から、遠く汽笛が聞こえた。


 幸はその音へ耳を澄ませた。


 六 長崎に残った恵


 長崎。


 軍服縫製工場。


 恵は、軍服の袖を縫い続けていた。


 針。


 糸。


 布。


 機械の音。


 完成した軍服の山。


 同じ色。


 同じ形。


 同じ作業。


 それでも恵の頭の中にあるのは、広島へ行った姉のことだった。


 配給所は見つかっただろうか。


 共同井戸で困っていないか。


 近所の人とうまく話せているか。


 勝男はきちんと帰ってきているか。


 幸は、一人で泣いていないか。


 隣の作業台にいた美代が言った。


「また姉さんのこと考えよった?」


 恵が顔を上げる。


「分かります?」


「午前中だけで、ため息が三回」


「三回だけ?」


「午後はこれから数える」


 恵は少し笑った。


 美代が尋ねる。


「手紙、書いたん?」


「昨日書きました」


「何て?」


「広島で音痴ば広めんようにって」


 美代の口元が少し緩む。


「本当は?」


 恵の手が止まりかけた。


「寂しかって」


「書いた?」


「書けんかった」


「何で」


「お姉ちゃんが心配するけん」


 美代は軍服の布を見つめた。


 自分は、婚約者へ伝えられなかった言葉がたくさんあった。


「言えるうちに言うた方がよかよ」


 恵は、美代の横顔を見る。


 その言葉の重さを理解し、静かにうなずいた。


「はい」


 七 造船所の休憩時間


 造船所。


 龍弥は溶接作業を終え、短い休憩へ入っていた。


 額の汗を拭う。


 目の前には、建造途中の軍艦。


 巨大な鋼板。


 鉄骨。


 足場。


 響き続ける金属音。


 隣には、後輩の川瀬清一が座っていた。


 以前、疲労によって足場から転落しかけた青年。


 あの事故以来、伊藤は清一の作業時間へ特に目を配っていた。


「腕、大丈夫ですか」


 清一が尋ねる。


「もう動く」


 龍弥が答える。


「清一君は、眠れとる?」


「はい。大丈夫です」


 龍弥が眉を上げる。


「その言葉ば言う人は信用したらいかんって、前に言うたやろ」


 清一は苦笑した。


「本当に大丈夫です」


 二人は、わずかな水を少しずつ飲んだ。


 龍弥は建造中の軍艦を見上げる。


「この戦争」


「はい」


「いつまで続くと思う?」


 清一は黙った。


 龍弥は続ける。


「新聞では勝っとるって言いよる」


「はい」


「でも、船は足りん。鉄も足りん。人も足りん」


「はい」


「足りんものば、もっと作れって言われる」


 清一は声を落とした。


「負けるとですか」


 龍弥は周囲を確認した。


 軽々しく口へ出せる言葉ではない。


「分からん」


 それでも、正直に答えた。


「でも、勝っとる国の現場には見えん」


 清一も軍艦を見上げた。


「俺、召集されたくなかです」


「うん」


「兄が戦地におるとです」


 龍弥は清一を見る。


「手紙は?」


「三か月、来とらんです」


 沈黙が落ちた。


「生きとると思いますか」


 龍弥は、大丈夫だとは言えなかった。


「生きとってほしい」


 清一は目を伏せた。


「はい」


 八 藤原の教え


 広島機関区では、D51の訓練が続いていた。


 勝男は火室を見る。


 蒸気圧を見る。


 水位を見る。


 速度を見る。


 すべてを同時に追い続ける。


「左奥が弱い!」


 藤原の声が飛ぶ。


「はい!」


 勝男は石炭を投げ込む。


「浅い!」


 もう一度。


「今度は中央へ寄り過ぎじゃ!」


「はい!」


「返事ばっかり立派じゃのう!」


「すみません!」


 藤原は厳しい。


 だが、怒鳴るために怒鳴っているのではない。


 失敗が事故へつながる前に、体へ覚え込ませるためだった。


「平戸」


「はい」


「お前、焦ると右へ石炭を入れ過ぎる癖があるのう」


 勝男は驚いた。


「そうですか」


「自分で気づいとらんかったんか」


「はい」


「瀬野八の途中で火床が偏ったら、最後まで持たんぞ」


「直します」


「今日一日で直るもんじゃない」


 藤原は火室を見る。


「毎日直せ」


「はい」


「それから、計器ばっかり見んな」


「はい」


「機関車は、数字になる前から声を出しとる」


 原田の教えと同じだった。


 勝男は、改めて藤原の背中を見た。


 土地の言葉は違う。


 教え方も違う。


 だが、安全を守る鉄道員としての考えは同じだった。


 九 補機連結


 訓練列車が瀬野駅へ入った。


 長い貨物列車。


 その最後尾へ、勝男たちのD51がゆっくり近づく。


 速度を落とす。


 連結器の位置を合わせる。


 衝撃を抑える。


 連結。


 確認。


 合図。


 藤原が前方を見る。


「ここから、お前らは列車の尻を押すんじゃ」


「はい」


「先頭は見えん」


「はい」


「じゃが、同じ列車じゃ。勝手な動きはするな」


 前方から汽笛が鳴った。


 出発の合図。


 補機側も応える。


 貨物列車がゆっくり動き始める。


 貨車同士の連結器が、一両ずつ張っていく。


 ガタン。


 ガタン。


 ガタン。


 やがて最後尾へ、列車全体の重さが伝わった。


「押せ!」


 藤原が言う。


 D51の排気音が強くなった。


 勝男は火室へ石炭を投げ込んだ。


 十 急勾配


 瀬野駅を出ると、ほどなく勾配が始まった。


 貨物列車は重い。


 速度が少しずつ落ちていく。


 勝男は火床を見る。


 右奥。


 中央。


 左。


 大きな火室へ、石炭を均等に入れる。


「左奥!」


 藤原が叫ぶ。


 勝男は投げ込む。


「浅い!」


 もう一度。


 今度は奥まで届く。


「そうじゃ!」


 蒸気圧。


 水位。


 排気音。


 前方の汽笛。


 長い編成全体が、山へ抗うようにきしんでいた。


「押し過ぎるな!」


「はい!」


「先頭が速度を落としとる!」


 先頭機関車は見えない。


 だが、編成の振動が変わった。


 連結器へかかる力が少し縮む。


 勝男は判断した。


「押す力を少し緩めます!」


「やれ!」


 力を出せばよいわけではない。


 相手の力を感じる。


 合わせる。


 押す。


 支える。


 緩める。


 幸が聞けば、きっと夫婦の暮らしに似ていると言うだろう。


 十一 恵からの手紙


 広島の官舎。


 幸のもとへ、恵から最初の手紙が届いた。


 封筒を見つけた瞬間、幸は一人で声を上げた。


「来た!」


 すぐに封を開く。


 懐かしい恵の文字。


『幸姉ちゃんへ。


 広島の暮らしには慣れた?


 勝男さんは、ちゃんと帰ってきよる?


 お姉ちゃんは、御飯ば勝男さんより多く食べとらん?


 広島の人に音痴ば聞かせて迷惑かけとらん?


 こちらは皆元気です。


 お父さんもお母さんも、毎日お姉ちゃんの話ばしよる。


 龍弥さんも元気です。


 うちは工場で軍服ば縫いよります。


 本当は寂しか。


 でも、お姉ちゃんが勝男さんと一緒におれるなら、それでよかと思っとる。


 広島でも笑ってね。


 でも、無理して笑わんでもよか。


 泣きたいときは泣いてよか。


 手紙やったら、うちが全部聞くけん。


 恵』


 幸は途中から、文字が読めなくなった。


 涙で滲んでいた。


「寂しかって、書いとるやん」


 手紙を胸へ抱く。


「うちも寂しかよ」


 しばらく泣いたあと、幸は鼻をすすって笑った。


「でも、音痴は余計たい」


 十二 頂上へ


 瀬野八の勾配。


 貨物列車は少しずつ高度を上げていた。


 D51の排気音。


 貨車のきしみ。


 火室の熱。


 勝男の作業着は、汗で重くなっている。


 腕が痛い。


 腰も痛い。


 それでも、投炭を止めることはできない。


「圧力、維持しとります!」


「気ぃ抜くな!」


 藤原が答える。


 前方から汽笛。


 頂上が近い。


「切り離しの合図を聞き逃すなよ」


「はい!」


「早過ぎたら、列車が力を失う」


「はい!」


「遅れたら、補機が列車へ引っ張られる」


「はい!」


 補機の仕事は、押し上げて終わりではない。


 役目を果たし。


 安全に離れ。


 単機で戻る。


 そこまでが運用だった。


 十三 走行中の切り離し


 前方から、決められた汽笛が聞こえた。


 藤原の顔が変わる。


「準備せえ!」


「はい!」


 列車はまだ動いている。


 補機の力を少しずつ抜く。


 前方の貨物列車と速度を合わせる。


 連結器へかかる力を軽くする。


「まだじゃ」


 藤原が言う。


 勝男は緊張で肩へ力が入る。


「力むな。列車の動きを見い」


「はい」


 再び汽笛。


「今じゃ!」


 切り離し。


 前方の貨物列車が、ゆっくり離れていく。


 補機のD51は速度を落とした。


 勝男は、自分が息を止めていたことに気づく。


「離れました!」


 藤原は前方を確認する。


「よし」


 勝男は大きく息を吐いた。


 初めて。


 訓練とはいえ、自分の作った火で、D51は瀬野八の勾配を押し上げた。


 十四 藤原の評価


 D51は単機で瀬野方面へ戻っていく。


 勝男は運転室の壁へ、ほんの少し背中を預けた。


「まだ座るな」


 藤原が言う。


 勝男はすぐに姿勢を戻した。


「すみません」


「機関区へ帰って、点検が済むまでが仕事じゃ」


「はい」


 藤原は少し黙ったあと、前を向いたまま言った。


「初めてにしちゃあ、悪うなかった」


 勝男が顔を上げる。


「本当ですか」


「褒めたら気ぃ抜くんか」


「抜きません」


「なら、悪うなかった」


 勝男の顔が少し明るくなる。


 だが藤原は、すぐに続けた。


「右へ石炭を入れ過ぎる癖は直せ」


「はい」


「切り離し前に肩へ力が入り過ぎとった」


「はい」


「合図へ気を取られて、水位を見る間隔も少し空いた」


 勝男は表情を引き締めた。


「はい」


「一つできたからいうて、全部できた気になるな」


「分かりました」


「瀬野八は、毎回同じ顔をしちゃくれんけえの」


 勝男は深くうなずいた。


 十五 帰りを待つ幸


 夜。


 幸は官舎で、勝男の帰りを待っていた。


 夕食は、少量の麦飯。


 近所の澄江から分けてもらった野菜の煮物。


 薄い味噌汁。


 冷めないように火から下ろし。


 また温める。


「そろそろかな」


 遠くで汽笛が鳴る。


 幸は立ち上がる。


 だが、勝男の乗っている機関車かは分からない。


 外へ出る。


 灯火管制で、官舎の窓は暗い。


 隣の棟から澄江が出てきた。


「まだ帰っとらんのん?」


「はい」


「初めての日は、遅うなることもあるけえ」


「でも、予定の時間ば過ぎとるんです」


「訓練の後の点検かもしれんよ」


「そうですよね」


 澄江は幸の顔を見た。


「心配じゃろ」


「はい」


「待っとる方は、何もできんけえね」


 幸は小さくうなずいた。


「中へ入りんさい。冷えるよ」


「はい」


 幸は部屋へ戻った。


 だが、座っても落ち着かなかった。


 十六 汽笛が聞こえない


 さらに時間が過ぎた。


 夕食はすっかり冷めている。


 幸は窓辺へ座った。


 龍弥の木製機関車を見る。


「勝男さん」


 返事はない。


 遠くの汽笛も、しばらく聞こえない。


 もし、勾配で立ち往生したら。


 切り離しに失敗したら。


 質の悪い石炭で圧力が落ちたら。


 潤滑油が足りず、部品が焼きついたら。


 考え始めると、止まらなかった。


「大丈夫」


 幸は自分へ言う。


 すぐに首を横へ振る。


「その言葉、信用できんやつやった」


 大丈夫とは言わない。


 ただ待つ。


 帰ってくると信じる。


 灯火管制で明かりを外へ漏らすことはできない。


 幸は、黒い布の内側にある小さな灯りを見つめた。


 十七 長崎の食卓


 同じ頃。


 長崎の大村家。


 食卓には、勝一、節子、恵の三人が座っていた。


 幸の席だけが空いている。


 節子が言う。


「広島では、今頃何しよるかな」


「勝男さんの帰りば待ちよるかも」


 恵が答える。


「今日、初めて瀬野八へ行く日やったね」


 勝一がうなずいた。


「厳しい仕事だ」


 恵は味噌汁を見つめた。


「お姉ちゃん、心配しすぎとらんかな」


「しとるやろうね」


 節子が答える。


「勝男さん、早う帰ればよかとに」


「鉄道は、自分が帰りたい時間に帰れる仕事やなかけん」


 恵は、遠い広島の姉を思った。


「でも、お姉ちゃん、待つの苦手やけんね」


 十八 遅れの理由


 広島機関区。


 勝男は、D51の足回りを確認していた。


 訓練終了後。


 軸受の一部へ、通常より強い熱が見つかった。


 大きな故障ではない。


 だが、そのまま帰るわけにはいかなかった。


 藤原と整備員が、状態を調べる。


 潤滑油。


 摩耗。


 部品の状態。


「お前は、もう帰ってええ」


 藤原が言った。


「でも」


「ここからは整備の仕事じゃ」


「原因ば知りたいです」


「明日聞きゃあええ」


 勝男は軸受を見る。


「次に乗るときに、同じことが起きたら」


 藤原はため息をついた。


「お前、長崎の指導員から何を教わったんじゃ」


「安全を最優先に」


「ほかは」


 勝男は少し黙った。


「家へ帰れと」


「ほいじゃあ、守れ」


 藤原は勝男を見る。


「お前を待っとる奥さんがおるんじゃろうが」


「はい」


「鉄道員は、仕事を残して帰るな。じゃが、仕事が終わったら、さっさと家へ帰れ」


「分かりました」


 勝男は深く頭を下げた。


「失礼します」


 十九 ただいま


 夜遅く。


 官舎の外から、足音が聞こえた。


 幸は立ち上がる。


 戸の前で足音が止まった。


 鍵が開く。


「ただいま」


 勝男の声。


 幸は戸を開けた。


「勝男さん!」


 そのまま勝男へ抱きついた。


 勝男は驚きながらも、妻を受け止める。


「遅くなって、すみません」


「何があったと!」


「点検です」


「事故?」


「違います」


「怪我は?」


「ありません」


「本当に?」


 勝男は両腕を動かしてみせた。


「腕も足も動きます」


 幸は勝男の体を確かめる。


 煤。


 汗。


 疲れ。


 だが、大きな怪我はない。


「汽笛が聞こえんかった」


「単機で戻ったけん、時間がずれました」


「帰らんかと思った」


 幸の声が震える。


 勝男は、幸を抱きしめた。


「帰ってきました」


「うん」


「約束どおり」


「うん」


「毎日、帰ります」


 幸は勝男の胸へ顔を埋めた。


「遅くなるなら、汽笛で知らせて」


「機関車の汽笛で、個人的な連絡はできません」


「短く一回、長く二回」


「勝手な合図ば作らんでください」


 幸は泣きながら笑った。


 二十 冷めた食事


 二人は、遅い夕食を囲んだ。


 麦飯は固くなっていた。


 煮物も冷めている。


 幸が温め直そうとすると、勝男が止めた。


「このままでよかです」


「でも」


「早く一緒に食べたかです」


 幸は座った。


「初めてのD51、どうやった?」


 勝男の顔が明るくなる。


「大きかったです」


「足が四本?」


「動輪が四つです」


「同じやろ」


「違います」


 勝男は、瀬野八の話を始めた。


 大きな火室。


 火床の作り方。


 勾配。


 先頭機関車との呼吸。


 押す力。


 切り離し。


 幸は最初こそ真剣に聞いていた。


 だが、次第にまぶたが重くなる。


「眠かですか」


「話が長か」


「聞くって言ったでしょう」


「半分くらいって言うた」


「まだ半分も話しとりません」


「なら、続きは明日」


 勝男は困ったように笑った。


 それでも。


 幸が目の前にいる。


 自分は帰ってきた。


 二人で冷めた食事を食べている。


 それだけで十分だった。


 二十一 夫婦も補機


 寝る前。


 幸が尋ねた。


「補機って、ずっとつながっとるわけやなかとね」


「頂上近くで離れます」


「押して、支えて、最後は離れる」


「はい」


 幸は少し寂しそうな顔になる。


「夫婦とは違うね」


「どうして?」


「夫婦は離れたらいかんやろ」


 勝男は少し考えた。


「でも、夫婦もずっと押し続けるわけではなかでしょう」


「どういうこと?」


「幸さんが前へ進めるときは、俺が後ろから支える」


「うん」


「俺が苦しいときは、幸さんが支える」


「うん」


「一人で進めるときは、無理に押さん」


 幸は勝男を見る。


「勝男さんにしては、よかこと言うね」


「原田さんの手紙を読んだけんです」


「自分の言葉やなかと?」


「半分くらいは」


 二人は小さく笑った。


 二十二 離れた町で


 広島。


 幸は、勝男の帰りを待つ家を作る。


 勝男は、D51の火を整える。


 長崎。


 恵は、軍服を縫いながら姉を思う。


 龍弥は、軍艦の鋼板を溶接しながら、後輩の兄の無事を願う。


 二組の恋人と夫婦は、離れた町で戦争の仕事へ組み込まれていた。


 それでも。


 幸は夫の帰る場所を守る。


 恵は姉へ手紙を書く。


 勝男は危険なら列車を止める。


 龍弥は、後輩へ無理をさせない。


 国が人間を、兵員や工員や乗務員という数字で数える中で。


 彼らは、一人ひとりの名前を忘れまいとしていた。


 夜。


 広島の官舎。


 勝男は、疲れて眠っている。


 幸は隣で夫の寝顔を見つめた。


「ちゃんと帰ってきた」


 小さく呟く。


 同じ頃、長崎では恵が手紙を書いていた。


『幸姉ちゃんへ。


 寂しかときは、ちゃんと寂しかって書いて。


 うちも書くけん。


 離れとっても、うちら双子やけんね。』


 広島と長崎。


 二人の間には遠い距離がある。


 それでも、言葉と記憶でつながっていた。


 次回予告


 初めてD51で瀬野八の急勾配を押し上げた勝男。


 訓練は無事に終わったものの、火床の作り方、蒸気圧の維持、切り離しのタイミングなど、課題は多く残った。


 藤原は勝男へ告げる。


「瀬野八は、毎回同じ顔をしちゃくれん。昨日できたことが、今日もできると思うな」


 一方、幸は官舎で夫の帰りを待つ暮らしに慣れようとする。


 近所の三宅澄江は、そんな幸へ静かに語る。


「待つことには慣れても、心配することには慣れんよ」


 長崎では。


 恵が縫った軍服が、次々と戦地へ向けて出荷されていく。


 龍弥の後輩・川瀬清一の兄からは、依然として手紙が届かない。


 そしてある日。


 清一の家へ、一人の役人が訪れる。


 手にしているのは、一通の公報。


 戦死。


 それとも、消息不明。


 清一は、封筒を開けることができない。


 次回、第32話。


「返らない兄」


 手紙が届かない。


 それでも家族は、生きていると信じ続ける。


 だが国は、一枚の紙で、その希望へ名前をつけようとしていた。

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