戦時下の結婚式
『幸と恵のものがたり』
第30話 戦時下の結婚式
昭和十八年六月。
長崎の町には、梅雨の雨が降っていた。
石畳を濡らす細い雨。
低く垂れ込めた雲。
港から吹き上がる湿った風。
戦争が始まる前なら、雨の日には家の中で笑いながら過ごし、晴れ間が見えれば町へ出かけた。
だが今では、雨が降っても軍需列車は走る。
造船所の作業は続く。
軍服の縫製工場では、窓を閉めたまま機械が動く。
大村加工所にも、軍用車両の部品注文が積まれていた。
そんな時代の中で。
大村幸と平戸勝男は、夫婦になる日を迎えた。
一 白い髪飾り
結婚式の朝。
幸は、大村家の小さな鏡の前へ座っていた。
華やかな花嫁衣装はない。
新しい着物も用意できなかった。
母・節子が大切にしまっていた、淡い色の着物。
傷んだ部分を縫い直し、襟元を整えたものだった。
恵が、姉の髪を結っている。
「動かんで」
「動いとらんよ」
「さっきから三回動いた」
「緊張しとるとよ」
「お姉ちゃんでも緊張するとね」
「うちを何やと思っとると」
「坂道を歩きながら戦争に文句ば言う人」
「だいたい合っとるけど」
恵は、姉の髪へ白い飾りをつけた。
軍服工場で出た、ほんの小さな白布。
本来なら捨てられる端切れだった。
恵はそれを少しずつ縫い合わせ、小さな花の形にしていた。
花びらは不揃いだった。
市販の飾りのような華やかさもない。
それでも、一針ずつ思いを込めた。
「できた」
恵が言った。
幸は鏡を見る。
白い小さな花が、黒い髪の上に咲いている。
「きれい」
「本当?」
「うん」
幸は鏡越しに妹を見る。
「恵、ありがとう」
「今さら改まらんで」
恵は笑おうとした。
だが、目にはすでに涙が浮かんでいた。
「泣いとるやん」
幸が言う。
「泣いとらん」
「目から水が出とる」
「梅雨やけん」
「家の中まで雨降ると?」
「お姉ちゃんが広島へ行くけんたい」
恵の声が崩れた。
幸は振り返り、妹を抱きしめた。
「まだ今日は行かんよ」
「でも、すぐやろ」
「うん」
「結婚、おめでとうって言いたかとに」
「うん」
「寂しか」
「うちもたい」
双子はしばらく抱き合っていた。
今日から、幸は平戸幸になる。
同じ大村姓で生まれ。
同じ家で育ち。
同じ顔で笑ってきた双子。
その片方が、別の姓となり、別の町へ旅立つ。
「名字が変わっても」
幸が言った。
「恵のお姉ちゃんやけん」
「うん」
「顔も変わらん」
「広島で食べすぎんかったらね」
「食べ物がなか時代に、どうやって太るとよ」
二人は泣きながら笑った。
二 勝男の支度
平戸家では、勝男が父・和徳から譲られた衣服を着ていた。
新しい礼服はない。
農作業や機関区で着る服とは違うが、何年も前に仕立てられたものだった。
真子が襟を直す。
「じっとしときなさい」
「母さん、さっきから何回も直しよる」
「曲がっとる」
「曲がっとらんよ」
「母さんには曲がって見えると」
徴兵検査へ向かう龍弥を送り出した梅と、同じ言葉だった。
息子を送り出す母親は、襟を直さずにはいられない。
結婚式。
広島への転属。
これから簡単には会えなくなる。
真子の指は震えていた。
「幸さんば大事にするんよ」
「はい」
「広島へ行ったら、知っとる人も少なか」
「はい」
「勝男が仕事へ行っとる間、幸さんは一人になる」
「分かっとります」
「手紙も書くとよ」
「はい」
真子は息子の頬へ触れた。
「必ず帰ってきて」
勝男は、少しだけ笑った。
「結婚式に行くだけたい」
「広島からも」
「はい」
和徳は、黙って息子を見ていた。
やがて小さな布包みを差し出す。
中には、畑で採れた芋と、わずかな漬物が入っていた。
「祝いの料理に使ってもらえ」
「父さんたちの分は?」
「残しとる」
「本当に?」
「家族から信用なかのは、お前だけやなかぞ」
和徳は苦笑した。
「皆で少しずつ食べればよか」
三 鐘のない結婚式
結婚式は、町の小さな寺で執り行われた。
かつて鐘楼には、大きな鐘があった。
朝夕に町へ時を知らせ。
法要では亡くなった者を弔い。
祝い事では人々の心を穏やかに包んだ。
だが鐘は、すでに金属供出で持ち去られている。
空になった鐘楼。
音のない境内。
それでも、寺の本堂には多くの人が集まっていた。
大村勝一。
節子。
恵。
平戸和徳。
真子。
篠田慶一。
梅。
龍弥。
原田正勝と妻の紀江。
息子の英二と正三郎。
伊藤勝。
長崎機関区長の山崎信吾。
坂の上の喫茶店の老婆。
正明と母親。
そして、右腕を失って戦地から帰還した松尾敬一。
豪華な式ではない。
きらびやかな装飾もない。
指輪もない。
それでも、幸が本堂へ入ってきた瞬間。
人々の表情は明るくなった。
勝男は、白い髪飾りをつけた幸を見つめた。
「きれいです」
幸は少し照れる。
「本当に?」
「はい」
「音痴でも?」
「今日は歌の話はしとりません」
後ろから正明が言う。
「音痴の花嫁さん!」
幸が振り返る。
「結婚式では言わん約束やったやろ!」
本堂に笑いが広がった。
緊張していた勝男も、思わず笑う。
鐘はない。
だが、人々の笑い声が、静かな境内へ響いた。
四 夫婦の誓い
二人は、家族や友人たちの前へ並んだ。
僧侶が静かに語る。
「今は、明日のことさえ分からない時代です」
誰もが耳を傾けた。
「それでも人は、誰かと生きようとします」
幸は勝男を見る。
「苦しいときに隣にいる」
勝男も幸を見る。
「帰る場所になる」
僧侶は続けた。
「それは、どれほど大きな力を持つことでしょう」
二人は、互いの手を取った。
指輪はない。
金属は戦争へ持っていかれた。
それでも、二人の手は温かかった。
「平戸勝男さん」
「はい」
「幸さんを、一人の人間として大切にし、苦しいときも共に生きると誓いますか」
「誓います」
勝男の声は、はっきりしていた。
「大村幸さん」
「はい」
「勝男さんを、一人の人間として大切にし、苦しいときも共に生きると誓いますか」
幸は勝男の目を見た。
「誓います」
少し間を置き、付け加える。
「ただし、無理して大丈夫って言うたら怒ります」
本堂に笑いが起きた。
勝男も答える。
「幸さんが人前で戦争に文句ば言い始めたら、止めます」
「そこは夫として一緒に言うところやろ」
「二人とも捕まります」
「なら家の中で言う」
「それでお願いします」
僧侶も、思わず笑った。
「すでに立派な夫婦のようですね」
五 原田からの手紙
式が終わると、原田正勝が勝男を呼んだ。
「これば持っていけ」
一通の封筒。
勝男が受け取る。
「仕事の注意ですか」
「今読むな」
「何で?」
「家へ帰ってから読め」
勝男は原田を見る。
普段と同じ厳しい顔。
だが、その目には寂しさが浮かんでいた。
「広島でも」
原田は言う。
「安全ば最優先にせえ」
「はい」
「瀬野八は甘くなか」
「はい」
「質の悪い石炭でも、急勾配ば押し上げんばいかんことがある」
「はい」
「先頭の機関士との呼吸ば読め」
「はい」
「異常があれば止めろ」
「はい」
「そして」
原田は幸を見る。
「家へ帰れ」
勝男の表情が変わる。
「今度から、お前には待っとる妻がおる」
「はい」
「鉄道員としての責任ば果たせ」
原田の声が少し震えた。
「夫としての責任も忘れるな」
勝男は深く頭を下げた。
「今まで、ありがとうございました」
「まだ最後やなか」
「でも」
「手紙ば書け」
「仕事の相談だけ?」
「夫婦喧嘩の相談は受け付けん」
幸が横から言う。
「勝男さんが悪いときだけ送ります」
「幸さん、勝手に決めんでください」
小さな笑いが起こった。
六 木製の機関車
龍弥は、勝男へ小さな包みを渡した。
中に入っていたのは、木製の蒸気機関車だった。
漁船を修理したときに出た端材。
仕事の合間を使い、少しずつ削ったものだった。
煙突。
動輪。
運転室。
細かな部分までは再現できていない。
それでも、一目で蒸気機関車と分かる。
「龍弥君が作ったと?」
「はい」
「器用ですね」
「本物の船よりは小さかけん」
幸が手に取ろうとする。
「かわいかね」
勝男が止める。
「俺がもらったものです」
「夫婦のものやろ」
「結婚した途端に共有財産ですか」
「当然たい」
龍弥は笑った。
「広島の家に飾ってください」
「ありがとう」
「瀬野八の機関車とは違う形やけど」
「機関車なら何でもよかです」
「勝男さん、それ鉄道員として雑やない?」
恵が言う。
「気持ちが大事です」
龍弥は少し真面目な顔になる。
「必ず、二人で長崎へ戻ってきてください」
勝男はうなずく。
「はい」
「そのときは俺も、軍艦やなくて人を生きて帰す船ば造っとります」
「乗せてください」
「船酔いしても知りませんよ」
幸が言う。
「勝男さん、汽車では強かけど船では弱そう」
「まだ乗っとらんでしょう」
四人は笑った。
七 わずかな祝い膳
祝い膳は、寺の一室へ並べられた。
平戸家の芋。
篠田家のワカメ。
大村家の白菜の煮物。
わずかな麦飯。
漬物。
喫茶店の老婆が作った、小さな甘い芋菓子。
一人分は本当に少なかった。
それでも、誰も不満を口にしない。
山崎区長が芋を見ながら言う。
「今日は豪華だな」
幸が尋ねる。
「区長さん、普段何ば食べよるとですか」
「今日より少なかもの」
原田が言う。
「区長は仕事ば食べて生きとります」
山崎が睨む。
「お前は帰れ」
「まだ食べ終わっとりません」
英二と正三郎は、小さな芋菓子を見つめていた。
「一口で食べたらいかんよ」
紀江が言う。
「味わって食べるとよ」
正三郎は慎重に一口かじる。
「甘か」
その一言に、大人たちの顔もほころんだ。
砂糖はほとんど使われていない。
芋の自然な甘さだけ。
それでも、戦時下では貴重な味だった。
八 正明の歌
食事のあと。
正明が立ち上がった。
「歌う!」
幸が嫌な予感のする顔をする。
「誰と?」
「音痴の花嫁さんと」
「一人で歌いんしゃい」
「約束した」
「いつ?」
「防空壕で」
「上手になるとは言うたけど、一緒に歌うとは言うとらん」
恵が言う。
「言い訳せんで歌わんね」
「恵まで」
結局、幸と正明が並んだ。
恵も加わる。
戦争前に歌っていた明るい童謡。
本堂での歌ではない。
寺の一室で、小さく歌う。
幸は最初の音から少し外した。
正明が吹き出す。
「また迷子!」
「広島へ行く前に戻ってきたとよ」
「戻っとらんよ」
人々が笑う。
松尾敬一は、左手で膝を叩きながら拍子を取った。
以前より、少し表情が柔らかくなっている。
歌の途中。
敬一も、ごく小さな声を出した。
歌詞の一部だけ。
震える声。
それでも確かに歌った。
幸と恵は、敬一の方を見なかった。
歌えたことを特別扱いせず、同じ歌の中へ迎えた。
九 恵から姉へ
式が終わり、人々が帰り始めた頃。
恵は、幸を境内の端へ呼んだ。
雨は上がっていた。
濡れた木々。
空になった鐘楼。
「お姉ちゃん」
「何?」
「本当に幸せになってね」
幸は笑う。
「なるよ」
「勝男さんと喧嘩しても、すぐに仲直りして」
「うん」
「御飯が少ないからって、勝男さんの分まで食べんで」
「うちはそがんことせん」
「前にうちの大根取った」
「一枚だけやろ」
恵の目に涙が浮かぶ。
「手紙、絶対書いて」
「書く」
「広島の町のことも」
「うん」
「鉄道官舎のことも」
「うん」
「勝男さんの寝言も」
「汽車の夢ば見そうやね」
「お姉ちゃんの音痴で起こされるかも」
「最後までそれ言う?」
二人は笑った。
そして、もう一度抱き合った。
十 旅立ちの朝
昭和十八年七月。
長崎駅のホーム。
朝早くから、家族たちが集まっていた。
幸と勝男の荷物は少ない。
衣服。
生活用品。
節子が持たせた裁縫道具。
大村加工所で使っていた、小さな工具。
龍弥が作った木製の機関車。
そして、家族から分けてもらった食糧。
握り飯。
白菜の煮物。
少量の漬物。
丸一日近い旅になる。
途中で食事を買える保証はない。
列車も混雑が予想された。
「全部持った?」
節子が尋ねる。
「持ったよ」
「髪飾りは?」
「ここ」
「原田さんの手紙は?」
勝男が胸元を押さえる。
「あります」
「木の機関車は?」
「幸さんが持っとります」
「夫婦のものやけん」
「すでに取られました」
幸が勝男を睨む。
「取ったって言い方やめて」
恵は、姉の荷物を何度も確認する。
「握り飯は?」
「入っとる」
「途中で全部食べたらいかんよ」
「子どもやなかとよ」
「お姉ちゃんやけん心配しよる」
「意味分からん」
十一 ホームの別れ
汽笛が鳴った。
列車が入ってくる。
蒸気。
煤煙。
混雑したホーム。
軍人。
工員。
家族連れ。
荷物を抱えた人々。
列車の行き先は、まず九州北部。
そこから本州方面へ向かう列車へ乗り継ぐ。
原田が勝男へ近づいた。
「鳥栖から原田へ回り、筑豊本線へ入れ」
「はい」
「博多付近の過密ば避ける」
「はい」
「飯塚方面から折尾へ出て、鹿児島本線で小倉まで戻る」
「遠回りですね」
幸が言う。
原田は答える。
「今は軍需列車が多か。途中で待たされる可能性もある」
「分かりました」
「小倉からは、本州方面直通列車へ乗れ」
勝男がうなずく。
「関門トンネルですね」
「ああ」
開通したばかりの海底鉄道トンネル。
これまで船で渡っていた関門海峡を、列車がそのまま海の下へくぐる。
「広島へ着くまで気ば抜くな」
「乗客なのに?」
幸が尋ねる。
原田は真顔で答える。
「勝男は鉄道員たい。客になっても線路の音ば聞く」
勝男は否定できなかった。
「たぶん聞きます」
「新婚旅行で線路の音ば聞く男って何ね」
「旅行やなく転属です」
「うちにとっては新婚旅行も兼ねとる」
「食事が握り飯と白菜ですけど」
「豪華たい」
二人の会話に、家族たちが笑う。
だが、笑いの奥では皆が泣いていた。
列車へ乗る時間が来た。
幸は節子と勝一を抱きしめた。
「行ってきます」
節子は娘の背中を撫でる。
「体ば大事に」
「うん」
「無理せんで」
「うん」
勝一は、娘の頭へ手を置いた。
「何かあれば帰ってこい」
「うん」
「広島でも、自分が何のために生きとるか忘れるな」
「忘れんよ」
次に、恵。
二人は抱き合ったまま離れなかった。
「お姉ちゃん」
「うん」
「行かんでって言いたか」
「うん」
「でも、勝男さんと行きたかとやろ」
「うん」
「なら行って」
幸の涙がこぼれる。
「恵も元気で」
「うん」
「龍弥さんと幸せになって」
「まだ結婚せんよ」
「そのうち」
「お姉ちゃんも」
「うん」
「必ず帰ってきて」
「約束する」
十二 長崎を離れる
二人は列車へ乗り込んだ。
座席は混雑していた。
荷物を棚へ上げ、窓際へ並んで座る。
ホームでは、家族たちが手を振っている。
勝男の両親。
幸の両親。
恵。
龍弥。
原田。
紀江。
英二。
正三郎。
伊藤。
山崎区長。
正明。
老婆。
敬一。
汽笛が鳴る。
列車が動き始める。
幸は窓から身を乗り出しそうになる。
「危なか!」
勝男が支える。
「皆が見えん!」
「見えとります!」
ホームがゆっくり後ろへ流れる。
恵が走りながら手を振る。
「お姉ちゃーん!」
「恵ー!」
「手紙書いてー!」
「書くー!」
「音痴治してー!」
「最後にそれ言うなー!」
ホームに笑いと涙が広がった。
やがて家族の姿は小さくなり。
駅の屋根の向こうへ消えた。
幸は座席へ戻った。
目から涙が止まらない。
勝男が、そっと手を握った。
「帰ってきます」
「うん」
「二人で」
「うん」
列車は長崎を離れた。
十三 鳥栖から筑豊へ
列車は長崎本線を東へ向かった。
諫早。
大村湾を望む区間。
山あい。
田畑。
戦時輸送の影響で、途中駅では何度も停車した。
軍需貨物列車を先に通す。
兵員輸送列車を待つ。
駅員の指示。
時刻表どおりには進まない。
幸は窓の外を見る。
「勝男さん、仕事みたいな顔しとる」
「列車の遅れが気になるとです」
「今日は乗客やろ」
「でも、前の列車との間隔が」
「新婚の妻との会話より、閉塞が気になると?」
「そがん言い方せんでください」
幸は少し笑った。
鳥栖を過ぎると、二人は原田から教えられた経路へ向かった。
博多周辺は、軍需列車や旅客列車で混雑している。
その過密を避けるため。
原田方面から筑豊本線へ入り、筑豊の炭鉱地帯を抜けて折尾へ向かう。
車窓には、炭鉱の町が続いた。
石炭を積んだ貨車。
黒い煙。
坑口。
働く人々。
「この石炭も、軍が持っていくと?」
幸が尋ねる。
「多くは軍需や鉄道へ回されます」
「質のよかものは軍が先?」
「はい」
「機関区には悪かものしか来ん」
「そういうことも増えました」
幸は貨車の長い列を見た。
国中から石炭を集め。
鉄を集め。
食べ物を集め。
人を集める。
それでも戦争は終わらない。
十四 折尾から小倉へ
折尾駅。
列車を乗り継ぐため、多くの人々がホームを行き交っていた。
軍人。
炭鉱労働者。
荷物を抱えた女性。
幼い子ども。
駅員の声が響く。
幸と勝男は荷物を抱え、鹿児島本線の列車へ乗り換えた。
「人、多かね」
幸が言う。
「皆、移動しよる」
「仕事?」
「たぶん」
軍需工場への動員。
家族の疎開。
転勤。
召集。
戦争が、人々を本来の暮らしから動かし続けていた。
列車は折尾を出て、小倉へ向かう。
遠賀川を渡り。
工場の煙突を眺め。
黒崎。
八幡。
製鉄所の巨大な設備。
「鉄ば作る町やね」
幸が言う。
「はい」
「うちのお父さんが使う鉄も、ここから来るとかな」
「あるかもしれません」
だが、その多くは軍需へ回される。
戦争に必要な鉄。
生活に必要な鉄。
同じ鉄でも、行き先は国が決める。
十五 小倉駅の握り飯
小倉駅で、本州方面へ向かう列車を待った。
駅は混雑していた。
時刻の変更。
列車の遅れ。
軍関係者の優先乗車。
二人はホームの端へ座り、持ってきた食事を取り出した。
握り飯。
白菜の煮物。
少量の漬物。
幸が握り飯を二つに分ける。
「勝男さんの方が大きい」
「幸さんが分けたんでしょう」
「力仕事やけん」
「今日は仕事ではなかです」
「広島へ着いたら働くやろ」
「幸さんも食べんば」
「うちは白菜ば多くもらう」
「それなら交換ですね」
二人は、膝の上へ小さな包みを広げた。
豪華な食事ではない。
それでも夫婦になって初めて、二人だけで食べる食事だった。
「おいしか?」
幸が尋ねる。
「はい」
「冷めとるよ」
「幸さんと食べとるけん」
幸の顔が赤くなる。
「そがんこと、急に言わんで」
「結婚したけん、言ってもよかかと思って」
「龍弥さんみたいなこと言うね」
二人は小さく笑った。
十六 関門トンネル
本州方面直通列車が、小倉を発車した。
列車は門司へ向かう。
蒸気機関車から電気機関車へ付け替えるため、駅では慌ただしく作業が行われていた。
海底トンネル内では、蒸気機関車の煙をそのまま通すことが難しい。
勝男は、作業を食い入るように見ていた。
幸が呆れる。
「やっぱり仕事の顔になっとる」
「珍しかですから」
「うちより機関車ば見よる」
「機関車は今だけです」
「妻はずっとおるけん後回し?」
「違います!」
連結器がつながれる。
確認の声。
合図。
やがて列車は門司を出発した。
窓の外が暗くなる。
関門鉄道トンネル。
海の底を通り、九州から本州へ渡る。
車輪の音が壁へ反響する。
ガタン。
ガタン。
ガタン。
幸は窓の外を見た。
何も見えない。
ただ暗闇だけ。
「この上、海と?」
「はい」
「魚がおる?」
「もっと上です」
「トンネルに魚がぶつからん?」
「ぶつかりません」
「海が漏れてこん?」
「漏れてきたら困ります」
「勝男さん、面白くなか」
「鉄道員に何ば求めとるとですか」
暗闇の中。
幸は勝男の手を握った。
「何か怖か」
「大丈夫です」
幸が見る。
「その言葉、信用されんやつ」
勝男は言い直す。
「このトンネルは、安全を確かめて作られとります」
「それなら少し安心」
「でも手は離さんでよかです」
「夫婦やけんね」
やがて前方に光が見えた。
列車は下関へ出る。
九州を離れ、本州へ入った。
十七 山陽本線を東へ
下関から、列車は山陽本線を東へ進んだ。
海沿い。
山あい。
工場。
軍事施設。
町と町を結ぶ線路。
途中の駅では、機関車への水の補給が行われた。
蒸気機関車は大量の水を必要とする。
給水塔。
太い管。
水が流れ込む音。
勝男は窓から作業を見る。
「水の量、足りるとかな」
幸が言う。
「また仕事?」
「習慣です」
「広島へ着いたら、うちの御飯の量も気にしてね」
「それは最優先にします」
途中駅では、さらに長い停車があった。
軍需貨物列車を先に通すためだった。
ホームには売り物がほとんどない。
茶を売る者も少ない。
食べ物を買うことはできなかった。
二人は残しておいた握り飯を少しずつ食べる。
白菜の煮物も、最後の一口になった。
「これで終わり」
幸が言う。
「広島まで持ちます?」
「腹が?」
「はい」
「持たせるしかなか」
幸は空になった包みを丁寧に畳んだ。
母が作った煮物。
父が見送った駅。
恵の白い髪飾り。
長崎が、少しずつ遠くなっていく。
十八 夜の車内
夕方を過ぎても、列車は走り続けた。
車内は混雑している。
座席で眠る人。
立ったまま壁へ寄りかかる人。
泣く子ども。
軍服姿の青年。
窓は灯火管制のため、外へ光が漏れないよう覆われていた。
幸は勝男の肩へ頭を預けた。
「眠か?」
「少し」
「寝てよかですよ」
「勝男さんは?」
「起きとります」
「また線路の音ば聞くと?」
「少しだけ」
幸は目を閉じた。
「広島、どがん町やろ」
「路面電車が走っとるそうです」
「長崎と同じやね」
「川が多か町です」
「海は?」
「近いです」
「坂は?」
「長崎ほどではないと思います」
幸は少し笑った。
「なら、自転車なくても楽かね」
自転車を供出されたことを思い出す。
「広島で新しい自転車ば買えるとよかですね」
「今は無理やろ」
「戦争が終わったら」
「うん」
「二人で買いましょう」
「黄色がよか」
「目立ちます」
「赤」
「もっと目立ちます」
「なら黒」
「軍用みたいです」
「勝男さん、文句多か」
「幸さんの希望が極端なんです」
小さな会話。
それが、長い旅の不安を和らげた。
十九 広島駅
列車が広島駅へ到着したのは、長崎を出てから丸一日近くが過ぎた頃だった。
二人とも疲れていた。
体は煤と汗で汚れ。
荷物を持つ腕も痛い。
それでもホームへ降りた瞬間。
幸は辺りを見回した。
「着いた」
「はい」
「広島」
「はい」
大きな駅。
行き交う人々。
駅員の声。
軍人。
工員。
家族連れ。
軍需輸送の拠点でもあるため、夜になっても慌ただしい。
勝男は荷物を持ち直した。
「官舎へ行きましょう」
「歩くと?」
「路面電車があります」
幸の表情が少し明るくなる。
「長崎と同じやね」
二十 広島の路面電車
広島駅前。
路面電車が、金属音を響かせながら停留所へ入ってきた。
幸は、故郷の長崎を思い出した。
女学校へ向かった朝。
恵と並んだ座席。
汗をかきながら坂道を上った日。
勝男を探しに駅へ向かった日。
同じ路面電車でも。
町が違う。
音が違う。
窓から見える景色が違う。
二人は荷物を抱えて乗り込んだ。
車内には、仕事帰りの人々がいる。
軍服姿の男。
買い物袋を抱えた女性。
眠そうな子ども。
幸は窓の外を見る。
川。
橋。
町家。
工場。
遠くの山。
「広島も大きか町やね」
「はい」
「ここで暮らすとね」
「はい」
幸は勝男の手へ触れた。
「二人で」
「二人で」
二十一 鉄道官舎
路面電車を降り。
二人は、広島機関区に近い鉄道官舎へ向かった。
いくつもの住宅が並ぶ一角。
鉄道員と家族が暮らす場所。
建物は質素だった。
二人へ割り当てられた部屋も、小さい。
畳。
簡単な台所。
わずかな収納。
窓。
二人分の布団を敷けば、部屋の大部分が埋まる。
幸は、中へ入って見回した。
「ここが、うちらの家?」
「はい」
「小さかね」
「すみません」
「何で勝男さんが謝ると」
幸は荷物を置いた。
窓を開ける。
遠くから機関車の汽笛が聞こえた。
白い煙が、夕暮れの空へ上がっている。
「機関区、近かね」
「呼び出しがあっても、すぐ行けます」
「仕事にはよか」
「幸さんにはうるさいかもしれません」
「長崎でも汽笛ば聞きよった」
幸は振り返った。
「それに」
「はい」
「勝男さんが帰ってくる音やと思えばよか」
勝男は、何も言えなくなった。
二十二 原田の手紙
夜。
二人は荷物を少しだけ片づけた。
食べ物はほとんど残っていない。
湯を沸かし、薄い茶を飲む。
勝男は、原田から渡された封筒を取り出した。
「読む?」
幸が尋ねる。
「はい」
手紙を開く。
原田の文字は、整っているが力強かった。
勝男は声に出して読んだ。
『勝男へ。
広島へ行けば、これまで以上に厳しい仕事が待っとる。
瀬野八の勾配は、気合だけでは上れん。
火を読み、音を聞き、機関士と呼吸ば合わせろ。
危険だと思ったら止めろ。
遅れを恐れるな。
人の命より大事な貨物はなか。
そして、今度からは必ず家へ帰れ。
お前を待つ人は、もう両親だけやなか。
仕事で何人を運んでも、家で一人を泣かせる鉄道員にはなるな。
幸さんの話ば聞け。
分かったふりをするな。
夫婦喧嘩をしたら、その日のうちに謝れ。
どちらが悪いか分からんときは、先にお前が謝れ。
たぶん、お前が悪い。
鉄道員としても。
夫としても。
一生、学び続けろ。
原田正勝』
幸は、途中から口元を押さえていた。
「最後、ひどくない?」
勝男が言う。
「原田さん、よく分かっとる」
「まだ喧嘩もしとらんですよ」
「将来を見越しとるとよ」
「幸さんが悪い場合もあるでしょう」
「なか」
「あります」
「なか」
新婚最初の言い争いは、原田の手紙をめぐるものだった。
だが二人とも、最後には笑った。
二十三 夫婦最初の夜
布団を二組並べる。
幸は、龍弥からもらった木製の機関車を窓辺へ置いた。
白い髪飾りも、丁寧に箱へ入れる。
「明日から仕事?」
幸が尋ねる。
「機関区へ挨拶に行きます」
「すぐ瀬野八?」
「訓練と引き継ぎがあります」
「怖か?」
勝男は正直に答えた。
「怖かです」
「うん」
「でも、やります」
「無理はせんで」
「はい」
「危なかったら止めて」
「はい」
「軍需列車でも」
「はい」
「必ず帰ってきて」
勝男は幸を見る。
「幸さん」
「何?」
「今日は初めて、ここへ帰ってきました」
まだ仕事へ出ていない。
それでも、長い旅を終え、二人の家へ着いた。
「ただいま」
勝男が言った。
幸の目に涙が浮かぶ。
「お帰りなさい」
それは妻として、初めて夫へ伝える言葉だった。
二十四 新しい暮らし
広島の夜。
路面電車の音。
遠くの汽笛。
川を渡る風。
鉄道官舎の窓には、灯火管制のため黒い布がかけられている。
部屋は暗い。
それでも、二人は手を握っていた。
「長崎、遠くなったね」
幸が言う。
「はい」
「恵、泣いとるかな」
「たぶん」
「うちも泣きたい」
「泣いてよかですよ」
幸は勝男の胸へ顔を寄せた。
「でも、来てよかった」
「本当に?」
「うん」
「苦労させるかもしれません」
「もう戦争で苦労しとる」
「それもそうですね」
「勝男さん一人で苦労するより、二人の方がよか」
勝男は幸の手を握り直した。
「ありがとうございます」
「夫婦やけん、礼はいらん」
「そういうものですか」
「うちが決めた」
広島での暮らしが始まった。
幸せだけではない。
食糧不足。
過酷な勤務。
空襲への不安。
軍需輸送。
瀬野八の急勾配。
それでも。
幸と勝男は、夫婦として同じ家へ帰る道を選んだ。
この小さな鉄道官舎が。
二人の最初の家。
そして二年後。
昭和二十年八月六日。
二人が最後の朝を迎える場所になる。
だが今はまだ。
幸は夫の隣で眠り。
勝男は妻の手を握っている。
新婚最初の夜。
遠くから、蒸気機関車の汽笛が聞こえた。
幸は目を閉じたまま呟いた。
「お帰りって言う準備、できとるけんね」
勝男は静かに答えた。
「毎日、帰ってきます」
夫婦の最初の約束が、暗い部屋の中へ残った。
次回予告
昭和十八年七月。
広島機関区へ着任した勝男は、山陽本線最大の難所、瀬野―八本松間の補機運用について学び始める。
長い軍需貨物列車。
質の落ちた石炭。
不足する潤滑油。
急勾配での後押し。
先頭機関車との呼吸。
そして、走行中に補助機関車を切り離す危険な作業。
一方、幸は鉄道官舎での暮らしを始める。
配給所の場所。
共同井戸。
近所の鉄道員家族。
長崎とは違う路面電車と川の多い町。
慣れない生活の中でも、夫の帰りを待つ家を作ろうと奮闘する。
そんなある夜。
初めて瀬野八の補機任務へ出た勝男の帰宅予定時刻を過ぎても、汽笛が聞こえない。
次回、第31話。
「瀬野八の急勾配」
押して。
支えて。
頂上で離れる。
急勾配を上る機関車の仕事は、夫婦の暮らしにもよく似ていた。




