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幸と恵の物語  作者: リンダ


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29/57

帰ってきた兵士

『幸と恵のものがたり』


第29話 帰ってきた兵士


昭和十八年、初夏。


長崎の町では、空襲警報が鳴る回数が少しずつ増えていた。


警報が発令されるたび、人々は火を消し、窓を覆い、防空壕へ走った。


幸と恵が暗い壕の中で歌った、戦争前の明るい歌。


その歌を聞いて笑顔を取り戻した少年・正明は、二人を見かけるたびに「歌のお姉ちゃん」と呼ぶようになっていた。


もっとも、幸に対しては必ず、


「音ば外す方のお姉ちゃん」


という余計な説明までついていた。


「そこまで言わんでも、顔見たら分かるやろ」


幸が頬を膨らませる。


恵がすぐに返す。


「顔は同じやけん、歌わせんと分からんよ」


正明が笑う。


戦争の影は、以前より濃くなっていた。


それでも幸と恵は、笑えるときには笑った。


だが、その日。


二人は笑うことのできない一人の青年と出会うことになる。


一 坂道に座る青年


縫製工場からの帰り道。


恵は幸と並んで、長崎の坂道を歩いていた。


配給で受け取ったわずかな食糧と、修理を頼まれた衣服が入った袋を抱えている。


自転車を供出して以来、移動はすべて徒歩だった。


「重かね」


幸がぼやく。


「お姉ちゃんの袋、うちより軽いやろ」


「心が重かとよ」


「中身の話ばしよる」


「うちも中身の話たい。今日の晩御飯、また芋やろ」


「芋に失礼よ」


二人がそんな会話をしながら坂を上っていると、道の脇に一人の青年が座り込んでいるのが見えた。


古びた軍服。


痩せた体。


俯いた顔。


そして、右袖だけが不自然に短く折り畳まれていた。


右腕が、なかった。


青年の足元には、小さな荷物が置かれている。


誰かを待っている様子でもない。


ただ、道の端へ座り、地面を見つめている。


幸と恵は足を止めた。


「具合悪かとですか」


恵が声をかける。


青年は肩を震わせた。


すぐには顔を上げなかった。


「水、飲みます?」


幸が袋から水筒を出そうとする。


その金属音がわずかに鳴った。


カン。


その瞬間。


青年は突然、頭を抱えて身を伏せた。


「伏せろ!」


鋭い叫び声。


幸と恵は驚いて動けなくなる。


「爆撃だ! 伏せろ!」


青年は地面へ体を押しつけ、激しく息をしていた。


だが空襲警報は鳴っていない。


空にも敵機は見えない。


聞こえるのは、遠くの造船所から響いた金属音だけだった。


「大丈夫です」


恵はゆっくりしゃがんだ。


「飛行機は来とらんです」


「嘘だ」


青年は震えている。


「今、音がした」


「工場の音です」


「違う。爆弾だ」


幸は、水筒を静かに地面へ置いた。


「ここは長崎です」


青年の肩が大きく上下する。


「戦場やなかです」


その言葉を聞いても、青年はすぐには落ち着かなかった。


青年の体は長崎へ帰ってきている。


だが心は、まだ爆撃の続く戦場に取り残されていた。


二 右腕を失った青年


しばらくすると、青年の呼吸は少しずつ落ち着いてきた。


恵は距離を保ったまま、水筒を差し出した。


「ここに置きますね」


無理に手渡そうとはしなかった。


青年は左手で水筒を取る。


一口だけ飲んだ。


「ありがとうございます」


声は弱かった。


幸が尋ねる。


「家は近くですか」


青年は坂の上を見た。


「この先です」


「送ります」


「一人で帰れます」


立ち上がろうとする。


だが足元がふらついた。


恵と幸が両側から支えようとしたが、青年は反射的に体を引いた。


「触らないで!」


二人は手を止める。


青年自身も、自分の反応に驚いたようだった。


「すみません」


「謝らんでよかです」


恵が静かに答える。


「急に触られたら、怖かとですね」


青年は右側を見る。


そこには、もう腕がない。


「怖いというか……」


言葉を探す。


「戦場では、誰かに肩ばつかまれたら、次に爆発が来る合図やった」


幸は何も言えなくなった。


青年の名は、松尾敬一。


二十四歳。


長崎市内で両親と暮らしていたが、召集され、南方の戦地へ送られた。


激しい戦闘の中で爆撃を受け、右腕を失った。


長い治療を経て、ようやく故郷へ戻されたばかりだった。


「帰ってこられて、よかったですね」


幸が言った。


その瞬間。


敬一の表情が固まった。


幸は、自分が何か間違ったことを言ったと気づいた。


「すみません」


「違うんです」


敬一は首を横に振る。


「皆、そう言います」


帰れてよかった。


命があってよかった。


家族に会えてよかった。


すべて正しい。


だが敬一の胸には、その言葉を素直に受け取れない苦しみがあった。


「俺だけ帰ってきました」


二人は黙って聞いた。


「同じ隊の人は、ほとんど帰ってこんかった」


敬一の左手が震える。


「俺の隣におった友達も、爆撃で……」


その先の言葉は出なかった。


「腕一本で済んだって、皆言います」


敬一は折り畳まれた右袖を見る。


「でも、俺は何で生きとるとですか」


幸の胸が詰まった。


帰ってこられた喜び。


仲間を置いてきた罪悪感。


失った腕。


眠れない夜。


生き残った者だけが背負わされる苦しみ。


それは「無事に帰ってきた」という一言では包みきれなかった。


三 松尾家


幸と恵は、敬一を家まで送った。


坂の上にある小さな家。


戸を開けると、母親が飛び出してきた。


「敬一!」


息子の姿を見るなり駆け寄る。


だが敬一は、また体を強張らせた。


母親は途中で足を止める。


抱きしめたい。


触れたい。


それでも、息子が触れられることを怖がっていると知っていた。


「帰ってこんけん、心配したとよ」


「少し休んどった」


敬一は答える。


父親も奥から出てきた。


「こちらの方々は?」


幸が頭を下げる。


「大村幸です」


「妹の恵です」


「坂道で、敬一さんが少し具合悪そうにしとったけん」


母親は何度も頭を下げた。


「ありがとうございました」


二人は家へ招かれた。


敬一は居間の隅へ座る。


母親が湯を出そうとしたが、茶葉はほとんど残っていない。


「気にせんでください」


恵が言う。


「うちら、家に帰れば御飯ありますけん」


幸が横から小声で言う。


「あるとは限らんけどね」


恵が肘でつつく。


「今は言わんの」


松尾家の両親は、ほんの少し笑った。


しかし敬一は笑わなかった。


四 眠れない夜


母親は、敬一が帰還してからの様子を話した。


夜になると眠れない。


眠っても、すぐに飛び起きる。


飛行機の音。


爆発。


人の叫び声。


燃える匂い。


それらを夢の中で何度も体験する。


寝言で仲間の名前を呼ぶ。


床へ伏せ、頭を抱える。


家の外で物が落ちただけでも、爆撃だと思い込む。


「朝になると、何も覚えとらんこともあるとです」


母親が言った。


敬一は顔を伏せている。


「俺は、おかしくなったとです」


「おかしくなったんやなかです」


恵が静かに答えた。


敬一が顔を上げる。


「そがん怖かところにおったら、体が覚えとるんやと思います」


「でも、もう長崎です」


「頭では分かっとっても、体がまだ戦場におるとでしょう」


幸も続けた。


「空襲警報が鳴っただけで、うちらも怖くて動けんかった」


敬一は二人を見る。


「でも、あなたたちは歌えた」


防空壕で歌った双子の話は、町の中で少し知られるようになっていた。


「うちは音ば外しただけです」


幸が言う。


恵がすぐに返す。


「盛大にね」


「今そこ強調せんでよか」


敬一の口元が、ほんのわずかに動いた。


笑ったというほどではない。


それでも、表情が少しだけ緩んだ。


五 帰還兵への視線


敬一は、町へ出ることを避けるようになっていた。


右腕のない姿を見られる。


気の毒そうに見られる。


立派に戦ったと言われる。


英雄だと持ち上げられる。


そのすべてが苦しかった。


「俺は英雄やなか」


敬一が言う。


「怖くて、ずっと逃げたかった」


「逃げたかったら英雄ではなかと?」


幸が尋ねる。


「国は、勇敢に戦ったって」


「国が言うことと、敬一さんが感じたことは別やろ」


敬一は戸惑った。


「怖かったって言ってよかとです」


幸は続ける。


「帰りたかったって言ってよか」


「戦いたくなかったって言っても?」


「もちろん」


「仲間ば助けられんかったって思っとっても?」


恵が答える。


「敬一さん一人で、全部助けられるわけなかです」


敬一は唇を噛んだ。


「でも、俺がもっと早く動いとったら」


「それ、誰かに言われたとですか」


「自分で思います」


「なら、自分が自分ば責め続けとるとですね」


幸の言葉に、敬一は黙った。


一番厳しく自分を裁いていたのは、国でも町の人でもない。


敬一自身だった。


六 勝男との出会い


数日後。


幸は敬一を、坂の上の喫茶店へ連れていった。


人の多い場所では落ち着かないため、店主の老婆が客の少ない時間を選んでくれた。


恵。


龍弥。


勝男。


原田正勝。


伊藤勝。


それぞれが仕事の都合を合わせ、短い時間だけ集まった。


敬一は、入口に近い席へ座った。


いつでも外へ出られる位置。


背後に誰も立たない場所。


老婆は何も尋ねず、薄い紅茶を置いた。


勝男が頭を下げる。


「平戸勝男です。長崎機関区で機関助手ばしとります」


敬一は勝男の煤で汚れた手を見る。


「兵隊ば運ぶ列車にも乗るとですか」


勝男は少し迷い、うなずいた。


「はい」


「俺も、列車で送られました」


勝男の顔が曇る。


「駅で、家族が手ば振りよった」


敬一は遠くを見る。


「皆、すぐ帰るって言いよった」


勝男は、これまで運んだ兵士たちを思い出した。


窓から手を振る若者。


婚約者の写真を持つ青年。


幼い子どもへ笑顔を見せる父親。


「帰りの列車に乗れた人は、少なかったですか」


勝男が尋ねる。


「はい」


敬一は左手を握る。


「俺は乗れた」


その言葉には、喜びではなく苦しみがあった。


勝男は慎重に答えた。


「敬一さんが帰ってきたことを、仲間の人たちは責めんと思います」


「どうして分かるとですか」


「俺なら」


勝男は敬一を見る。


「同じ列車に乗った仲間が一人でも故郷へ帰れたら、帰ってくれてよかったと思うけんです」


敬一の目に涙が浮かんだ。


七 龍弥の作業着


龍弥は、敬一の失われた右腕を見ていた。


造船所にも、事故で手や指を失った職人がいる。


だが敬一が腕を失ったのは、人を殺す戦場だった。


「俺は軍艦ば造っとります」


龍弥が言った。


敬一が見る。


「軍艦」


「本当は、人ば生きて帰す船ば造りたかった」


「でも今は」


「人ば戦場へ運ぶ船です」


龍弥は自分の手を見る。


「俺の作ったものが、敬一さんを戦場へ送ったかもしれん」


敬一は首を横に振った。


「あなた一人のせいやなか」


「分かっとります」


「なら、自分ば責めんでください」


龍弥は、はっとする。


敬一は自分自身へ向けられない言葉を、龍弥には言えた。


「敬一さんも同じです」


龍弥が返す。


「何が」


「全部、自分のせいにせんでください」


二人は互いを見る。


戦場から戻った兵士。


戦争の船を造る青年。


立場は違う。


だが、どちらも自分では止められない大きな流れの中で、罪悪感を抱えていた。


八 原田の質問


原田正勝は、敬一へ無理に戦場の話を聞かなかった。


ただ一つだけ尋ねた。


「汽車の音は、怖くなかですか」


敬一は考えた。


「出征した日の汽笛は、今も覚えとります」


「嫌な音ですか」


「分からんです」


汽笛を聞くと、家族と別れたホームを思い出す。


同時に、故郷へ戻るときに乗った列車も思い出す。


汽車は敬一を戦場へ運び。


汽車は敬一を故郷へ返した。


「同じ汽車なのに」


敬一が言う。


「行きと帰りで、まるで違いました」


原田はうなずく。


「汽車は、行き先ば決められんけんです」


「人が決める?」


「ああ」


原田は低い声で答えた。


「本当なら、人ば家へ帰すために走らせたか」


敬一は勝男と原田を見る。


「なら、帰ってこられん人の分まで、帰る汽車ば走らせてください」


勝男は深くうなずいた。


「はい」


九 歌えない青年


老婆が、幸と恵へ言った。


「あの日の歌ば歌ってみたらどうね」


幸は敬一を見る。


「歌、嫌ではなかですか」


敬一は首を横に振った。


「戦地でも、皆で歌ったことがあります」


「軍歌?」


「それも」


敬一は少し遠い目をする。


「でも、夜に小さな声で、故郷の歌ば歌う人もおった」


家族を思い出す歌。


山。


川。


田畑。


汽車。


海。


仲間たちは、歌いながら泣いた。


「歌います?」


恵が尋ねる。


敬一は口を開きかけた。


だが、声が出なかった。


喉が震える。


「歌えんです」


「歌わんでよかですよ」


幸がすぐに言った。


「聞くだけでもよか」


「でも」


「音痴が一人増えたら、うちの立場が危なかけん」


恵が笑う。


「お姉ちゃんは永久欠番たい」


「何、その不名誉な番号」


敬一の口元が、少しだけ緩む。


幸と恵は、小さな声で歌い始めた。


戦争前に歌っていた明るい歌。


幸の音程は、やはり少し外れた。


恵が横目で見る。


幸が歌いながら睨み返す。


店内に、ごく小さな笑いが起きる。


敬一は歌わなかった。


だが、左手で膝をゆっくり叩き、拍子を取った。


それだけで十分だった。


十 届いた辞令


それから数日後。


長崎機関区。


山崎信吾区長の机へ、一枚の辞令が届いた。


山崎は内容を読み、しばらく黙っていた。


原田が呼ばれる。


続いて勝男も入室した。


「平戸」


「はい」


「異動の辞令が来た」


勝男の表情が固まる。


「異動?」


「昭和十八年七月付」


山崎は紙を差し出した。


「広島機関区への転属だ」


勝男は、自分の名前を確認した。


平戸勝男。


広島機関区勤務を命ず。


文字が並んでいる。


「どうして俺が」


「瀬野―八本松間の補機運用だ」


原田の表情も変わった。


山陽本線の難所。


瀬野から八本松へ向かう急勾配。


重量貨物列車を押し上げる補助機関車の乗務。


通称、瀬野八。


軍需輸送が増える中、重い貨物列車を確実に勾配の上へ運ぶ経験者が必要とされていた。


勝男が重連運転や急勾配での火床管理、安全判断を身につけてきたこと。


本川内の勾配で軍需列車を運んだ経験。


異常を見逃さず、列車を止める判断力。


それらが評価された結果だった。


「栄転と考える者もおるだろう」


山崎が言う。


勝男は辞令を握った。


「広島……」


長崎から離れる。


両親。


幸。


原田。


慣れ親しんだ機関区。


すべてを置いていかなければならない。


「断れんとですか」


勝男が尋ねる。


山崎は首を横に振った。


「難しい」


「軍需輸送のため?」


「ああ」


また戦争だった。


技術を認められた結果。


責任ある任務を任される。


本来なら喜ばしいことかもしれない。


だが、その理由も、行き先も、戦争によって決められていた。


十一 原田との別れ


区長室を出たあと。


勝男は機関車の脇へ立っていた。


原田が隣へ来る。


「広島機関区か」


「はい」


「瀬野八は、厳しかぞ」


「知っとります」


「長い貨物列車ば、後ろから押し上げる」


「はい」


「先頭の機関車との呼吸。速度。蒸気圧。切り離しの手順」


原田は、いつものように仕事の話をした。


勝男は思わず言う。


「原田さん」


「何だ」


「今まで、ありがとうございました」


原田の言葉が止まる。


「まだ行っとらん」


「でも」


「別れの挨拶は最後にせえ」


原田は機関車へ目を向けた。


「俺は、お前ば一人前にしたつもりはなか」


「まだですか」


「鉄道員は、辞める日まで一人前になり続けるもんたい」


勝男は少し笑った。


「原田さんらしかですね」


「広島へ行っても、分からんことは聞け」


「原田さんに?」


「手紙ば書け」


「返事くれます?」


「仕事の質問ならな」


「幸さんの相談は?」


「自分で考えろ」


二人は小さく笑った。


だが、その笑いの奥に寂しさがあった。


十二 幸への告白


その夕方。


勝男は幸を、長崎駅近くへ呼び出した。


いつもの場所。


二人が何度も言葉を交わした場所。


蒸気機関車の汽笛。


構内を行き交う鉄道員。


幸は勝男の顔を見た瞬間、何かあったと察した。


「何ね、その顔」


「幸さん」


「うん」


「広島へ行くことになりました」


幸は、一瞬意味が分からなかった。


「旅行?」


「転属です」


「いつ?」


「七月」


「何年かしたら戻ると?」


「分かりません」


幸の表情から血の気が引いた。


「広島機関区?」


「はい」


「どうして」


勝男は瀬野八の任務を説明した。


山陽本線の急勾配。


重量貨物。


補助機関車。


軍需輸送。


「また戦争ね」


幸が呟く。


「はい」


「勝男さんが上手になったけん、もっと危なか仕事ばさせると?」


「危ないだけではなかです」


「でも、長崎から離れる」


「はい」


幸は唇を噛んだ。


泣くまいとしている。


「うちは?」


勝男が答えられない。


「うちは、どうすると?」


「幸さんには、長崎に家族がおります」


「勝男さんにも平戸のお父さんとお母さんがおるやろ」


「はい」


「なら、皆ば置いて一人で行くと?」


「辞令ですから」


その言葉が、幸の怒りを引き出した。


「辞令、辞令って!」


駅前に声が響く。


「国も軍も鉄道も、何で皆の人生ば紙一枚で決めると!」


「幸さん、声を」


「知るか!」


それでも勝男が周囲を見るのを見て、幸は声を落とした。


涙があふれる。


「婚約したとに」


「はい」


「一緒に暮らすって言うたとに」


「はい」


「離れて手紙ば待つだけなんて嫌たい」


勝男は何も言えなかった。


十三 妻になりたい


その夜。


幸は家族へ、勝男の転属を伝えた。


勝一。


節子。


恵。


全員が言葉を失った。


「広島……」


節子が呟く。


「瀬野八の補機だそうたい」


勝一は鉄道の仕事を通じて、その難所を知っていた。


「重要な任務だ」


「重要なら、家族ば引き離してよかと?」


幸が言う。


勝一は答えない。


恵が姉の手を握る。


「お姉ちゃん、どうしたかと?」


幸は長い時間、黙っていた。


やがて、顔を上げた。


「うち、勝男さんと結婚する」


節子が驚く。


「今?」


「広島へ行く前に」


「幸」


勝一の声が低くなる。


「勢いで決めることやなか」


「勢いやない」


幸は父を見る。


「ずっと決めとったことたい」


婚約した日から。


いや、その前から。


勝男と暮らしたい。


汽車の話を聞き。


仕事から帰るのを待ち。


疲れたときには食事を作り。


一緒に笑い。


夫婦として生きたい。


その思いは変わっていない。


「離れたくないだけではありません」


幸はゆっくり言った。


「夫婦でいたい」


節子の目に涙が浮かぶ。


「愛する人ば支えたい」


「広島は、長崎より安全とは限らん」


勝一が言う。


「分かっとる」


「山陽本線は軍需輸送の要だ。空襲の危険もある」


「分かっとる」


「勝男君は勤務で家を空ける日も多い」


「分かっとる」


「長崎へ簡単には戻れんぞ」


幸はうなずいた。


「それでも行く」


勝一は娘を見つめた。


幼い頃、機関車を見て目を輝かせていた幸。


加工場でボルトを検品した幸。


戦争へ怒り続けた幸。


いつの間にか、自分の人生を自分で選ぼうとする女性になっていた。


十四 恵の涙


幸が広島へ行く。


その事実を、恵はすぐには受け止められなかった。


二人は生まれたときから一緒だった。


同じ家。


同じ学校。


同じ路面電車。


同じ布団。


互いの恋をからかい。


戦争をぼやき。


防空壕で歌った。


「うちを置いていくと?」


恵の目から涙がこぼれる。


幸も泣きそうになった。


「置いていくんやなか」


「同じたい」


「恵には龍弥さんがおる」


「お姉ちゃんの代わりにはならん」


「分かっとる」


二人は向かい合う。


「うち、お姉ちゃんがおらんかったら、誰にツッコミ入れたらよかと」


幸は涙を拭いながら笑った。


「龍弥さんに入れたら」


「龍弥さんは、お姉ちゃんほど暴走せん」


「物足りん?」


「少し」


二人は泣きながら笑った。


「広島へ行っても、手紙書いて」


恵が言う。


「毎週書く」


「音痴は治ったかも書いて」


「そこ重要?」


「重要」


「広島の人に被害ば出さんよう練習する」


「長崎で先に練習して」


幸は妹の手を握った。


「離れても双子たい」


「うん」


「顔も変わらん」


「お姉ちゃんだけ広島の食べ物で太ったら変わる」


「食べ物なか時代に太れるか!」


二人の笑い声が部屋へ響いた。


十五 平戸家の決断


平戸家でも、勝男は両親へ転属と結婚の意志を伝えた。


父・和徳。


母・真子。


二人は、息子の話を静かに聞いた。


「幸さんも広島へ?」


真子が尋ねる。


「一緒に来たいと言ってくれました」


「お前はどうしたい」


和徳が言う。


勝男は迷わず答えた。


「幸さんと夫婦になりたい」


「戦争が終わってからではいかんと?」


「いつ終わるか分からん」


勝男は俯いた。


「だから、終わるまで人生ば待ちたくなかです」


真子の目から涙がこぼれる。


「広島へ行ったら、なかなか会えんね」


「はい」


「畑の野菜も送れるか分からん」


「はい」


「体ば壊したらいかんよ」


「はい」


真子は息子の頬へ手を添えた。


「幸さんば一人にしたらいかん」


「約束します」


和徳も言った。


「瀬野八は甘くなかぞ」


「分かっとります」


「機関車ば止める判断が必要なときは、止めろ」


「はい」


「軍需品が遅れても」


勝男は父を見る。


「命ば優先せえ」


それは農家の父が、鉄道員の息子へ送る言葉だった。


十六 二組の婚約者


幸と勝男の結婚が具体的になると、恵と龍弥も自分たちの未来について話し合った。


坂の上の喫茶店。


二人の前には、薄い紅茶が置かれている。


「幸姉ちゃん、広島へ行く」


恵が言う。


「寂しかですね」


「うん」


「俺たちも結婚しますか」


突然の言葉に、恵は顔を上げた。


「今?」


「今すぐという意味やなくて」


龍弥は慌てる。


「ちゃんと、その時期ば考えんばと思って」


恵は左手へ目を落とした。


二人も婚約している。


だが、龍弥には徴兵の不安が残る。


造船所の仕事も激しくなっている。


「うちは、龍弥さんと夫婦になりたか」


「俺もです」


「でも」


「はい」


「幸姉ちゃんまでおらんようになったら、お父さんとお母さんば残すことになる」


龍弥はうなずいた。


「なら、急がんでよかです」


「怒らんと?」


「怒りません」


「本当は一緒に暮らしたかやろ」


「暮らしたかです」


龍弥は正直に答えた。


「でも、恵さんが家族ば大切にしたい気持ちも分かります」


恵は、龍弥の手へ触れた。


「待ってくれる?」


「待ちます」


「召集されたりせんで」


「それは俺が決められん」


恵の表情が曇る。


龍弥は、すぐに続けた。


「でも、毎日帰る約束は守ります」


「うん」


二人は、焦らずに結婚の時期を考えることにした。


戦争へ急かされるのではなく。


自分たちの意思で決めるために。


十七 松尾敬一の言葉


敬一は、幸と勝男が結婚すると知ると、静かに二人を祝った。


「よかったですね」


「ありがとうございます」


勝男が頭を下げる。


敬一は、少し寂しそうに笑った。


「俺にも、好きな人がおりました」


幸が尋ねる。


「今は?」


「戦地へ行く前に、別れました」


「どうして」


「帰れるか分からんかったけん」


相手を待たせたくなかった。


自分が死んだあと、人生を縛りたくなかった。


そう思い、敬一の方から関係を終わらせた。


「後悔しとりますか」


恵が尋ねる。


敬一は長く黙った。


「はい」


左手を見つめる。


「生きて帰れるなら、別れんかったらよかった」


「今から会いに行けんとですか」


幸が言う。


敬一は右の袖を見る。


「この姿で?」


「敬一さんは敬一さんやろ」


「でも」


「相手がどう思うかは、会わんと分からん」


敬一は、すぐには返事をしなかった。


「幸さんは強かですね」


「ただ、後悔するのが嫌なだけです」


幸は勝男を見る。


「離れる前に、夫婦になりたか」


敬一は二人へ言った。


「一緒におれる時間ば、大事にしてください」


戦場から帰った青年の言葉には、重みがあった。


「あとで、と思っとったら」


敬一の声が震える。


「あとが来んこともあるけん」


十八 家族の了承


数日後。


大村家、平戸家、篠田家、原田家。


そして伊藤勝、山崎区長、坂の上の喫茶店の老婆。


親しい者たちが集まり、幸と勝男の結婚について話し合った。


豪華な式はできない。


食べ物もない。


新しい着物も用意できない。


指輪に使う金属もない。


広島へ持っていける家財も限られる。


それでも、皆が祝いたいと願った。


山崎区長が言う。


「広島機関区への着任前に、休暇を調整する」


勝男が驚く。


「よかとですか」


「結婚する時間も与えん鉄道なら、人ば運ぶ資格がなか」


原田がうなずく。


「区長にしては、よかこと言いますね」


山崎が睨む。


「お前は式に来んでよか」


「指導員として行きます」


「誰も頼んどらん」


一同に小さな笑いが起きた。


伊藤も言う。


「造船所から、龍弥も休ませる」


龍弥が驚く。


「本当に?」


「姉さんの結婚式やろ」


恵が訂正する。


「婚約者の姉です」


「似たようなもんたい」


「だいぶ違います」


老婆は、少ない材料で小さな菓子を作ると約束した。


「チーズケーキは難しかけど、何か甘いものば用意するよ」


正明も歌うと言い出した。


「音痴のお姉ちゃんと歌う!」


幸は即座に言う。


「結婚式でその呼び方は禁止!」


十九 夫婦になる約束


夜。


長崎駅近く。


幸と勝男は、並んで蒸気機関車を見ていた。


白い蒸気。


石炭の匂い。


重たい動輪。


二人が初めて互いを意識した場所。


「勝男さん」


「はい」


「うち、本当に一緒に広島へ行くよ」


「怖くないですか」


「怖かよ」


幸は正直に答えた。


「空襲も。知らん町も。瀬野八の仕事も」


「はい」


「でも、長崎で勝男さんからの手紙ば待つ方が怖か」


勝男は幸を見る。


「幸さん」


「うちは妻になりたい」


幸は、はっきり言った。


「勝男さんが疲れて帰ってきたら、お帰りって言いたか」


「はい」


「御飯が少なくても、一緒に食べたか」


「はい」


「汽車の愚痴も聞く」


「長くなりますよ」


「途中で寝るかもしれん」


「聞く気あります?」


「半分くらい」


勝男は笑った。


幸も笑う。


「でも」


幸は勝男の手を握った。


「苦しいときは、ちゃんと隣におりたか」


勝男も握り返す。


「俺も、幸さんにそばにおってほしか」


「なら決まりね」


「はい」


「夫婦になる」


「はい」


「広島でも、必ず二人で帰ってくる」


「どこへ?」


幸は少し考えた。


「長崎へ」


「いつか?」


「戦争が終わったら」


勝男は深くうなずいた。


「約束します」


汽笛が鳴った。


長く。


低く。


二人の未来を送り出すように。


二十 帰ってきた者と旅立つ者


松尾敬一は、少しずつ町へ出られるようになった。


金属音を聞けば、まだ体が震える。


夜には悪夢を見る。


失った右腕が、今もあるように痛むこともある。


心が完全に戦場から戻ったわけではない。


それでも、坂の上の喫茶店へ行き。


幸と恵の歌を聞き。


勝男や龍弥と話し。


一人で抱え込まずに済む時間が増えていった。


ある日。


敬一は、かつて別れた女性へ手紙を書いた。


左手だけで、ゆっくりと。


字は以前より不格好だった。


何度も書き直した。


それでも最後まで書いた。


会いたい。


帰ってきた。


腕を失った。


怖い。


それでも、もう一度話したい。


その手紙を郵便箱へ入れたあと、敬一は長く息を吐いた。


帰ってくるとは、故郷へ着くだけではない。


失った自分を抱えながら、もう一度誰かと生きようとすることだった。


そして幸と勝男は。


長崎を離れ、広島へ旅立つ準備を始めていた。


結婚。


転属。


新しい暮らし。


二人の未来は、戦争の中で動き始める。


昭和十八年七月。


その先に待つものを、まだ誰も知らなかった。


二年後。


広島の空に、人類が初めて実戦で使用する原子爆弾が投下されることも。


幸と勝男が暮らす職員住宅が、その爆心地からおよそ一キロの場所にあることも。


このときの二人は、ただ夫婦になれる喜びを胸に、互いの手を握っていた。



次回予告


昭和十八年六月。


広島への転属を前に、幸と勝男の結婚式が執り行われる。


豪華な衣装はない。


指輪もない。


祝い膳も、わずかな芋と野菜だけ。


それでも、大村家、平戸家、篠田家、原田家、伊藤、山崎区長、喫茶店の老婆、正明、そして松尾敬一が集まり、二人の門出を祝う。


恵は、姉へ手縫いの白い髪飾りを贈る。


龍弥は、勝男へ小さな木製の機関車を渡す。


原田は、普段の厳しい顔を崩さぬまま、一通の手紙を手渡す。


そこに書かれていたのは、鉄道員としてではなく、一人の夫として勝男へ送る言葉だった。


次回、第30話。


「戦時下の結婚式」


鐘はない。


指輪もない。


けれど、祝福する人の声がある。


幸と勝男は、戦争に人生を奪わせないため、夫婦として最初の一歩を踏み出す。

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