空襲警報
『幸と恵のものがたり』
第28話 空襲警報
昭和十八年。
長崎の町では、防空訓練が日常の一部になっていた。
空襲警報が鳴った場合には、すぐに火を消す。
家の明かりが外へ漏れないよう、窓を黒い布で覆う。
水桶や砂袋を準備する。
焼夷弾が落ちた場合は、火が小さいうちに消し止める。
負傷者が出れば、応急手当てを行う。
そして、爆撃の危険が迫った場合には、防空壕へ避難する。
国は、人々へ繰り返した。
恐れるな。
落ち着いて行動せよ。
持ち場を守れ。
だが、実際に敵の飛行機が頭上へ来たことのない人々にとって、空襲はまだ想像の中にある恐怖だった。
少なくとも、その日までは。
一 訓練の日
朝から、長崎の空は低い雲に覆われていた。
湿った風が坂道を吹き抜け、遠くの港は薄い靄に隠れている。
大村家の近くでは、町内会による防空訓練が行われていた。
家々から住民が集められる。
男たちは水桶や砂袋を運び、女性たちは救護や避難誘導を担当する。
子どもたちは、騒がず大人の指示に従うよう言い聞かされていた。
幸は、水を入れた重たい桶を持ちながらぼやいた。
「自転車は持っていかれたとに、水桶は走って運べって?」
隣にいた恵が答える。
「戦争とかけまして、長崎の坂道と解きます」
「その心は?」
「どちらも、終わりが見えん」
幸は思わず笑った。
「朝から整っとるね」
「笑えるうちに笑っとかんば」
恵は救護袋を肩へかけていた。
女学校時代に救護訓練を受け、縫製工場でも負傷した工員の手当てをすることがあったため、応急処置には幸より詳しい。
幸は妹の救護袋を見る。
「その中、何が入っとると?」
「包帯、布、消毒に使うもの。それから水」
「食べ物は?」
「入っとらん」
「救護袋なのに、うちの空腹は救護してくれんと?」
「お姉ちゃんの空腹は年中無休やけん、対象外」
「冷たか妹ねえ」
二人は小さく笑った。
節子が振り返る。
「二人とも、訓練中よ」
「分かっとるよ」
幸が答える。
「分かっとる人は、もう少し真面目な顔ばします」
勝一は水桶の位置を確認しながら、娘たちの会話を聞いていた。
「まあ、緊張しすぎるよりはよか」
「お父さんまで甘やかさんで」
節子が言う。
そのときだった。
遠くから、低く長い音が響いた。
最初は、誰も動かなかった。
訓練開始の合図だと思ったからだ。
しかし、町内会の責任者が空を見上げた。
続いて、別の方角からも警報音が聞こえてくる。
一度ではない。
繰り返し。
長く。
不気味に。
責任者の顔色が変わった。
「待て」
周囲の者たちが彼を見る。
「これは訓練の合図やなか」
空気が凍りついた。
二 本物の警報
ほどなくして、伝令が坂道を駆け上がってきた。
「空襲警報!」
息を切らしながら叫ぶ。
「敵機が九州方面へ接近しよる! 訓練中止! 全員、本当の避難へ切り替えろ!」
住民たちの表情が一斉に変わった。
訓練。
何度も練習してきた。
決められた手順も覚えている。
だが「本物」と聞いた瞬間、頭から手順が消えた者もいた。
子どもが泣き始める。
母親が抱き上げる。
老人が空を見上げたまま動けなくなる。
「敵の飛行機が来ると?」
「爆弾ば落とされる?」
「長崎へ向かいよるとや?」
誰も正確なことは知らない。
それが恐怖をさらに大きくした。
町内会の責任者が声を張る。
「空ば見上げんで! 決められた防空壕へ向かってください!」
幸は節子の腕をつかんだ。
「お母さん」
「大丈夫。四人一緒よ」
勝一が家の方角を見る。
「加工場の火は消しとる。工具も片づけた」
「お父さん、荷物は?」
恵が尋ねる。
「命だけ持っていく」
勝一は短く答えた。
その言葉に、幸の胸が鳴った。
鐘も。
自転車も。
金属も。
食べ物も。
国に差し出してきた。
だが今、持って逃げられるものは、自分たちの命しかなかった。
「行くぞ」
勝一を先頭に、家族四人は防空壕へ向かった。
三 坂道を走る
防空壕は、坂の途中に掘られた横穴式のものだった。
近隣の住民が協力して作り、内部へ木材を入れて補強している。
入り口は狭い。
多くの人が同時に押しかければ、かえって危険になる。
「走らんで!」
避難誘導の声が飛ぶ。
「押さんように!」
だが、後ろから警報音が追いかけてくる。
人々の足は自然と速くなった。
幸は節子の手を握っていた。
恵は勝一のすぐ後ろを走る。
坂道。
自転車を失ってから、毎日のように歩いてきた道。
それでも恐怖の中で走る坂は、いつもよりはるかに長く感じられた。
「お母さん、大丈夫?」
幸が尋ねる。
「大丈夫」
「その言葉、信用されんやつよ」
「今は言わせて」
節子は苦しそうに笑った。
近くでは、小さな男の子が泣きながら母親へ抱きついている。
「怖い! 飛行機来ると?」
母親も青ざめている。
それでも息子を励まそうとしていた。
「大丈夫よ。お母ちゃんがおるけん」
しかし、声が震えていた。
恵は男の子の隣へ寄った。
「一緒に行こう」
男の子が涙を浮かべて恵を見る。
「お姉ちゃん、怖くなかと?」
恵は一瞬、答えに迷った。
「怖かよ」
正直に言った。
「でも、みんなで行けば少し怖くなくなるけん」
男の子は恵の手を握った。
母親が頭を下げる。
「ありがとうございます」
「早う中へ入りましょう」
一同は防空壕へ駆け込んだ。
四 暗い防空壕
壕の中は薄暗かった。
裸電球が一つ灯されていたが、空襲が近づけば消さなければならない。
土の匂い。
湿気。
人の汗。
子どもの泣き声。
息を切らす大人たち。
壁際には木の長椅子が置かれている。
座れない人々は、地面へしゃがみ込んだ。
幸と恵、勝一、節子は、奥の壁際へ場所を見つけた。
先ほどの男の子と母親も近くへ座る。
男の子は、恵の手を離さなかった。
「お名前、何ていうと?」
恵が尋ねる。
「正明」
「正明君ね」
男の子は五歳ほどだった。
「お姉ちゃんは?」
「うちは恵。こっちが双子の姉の幸」
幸が手を上げる。
「うちら、顔そっくりやろ」
正明は二人を見比べた。
涙を浮かべたまま、小さくうなずく。
「どっちがお姉ちゃんか分からん」
幸は胸を張った。
「美人な方がお姉ちゃんたい」
恵が即座に言う。
「なら、うちがお姉ちゃんになるね」
近くにいた数人が、思わず笑った。
幸は妹を見る。
「空襲警報中に姉妹関係ば乗っ取らんで」
「さっき自分で言うたやろ」
正明の口元も、ほんの少し緩んだ。
だがその直後、壕の外から警報音が大きく聞こえた。
正明は再び母親へしがみついた。
「怖い……」
防空壕の中にいる誰もが、同じ気持ちだった。
五 勝男と原田
同じ頃。
長崎機関区でも空襲警報が鳴っていた。
勝男と原田は、構内にいた蒸気機関車を可能な限り分散させようとしていた。
一か所へ集中して止めておけば、爆撃を受けた際に多くの車両を一度に失う可能性がある。
「この機関車は奥の側線へ!」
原田が指示する。
「はい!」
勝男は機関士とともに機関車へ乗り込む。
火は最低限。
灯りも外へ漏らせない。
慎重に移動させる。
山崎区長が構内を走り回っていた。
「人員を確認しろ! 移動が終わった者から退避!」
「区長は?」
原田が尋ねる。
「最後に行く」
「また責任者だけ残るつもりですか」
「構内の確認が先だ」
原田の顔が険しくなる。
「区長まで倒れたら、誰が指揮ば取るとですか」
「お前が取れ」
「勝手なこと言わんでください!」
緊迫した場面でも、二人のやり取りは変わらない。
山崎は一瞬だけ苦笑した。
「分かった。確認が終わったら行く」
勝男は空を見上げた。
雲の向こう。
敵機の姿は見えない。
それでも、どこからか低い航空機の音が聞こえる気がした。
「幸さん……」
小さく名前を呼ぶ。
家にいるか。
防空壕へ入れたか。
家族と一緒か。
確認する方法はない。
今は、自分の持ち場を守るしかなかった。
六 造船所の退避
造船所でも作業が止められた。
伊藤勝は、職人たちを足場から降ろしていた。
「工具は置いていけ!」
「でも、落ちたら危なかです!」
龍弥が言う。
「必要なものだけ固定しろ! 全部持って降りようとするな!」
軍艦の巨大な船体。
積み上げられた鋼材。
燃料。
溶接用の設備。
爆撃を受ければ、大きな火災につながる可能性がある。
龍弥は若い職人・川瀬清一の姿を確認した。
「川瀬君!」
「ここです!」
「一緒に降りるぞ!」
前回、足場から転落しかけた青年。
今度は絶対に一人にしない。
二人は並んで階段を下りた。
伊藤は人数を数える。
「一人足りん!」
龍弥が周囲を見る。
「誰ですか!」
「西村が工具庫へ行ったままだ!」
龍弥が戻ろうとした。
伊藤が腕をつかむ。
「お前は行くな!」
「でも!」
「俺が行く!」
「伊藤さん一人では」
そのとき、工具庫の方向から西村が走ってきた。
「すみません!」
伊藤は怒鳴った。
「工具と命、どっちが大事や!」
西村は青ざめる。
「命です!」
「なら二度と戻るな!」
全員がそろい、造船所の防空壕へ走った。
龍弥は恵の顔を思い浮かべた。
毎日帰る。
そう約束した。
何があっても、今日は帰らなければならない。
七 音が近づく
防空壕の中。
明かりが消された。
完全な暗闇になった。
誰かの息遣い。
すすり泣き。
土がわずかに崩れる音。
外の状況は見えない。
そのとき。
遠くから、低い音が聞こえた。
最初は風のようだった。
次第に、規則的な唸りへ変わる。
航空機のエンジン音。
防空壕の中で、誰かが呟いた。
「飛行機や……」
子どもたちが泣き出す。
正明は恵の腕へしがみついた。
「来たと?」
「分からん」
恵は正明の背中を撫でる。
「爆弾、落ちると?」
「分からんよ」
「怖い」
「うちも怖か」
幸も正明のそばへ寄った。
「でも、ここは土の中やけんね」
「本当に大丈夫?」
幸は答えに詰まった。
絶対とは言えない。
大丈夫という言葉を、これまで何度も信用できないと言ってきた。
だから、嘘はつきたくなかった。
「大丈夫になるよう、みんなでここにおるとよ」
正明は、幸の顔を見た。
「お姉ちゃんたち、何か話して」
「何ば?」
「怖くない話」
防空壕の中の大人たちも、二人へ目を向けた。
暗闇で顔は見えない。
それでも、視線だけは感じた。
八 歌おう
幸が小声で恵へ言った。
「何か話せって」
「謎かけ?」
「空襲中に戦争ば皮肉ったら、外より先に壕の中で怒られるやろ」
「じゃあ、歌は?」
幸が眉をひそめる。
「歌?」
「戦争前に歌いよった歌」
二人がまだ女学生だった頃。
ラジオから戦況ばかりが流れる前。
学校や家で歌っていた明るい歌。
遠足。
春。
故郷。
汽車。
花。
子どもたちも知っている歌。
「歌ってよかとかな」
幸が尋ねる。
「大きな声ではなければ」
恵は答えた。
「笑いまで奪われたら人間じゃなくなるって言うたやろ」
「うん」
「歌も同じたい」
幸は正明へ尋ねた。
「歌、好き?」
正明は小さくうなずいた。
「何の歌、知っとると?」
「春の歌」
「今は春やなかけどね」
恵が言う。
幸は妹を肘でつついた。
「季節まで統制せんでよか」
近くの大人が、クスッと笑った。
幸は小さく息を吸った。
そして、戦争が始まる前によく歌っていた、明るい童謡を静かに歌い始めた。
歌声は、決して上手ではなかった。
音程が少し外れる。
恵がすぐに顔を向ける。
「お姉ちゃん、音痴やん」
防空壕の中に、小さな笑いが起きた。
幸は歌を止めた。
「今言う?」
「だって、最初の一音から迷子やったもん」
「暗かけん、音も道に迷ったとよ」
「音に灯火管制せんで」
また、笑いが広がる。
正明も泣きながら笑った。
「お姉ちゃん、下手」
「正明君まで!」
幸は少し頬を膨らませた。
恵が言う。
「でも、歌ったら元気出るよね」
正明がうなずく。
「うん」
「なら、上手か下手かは関係なか」
幸は胸を張った。
「そうたい。うちは元気担当」
「音程は行方不明担当」
「恵!」
暗い防空壕に、先ほどより大きな笑いが起きた。
九 みんなで歌う
今度は恵が歌い始めた。
幸より音程は安定していた。
正明も、小さな声で加わる。
母親も。
近くにいた子どもたちも。
やがて、大人たちも少しずつ歌い始めた。
誰も大声では歌わない。
外へ音が漏れないように。
敵機へ居場所を知らせないように。
息を潜めるような、小さな合唱。
それでも暗闇の中で、人々の声は確かにつながっていった。
戦争前に歌っていた歌。
子どもの頃に覚えた歌。
学校帰りに口ずさんだ歌。
家族で歌った歌。
戦争の勝利をたたえる歌ではない。
人を殺すために勇気を奮い立たせる歌でもない。
春の風。
花。
故郷。
汽車。
家族。
当たり前の暮らしを歌うものだった。
正明は、恵の手を握りながら歌った。
声の震えが少しずつ収まっていく。
幸は音程を外しながらも、構わず歌い続けた。
恵が時々笑う。
「また外れた」
「黙って歌いんしゃい」
「お姉ちゃんにつられる」
「うちに合わせたらよか」
「全員迷子になるやろ」
合唱の途中で笑いが混ざる。
それでも、歌は止まらなかった。
十 歌の外側にある戦争
壕の外では、航空機の音が続いていた。
遠くで、高射砲らしき音が響く。
地面がわずかに震えた。
歌声が一瞬止まる。
正明が恵へ抱きついた。
「爆弾?」
誰にも分からない。
幸は妹を見る。
恵はうなずいた。
二人は、もう一度歌い始めた。
今度は先ほどより小さく。
だが、止めなかった。
怖くないから歌うのではない。
怖いから歌う。
恐怖に心を全部持っていかれないために。
爆撃機の音だけで、防空壕の中を満たさないために。
戦争の音へ、人間の声を重ねるために。
節子は娘たちの歌を聞きながら、涙を拭った。
勝一も、暗闇の中で目を閉じていた。
幼い頃の幸と恵。
同じ顔で笑い。
同じ歌を歌い。
どちらが上手か言い争っていた日々。
その頃は、家族四人が防空壕へ入り、敵機の音を聞く未来など想像していなかった。
十一 幸の問い
歌が一曲終わった。
正明が言う。
「もう一回」
幸は笑う。
「うちの歌、下手って言うたやろ」
「でも面白い」
「歌で笑いば取っとるわけやなかよ」
恵が言う。
「結果的には取れとる」
幸はため息をついた。
「じゃあ、次は恵が最初ね」
二曲目が始まる前。
幸は、ふと呟いた。
「空の上の人たちも、昔は歌ば歌いよったとかな」
壕の中が少し静かになる。
敵機へ乗っている兵士。
アメリカの若者たち。
彼らにも家族がいる。
子どもの頃がある。
学校で歌を覚えた日がある。
恋人がいるかもしれない。
「向こうの人も、人間やもんね」
恵が答えた。
「うん」
幸は暗闇の天井を見た。
「何で、同じように歌ば歌う人間同士が、爆弾ば落とし合わんばいかんとかな」
誰も答えられなかった。
正明は難しい話が分からない。
ただ、幸へ尋ねた。
「飛行機の人も、怖かと?」
幸は答えた。
「たぶん怖かよ」
「なら、帰ればよかとに」
「本当にね」
それは、子どもにしか言えないほど真っすぐな答えだった。
十二 警報解除
長く感じられた時間のあと。
外から声が聞こえた。
最初は、何を言っているのか分からなかった。
やがて、はっきり届く。
「警報解除!」
壕の中に安堵の息が広がった。
泣き出す者。
手を合わせる者。
座り込んだまま動けない者。
正明は母親へ抱きついた。
「終わったと?」
「終わったよ」
母親も泣いていた。
「お姉ちゃんたち、ありがとう」
正明が幸と恵へ言う。
幸は笑った。
「今度会うときは、うちの歌が上手になっとるけんね」
恵が言う。
「それは戦争が終わるより難しかかもしれん」
「恵!」
正明が笑った。
防空壕の出口に、薄い光が差し込んだ。
住民たちは、順番に外へ出ていく。
幸たちも外へ出た。
十三 変わらなかった町
長崎の町は、そこにあった。
坂道。
家々。
路面電車の線路。
港。
造船所。
大村家。
すぐ近くに爆弾が落ちた形跡はない。
今回、長崎は直接の攻撃を受けなかった。
遠方で高射砲が撃たれたのか。
敵機が別の方向へ向かったのか。
正確なことは分からない。
それでも、町は無傷だった。
幸は家の屋根を見る。
「残っとる」
節子がうなずく。
「うん」
「加工場も」
勝一も答える。
「ああ」
恵は造船所の方角を見る。
「龍弥さんは」
「造船所の防空壕へ入っとるやろ」
「勝男さんも」
「機関区たい」
離れている。
無事かどうか、まだ分からない。
解除になったからといって、すぐに安心できるわけではなかった。
「会いに行く」
幸が言う。
勝一が止める。
「まだ混乱しとる。機関区の仕事も残っとる」
「でも」
「向こうも、お前が安全な場所におることを願っとる」
幸は唇を噛んだ。
待つしかない。
戦時中、家族は何度もその苦しみを味わうことになる。
十四 勝男の帰宅
夕方。
勝男が大村家を訪れた。
作業着には煤がつき、顔には疲れが残っている。
幸は玄関へ駆け出した。
「勝男さん!」
「幸さん」
「無事やった?」
「はい」
幸は勝男の両腕をつかみ、頭から足まで確認する。
「怪我は?」
「ありません」
「本当に?」
「本当です」
「大丈夫って言葉ではなく?」
「異常ありません」
幸はようやく息を吐いた。
「機関区は?」
「機関車を分散して、全員防空壕へ入りました」
「原田さんも?」
「はい」
「区長も?」
勝男は一瞬、目をそらす。
「最後まで残ろうとして、原田さんに怒られました」
幸は呆れた。
「責任者って、何で皆そがんことするの」
「責任者やけんでしょう」
「死んだら責任取れんやろ」
「原田さんも同じこと言いよりました」
勝男は、幸の顔を見る。
「幸さんたちは?」
「防空壕で歌ば歌った」
「歌?」
「子どもが怖がっとったけん」
恵が後ろから言う。
「お姉ちゃん、盛大に音ば外しよった」
「そこ言わんでよか!」
勝男が笑った。
「聞きたかったです」
「今度歌うよ」
恵が言う。
「覚悟しとった方がよかですよ」
「恵!」
久しぶりの笑いが玄関へ広がった。
十五 龍弥も帰る
夜。
龍弥も大村家へ顔を出した。
恵は姿を見つけるなり、走っていった。
「龍弥さん!」
「ただいま」
「怪我は?」
「ありません」
「大丈夫ではなく?」
「腕も足も、全部動きます」
恵は龍弥の腕や肩を確認する。
「造船所は?」
「全員避難できました」
「伊藤さんも?」
「最後に入ってきました」
「やっぱり」
龍弥は苦笑した。
「全員が入ったのを確認せんと、動かん人やけん」
恵は龍弥の手を握った。
「怖かった?」
「怖かったです」
「うちも」
「飛行機の音、聞こえました?」
「うん」
「俺も」
二人はしばらく黙った。
同じ空の下。
別々の防空壕。
互いの無事を願いながら、航空機の音を聞いていた。
「恵さん、何しよったと?」
「歌」
「歌?」
「子どもたちと」
「恵さんが?」
「お姉ちゃんも」
龍弥は幸を見る。
「音痴やったそうです」
「龍弥さんまで!」
「俺はまだ聞いてません」
「じゃあ今から歌う?」
全員が一瞬、黙った。
恵が言う。
「空襲より先に耳が被害ば受けるよ」
「もう歌わん!」
食卓へ、小さな笑いが広がった。
十六 歌った理由
その夜。
大村家、平戸家、篠田家、原田家、伊藤たちは、坂の上の喫茶店へ少しずつ集まった。
全員が無事だった。
それだけを確認するための集まりだった。
食べ物はほとんどない。
老婆が出したのは、薄い紅茶と小さな芋。
それでも、誰も不満を言わなかった。
今日、生きて集まれた。
そのことの方が大切だった。
正明と母親も、喫茶店へ来ていた。
「歌のお姉ちゃん!」
正明が幸を見つける。
幸は少し嫌な予感がした。
「その呼び方、上手な方? 下手な方?」
「下手な方」
店内に笑いが起こった。
勝男も龍弥も、原田も伊藤も笑った。
幸は頬を膨らませる。
「人ば助けたのに、評価そこ?」
正明は言う。
「でも、元気出た」
幸の表情が変わる。
「本当に?」
「うん」
「怖くなくなった?」
「少しだけ」
恵が正明へ尋ねる。
「歌ったら元気出るよね」
「うん」
老婆は、静かに二人を見つめていた。
「よかことばしたね」
幸が答える。
「うちは音程ば外しただけです」
「音程が合うことより、心が隣の人と合う方が大事なときもある」
店内が静かになる。
老婆は続けた。
「空襲の音だけ聞いとったら、怖さで心がいっぱいになる」
「はい」
「そこへ、人の声ば入れたとやろ」
恵はうなずいた。
「戦争前に歌いよった歌を」
「それでよか」
老婆は微笑んだ。
「戦争が来る前の自分たちを、少し取り戻したとよ」
十七 戦争前の歌
人々は、戦争前の暮らしを思い出した。
ラジオでオリンピックを応援した日。
学校帰りに歌った道。
畑仕事の途中で口ずさんだ歌。
漁船の上で歌った歌。
機関車の汽笛に合わせて、子どもが適当な節をつけた日。
洋服の縫製工場で、女性たちが流行歌を歌いながら働いていた頃。
造船所で、商船の進水を祝って歌った日。
歌は、生活の中にあった。
国へ命じられて歌うものではない。
軍隊の行進へ合わせるためでもない。
誰かと一緒に過ごす時間の中から、自然に生まれるものだった。
「また歌えるようになるとよかですね」
龍弥が言う。
「防空壕やなくて」
恵が続ける。
「家で」
幸も言う。
「汽車の中で」
勝男が笑う。
「走行中に歌われたら、仕事へ集中できません」
「うちの歌が?」
「特に幸さんの歌が」
「勝男さんまで!」
再び笑い声が起こった。
十八 最初の恐怖
その夜。
幸と恵は並んで布団へ入った。
窓は灯火管制のため、黒い布で覆われている。
外から星は見えない。
「今日、怖かったね」
幸が言う。
「うん」
「空の音ば聞くだけで、体が動かんようになった」
「うん」
「でも、歌い始めたら少し楽になった」
「お姉ちゃんは、皆に笑われとったけどね」
「まだ言う?」
恵は小さく笑った。
「でも、本当に元気出たよ」
「恵も?」
「うん」
幸は暗い天井を見た。
「歌って、爆弾ば止められんやろ」
「うん」
「飛行機も追い返せん」
「うん」
「それでも意味あるとかな」
恵は姉の手を握った。
「正明君、少し怖くなくなったって言うたやろ」
「うん」
「なら、意味あったよ」
「そっか」
二人は黙った。
しばらくして、幸が小さく歌い始めた。
先ほど防空壕で歌った歌。
やはり、最初の音から少し外れていた。
恵が吹き出す。
「お姉ちゃん」
「何ね」
「やっぱり音痴」
「暗いけんたい」
「家の中でも音が迷子になると?」
「灯火管制のせい」
二人は布団の中で笑った。
その笑いは小さかった。
だが、今日聞いた警報音よりも。
二人にとっては、ずっと大切な音だった。
十九 空から来る戦争
今回、長崎の町に大きな被害はなかった。
警報は解除され。
家族は帰宅し。
機関区も造船所も、仕事を再開した。
しかし、人々の心は以前と同じではなかった。
敵機は日本本土へ来る。
空から戦争が降りてくる。
長崎も例外ではない。
軍港。
造船所。
機関区。
兵器工場。
戦争を支える施設が多い町。
これから、何度空襲警報が鳴るのか。
次は本当に爆弾が落ちるかもしれない。
誰にも分からない。
戦争は海の向こうの出来事ではなくなった。
防空壕の暗闇。
航空機の音。
震える土。
泣く子ども。
それらは、幸と恵の記憶へ刻まれた。
同時に。
暗闇の中で歌った声も。
音程を外した幸へ向けられた笑いも。
正明の「元気出た」という言葉も。
確かに残った。
空襲は、人々を恐怖へ閉じ込めようとした。
だが幸と恵は、その暗闇の中へ歌を持ち込んだ。
戦争前の暮らし。
未来への希望。
人間らしい笑い。
それらを、完全には奪わせなかった。
次回予告
初めて本物の空襲警報を経験した幸と恵。
防空壕の中で歌った明るい歌は、泣いていた子どもたちへ小さな笑顔を取り戻させた。
しかし、空襲の危険はこれからさらに増していく。
長崎の町では、防空壕の増設と避難訓練の強化が進められる。
加工場、機関区、造船所、縫製工場。
それぞれの職場で、空襲時にも仕事を続けるための体制が作られていく。
勝男は、警報発令中でも軍需列車を安全な場所へ退避させる役目を任される。
龍弥は、爆撃で火災が起きた場合、建造中の軍艦から作業員を避難させる班へ加わる。
そして、幸と恵の前に、一人の負傷兵が現れる。
戦地から戻った青年は、右腕を失い、夜になると爆撃の音を思い出して眠れなくなっていた。
次回、第29話。
「帰ってきた兵士」
故郷へ帰れた。
それだけで喜べるはずだった。
しかし青年の心は、まだ戦場から戻ることができずにいた。




