限界を超える現場
『幸と恵のものがたり』
第27話 限界を超える現場
昭和十七年、六月。
長崎の町には、蒸し暑い雨が降り続いていた。
坂道を流れる雨水。
湿った石畳。
雲に隠れた港。
造船所から響く金属音。
機関区から立ち上る黒煙。
新聞は、依然として日本軍の勇敢な戦いを伝えていた。
だが、現場で働く者たちは感じていた。
何かが変わり始めている。
運び込まれる負傷兵は増えた。
修理を求められる軍需品も増えた。
それなのに、鉄も油も石炭も足りない。
列車も船も、以前より多く必要だと言われる。
しかし、それらを動かす人間と機械は、すでに限界へ近づいていた。
そして、遠い太平洋の海上では。
日本海軍が、ミッドウェー島を巡る戦いで、取り返しのつかない損失を受けていた。
その敗北の全容を、長崎の市民は知らされていなかった。
一 質の悪い石炭
深夜。
長崎を発った軍需貨物列車が、山あいの線路を走っていた。
長い貨車の列。
積み荷は鋼材、機械部品、食糧、弾薬箱。
先頭と中ほどには、二両の蒸気機関車が連結されている。
重連運転。
前の機関車が引き。
後ろの機関車が力を加える。
本川内付近の急勾配を越えるためには、二両の呼吸を合わせなければならない。
後方の機関車には、平戸勝男と原田正勝が乗っていた。
火室の扉を開く。
赤い炎。
黒い石炭。
むせ返る熱気。
勝男はショベルで石炭をすくい、火床へ広げた。
だが、炎が思うように強くならない。
「原田さん!」
「何だ!」
「また灰が増えとります!」
原田が火室をのぞく。
火床の一部が黒く沈み、空気の流れが悪くなっていた。
質の悪い石炭。
燃えにくい。
灰が多い。
熱が上がらない。
同じ量を入れても、蒸気圧を維持できない。
「火床ば崩せ!」
「はい!」
勝男は火かき棒を入れた。
固まり始めた燃え残りを崩す。
その瞬間、火の粉が運転室へ舞い上がった。
勝男は顔をそむける。
腕へ火の粉が当たる。
痛みを感じる暇はなかった。
蒸気圧計の針が、少しずつ下がっている。
「圧力、落ち始めとります!」
原田が前方を見る。
勾配は、もう始まっていた。
列車の速度がわずかに落ちる。
前の機関車から、力を求める汽笛が鳴った。
「石炭ば一度に入れるな!」
原田が叫ぶ。
「燃えん石炭ば増やしても、火床ば塞ぐだけたい!」
「はい!」
勝男は量を減らし、燃えている場所を選んで石炭を入れる。
右奥。
中央。
左側。
空気を通す。
火の状態を見る。
圧力計を見る。
速度を見る。
だが、針は戻らない。
二 長編成の重さ
貨車には大量の軍需物資が積まれていた。
一本の列車へ、できるだけ多く積む。
一度に運べる量を増やす。
少ない機関車で、多くの物資を送る。
上から求められた効率だった。
だが、列車が長く、重くなるほど、勾配では機関車へ大きな負担がかかる。
良質な石炭。
十分な潤滑油。
適切に整備された部品。
元気な乗務員。
そのすべてがそろって初めて、安全に走らせることができる。
今は、そのどれも不足していた。
「速度、落ちます!」
勝男が叫ぶ。
原田は速度計を見る。
列車は、確実に力を失っている。
前の機関車の排気音も苦しそうだった。
シュッ。
シュッ。
シュッ。
間隔が乱れる。
動輪が一瞬空転し、甲高い音を立てた。
「砂を使え!」
原田の指示で、線路へ砂が落とされる。
車輪が再び線路をつかむ。
しかし、速度は戻らない。
「このままでは止まります!」
「分かっとる!」
止まれば、再出発は難しい。
勾配の途中。
重たい貨車。
質の悪い石炭。
二両の機関車でも、再び動き出せる保証はない。
だが無理に火を強めれば、機関車へ負担がかかる。
軸受。
連結棒。
ボイラー。
潤滑油も十分ではない。
どこか一つが故障すれば、列車全体が危険にさらされる。
三 後続列車
そのとき。
車掌から、緊急の知らせが届いた。
後方から、別の軍需列車が接近している。
本来なら、一定の間隔を置いて運行されている。
だが、軍需輸送の増発によって列車間隔は以前より詰められていた。
「後続は、どこまで来とる!」
原田が尋ねる。
車掌が答える。
「一つ手前の閉塞へ入る可能性があります!」
信号設備が正常に働けば、後続列車は停止する。
しかし、勾配の途中でこちらが止まれば、後続へ与える影響は大きい。
「前へ進むしかなか!」
車掌が叫ぶ。
「ここで止まったら、後続も立ち往生する!」
原田は速度計を見る。
勝男は火室を見る。
圧力は足りない。
機関車は苦しんでいる。
「勝男!」
「はい!」
「火床の左ば開けろ!」
勝男は火かき棒を入れた。
灰を崩す。
炎が一瞬強くなる。
「圧力、少し戻ります!」
「保て!」
「はい!」
だが次の瞬間。
機関車の足元から、異様な金属音が響いた。
ガンッ。
原田の顔が変わる。
「何の音だ!」
勝男も耳を澄ませた。
規則的な車輪音に混じり、低い打撃音が続く。
ガン。
ガン。
ガン。
「連結棒か、軸受かもしれません!」
「潤滑は」
「出発前に確認しとります!」
油不足。
中古部品。
連続運転。
可能性はいくつもあった。
「このまま力ばかけたら危なかです!」
勝男が叫んだ。
「だが止まれば――」
原田の言葉が途切れる。
進むか。
止まるか。
どちらにも危険がある。
四 止める判断
勝男は、重連機関車の夜を思い出した。
水位計の異常。
軍の係官からの圧力。
輸送の遅れ。
それでも止めた。
安全を確認できなければ、走らせない。
原田から教わった言葉。
判断は、結果だけで決めるものではない。
その時点で見えている危険から決める。
「原田さん」
勝男は言った。
「止めましょう」
原田が勝男を見る。
「勾配の途中だぞ」
「分かっとります」
「後続も来る」
「信号と車掌から、すぐ停止を伝えます」
「再出発できんかもしれん」
「この音のまま力ばかけたら、部品が折れるかもしれません」
勝男の声に迷いはなかった。
「折れて脱線したら、後続どころやありません!」
原田は一瞬だけ目を閉じた。
そして決断した。
「停止する!」
汽笛が山へ響いた。
異常を知らせる合図。
前の機関車から応答が返る。
ブレーキ。
二両の機関車が、ゆっくり力を抜く。
貨車同士の連結器が押される。
ガシャン。
ガシャン。
ガシャン。
長い列車が、勾配の途中で止まった。
五 後続列車を止めろ
車掌と駅側へ、緊急連絡が送られた。
後続列車へ停止信号。
信号所では、係員が必死に合図を送る。
暗い山あい。
雨。
濡れた線路。
後続の機関士が信号へ気づく。
ブレーキがかけられる。
車輪がきしむ。
列車は速度を落とした。
だが、重たい軍需貨物。
濡れた線路。
質の悪い石炭で蒸気の調整にも余裕がない。
停止位置が迫る。
「止まれ!」
信号係が叫ぶ。
後続列車の車輪が、激しく音を立てる。
砂がまかれる。
動輪が線路へ食いつく。
やがて。
先行列車から十分な距離を残した位置で、後続列車は止まった。
衝突は避けられた。
六 壊れかけた軸受
勝男と原田は、灯りを持って機関車を降りた。
問題の音を確かめる。
車輪。
連結棒。
軸受。
足回りには熱がこもっていた。
原田が手を近づける。
「触るな。熱を持っとる」
潤滑油が十分に回らず、軸受が異常に発熱していた。
もう少し無理に走っていれば。
焼きつき。
部品の破損。
最悪の場合、車輪の動きが乱れ、脱線につながった可能性がある。
勝男の顔が青ざめる。
「本当に、限界やったとですね」
「ああ」
原田は機関車を見上げた。
部品不足。
油不足。
悪い石炭。
長い編成。
過密な運行。
一つだけなら耐えられたかもしれない。
だが、すべてが重なった。
「事故って」
勝男が言う。
「一つの原因だけで起きるとは限らんとですね」
「ああ」
原田は答えた。
「小さな無理ば積み重ねて、最後にどこかが壊れる」
戦争そのものと同じだった。
七 山崎区長の怒り
事故寸前の報告は、長崎機関区の山崎信吾区長へ届けられた。
山崎は、整備記録を握りしめた。
軸受の発熱。
潤滑油不足。
中古部品。
石炭品質。
列車増発。
過大な編成。
すべて、軍との交渉で訴えた問題だった。
それでも、軍は増発計画を変えなかった。
「これでも、精神が足りんと言うつもりか」
山崎の声が震えた。
整備責任者が言う。
「今回は止められました」
「次も止められる保証はなか」
原田と勝男が戻ってくる。
二人とも煤と雨で汚れていた。
山崎は勝男を見る。
「停止を進言したのは、お前か」
「はい」
「よく止めた」
勝男は頭を下げた。
「原田さんが決断してくれました」
原田が言う。
「勝男が音へ気づかんかったら、進んどったかもしれません」
山崎は二人を見る。
「軍から遅延の責任ば問われる」
「はい」
「だが、責任は俺が取る」
「区長」
「お前たちは、列車ば守った」
山崎は整備記録を机へ置いた。
「それでよか」
八 造船所の足場
同じ夜。
長崎の造船所では、軍艦建造の夜間作業が続いていた。
ミッドウェー海戦の大敗によって失われた艦艇を補う。
現場では、はっきりそう説明されてはいなかった。
だが、建造計画の急な変更。
増える注文。
短縮される工期。
海軍関係者の険しい表情。
職人たちは、何か大きな損失があったことを察していた。
龍弥は、高い足場の上で溶接箇所を確認していた。
少し離れた位置では、若い職人・川瀬清一が工具を運んでいる。
清一は十八歳。
造船所へ入って一年ほどだった。
連日の夜勤。
短い睡眠。
食事不足。
顔色は悪かった。
龍弥が声をかける。
「川瀬君、大丈夫ね」
「大丈夫です」
その返事を聞いた瞬間、龍弥の表情が変わる。
「その言葉ば言う人は信用したらいかんって、皆から言われとる」
清一は少し笑った。
「龍弥さんまでですか」
「少し休まんね」
「この部品ば運んだら」
「俺がやる」
「龍弥さんも仕事があるでしょう」
清一は歩き出した。
だが、その足元が揺れた。
「川瀬君!」
工具が手から落ちる。
清一の体が、足場の外へ傾いた。
九 つかんだ腕
龍弥は反射的に手を伸ばした。
清一の手首をつかむ。
だが、落下する体の重さに引かれ、龍弥自身も足場の端へ引きずられた。
「うわっ!」
片足が足場から外れる。
下には、鉄骨と資材。
落ちれば命はない。
龍弥は片手で手すりをつかんだ。
清一は宙づりになっている。
「離してください!」
清一が叫ぶ。
「龍弥さんまで落ちます!」
「馬鹿言うな!」
龍弥は歯を食いしばった。
腕へ激痛が走る。
手すりを握る指が滑りそうになる。
「誰か!」
龍弥が叫ぶ。
「誰か来てくれ!」
伊藤勝が声に気づいた。
「篠田!」
伊藤と職人たちが駆け寄る。
龍弥の体を後ろから支える。
別の職人が清一の腕をつかむ。
一人。
二人。
三人。
力を合わせ、清一を足場へ引き上げる。
最後に龍弥も引き戻された。
二人は足場へ倒れ込んだ。
十 止まった現場
伊藤は、清一の体を確認した。
意識はある。
大きな外傷はない。
龍弥の腕には、強い痛みがあった。
「動かすな」
伊藤が言う。
「大丈夫です」
龍弥が答えた瞬間、伊藤の顔が険しくなった。
「その言葉ば使うな!」
造船所へ怒声が響いた。
伊藤は周囲の職人を見回す。
「作業中止!」
班長が駆けつける。
「何ば言いよる! 工程が遅れとる!」
「転落事故寸前です!」
「怪我人は出とらんやろ」
伊藤の顔が変わった。
「落ちてから止めるとですか」
「今は一分でも惜しい」
「人が死んでも?」
班長は言葉に詰まる。
伊藤は続けた。
「清一は立ったまま眠りかけとった」
「本人が大丈夫と言ったんだろ」
「十八の若者が、休みたいって簡単に言える現場にしましたか!」
周囲が静まり返る。
「篠田まで落ちかけた」
伊藤は足場を指す。
「これ以上続けたら、次は死人が出ます」
「軍から責任ば問われるぞ」
「人を死なせた責任より軽い!」
鉄道の山崎区長と同じ言葉だった。
十一 恵のもとへ
龍弥が病院で腕を診てもらった結果、骨に異常はなかった。
強い捻挫と筋肉の損傷。
しばらく腕を休ませるよう言われた。
恵が知らせを聞いたのは、縫製工場での勤務を終えたあとだった。
造船所の門前で待っていた伊藤から、直接聞かされた。
「龍弥さんが落ちた?」
恵の顔から血の気が引く。
「落ちてはおらん」
「でも、落ちかけたと?」
「ああ」
「どこにおるとですか」
「病院から家へ戻った」
恵は走り出そうとした。
伊藤が止める。
「慌てて、お前まで転ぶな」
「でも!」
「命に別状はなか」
その言葉を聞き、恵の膝から力が抜けた。
伊藤が支える。
「何で」
恵の目から涙がこぼれる。
「何でそこまで働かせると」
伊藤は答えられなかった。
「船が足りんけん?」
「そうだ」
「戦争で失ったけん?」
伊藤は黙った。
その沈黙が答えだった。
十二 行かないで、倒れないで
篠田家。
龍弥は布団へ横になっていた。
右腕には手当てが施されている。
梅は枕元で泣いていた。
慶一も険しい顔をしている。
恵が部屋へ入る。
「龍弥さん」
龍弥は起き上がろうとした。
「寝とって!」
恵の声が響く。
「大丈夫です」
「言わんで!」
龍弥は口を閉じた。
恵は枕元へ座る。
包帯を巻かれた腕。
疲れた顔。
「戦争に行かんでって言うただけでは足りんかった」
涙が落ちる。
「仕事でも死なんでって言わんばいかんとね」
「すみません」
「謝らんで」
「でも」
「龍弥さんが悪いんやなか」
恵は手を握った。
「無理ばさせる方が悪か」
龍弥は清一の腕をつかんだ瞬間を思い出した。
もし手を離していたら。
もし伊藤たちが間に合わなかったら。
「川瀬君を助けたかった」
「うん」
「手が勝手に動いた」
「うん」
「でも、俺まで落ちたら」
「うちが一人になる」
龍弥は目を閉じた。
「はい」
「だから、次は周りに助けば呼んで」
「はい」
「一人で何でも背負わんで」
「はい」
「毎日帰ってきて」
「約束します」
恵は龍弥の手を両手で包んだ。
十三 ミッドウェーの敗北
六月。
ラジオと新聞は、ミッドウェー方面で戦闘が行われたことを伝えた。
しかし、国民へ伝えられた発表からは、日本海軍が受けた損失の大きさを知ることはできなかった。
空母四隻。
多くの航空機。
熟練した搭乗員。
取り返すことのできない大きな損失。
大本営発表は、その敗北を小さく見せようとした。
長崎の人々は、詳しいことを知らない。
それでも、現場の変化から察し始めていた。
造船所の工程が、突然さらに厳しくなった。
軍需列車の本数が増えた。
負傷兵が増えた。
資材の要求が増えた。
「何か、大きな船ば失ったとやないですか」
龍弥が伊藤へ尋ねた。
腕の状態を見ながら、軽い仕事へ戻った日だった。
伊藤は周囲を見た。
「そうかもしれん」
「新聞には、勝ったようなことが」
「新聞が現場へ船ば返してくれるか」
龍弥は黙った。
失ったから、もっと造れ。
負けたから、取り返せ。
その事実を隠しながら、現場にだけ負担が押し寄せる。
「戦局、悪うなっとるとですか」
伊藤は答えなかった。
だが、否定もしなかった。
十四 勝男と幸
勝男は、勾配上で止まった軍需列車の話を幸へ伝えた。
幸は最後まで黙って聞いていた。
「あと少し進んどったら、脱線したかもしれん」
勝男が言う。
「原田さんと止めました」
「また止めたとね」
「はい」
「怒られた?」
「これから怒られるかもしれません」
幸は勝男の袖を握った。
「何度でも止めて」
「はい」
「戦争の荷物が遅れてもよか」
「それを大きな声では言えません」
「うちが言う」
「幸さんは言わんでください」
二人は少しだけ笑った。
だが、幸の表情はすぐに曇った。
「龍弥さんも落ちかけた」
「聞きました」
「皆、死ぬ寸前まで働かされとる」
勝男は線路を見た。
「列車も同じです」
「人も機械も?」
「はい」
「壊れるまで使うつもりね」
「たぶん」
幸の目に怒りが浮かぶ。
「戦争とかけまして」
勝男が、少し驚いて幸を見る。
「今、謎かけするとですか」
「せんと腹が立って仕方なか」
「どうぞ」
「戦争とかけまして、壊れかけの機関車と解きます」
「その心は?」
「どちらも止めんかったら、最後は全部ひっくり返ります」
勝男は、しばらく黙った。
「整いました」
「なら止めて」
「機関車は止めます」
「戦争は?」
勝男は答えられなかった。
十五 不要不急という言葉
昭和十八年へ近づくにつれ、鉄道の現場では新たな話が広がり始めた。
軍事輸送に直接役立たない路線。
利用者の少ない支線。
観光を目的とする路線。
そうした線路を「不要不急」とみなし、レールを外して重要路線や軍需へ回すという話だった。
長崎機関区の休憩所で、鉄道員たちが顔を見合わせる。
「線路ば剥がすって」
「本当か」
「使わんところのレールば、必要な場所へ回すそうたい」
勝男は眉をひそめた。
「使わんって、誰が決めるとですか」
山崎区長が答えた。
「上だ」
「地域の人は使っとるでしょう」
「利用者が少なければ、不要とされる」
「一人でも使っとる人がおるのに?」
山崎は苦い顔をした。
「戦争は、数が少ないものから切っていく」
列車が来ることで成り立っていた町。
荷物を運んでいた路線。
学校へ通う子ども。
病院へ行く老人。
国の数字では小さくても、その土地にとっては必要な線路だった。
「線路まで持っていくとね」
勝男が呟く。
自転車。
寺の鐘。
鍋。
金具。
そして今度は線路。
戦争は、国中から鉄をはぎ取ろうとしていた。
十六 松の根まで
さらに戦局が悪化すると、油の不足を補うため、松の根から油を取るという話まで聞かれるようになった。
山の松を掘る。
根を集める。
乾燥させる。
蒸し焼きにして油を取る。
松根油。
幸はその話を聞いたとき、しばらく意味が分からなかった。
「松の根っこで、飛行機ば飛ばすと?」
勝一が答える。
「そういう研究や生産を進めるらしい」
「本気ね?」
「本気だろう」
幸は恵を見る。
「もう、そこまで油がなかと?」
恵は小さく答える。
「あるなら、根っこ掘らんやろ」
幸は頭を抱えた。
「新聞では勝っとるって言いよったやん」
「うん」
「勝っとる国が、山ば掘って油ば絞ると?」
「罰ゲームが、さらに難しくなったね」
恵のぼやきに、幸は笑いそうになった。
だが、笑えなかった。
明らかにおかしい。
誰が見ても、戦局は悪化していた。
それでも、負けているとは言わない。
苦しいとは言わせない。
もっと働け。
もっと差し出せ。
もっと我慢しろ。
国は、同じ言葉を繰り返していた。
十七 初めての空襲
昭和十七年四月。
それより少し前。
東京をはじめとする日本各地へ、アメリカ軍機が飛来した。
日本本土への最初の空襲。
長崎が直接攻撃されたわけではない。
被害の規模も、後年の大空襲と比べれば限定的だった。
それでも。
「日本の空にも、敵の飛行機が来た」
その報せは、人々へ強い衝撃を与えた。
本土は安全。
敵は近づけない。
そう思わされてきた人々の前提が崩れた。
大村家でも、防空への備えが話し合われた。
灯火管制。
防空壕。
避難経路。
火を消すための水。
濡らしたむしろ。
「長崎にも来ると?」
恵が尋ねる。
勝一は答えに迷った。
「軍港も造船所もある」
龍弥の働く造船所。
勝男の働く鉄道。
軍需工場。
長崎は、戦争の重要な拠点になりつつあった。
「可能性はある」
節子の顔が青ざめる。
幸は窓の外を見る。
長崎の坂道。
家々。
寺。
学校。
路面電車。
喫茶店。
「爆弾ば落とされると?」
「まだ分からん」
「また分からん」
幸の声が震えた。
これまで戦争は、列車で遠くへ運ばれるものだった。
軍艦が海の向こうへ運ぶものだった。
だが今度は、空から町へやってくるかもしれない。
十八 防空訓練
町では、防空訓練がさらに厳しくなった。
警報が鳴れば、明かりを消す。
窓を覆う。
火を消す。
決められた場所へ避難する。
焼夷弾を想定した消火訓練。
負傷者を運ぶ訓練。
恵は救護訓練で覚えた包帯の巻き方を、家族へ教えた。
「ここを強く締めすぎたらいかんよ」
幸が腕を差し出す。
「こう?」
「お姉ちゃん、結び目が逆」
「怪我人は待ってくれんとよ」
「だから正しく覚えると」
勝一は、床下へ保管している工具を確認した。
節子は、水桶の位置を変えた。
家族四人で、避難する道を話し合う。
坂道の町。
狭い路地。
火が出れば、逃げ道が塞がれる可能性もある。
「もし離れたら」
節子が言う。
「必ず決めた場所に集まるとよ」
幸と恵はうなずいた。
「勝男さんと龍弥さんは?」
幸が尋ねる。
「仕事中なら、それぞれの持ち場へ残るかもしれん」
勝一が答えた。
「また仕事が優先ね」
幸は悔しそうに言った。
だが、鉄道員も造船工も、空襲時には重要な役割を担う。
列車を安全な場所へ動かす。
火災を防ぐ。
施設を守る。
負傷者を助ける。
大切な人と一緒に逃げられるとは限らなかった。
十九 笑えない未来
夜。
幸と恵は布団へ入っていた。
遠くで機関車の汽笛が鳴る。
造船所では、夜間作業が続いている。
「ねえ、恵」
「何?」
「戦争、悪うなっとるよね」
「うん」
恵は否定しなかった。
「新聞では言わんけど」
「線路ば剥がして、松の根っこまで掘るって」
「うん」
「それで勝っとるとは思えん」
「うん」
幸は天井を見た。
「空襲も始まった」
「長崎には、まだ来とらん」
「でも、いつか来るかもしれん」
「うん」
「怖かね」
「怖か」
二人は手を握った。
「謎かけする?」
恵が尋ねた。
幸は少し考えた。
「今日は、やめとく」
「笑えん?」
「うん」
恵は姉の手を強く握った。
「笑えん日は、笑わんでもよかよ」
「人間じゃなくならん?」
「ならん」
恵は答えた。
「泣くのも人間たい」
幸の目から涙がこぼれた。
「うち、皆に生きてほしか」
「うん」
「勝男さんも」
「うん」
「龍弥さんも」
「うん」
「お父さんも、お母さんも、原田さんも、伊藤さんも」
「うん」
「川瀬君も」
「うん」
一人ずつ。
名前を呼ぶ。
戦争は、人を数として扱う。
兵員。
工員。
乗務員。
死傷者。
損失。
だが、幸と恵にとっては、誰もが名前を持つ人間だった。
二十 限界を認めない国
人間には限界がある。
眠らなければ、判断を誤る。
食べなければ、力が出ない。
働き続ければ、倒れる。
機械にも限界がある。
油がなければ焼きつく。
部品がなければ壊れる。
質の悪い燃料では、十分な力を出せない。
線路を剥がせば、列車は走れない。
船を急いで造れば、不良が増える。
どれほど国が命令しても。
どれほど精神を求めても。
物理の法則は従わない。
人間の体も従わない。
それでも国は、限界を認めようとしなかった。
もっと作れ。
もっと運べ。
もっと働け。
もっと戦え。
その命令の先で。
列車は勾配の途中で止まり。
青年は足場から落ちかけた。
大きな事故にはならなかった。
二人とも生きて帰った。
だが、それは体制が正しかったからではない。
現場の人間が、命令より命を優先したからだった。
勝男が異音を聞き。
原田が停止を決断し。
山崎区長が責任を引き受けた。
龍弥が清一の腕をつかみ。
伊藤が作業を止めた。
彼らが止めなければ。
戦争は、そのまま人と機械を壊して進んでいただろう。
ミッドウェーの大敗。
不足する船。
不足する飛行機。
不足する油。
不足する鉄。
剥がされる線路。
掘り起こされる松の根。
そして、日本の空へ現れ始めた敵機。
誰が見ても、戦局は悪化していた。
ただ、それを口にすることだけが許されなかった。
⸻
次回予告
限界を超えた軍需列車を止めた勝男と原田。
転落しかけた若い職人を救った龍弥と伊藤。
現場の判断によって大事故は免れた。
しかし、ミッドウェー海戦後、日本軍は次第に守勢へ追い込まれていく。
新聞では「転進」と伝えられる撤退。
帰ってこない兵士。
減り続ける船と航空機。
物資不足は、国民の衣食住をさらに圧迫する。
やがて、長崎の町でも不要不急線から運ばれたレールや、松の根から採る油の話が当たり前のように語られ始める。
そして防空訓練中。
遠くから、本物の空襲警報が聞こえてくる。
訓練ではない。
敵機が、九州へ接近している。
次回、第28話。
「空襲警報」
これまで海の向こうにあった戦争が、空から町へ降りてくる。
幸と恵は、初めて本物の防空壕へ走る。




