届かない手紙
『幸と恵のものがたり』
第26話 届かない手紙
昭和十七年、夏。
長崎の空には、重たい雲がかかっていた。
蒸し暑い風が坂道を上り、町の家々へ入り込んでくる。
新聞は依然として、日本軍の勇敢な戦いを伝えていた。
ラジオからは、国民へさらなる協力を求める声が流れる。
勝利。
進撃。
転進。
戦果。
勇ましい言葉は増えていく。
だが、長崎機関区で働く鉄道員たちは、戦況が決して報道どおりではないことを、運ばれてくるものから感じ取っていた。
損傷した車両。
急いで送られる修理資材。
包帯を巻いた兵士。
閉め切られた客車。
返事のない手紙。
そして、以前なら考えられなかったほど深刻な部品不足。
戦争は、鉄道から安全を支えるものまで奪い始めていた。
一 交換できないボルト
朝の長崎機関区。
勝男は、蒸気機関車の足回りへ潜り込んでいた。
手には小さな灯り。
顔のすぐ近くに、太い車軸や連結棒がある。
鉄と油の匂い。
冷えた金属。
頭上から落ちてくる煤。
勝男は、一つずつボルトの状態を確かめていた。
緩み。
亀裂。
摩耗。
変形。
工具を当て、締まり具合を見る。
その中の一本に、不自然な感触があった。
「原田さん」
「どうした」
原田正勝が近づく。
勝男は問題のボルトを指した。
「ここ、ねじ山が傷んどります」
原田が確認する。
工具を当てる。
わずかに力をかけた瞬間、表情が険しくなった。
「交換だな」
「予備はありますか」
原田は答えなかった。
二人は資材庫へ向かった。
棚には、以前なら種類ごとに並んでいた部品がほとんど残っていない。
大型ボルト。
ナット。
座金。
弁の部品。
管の接続金具。
どれも必要数を下回っている。
資材担当の鉄道員が帳面をめくった。
「その寸法は、もうなか」
勝男が聞き返す。
「一つも?」
「ああ」
「いつ入るとですか」
「分からん」
原田の表情が険しくなる。
「発注は出しとるやろ」
「何度も」
「返事は」
「軍需優先」
その四文字が、すべてだった。
軍用車両。
軍艦。
航空機。
兵器。
弾薬。
鉄も、加工機械も、熟練工も、軍需へ優先的に回されている。
鉄道も軍事輸送を支える重要な存在のはずだった。
だが、その鉄道を安全に動かすための部品は、十分に回ってこなかった。
「交換できんまま走らせろってことか」
勝男の声に怒りが混じる。
資材担当者は首を振る。
「俺に言われても困る」
「でも、このボルトが折れたら」
「分かっとる!」
担当者の声も強くなった。
「分かっとるから、毎日あちこちへ頭ば下げよるとたい!」
機関区にいる誰もが、同じ苦しみを抱えていた。
部品がない。
油がない。
良質な石炭がない。
それでも、列車を増やせと言われる。
二 使える部品を探して
原田は、廃車予定の機関車が置かれている側線へ向かった。
勝男もついていく。
長く使われ、すでに本線運用から外された機関車。
部品を外され、骨組みに近い状態になった車両もある。
「ここから取るとですか」
勝男が尋ねる。
「寸法が合えばな」
原田は錆びた部品を確認した。
本来なら、新しい部品へ交換すべきだった。
だが今は、廃車からまだ使えるものを外し、別の機関車へ移すしかない。
「中古のボルトで大丈夫ですか」
「大丈夫かどうかば確かめるのが俺たちの仕事たい」
原田は一本を外した。
ねじ山。
金属疲労。
表面の傷。
変形。
慎重に見る。
「これは使えん」
次。
「これも摩耗が深い」
さらに次。
ようやく、比較的状態のよい一本が見つかった。
「これなら、応急的には使える」
「応急的」
勝男は、その言葉を繰り返した。
以前なら、正式な交換部品が届くまでの短期間を意味した。
だが今では、その「応急」がいつまで続くのか分からない。
「これば使って、また点検回数ば増やす」
原田が言う。
「一運用ごとに?」
「ああ」
「そこまでせんばいかんとですね」
「新品ではなかけん」
勝男はボルトを手に取った。
わずかな部品一つ。
だが、それが折れれば機関車の走行装置に重大な影響が出る。
列車には人が乗る。
負傷兵。
一般の乗客。
鉄道員。
そして大量の軍需物資。
「ボルト一つなくても列車は動かせん」
原田が言った。
「軍は、鉄道ばただ線路の上へ置けば走ると思っとるんやないか」
勝男は、何も言えなかった。
三 潤滑油の不足
部品だけではなかった。
潤滑油の供給も不安定になっていた。
蒸気機関車には、多くの動く部分がある。
車軸。
連結棒。
軸受。
弁装置。
ピストン。
金属同士が動く場所には、適切な潤滑が必要だった。
油が不足すれば、摩擦が増える。
熱を持つ。
摩耗が進む。
最悪の場合、焼きつきや部品破損につながる。
整備庫では、油を一滴も無駄にしないよう管理されていた。
原田は、潤滑油の容器を持ち上げた。
以前より明らかに軽い。
「これで何日もたせろって?」
整備担当者が言う。
「新しい配給は、まだ先だ」
「代用品は」
「質が安定せん」
勝男は容器の中を見る。
「使用量ば減らせと言われたとですか」
「ああ」
原田が鋭く言う。
「減らした結果、軸受が焼きついたら誰が責任ば取る」
誰も答えない。
鉄道員たちは、油をつける場所の優先順位を決めなければならなくなった。
どこへは必ず使う。
どこは量を減らす。
どの車両を休ませる。
本来なら、すべて必要な整備だった。
「安全に必要なものへ、優先も後回しもあるか」
原田は吐き捨てるように言った。
勝男も同じ思いだった。
すべてが安全のために必要なのだ。
四 質の悪い石炭
石炭の質も落ちていた。
良質な石炭は、軍や重要な軍需工場、艦艇などへ優先的に回された。
鉄道へ届く石炭には、燃えにくいものや、灰分の多いものが増えた。
同じ量を火室へ入れても、十分な熱を得られない。
燃え残りが増える。
灰がたまりやすい。
火床が乱れる。
蒸気圧を保つには、これまで以上に多くの石炭をくべなければならない。
だが、量にも限りがある。
ある軍需列車の乗務前。
勝男は炭水車の石炭を見た。
黒の中に、灰色がかった塊が混じっている。
手に取る。
軽く、脆い。
「また質が悪かですね」
原田が一つ拾う。
「これでは熱が上がらん」
「でも、列車は増発」
「ああ」
「編成も長くなる」
「ああ」
「勾配も越えろ」
「ああ」
勝男は石炭を炭水車へ戻した。
「無理やろ」
思わず漏れた。
原田も否定しなかった。
「これで列車ば増やせとか、無理たい」
正式な機関助手となり、経験を積んだ勝男だからこそ分かる。
気合では燃えない。
忠誠心では蒸気圧は上がらない。
命令では石炭の質は良くならない。
五 機関区長の決断
長崎機関区の区長・山崎信吾は、現場から上がってくる報告書を机へ並べていた。
五十二歳。
鉄道の現場で長く働き、機関士や整備員の経験も持つ男だった。
報告書には、同じ言葉が繰り返されている。
交換部品不足。
潤滑油不足。
石炭品質低下。
整備時間不足。
乗務員疲労。
軍需列車増発。
山崎は眼鏡を外し、額を押さえた。
机の前には、原田や整備責任者、運転担当者が集まっている。
「このままでは事故が起きます」
原田が言った。
「部品がないから、中古品ば外して使っとります」
整備責任者も続ける。
「検査周期を短くして何とか持たせとりますが、人手も足りません」
「油は?」
山崎が尋ねる。
「来月分まで届かん可能性があります」
「石炭は」
「今朝届いた分も、質が悪いです」
山崎は報告書を閉じた。
「軍へ話す」
室内が静まる。
「本当に?」
一人が尋ねた。
「ああ」
「軍需輸送を減らせと言うとですか」
「最低限、部品と油と石炭を回せと言う」
山崎は立ち上がった。
「安全を守る材料もなしに、列車だけ増やせという命令は受けられん」
原田は、区長の顔を見た。
「相手は軍です」
「分かっとる」
「簡単には聞かんでしょう」
「それでも言わんば、事故が起きる」
山崎は、現場を預かる者として覚悟を決めていた。
六 軍との交渉
数日後。
長崎機関区の会議室で、軍の輸送担当者との協議が行われた。
軍側から来たのは、佐伯忠義中佐。
輸送計画を担当する軍人だった。
机の上には、列車運行表と資材要求書が並べられている。
山崎区長は、最初から率直に話した。
「現在の資材状況では、これ以上の軍需列車増発は困難です」
佐伯中佐の表情が変わる。
「困難ではなく、必要だ」
「必要であることは理解しております」
「ならば動かせ」
「安全を確保できません」
佐伯は書類を机へ置いた。
「鉄道は軍事輸送の生命線だ」
「その生命線を維持する部品が届いておりません」
山崎は不足品の一覧を示す。
ボルト。
ナット。
弁部品。
軸受部品。
潤滑油。
良質な石炭。
「これらを優先的に回していただきたい」
佐伯は一覧へ目を通す。
「軍も不足している」
「承知しております」
「艦船も航空機も車両も、すべて資材を必要としている」
「鉄道が止まれば、その資材も運べません」
山崎の言葉に、佐伯の目が鋭くなる。
「脅すつもりか」
「事実を申し上げております」
「現場の工夫で対応せよ」
原田が隣で拳を握った。
山崎は冷静さを保つ。
「すでに廃車から部品を転用しております。油も使用量を減らし、石炭も質の悪いものを工夫して燃やしております」
「ならば、まだ動かせる」
「限界です」
山崎は、はっきり言った。
「限界という言葉は、戦時下では通用せん」
佐伯の声が低くなる。
「国民すべてが限界を超えて働いている」
「機械は精神論では動きません」
会議室の空気が凍りついた。
軍人に対し、正面から言うには危険な言葉だった。
それでも山崎は続けた。
「ボルトが折れれば、愛国心では締まりません」
「山崎区長」
「油がなければ、軸受は焼きつきます。石炭が悪ければ、勾配を越えられません」
佐伯は椅子から少し身を乗り出した。
「軍の命令へ従えんと言うのか」
「安全を確保する資材をくださいと申し上げております」
「ないものは出せん」
「なら、列車数を減らしてください」
その瞬間、交渉は決裂した。
七 決裂
佐伯中佐は、運行表を指でたたいた。
「増発計画は変更しない」
山崎は険しい顔をする。
「事故が起きてもですか」
「事故を起こさないのが鉄道の仕事だろう」
原田が思わず口を開きかけた。
山崎が手で制する。
「必要な資材がなくても?」
「工夫せよ」
「乗務員の勤務も限界です」
「人員配置を見直せ」
「休ませずに走らせれば、判断力が落ちます」
「戦地の兵士は眠らず戦っている」
山崎の表情が変わった。
「鉄道員は兵士ではありません」
「今は国民すべてが戦士だ」
「違います」
山崎は、静かにはっきりと言った。
「鉄道員は、人と物を安全に運ぶ者です」
「その物が軍需品なら、軍の命令に従え」
「軍需品でも、事故を起こしてよい理由にはなりません」
佐伯は書類をまとめた。
「話にならん」
「こちらも同じです」
山崎も立ち上がった。
会議は、何の合意もないまま終わった。
部品も増えない。
油も来ない。
良質な石炭も回らない。
列車数だけは増える。
最悪の結果だった。
八 区長の悔しさ
軍の担当者が帰ったあと。
山崎区長は、会議室の椅子へ腰を下ろした。
肩が落ちている。
原田が声をかける。
「区長」
「すまん」
「区長が謝ることやなかです」
「何も持ち帰れんかった」
「言うべきことは言いました」
山崎は拳を握った。
「言うだけでは、現場は守れん」
「でも、黙っとったらもっとひどくなります」
原田は答えた。
「佐伯中佐は、事故を起こすなと言いました」
整備責任者が苦い顔で言う。
「材料は出さん。列車は増やす。事故は起こすな」
「無茶苦茶たい」
勝男が漏らす。
山崎は若い勝男を見る。
「平戸」
「はい」
「お前なら、どうする」
突然の問いに、勝男は戸惑った。
だが、少し考えて答えた。
「安全を確認できん機関車は、走らせません」
「軍需列車でも?」
「はい」
重連機関車を止めた夜の経験がある。
怒鳴られても。
遅延の責任を問われても。
危険なら止める。
「事故ば起こしたら、部品も物資も人も、全部失います」
山崎は、しばらく勝男を見た。
そして、小さくうなずいた。
「そうだな」
九 機関区独自の判断
軍との交渉が決裂した翌日。
山崎区長は、機関区の責任者を集めた。
「軍需列車の増発命令は変わらん」
室内に重い空気が落ちる。
「だが、安全基準は下げん」
山崎は続けた。
「走行に必要な部品がない車両は運用から外す」
「列車が足りなくなります」
「承知しとる」
「軍から責められます」
「責任は俺が取る」
原田が尋ねる。
「整備周期は」
「短縮する」
「人手が」
「旅客列車の一部を減らすよう上へ申請する」
一般の乗客には不便が増える。
だが、無理にすべてを走らせれば、事故の危険が高まる。
「乗務員の連続勤務にも上限を置く」
「軍の増発に間に合わんです」
「疲労した乗務員ば乗せる方が危険だ」
山崎の声に迷いはなかった。
「これは命令だ」
軍の命令とは違う。
現場の安全を守るための命令だった。
十 悪い石炭との格闘
その夜。
勝男と原田は、長い軍需貨物列車へ乗り込んだ。
石炭は、やはり質が悪かった。
火室へ入れても、炎が弱い。
灰が増える。
火床へ空気が通りにくくなる。
「右側、詰まり始めとります!」
勝男が声を上げる。
「火床ば崩せ!」
原田が指示する。
勝男は火かき棒を使い、固まりかけた部分を崩した。
熱気が襲う。
火の粉。
煙。
汗。
それでも蒸気圧が上がりにくい。
「圧力、落ちます!」
「石炭ば一度に入れるな! 燃えんものば増やしても逆効果たい!」
「はい!」
量ではない。
燃える場所。
空気の流れ。
入れる間隔。
質の悪い石炭だからこそ、より細かな扱いが必要だった。
列車は勾配へ入る。
速度が落ちる。
前の機関車の汽笛。
「平戸、持たせろ!」
「はい!」
勝男は腕の痛みをこらえ、石炭をくべ続けた。
軍は、ただ列車を増やせと言う。
だが、その一本を走らせるため、現場では人間が限界まで知恵と体を使っていた。
十一 閉め切られた客車
途中駅。
貨物列車と行き違うため、勝男たちの列車が停車した。
反対側の線路へ、負傷兵を乗せた列車が入ってくる。
窓は閉め切られていた。
外から中は見えにくい。
だが、苦しげな咳。
うめき声。
看護する者の声。
勝男は運転室から、その音を聞いた。
「負傷兵ですか」
「ああ」
原田が短く答える。
一つの窓の隙間から、包帯を巻いた青年の顔が見えた。
若い。
勝男とそれほど変わらない。
青年は、窓へ額を寄せている。
故郷へ帰れるのか。
病院へ向かうのか。
どこまで生きられるのか。
分からない。
「新聞では勝っとるって」
勝男が言う。
「勝っても、怪我人は出る」
「はい」
「負けても出る」
原田は閉め切られた客車を見る。
「戦争に、無傷の勝利なんかない」
やがて負傷兵の列車が動き出した。
窓の奥の青年は、誰にも手を振らなかった。
振る力が残っていないようだった。
十二 届かなかった手紙
平戸家。
真子は、一通の封筒を手にしていた。
隣村の知人から預かったものだった。
その家の息子が戦地へ出ている。
母親が何度も手紙を書いた。
だが、今回の封筒は配達されずに戻ってきた。
宛先不明。
部隊移動。
真子は、知人の母親へ返しに行くことになった。
勝男も一緒に向かった。
家へ着くと、母親が玄関へ出てきた。
真子は言葉を選びながら封筒を差し出す。
「戻ってきたと」
母親は封筒を見た。
「返事?」
「違う」
その一言で、母親は察した。
封筒を受け取る。
自分が書いた文字。
息子の名前。
届けられなかった手紙。
「どこにおるとやろ」
母親が呟く。
「部隊が移っただけかもしれん」
真子が言う。
「でも、どこへ?」
誰も知らない。
母親は封筒を胸へ抱いた。
「生きとるよね」
勝男は答えられなかった。
「返事がないだけよね」
真子も、はっきりとは言えなかった。
沈黙。
それが最も残酷だった。
戦死通知なら、少なくとも国は死を伝える。
だが、何も届かない。
生きているのか。
傷ついているのか。
捕らえられたのか。
死んでいるのか。
家族は、どの感情を持てばよいのかさえ分からない。
十三 幸と勝男
勝男は、その日の夕方、幸に会った。
顔には疲れが残っている。
幸はすぐに気づいた。
「何かあったと?」
「手紙が戻ってきた家へ行きました」
勝男は、母親の姿を話した。
息子の行方が分からない。
返事がない。
手紙も届かない。
それでも生きていると信じたい。
幸は黙って聞いた。
「勝男さん」
「はい」
「うちが書いた手紙は、必ず読んでね」
「はい」
「返事も書いて」
「はい」
「短くてもよか」
「はい」
「『生きとる』の三文字でもよか」
勝男は、幸を見る。
「三文字ではなかですよ」
「そこはどうでもよか」
幸は涙を拭った。
「何でもよかけん、返事して」
勝男は幸の手を握る。
「俺は、鉄道員です」
「うん」
「戦地へ行くとは決まっとらん」
「分かっとる」
「でも、仕事で遠くへ行くことはある」
「うん」
「そのたびに書きます」
「約束ね」
「約束です」
十四 龍弥と恵
造船所でも、部品不足は深刻になっていた。
龍弥は伊藤とともに、届かない資材の代替方法を検討していた。
「規格が違います」
龍弥が言う。
「そのままでは使えん」
「削って合わせるとですか」
「強度が落ちる可能性がある」
「なら使えんですね」
「ああ」
上からは、何とかして使えと言われる。
だが、使えないものは使えない。
そこを曲げれば、海上で人が死ぬ。
「鉄道も部品が足りんそうです」
龍弥が言った。
「勝男さんが話しよった?」
「恵さんから」
伊藤は図面を閉じた。
「どこも同じたい」
「これで船も列車も増やせって」
「上におる人間は、数字ば増やせば物が出てくると思っとる」
龍弥は苦い顔をした。
「恵さんの工場も、糸や布が足りんそうです」
「それでも軍服ば増やせ?」
「はい」
伊藤は長く息を吐いた。
「戦争は、ないものまであることにして進めようとする」
その夜、龍弥は恵へ会った。
恵の指には新しい傷が増えていた。
「また刺したと?」
「糸の質が悪くて、何度も切れると」
「布も?」
「薄くなった」
軍服の質まで落ち始めている。
それでも数だけは増やせと言われる。
「鉄道も船も、同じみたい」
龍弥が言う。
「足りんのに作れ」
「危なかのに動かせ」
「疲れとるのに働け」
二人は顔を見合わせた。
恵が小さく言う。
「戦争とかけまして」
龍弥は少し笑う。
「はい」
「底のない袋と解きます」
「その心は?」
「どれだけ入れても、まだ足りんって言われます」
龍弥は笑った。
だが、その笑いは寂しかった。
「整いました」
「笑えるうちは笑おう」
「はい」
十五 区長の責任
軍需列車の一部が、整備不良を理由に運休となった。
軍から、長崎機関区へ抗議が入った。
山崎区長は呼び出され、厳しく責任を問われた。
「命令された本数が出ていない」
「安全基準を満たさない機関車がありました」
「修理して出せ」
「部品がありません」
「ほかから回せ」
「ほかも不足しております」
「現場の怠慢ではないのか」
山崎は机の上へ整備記録を置いた。
「これを見てください」
摩耗。
亀裂。
油不足。
中古部品。
石炭品質。
すべて数字と記録で示されている。
「怠慢ではありません」
「精神が足りん」
その言葉に、山崎の顔が変わった。
「精神でボルトは作れません」
以前、佐伯中佐へ言った言葉と同じだった。
「精神で油も湧きません」
「山崎区長」
「現場は、すでに限界を超えて工夫しております」
山崎は退かなかった。
「それでも危険なものは走らせません」
処分される可能性もあった。
役職を失うかもしれない。
それでも、安全基準を捨てることはできなかった。
十六 機関区の夜
その夜。
山崎区長は、機関区の構内を歩いていた。
整備員たちが遅くまで働いている。
勝男が、再利用するボルトを一本ずつ確認している。
原田が、潤滑油の使用記録を見直している。
誰も怠けていない。
誰も戦争を妨害しようとしているわけでもない。
ただ、事故を起こしたくない。
人を死なせたくない。
それだけだった。
「平戸」
山崎が声をかける。
「はい」
「今日の部品は」
「三本使えそうです」
「必要数は」
「五本です」
「足りんな」
「はい」
勝男は悔しそうに答えた。
「明日、別の廃車も見ます」
山崎は若い機関助手の手を見る。
油と錆で汚れている。
「無理するな」
「でも」
「疲れた目では、傷ば見落とす」
原田が横から言う。
「区長の言うとおりたい」
勝男はうなずいた。
「はい」
山崎は構内を見回した。
戦争は、人も物も使い潰そうとしている。
だからこそ、現場の責任者は止めなければならない。
休ませる。
外す。
確認する。
走らせない。
それは軍から見れば、消極的な判断かもしれない。
だが鉄道員にとっては、命を守るための積極的な決断だった。
十七 届かない声
長崎の夜。
軍需列車が、質の悪い石炭を燃やしながら走っていく。
黒い煙は以前より濃い。
排気音は重い。
機関助手たちは、蒸気圧を維持するために何度も石炭をくべる。
整備庫では、廃車から外した部品が磨かれている。
油は一滴ずつ管理される。
造船所では、届かない資材を待ちながら、工程が詰め直されている。
縫製工場では、質の落ちた布と糸で軍服が縫われる。
畑では肥料が足りない。
漁船には燃料がない。
それでも国は、もっと作れ。
もっと運べ。
もっと戦えと命じる。
現場から上がる声は、届かなかった。
部品が足りない。
危険だ。
休ませてほしい。
事故が起きる。
その声は、戦勝を伝える大きな放送にかき消されていく。
大村家の食卓。
幸は、薄い味噌汁を見ながら言った。
「勝っとる国って、こんなに何もなかと?」
勝一は答える。
「本当に勝っとるかも分からん」
恵が尋ねる。
「新聞は勝ったって」
「新聞が全部書くとは限らん」
幸は箸を置いた。
「現場の人が無理って言っても、上の人には届かんとね」
勝一は娘を見る。
「届いても、聞こうとせんのかもしれん」
節子が静かに言った。
「だから、近くの人の声だけは聞かんばね」
家族の疲れ。
隣人の困り事。
働く人の不安。
誰かの小さな声。
国へ届かなくても、目の前の人には届く。
幸はうなずいた。
「勝男さんの声も」
「うん」
「龍弥さんの声も」
恵も答えた。
「うん」
遠くから、蒸気機関車の汽笛が聞こえた。
質の悪い石炭を燃やし。
中古のボルトを使い。
限られた油で動く機関車。
それでも、安全を守ろうとする鉄道員たちの列車だった。
次回予告
鉄道部品、潤滑油、良質な石炭が不足する中、長崎機関区は独自に安全基準を守ろうとする。
軍との交渉は決裂し、区長・山崎信吾は責任を一身に背負う。
しかし、現場の努力だけでは埋められない限界が近づいていた。
軍需列車の走行中。
質の悪い石炭によって火床が乱れ、蒸気圧が急低下する。
勾配の途中で速度を失い始める長編成。
後方からは別の列車が接近している。
勝男と原田は、列車を止めずに勾配を越えるか。
危険を承知で非常停止するか。
瞬時の判断を迫られる。
一方、造船所では、疲労した若い職人が足場から転落する事故が発生。
龍弥は間一髪でその腕をつかむが、自身も足場の外へ引きずられていく。
次回、第27話。
「限界を超える現場」
人間にも。
機械にも。
限界はある。
それを認めない命令が、ついに大きな事故を引き起こそうとしていた。




