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幸と恵の物語  作者: リンダ


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25/44

勝利の報せ

『幸と恵のものがたり』


第25話 勝利の報せ


昭和十七年、初春。


長崎の町には、まだ冷たい風が残っていた。


坂道の隅には冬の名残があり、朝の石畳は薄く湿っている。


それでも町のあちこちには、戦勝を伝える張り紙が掲げられていた。


南方での進撃。


敵拠点の占領。


海戦での戦果。


新聞の見出しは、毎日のように大きな文字で「勝利」を伝えていた。


ラジオからは勇ましい音楽が流れ、兵士たちの働きをたたえる声が響く。


町内会では旗を掲げるよう言われた。


学校や工場では、勝利を祝う行事が行われた。


人々は万歳を求められた。


だが、大村家の食卓に並ぶものは、また少なくなっていた。


米には芋や麦が混ぜられ。


味噌汁の具はわずか。


魚は小さく。


油はほとんど使えない。


砂糖など、祝いの日でも手に入らなかった。


国は勝っている。


そのはずなのに。


暮らしは、なぜか敗けているように苦しくなっていた。


一 勝利を祝う朝


朝。


大村家のラジオから、南方での戦果を伝える放送が流れていた。


アナウンサーは力強い声で、軍の進撃を語っている。


幸は、加工場へ持っていく帳面を整理しながら聞いていた。


恵は縫製工場へ持っていく弁当を包んでいる。


弁当といっても、芋を混ぜた小さな握り飯が一つ。


漬物が少し。


それだけだった。


ラジオから、万歳の声が流れる。


恵は弁当箱を閉じながら、ため息をついた。


「うちらの生活ば、ぎりぎりまで削って」


幸が顔を上げる。


恵は続けた。


「勝利ば祝えって、何かの罰ゲームなん?」


幸は一瞬、きょとんとした。


すぐに口元が緩む。


「罰ゲームって、誰が誰に負けたとよ」


「国民が戦争に負けとる」


「でも新聞では勝っとるって」


「なら、暮らしだけ別の試合しよるとやろ」


幸は、思わず小さく吹き出した。


節子が台所から振り返る。


「朝から何ば笑いよると?」


「恵が、戦争は国民への罰ゲームやって」


「お姉ちゃん、言い方ば変えんで」


勝一は新聞を広げたまま、肩を揺らした。


「朝から際どか話ばするな」


「家の中くらいよかやろ」


幸が答える。


恵は、包んだ弁当を見た。


「勝利の祝いが、芋一個」


「贅沢言わんの」


節子が言う。


「言っとらんよ」


恵は弁当を持ち上げた。


「この芋が、国の勝利ば支えとりますって言いよるだけ」


幸はまた笑った。


「芋に国防任せたらいかんやろ」


「でも実際、農家さんが芋ば作らんかったら皆倒れるやん」


「なら、いちばん偉かとは兵隊さんやなくて芋やね」


「芋将軍」


二人は顔を見合わせた。


「何、その芋将軍」


「知らん。今できた」


小さな笑いが、家の中に広がった。


二 謎かけ問答


大村家を出たあと。


幸と恵は、坂道を歩いていた。


自転車はもうない。


市場へ行くにも。


駅へ行くにも。


工場へ向かうにも。


二人は足で坂を上り下りしなければならなかった。


恵は息を切らしながら言う。


「ねえ、お姉ちゃん」


「何ね」


「謎かけ問答やらんね」


幸が振り返る。


「は?」


「謎かけ」


「何で今?」


「笑いまで奪われたら、人間じゃなくなる」


幸は足を止めた。


恵の顔は、冗談を言っているようでいて真剣だった。


縫製工場では軍服ばかり。


毎日、同じ色の布。


同じ形。


同じ命令。


笑い声は減り、誰もが俯いて作業している。


家へ帰れば、戦況。


配給。


供出。


召集。


徴兵。


不安な話ばかり。


「笑えるときに笑っとかんと」


恵は言った。


「心まで軍服の色になるよ」


幸は、少し考えた。


「何色ね」


「全部同じ色」


「そら嫌やね」


「やろ」


幸は腕を組んだ。


「じゃあ、うちからね」


「どうぞ」


幸は、わざと咳払いをした。


「戦争とかけまして」


「うん」


「坂の上の空っぽの店と解きます」


「その心は?」


幸は少し間を置く。


「どちらも、上がっても何もなか」


恵は一瞬黙った。


そして、吹き出した。


「それ、ただの愚痴やん」


「謎かけたい」


「整ってない」


「世の中が整っとらんけん、謎かけも整わんとよ」


「うまいこと言った顔せんで」


幸は得意げに笑った。


「次、恵」


「はいはい」


恵も咳払いをする。


「勝利の報せとかけまして」


「うん」


「底の抜けた鍋と解きます」


「その心は?」


「どちらも、いくら入れても暮らしには残らん」


幸は口を押さえた。


「恵、それ危なか」


「家の近くでは言わんよ」


「でも、ちょっと上手い」


「ちょっと?」


「かなり」


二人は、坂道の途中で笑った。


大きな声ではない。


誰かに聞かれないように。


それでも確かに、笑った。


三 笑いを失わないために


幸は歩きながら言った。


「恵が謎かけしようって言うとは思わんかった」


「うちだって、冗談くらい言うよ」


「普段は、うちば止める役やろ」


「姉ちゃん一人に暴走させたら危なかけん」


「今日も止める?」


「今日は一緒に暴走する」


「何、その日替わり」


二人は笑った。


すると恵は、少し声を落とした。


「昨日、工場でね」


「うん」


「美代さん、また泣きよった」


幸の表情が変わる。


婚約者の戦死通知を受け取った美代。


作業へ戻ってはいる。


だが、軍服を見るたびに手が止まるという。


「自分が縫った服を、婚約者が着とったかもしれんって」


恵は言った。


「うん」


「それでも、もっと作れって」


幸は拳を握った。


「ひどか」


「皆、笑わんようになった」


恵は前を見る。


「工場長が来ても。休憩になっても。誰も話さん」


「恵も?」


「うちも」


「そら、しんどかね」


「うん」


しばらく二人は黙って歩いた。


「だから」


恵が言う。


「笑える相手がおるうちは、笑っときたか」


幸は妹を見る。


「うちでよかと?」


「姉ちゃんしかおらん」


「それ、褒めとる?」


「半分」


「残り半分は?」


「在庫処分」


幸は立ち止まった。


「うち、在庫扱い?」


「国家総動員法で残った姉」


「ふざけんなー!」


幸の声が坂道に響き、恵が慌てて口を押さえた。


「声、大きか!」


二人は、また笑った。


四 新聞の勝利


大村加工所。


勝一は新聞を机へ置いていた。


戦果を伝える見出し。


大きく描かれた進撃図。


敵の損害。


日本軍の活躍。


幸は帳面を置き、新聞をのぞき込んだ。


「また勝ったって」


「そう書いてある」


「本当に?」


勝一は娘を見る。


「何が言いたい」


「勝っとるなら、何で材料は減ると?」


加工場では、民間向けの金属がさらに手に入りにくくなっていた。


農具の修理。


漁船の金具。


家庭用の工具。


そうした仕事は後回しにされる。


軍需部品だけは、増産を求められる。


「勝っとるなら、余裕が出るんやないと?」


幸は言う。


「普通はね」


「でも実際は、鉄もなか。油もなか。食べ物もなか」


勝一は新聞を畳んだ。


「戦争は、勝っても物を使う」


「負けても?」


「使う」


「なら、勝っても負けても暮らしは減ると?」


「ああ」


幸は大きくため息をついた。


「最悪の仕組みやね」


「その言い方は外でするな」


「分かっとる」


幸は父のそばへ座った。


「お父さん」


「何だ」


「この新聞、本当のこと全部書いとるとかな」


勝一は答えに迷った。


「少なくとも、全部ではないだろう」


「負けたことも書かん?」


「書かんかもしれん」


「死んだ人の数も?」


「少なく伝えることはあるかもしれん」


幸は、新聞の見出しを見た。


勝利。


その文字の裏に、何人の死があるのか。


分からない。


「勝ったって言うけど、そのたびに誰か死んどるんやろ」


勝一はうなずいた。


「そうだ」


「なら、祝い方が分からん」


「俺もだ」


五 軍服工場の休憩時間


縫製工場。


昼の短い休憩時間。


恵は、小さな握り飯を食べていた。


隣には美代が座っている。


美代は、ほとんど口をつけていなかった。


「食べんと、倒れますよ」


恵が言う。


「食欲がなか」


「少しだけでも」


美代は握り飯を見る。


「この米も、兵隊さんに送る分から残ったものやろ」


「たぶん」


「うちの人も、向こうで食べたとかな」


恵は何も言えなかった。


美代は、かすかに笑う。


「ごめん。重たか話ばして」


「謝らんでください」


「恵ちゃんは、婚約者さんが造船所に残れたんやろ」


「今は」


「よかったね」


美代の声に嫉妬はなかった。


ただ、深い寂しさがあった。


「絶対、大事にせんばよ」


「はい」


「喧嘩しても、その日のうちに仲直りして」


「はい」


「帰ってきたら、ちゃんとお帰りって言って」


「はい」


美代は俯いた。


「うちは、もう言えんけん」


恵は、そっと美代の手を握った。


工場の片隅。


誰も笑っていない。


恵は、どうにか空気を変えようと思った。


「美代さん」


「何?」


「軍服とかけまして」


美代が顔を上げる。


「何ね、急に」


「毎日の仕事と解きます」


「その心は?」


恵は、少し考えた。


「どちらも、縫っても縫っても終わらん」


美代は一瞬、ぽかんとした。


そして、ほんの少しだけ笑った。


「それ、謎かけやなくて愚痴やろ」


「姉に似たみたいです」


「姉さん、面白か人ね」


「うるさか人です」


「聞こえたら怒られるよ」


「ここにはおらんけん大丈夫」


美代は、もう一度小さく笑った。


その笑顔はすぐに消えた。


それでも、確かにそこにあった。


六 勝男と原田の列車


長崎機関区では、勝利を伝える新聞が休憩所へ貼られていた。


兵士たちは進撃している。


日本は優勢。


戦果は拡大。


その隣には、軍需列車の増発表が掲示されている。


勝男は二枚を見比べた。


「勝っとるのに、列車は増えるとですね」


原田が答える。


「勝っとるから、もっと送れということだろう」


「兵隊も?」


「ああ」


「武器も?」


「ああ」


「食糧も?」


「ああ」


勝男は勤務表を見る。


夜勤。


重連。


軍需貨物。


兵員輸送。


休みは減っている。


「勝利って、楽になることやなかとですか」


「戦争では違うらしい」


原田は工具を手に取った。


「勝ったら次へ進めと言われる」


「次でも勝てって」


「ああ」


「終わらんやないですか」


原田は黙った。


勝男は、胸元の布袋へ触れた。


幸の書いた紙。


『必ず帰ってきて』


「原田さん」


「何だ」


「終わらせるための勝利って、なかとですか」


原田は、しばらく考えた。


「本当なら、戦争をやめるために話し合うべきだ」


「でも、今は」


「勝ったからもっと進め。負けたら取り返せ」


原田は苦い顔をした。


「どちらにしても、走らされる」


「汽車と同じ?」


「違う」


原田は機関車を見る。


「汽車には、止める人間がおる」


勝男は、その言葉を聞いた。


国にも、止める者が必要なのだと思った。


だが、誰が止めるのか。


答えはなかった。


七 龍弥と伊藤の作業場


造船所では、新たな艦艇建造の指示が出ていた。


龍弥は伊藤勝とともに、船体内部の区画を確認していた。


「ここ、補強材が少しずれとります」


龍弥が言う。


伊藤が確認する。


「図面と比べろ」


龍弥は寸法を測った。


「規定より外れとります」


「やり直しだ」


近くの班長が顔をしかめる。


「また遅れるぞ」


伊藤は即座に答える。


「安全に関わります」


「戦況は好調だ。今こそ急がんば」


伊藤の目が鋭くなる。


「戦況が好調なら、船ば雑に造ってよかとですか」


班長は黙った。


龍弥は伊藤の横顔を見る。


「勝っとるときほど急げって言われますね」


作業場を離れたあと、龍弥が言った。


伊藤は答える。


「負けとっても急げと言われる」


「結局、いつも急げ?」


「ああ」


「勝利って何なんでしょう」


伊藤は軍艦の鉄板へ手を置いた。


「現場の人間には、仕事が増える知らせかもしれんな」


龍弥は、恵の傷ついた指を思い出した。


勝利のたびに。


軍服が増える。


列車が増える。


船が増える。


そして、戦死通知も増える。


八 寺の鐘の代わり


寺の鐘が供出されてから、町の夕方は少し寂しくなった。


以前なら、低い鐘の音が坂道へ響いた。


今は、その音がない。


代わりに聞こえるのは。


造船所の金属音。


軍需列車の汽笛。


行進の号令。


戦況を伝えるラジオ。


幸と恵は、仕事からの帰り道で寺の前を通った。


鐘楼には、空いた場所だけが残っている。


幸が見上げる。


「勝利の鐘とか鳴らせって言われても、もう鐘なかね」


恵が答える。


「自分たちで持っていったけんね」


「間抜けやね」


「それも言ったら危なかよ」


「家に帰ってから言う」


二人は鐘楼の前で足を止めた。


「ねえ、恵」


「何?」


「鐘とかけまして」


「また?」


「国民の食卓と解きます」


「その心は?」


「どちらも中身がなくなりました」


恵は、思わず笑った。


「それ、怒られるやつ」


「でも整ったやろ」


「整った」


二人はクスッと笑った。


すると、寺の僧侶が背後から声をかけた。


「うまいこと言うね」


二人は飛び上がった。


「聞いとったとですか!」


幸が慌てる。


僧侶は穏やかに笑った。


「ここでは誰にも言わんよ」


「すみません」


恵が頭を下げる。


僧侶は、空になった鐘楼を見上げた。


「鐘はなくなったけど、笑う声が聞こえるなら、まだ町は死んどらん」


幸と恵は、僧侶を見る。


「笑ってよかとですか」


幸が尋ねる。


「人が死んどるときに?」


僧侶は静かに答えた。


「人の死を笑うのではないでしょう」


「はい」


「生きとる者が、生きるために笑うとよ」


恵は、老婆の言葉を思い出した。


笑うことまでやめれば、戦争に心を取られる。


「鐘の音の代わりに」


僧侶は言った。


「たまには、あんたたちの笑い声ば聞かせてください」


幸は少し照れた。


「大きな声では怒られますよ」


「小さくても届く」


九 勝利祝賀会


町内会では、戦勝を祝う集まりが開かれた。


旗。


軍歌。


万歳。


参加を断ることは難しかった。


大村家も、顔を出さなければならなかった。


幸は、最初から不機嫌だった。


恵が隣で何度も袖を引く。


「顔に出とるよ」


「出したくなくても出ると」


「少しだけ隠して」


「どうやって?」


「芋のこと考えたら」


「もっと腹立つ」


壇上では、町内会の代表が戦果をたたえている。


兵士たちの勇敢な働き。


国民の一致団結。


さらなる忍耐。


勝利の日まで。


幸は、小さくつぶやいた。


「また我慢せえって」


恵も小声で返す。


「勝利のお祝いなのに、次の我慢のお願い」


「祝うたびに罰が増える」


「やっぱり罰ゲームやね」


「今度は何ば取られるとかな」


「家の戸?」


「風が入る」


「布団?」


「寒い」


「笑い声?」


幸は一瞬、黙った。


「それは渡さん」


恵もうなずいた。


「うん」


壇上から万歳の合図が出た。


人々が腕を上げる。


幸と恵も、周囲に合わせて腕を上げた。


だが、その顔に熱狂はなかった。


心の中では、別の言葉を叫んでいた。


戦争を終わらせて。


兵士を帰して。


家族を返して。


十 少しだけ豪華な食卓


その夜。


節子は、わずかに残していた干し魚を食卓へ出した。


「今日は少し豪華ね」


幸が言う。


「祝賀会へ行ったけん?」


「違います」


節子は器を並べた。


「四人そろって帰ってきたから」


勝一がうなずく。


「その方が祝う理由になるな」


恵は干し魚を見た。


「これ、一人何口?」


「数えんで食べなさい」


「姉ちゃんが大きく取るけん」


「取らんよ」


「前も取った」


「偶然たい」


勝一が魚を四つに分ける。


「今日は俺が分ける」


幸が見る。


「お父さんのだけ大きくない?」


「家長たい」


節子が即座に言う。


「同じ大きさにしなさい」


勝一は黙って分け直した。


幸と恵が笑う。


「お父さん、敗北」


「大村家の戦況は母が優勢」


恵が言う。


節子が二人を見る。


「食卓で戦争ば始めんの」


「これは平和な戦争たい」


幸が答える。


「魚の領土争い」


「領土ば広げたら没収します」


節子の一言で、二人は姿勢を正した。


小さな笑いが食卓へ広がる。


勝利を祝うためではない。


誰かの死を喜ぶためでもない。


今日も家族四人で食べられたこと。


それだけを祝う笑いだった。


十一 幸と勝男の短い時間


翌日。


幸は長崎駅近くで、勝男と短い時間だけ会った。


勝男は夜勤明けで、目の下に疲れがあった。


「寝とらんと?」


幸が尋ねる。


「少しだけ」


「大丈夫?」


勝男は口を開きかけた。


幸が先に言う。


「大丈夫って言ったら怒るよ」


勝男は苦笑した。


「疲れとります」


「正直でよろしい」


「原田さんにも休めって言われました」


「なら帰って寝らんね」


「幸さんに会ってから」


幸は少し照れた。


「そんなこと言うても、何も出んよ」


「芋は?」


「出ん」


「残念」


二人は小さく笑った。


「最近、恵と謎かけしよると」


幸が言う。


「幸さんが?」


「恵から言い出した」


「意外ですね」


「笑いまで奪われたら、人間じゃなくなるって」


勝男は、しばらく黙った。


「恵さん、よかこと言いますね」


「うん」


「幸さんより落ち着いとる」


「今それ言う?」


「すみません」


幸は少し考えた。


「じゃあ勝男さんにも出す」


「何を?」


「謎かけ」


幸は咳払いをする。


「軍需列車とかけまして」


「はい」


「うちの勝男さんと解きます」


勝男の顔が赤くなる。


「その心は?」


「どちらも、必ず帰ってこんば困ります」


勝男は、しばらく何も言えなかった。


「整った?」


幸が尋ねる。


勝男は、ゆっくりうなずいた。


「整いました」


「なら、帰ってきてね」


「はい」


「毎日」


「はい」


「絶対」


「約束します」


十二 龍弥と恵の笑い


恵も、造船所帰りの龍弥と会った。


龍弥は、伊藤から休むよう命じられ、珍しく早く仕事を終えていた。


「今日は早かね」


「伊藤さんに追い出されました」


「何したと?」


「少しふらついた」


恵の顔が険しくなる。


「少し?」


「少しです」


「大丈夫って言った?」


「言いました」


「怒られた?」


「はい」


恵はため息をついた。


「皆、同じことばしよるね」


「勝一さんも原田さんも?」


「大丈夫って言う人ほど信用されん」


「俺も仲間入りですね」


「うれしそうに言わんで」


二人は並んで歩いた。


恵が言う。


「龍弥さんにも謎かけ出そうか」


「幸さんの影響ですか」


「うちから始めたと」


「それは失礼しました」


恵は少し考える。


「軍艦とかけまして」


「はい」


「龍弥さんの仕事と解きます」


「そのままやないですか」


「まだ途中」


「はい」


「その心は」


恵は龍弥を見る。


「どちらも沈んだら困ります」


龍弥は、思わず吹き出した。


「それ、俺が倒れるなってこと?」


「そう」


「整いました」


「なら、倒れんでね」


「はい」


「毎日帰ってきて」


「はい」


二人は手を握った。


笑いの中に。


不安も。


恐怖も。


願いも。


全部混ざっていた。


十三 笑いという小さな抵抗


戦争は続いた。


新聞は勝利を伝える。


ラジオは万歳を叫ぶ。


だが、食卓は小さくなった。


仕事は増えた。


手紙は短くなった。


戦死通知は増えた。


人々の顔から、笑いは減っていった。


幸と恵も、いつも笑っていられたわけではない。


泣く夜がある。


怒る朝がある。


怖くて眠れない日がある。


大切な人を失う想像に、胸が潰れそうになることもある。


それでも。


二人は時々、くだらない謎かけをした。


戦争とかけて。


配給とかけて。


軍需列車とかけて。


空っぽの鍋とかけて。


誰かに聞かれれば叱られるような皮肉を、家族の前だけで口にした。


そして、クスッと笑った。


その笑いは、戦争を軽く見るものではなかった。


犠牲者を忘れるものでもなかった。


自分たちが、まだ命令だけで動く人形ではないと確かめるための笑いだった。


まだ考えられる。


まだ怒れる。


まだ愛せる。


まだ笑える。


それは、人間であり続ける証だった。


夜。


大村家の窓の外を、軍需列車が通り過ぎていく。


長い汽笛。


重たい車輪の音。


幸と恵は、布団の中でその音を聞いた。


「勝男さんかな」


幸が言う。


「龍弥さんは造船所やね」


恵が答える。


「二人とも帰ってくるよね」


「帰ってくる」


少しの沈黙。


幸が小声で言った。


「軍需列車とかけまして」


恵は笑う。


「また?」


「うちらの未来と解きます」


「その心は?」


幸は、暗い天井を見つめた。


「どんなに長くても、終点まで行けば帰り道がある」


恵は、しばらく黙った。


「今度は、ちゃんと整ったね」


「やろ」


二人は、ほんの少し笑った。


その笑い声は小さかった。


それでも。


鐘を失った長崎の夜へ。


確かに響いていた。



次回予告


勝利の報せが続く一方、庶民の暮らしは苦しくなるばかりだった。


幸と恵は、小さな謎かけや冗談で、笑う心を守ろうとする。


しかし昭和十七年。


戦局は少しずつ変化し始める。


遠い海で、日本の空母や航空機が大きな損害を受けたという噂。


だが新聞は、詳しい敗北を伝えない。


長崎機関区では、損傷した軍需品や負傷兵を運ぶ列車が増え始める。


勝男は、窓を閉め切った客車の中から聞こえる苦しげな声に気づく。


造船所では、失われた艦艇を補うため、さらなる増産が命じられる。


龍弥と伊藤の作業時間は、限界を超えていく。


次回、第26話。


「届かない手紙」


戦地へ送った手紙が戻ってくる。


宛先不明。


部隊移動。


消息不明。


家族は、返事が来ないという沈黙の中で、最悪の知らせを待つことになる。

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