甲種合格
『幸と恵のものがたり』
第24話 甲種合格
昭和十六年、冬。
徴兵検査を終えた龍弥は、坂の上の喫茶店で恵と向かい合っていた。
湯気の立つ紅茶。
窓の外を走る路面電車。
港の方角から聞こえる造船所の音。
目の前の景色は、以前と変わらない。
けれど、二人の間に置かれた言葉だけが、すべてを変えていた。
甲種合格。
身体は健康。
兵役に耐え得る。
本来なら、健康であることは喜ばしいはずだった。
父と母は安心し。
婚約者も胸をなで下ろし。
本人も将来へ希望を持つ。
だが戦争の時代、その判定は違った意味を持つ。
健康である。
強い体を持っている。
国の命令に耐えられる。
戦地へ送ることができる。
龍弥という一人の青年が、国の帳簿の中で「兵士にできる者」として数えられた。
一 甲種という二文字
「甲種……」
恵は、かすれた声で繰り返した。
龍弥は、うなずいた。
「はい」
「それって、一番健康ってこと?」
「そう言われました」
「なら……」
恵は、何か明るい意味を探そうとした。
「病気はなかったとやろ」
「はい」
「目も、耳も、胸も」
「異常なかったです」
「そしたら、喜んでよかはずやのにね」
恵は、泣きそうな顔で笑った。
龍弥も笑おうとした。
だが、できなかった。
「今の時代やと、喜べんですね」
「うん」
二人の手は、テーブルの上で重なっていた。
恵の指には、軍服を縫う仕事でできた小さな傷がいくつもある。
龍弥の手には、鉄と火花に向き合ってきた痕が残っている。
本来なら、未来を作るための手だった。
服を縫い。
船を造り。
家を支え。
子どもを抱く。
だが国は、その手に銃を持たせるかもしれない。
「まだ召集が決まったわけやなか」
龍弥が言った。
「うん」
「造船所からも、必要な人材として残してほしいって言うてもらえる」
「うん」
「伊藤さんも動いてくれとる」
「うん」
恵は何度もうなずいた。
だが、涙は止まらなかった。
「甲種って言葉、嫌い」
「俺もです」
「健康って言われただけやのに」
「うん」
「何で死ぬところへ近づくと」
龍弥は答えられなかった。
二 伊藤勝の申し入れ
造船所。
伊藤勝は、上層部へ再び龍弥の扱いについて申し入れていた。
机の上には、龍弥の作業記録。
溶接技術の評価。
図面読解の進み具合。
不良箇所を見つけた報告。
夜間作業での安全対応。
一枚ずつ、伊藤がまとめた資料だった。
「篠田龍弥は、軍艦建造に必要な人材です」
伊藤は、はっきり言った。
上司は書類を見ながら答える。
「甲種か」
「はい」
「健康なら、軍としても欲しがる」
「造船所にも必要です」
「代わりを育てろ」
伊藤の眉が動く。
「人間は部品やなか」
上司が顔を上げる。
「何だと」
「一人抜けたから、同じものをすぐ入れればよか話やなか」
伊藤は机へ手を置いた。
「篠田は図面の読み方を覚え、溶接不良を見つける目も育っとる」
「まだ若い」
「若いから、これから伸びるんです」
「国は若い男を必要としとる」
「造船所も必要としとる」
二人の視線がぶつかった。
伊藤は続けた。
「軍艦ば造れ。工期を縮めろ。船を増やせ。そう言いながら、育てた職人ば兵隊へ持っていく」
「伊藤」
「矛盾しとるでしょう」
上司は黙った。
「篠田が必要だという意見を、正式に出してください」
「すぐに召集されるとは限らん」
「限らんでは遅い」
伊藤の声は低く、強かった。
「通知が来てから慌てても間に合わん」
上司は長く息を吐いた。
「分かった。上へ回す」
「記録に残してください」
「しつこいな」
「人一人の人生です」
伊藤は退かなかった。
三 梅の箪笥
篠田家。
母の梅は、箪笥の前へ座っていた。
龍弥の衣服を一枚ずつ畳んでいる。
作業着。
普段着。
幼い頃に着ていた小さな上着。
いつの間にか着られなくなった服。
本来なら、整理をしていただけだった。
だが、梅は途中で気づいた。
自分が、龍弥がいなくなる準備をしている。
もし召集されたら。
何を持たせるか。
どの衣服を残すか。
帰ってきたときに着られるよう、何をしまっておくか。
「何しよると……」
梅は、自分の手を止めた。
「私は、何の準備ばしよるとよ……」
畳みかけた作業着へ、涙が落ちた。
「行かせたくなか」
誰もいない部屋で、声が漏れる。
「行かせる準備なんか、したくなか」
梅は龍弥の作業着を抱きしめた。
鉄と油の匂いが残っている。
軍服の匂いではない。
造船所から帰ってきた息子の匂い。
その匂いが消えることが、何より怖かった。
「梅」
慶一が部屋へ入ってきた。
梅は顔を上げる。
「私、馬鹿やね」
「何が」
「まだ決まっとらんとに、龍弥がいなくなる準備ばしよった」
慶一は妻の隣へ座った。
「馬鹿やなか」
「でも」
「怖いだけたい」
慶一も息子の作業着へ手を置いた。
「俺も同じことば考えとる」
「あなたも?」
「漁船に乗るたび、龍弥がここを直してくれたって思う」
慶一の声が震えた。
「もしおらんようになったらって」
梅は夫の肩へ額をつけた。
二人はしばらく動けなかった。
四 戦死通知
軍服縫製工場。
恵は、いつものように作業台へ座っていた。
布を押さえる。
針を進める。
糸を切る。
次の軍服を取る。
同じ動作。
同じ色。
同じ形。
それでも今日は、胸の中が違った。
龍弥が、この服を着るかもしれない。
その想像を振り払おうとしても、消えない。
「恵ちゃん」
隣で働く女性が声をかける。
「縫い目、少し曲がっとるよ」
恵は慌てて見直した。
「すみません」
「龍弥さんのこと?」
恵は黙った。
女性は、責めなかった。
「甲種やったと?」
「はい」
「そう……」
そのとき、工場の入口が騒がしくなった。
一人の若い工員が、事務室へ呼ばれていた。
恵と同じ年頃の女性。
名は美代。
婚約者が戦地へ出ていると、以前話していた。
美代は封筒を受け取った。
中を開く。
文字を読む。
最初は、意味が分からない顔をしていた。
次の瞬間。
「嘘……」
紙が手から落ちた。
「嘘よ」
誰かが駆け寄る。
「美代さん」
「嘘やろ」
美代の声が大きくなる。
「帰ってくるって言うたもん」
床へ崩れ落ちる。
「式ば挙げるって」
周囲の女性たちは、手を止めた。
「帰ったら、家ば探すって」
美代は、落ちた紙を拾おうとした。
だが、手が震えてつかめない。
「何で」
声が壊れていく。
「何で、この紙一枚で終わると」
戦死通知。
婚約者の名前。
戦地。
戦死。
名誉。
勇敢。
そんな言葉が並んでいる。
だが、美代が知りたいことは何も書かれていない。
最後に何を言ったのか。
苦しかったのか。
誰かがそばにいたのか。
自分のことを思い出したのか。
何一つ、分からない。
「返して」
美代は、紙へ向かって言った。
「うちの人ば返して」
誰も答えられない。
恵は、動けなかった。
龍弥の顔が浮かぶ。
昨日まで、自分も美代のように未来を語っていた。
結婚。
子ども。
家。
仕事。
そのすべてが、一枚の紙で奪われるかもしれない。
恵の目から涙がこぼれた。
五 臨時ニュース
昭和十六年十二月八日。
朝。
大村家のラジオから、突然、緊迫した声が流れた。
「臨時ニュースを申し上げます」
節子が台所から振り返る。
勝一は加工場へ向かう手を止めた。
幸と恵も、ラジオの前へ集まった。
「臨時ニュースを申し上げます」
もう一度、繰り返される。
その声だけで、ただ事ではないと分かった。
「帝国陸海軍は、本八日未明、西太平洋において、アメリカ、イギリス軍と戦闘状態に入れり」
部屋の空気が止まった。
幸は、意味を理解するまで数秒かかった。
「アメリカと……」
恵が呟く。
「イギリスとも?」
勝一は顔を青ざめさせた。
「始まった……」
「何が?」
幸が父を見る。
勝一は答えた。
「アメリカとイギリスとの戦争だ」
節子の手から、布巾が落ちた。
「中国だけやなかったと?」
「もう違う」
勝一の声は低かった。
「もっと大きな戦争になる」
ラジオは、戦果を伝える。
勇ましい音楽。
攻撃。
成功。
勝利。
国民は奮起せよ。
言葉だけは強い。
だが、大村家の誰も喜べなかった。
「真珠湾って、どこね」
幸が尋ねる。
「ハワイだ」
「そがん遠くまで行って攻撃したと?」
「ああ」
幸は、ラジオを見つめた。
「日本から戦争ば始めたと?」
勝一はすぐに答えなかった。
「攻撃したのは日本だ」
その言葉を聞いた瞬間、幸の表情が変わった。
「また広げたと?」
誰も答えない。
「中国との戦争も終わっとらんとに」
幸の声が強くなる。
「何でアメリカとイギリスまで!」
節子が窓の外を見た。
「幸、声を落として」
「もう家の中でも声ば落とさんばいかんと?」
「近所に聞こえる」
「ふざけんな!」
幸は、ついに叫んだ。
「何が国のためよ!」
勝一が幸を見る。
「幸」
「食べ物ば減らして、服ば減らして、働く時間ば増やして」
涙が浮かぶ。
「それでも足りんで、今度は世界中と戦争すると?」
「幸」
「誰が頼んだと!」
幸はラジオを指さした。
「うちらは戦争してほしいなんて、一回も言っとらん!」
恵は姉の腕をつかんだ。
止めるためではない。
震える幸を支えるためだった。
六 開戦の日の長崎
町では、号外が配られた。
人々が集まり、新聞の見出しを読む。
対米英開戦。
真珠湾攻撃。
マレー半島への上陸。
大きな戦果。
万歳。
喜ぶよう求められる空気が広がった。
学校では、生徒たちが集められた。
工場では、増産の指示が出た。
長崎機関区には、軍需輸送のさらなる増発が伝えられた。
造船所では、新たな軍艦建造計画が示された。
平戸家には、食糧増産と供出強化の通達。
篠田家には、漁船の燃料割り当て削減。
戦争が始まったという知らせは、同じ日のうちにすべての家へ異なる命令として届いた。
勝男は機関区で、新しい勤務表を見ていた。
原田正勝が隣に立つ。
「また夜勤が増えますね」
「ああ」
「対米英開戦って」
「ああ」
「終わる方向やなく、もっと大きくなった」
原田は勤務表を見つめた。
「そうたい」
「日本は勝てるとですか」
原田は周囲を確認した。
「俺に聞くな」
「皆、勝てるって」
「皆が本当に思っとるとは限らん」
原田は低い声で続けた。
「だが、始まった以上、俺たちは列車ば動かさんばいかん」
勝男は拳を握った。
「また兵隊ば運ぶ」
「ああ」
「武器も」
「ああ」
「幸さん、怒るやろうな」
原田は小さく言った。
「怒れるうちは、まだよか」
勝男が原田を見る。
「怒る気力までなくなる方が怖か」
七 金属回収
対米英開戦後。
町では金属の回収が本格的に進められた。
銃。
砲弾。
軍用車両。
航空機。
艦船。
戦争に必要なものを作るため、家庭や寺社、商店から金属を集めるよう求められた。
鍋。
やかん。
門扉。
鉄柵。
火鉢。
装飾品。
壊れた道具。
不要と判断された機械部品。
町の掲示板には、金属供出への協力を求める紙が貼られた。
寺の鐘も、回収対象として調べられるようになった。
長く町の時を知らせてきた鐘。
火事や災害の際に鳴らされた鐘。
葬儀や法要で、人々の祈りを受け止めてきた鐘。
それさえも、戦争の材料として見られ始めた。
ある寺では、僧侶が鐘へ手を当てていた。
「この鐘まで持っていくとですか」
役所の者は答える。
「国家のためです」
「この鐘は、何十年も町の人と生きてきました」
「今は非常時です」
非常時。
その言葉さえ言えば、何でも持っていけるようだった。
鐘は縄で固定され、台から外される準備が始まった。
見守る町の人々から、すすり泣く声が聞こえた。
「鐘が、弾になるとね」
一人の老婆が呟く。
「人ば送る音が、人ば殺すものになるとね」
誰も答えられなかった。
八 大村家の自転車
大村家にも、金属供出についての知らせが来た。
家にある金属製品を申告するよう求められた。
勝一は、加工場の工具や機械部品を一つずつ確認した。
仕事に不可欠なもの。
代用品がないもの。
修理に使うもの。
軍需生産に必要と認められるものは、残せる可能性がある。
だが、家庭用の自転車は違った。
幸と恵が買い物へ行くとき。
節子が市場へ向かうとき。
勝一が近くの取引先へ行くとき。
家族で使ってきた一台だった。
「これも出せって」
幸は、自転車の横へ立っていた。
恵が通知を読む。
「不要不急の金属製品って」
「不要やないやろ!」
幸が叫ぶ。
「お母さんが市場まで行くのに使いよるやん!」
節子が困ったように言う。
「歩いて行けん距離ではなかよ」
「坂道ばい!」
幸は家の外を指さした。
長崎の町。
上って。
下って。
また上る。
自転車があっても大変な道。
それを荷物を持って歩けという。
「うちら、この坂道ば全部歩けと?」
誰も答えない。
幸は自転車のハンドルを握った。
「ふざけんなー!」
声が家中へ響いた。
恵が慌てて外を見る。
「お姉ちゃん、声!」
「もう知らん!」
「近所に聞こえるよ!」
「聞こえたらよか!」
幸は自転車へ抱きつくようにして叫んだ。
「この自転車が何ばしたと!」
勝一が加工場から出てきた。
「幸」
「これが銃になると?」
勝一は答えない。
「人ば殺す弾になると?」
「可能性はある」
「なら出さん!」
幸はハンドルを離さなかった。
「これは、お母さんが買い物するためのものたい!」
「出さなければ、問題になる」
「何が問題ね!」
「家族や加工場まで疑われる」
幸の表情が止まる。
また同じだった。
嫌だと言えば、本人だけでなく家族まで巻き込まれる。
国は、個人の拒否を家族の責任へ変える。
「お父さんは、出すと?」
「出すしかない」
「またそれ」
「俺だって出したくない」
勝一の声も苦しかった。
「でも、加工場まで調べられたら、残さなければならん工具も持っていかれるかもしれん」
幸は、自転車から手を離した。
「何でも取っていくね」
涙がこぼれる。
「食べ物も。鉄も。男の人も」
誰も言葉を返せなかった。
「最後に何が残ると?」
節子が、幸の肩へ手を置いた。
「家族が残る」
幸は母を見る。
「本当に?」
節子は答えに詰まった。
絶対とは言えない。
だからこそ、胸が痛んだ。
九 供出の日
数日後。
町の集積所へ、自転車や鍋、金属製品が集められた。
人々は、自分の家で使ってきたものを持ち寄る。
古いやかん。
鉄鍋。
火鉢。
壊れた農具。
自転車。
門扉の一部。
学校から出された金属製品。
寺の鐘も、荷車へ載せられていた。
幸は、大村家の自転車を押して歩いた。
恵も隣にいる。
「重かね」
恵が言う。
「最後やけん、自分で持っていく」
「お父さんが代わるって言いよったやろ」
「うちが行く」
幸は黙って歩いた。
この自転車で、勝男へ会いに行ったこともある。
市場へ買い物に行った。
恵と二人で坂道を押した。
荷台へ野菜を載せた。
家族の暮らしの一部だった。
集積所では、係の者が一台ずつ確認していた。
「次」
幸の番が来る。
「大村家、自転車一台」
係の者が記録する。
「ここへ置いて」
幸は動かなかった。
「早く」
恵が姉の手へ触れる。
「お姉ちゃん」
幸は、自転車のベルを一度鳴らした。
チリン。
小さな音。
それが最後の音になった。
「人ば殺すものにならんでね」
幸は、自転車へ向かって言った。
係の者が眉をひそめる。
恵は姉を連れるように、その場を離れた。
背後では、次の金属製品が積み上げられていく。
十 鐘のない町
寺の鐘が外された日。
町の人々が集まって見守った。
鐘は、ゆっくり地面へ下ろされた。
長年、町へ響いてきた音。
朝。
夕。
法要。
弔い。
災害。
喜びと悲しみの両方を見守ってきた鐘。
僧侶が最後に、一度だけ鳴らすことを許された。
ごおん。
低く、深い音が町へ広がる。
人々は黙って聞いた。
幸と恵も、少し離れた場所に立っていた。
鐘の音は、坂道を越え。
家々の屋根を越え。
港の方へ流れていく。
龍弥の造船所にも。
勝男の機関区にも。
届くような気がした。
「最後の鐘やね」
恵が言う。
「戻ってくるとかな」
幸は尋ねた。
誰にでもなく。
鐘はやがて荷車へ載せられた。
金属として運ばれる。
形を失い。
溶かされ。
何か別のものになる。
銃かもしれない。
砲弾かもしれない。
軍艦の一部かもしれない。
幸は唇を噛んだ。
「祈りの音まで、戦争にするんやね」
恵は姉の手を握った。
「でも、聞いた人の中には残るよ」
「鐘の音が?」
「うん」
恵は胸へ手を当てた。
「ここに」
幸も胸へ手を置いた。
鐘はなくなっても、音の記憶までは持っていけない。
十一 日ソ中立条約と統制
同じ年。
日本とソビエト連邦の間で中立条約が結ばれた。
新聞では、北方の安全が確保されたと伝えられた。
だが、大村家の食卓では、その報道を聞いても誰も安心できなかった。
「ソ連とは戦わん約束ばしたと?」
幸が尋ねる。
「少なくとも、すぐにはな」
勝一が答える。
「なら、アメリカとイギリスとも同じ約束ばすればよかったやん」
「そう簡単ではなかったんだろう」
「また簡単ではない」
幸は麦飯を見た。
「難しいことば話しよる間に、うちらの御飯はどんどん減る」
価格や物資の統制も強まっていた。
何を、いくらで売るか。
どれだけ買えるか。
どこへ回すか。
国が細かく決める範囲が増えていく。
店に物があっても、自由に買えない。
値段を勝手に決められない。
配給を待つ。
番号を待つ。
順番を待つ。
暮らしのすべてが、許可と割り当てへ変わっていった。
「戦争って」
恵が言う。
「人ば撃つところだけやなかとね」
「うん」
節子が答える。
「家の中まで戦場になるとよ」
十二 龍弥の猶予
龍弥の甲種合格後。
造船所からの申し入れは、ひとまず認められた。
すぐに召集されるのではなく、軍艦建造に必要な技術者として、造船所へ残ることになった。
正式な免除ではない。
将来にわたる保証でもない。
状況が変われば、召集される可能性は残っている。
それでも、篠田家にとっては一つの救いだった。
龍弥が家へ戻り、梅へ話した。
「当分、造船所に残れるって」
梅は、息子を抱きしめた。
「本当に?」
「うん」
「兵隊に行かんでよかと?」
「今は」
その一言で、梅の顔が少し曇った。
だが、すぐにうなずく。
「今は、でよか」
今日、息子は家にいる。
明日も造船所へ行く。
それだけでよかった。
慶一は息子の肩をたたいた。
「伊藤さんに礼ば言わんばな」
「もう言うた」
「何て言われた」
「礼は一人前になってから言えって」
慶一が笑う。
「伊藤さんらしか」
龍弥も、少し笑った。
十三 恵の涙
恵が龍弥から知らせを聞いたのは、坂の上の喫茶店だった。
「残れると?」
「はい」
「今は?」
「今は」
恵の目から涙があふれた。
龍弥が慌てる。
「どうしたと」
「安心しただけ」
「泣かんでも」
「泣くよ」
恵は笑いながら泣いた。
「この何日か、ずっと怖かったとよ」
「すみません」
「龍弥さんが謝ることやなか」
「でも」
「国が謝ればよか」
龍弥は、思わず笑った。
「幸さんみたいなこと言うね」
「双子やけん」
恵は龍弥の手を握った。
「でも、油断したらいかんね」
「はい」
「また通知が来るかもしれん」
「はい」
「だから」
恵は龍弥を見る。
「毎日、帰ってきて」
「約束します」
「大丈夫って言葉ではなく」
「毎日、帰ります」
二人は、手を離さなかった。
十四 勝男の不安
龍弥が造船所へ残れることになった一方、勝男にも不安は広がっていた。
鉄道員は軍需輸送に必要な職業である。
すぐに召集される可能性は低いかもしれない。
だが、戦争が拡大すれば何が起きるか分からない。
長崎機関区で、新たな兵員輸送列車の予定を見ながら、勝男は原田へ尋ねた。
「俺も、いつか検査ば受けますよね」
「ああ」
「甲種やったら」
「まだ先のことば考えすぎるな」
「でも、幸さんが」
「心配しとるか」
「はい」
原田は工具を拭きながら言った。
「鉄道員として残される可能性はある」
「龍弥君みたいに?」
「ああ」
「でも、絶対やなか」
原田は手を止めた。
「世の中に絶対は少なか」
勝男は俯いた。
「結婚したかです」
原田は勝男を見る。
「知っとる」
「子どもも」
「それも前に聞いた」
「汽車ば見せたか」
「なら、生き残れ」
「はい」
「検査の前から死んだ顔ばするな」
原田は勝男の肩をたたいた。
「今は、目の前の列車ば安全に走らせろ」
「はい」
それしかできない。
だからこそ、それを続ける。
十五 自転車のない坂道
数日後。
節子と幸は、市場からの帰り道を歩いていた。
両手には荷物。
坂道。
自転車は、もうない。
「重かね」
幸が言う。
「自転車があればねえ」
節子が答える。
「言わんで。腹立つけん」
二人は坂の途中で立ち止まった。
幸は荷物を地面へ置く。
「うちら、本当に全部歩かんばいかんとね」
「そうね」
「自転車は銃になって」
「まだ何になるかは分からんよ」
「でも、暮らしに戻ってこんやろ」
節子は黙った。
幸は坂の上を見る。
「国は、うちらに我慢せえって言う」
「うん」
「歩け。食べるな。働け。黙れ」
幸は、息を切らしながら言った。
「それで、自分たちは何ばしよると」
節子は、娘の荷物を一つ持とうとした。
幸は首を振る。
「お母さんが倒れるけん、うちが持つ」
「幸も疲れとるやろ」
「二人で持とう」
結局、荷物を分けた。
自転車はない。
だが、二人いる。
戦争に奪われたものを、助け合いで埋めるしかなかった。
十六 甲種合格
夜。
龍弥は、徴兵検査の判定書を机へ置いていた。
甲種合格。
その二文字を見つめる。
健康。
強い体。
兵士に向く体。
龍弥は、紙を裏返した。
自分の体は、自分のものだと思っていた。
船を造るため。
恵を支えるため。
父母の漁船を直すため。
子どもを抱くため。
だが国は、その体を戦争に使えると判断した。
それでも、今は造船所に残れる。
伊藤が動き。
上司へ訴え。
必要な技術者として認められた。
その事実は救いだった。
同時に、別の意味では戦争へさらに深く組み込まれたことでもある。
兵士としてではなく。
軍艦を造る技術者として。
「どっちにしても、戦争から逃げられんとやな」
龍弥は呟いた。
机の上には、恵からもらった布切れがある。
『人ば生かす船を』
龍弥は、それを握った。
「いつか」
戦争が終わったら。
軍艦ではなく。
漁船。
商船。
人を家へ帰す船。
その夢だけは、手放さなかった。
十七 開戦の年
昭和十六年。
日本はアメリカ、イギリスとの戦争へ入った。
日中戦争は終わらないまま。
ヨーロッパでも戦争は続いている。
世界の広い範囲が、同時に争いへ飲み込まれていった。
長崎では、軍艦建造が加速する。
機関区では、軍需列車が増える。
加工場では、軍用部品が優先される。
縫製工場では、軍服の山が高くなる。
畑では、さらに多くの食糧を出すよう求められる。
漁船の燃料は減る。
寺の鐘は外される。
自転車は持っていかれる。
戦争は、遠い海の向こうで始まったのではない。
長崎の坂道。
台所。
工場。
寺。
駅。
畑。
家族の会話。
そのすべてに、同じ日から入り込んだ。
大村家の夜。
幸は、窓の外を見ながら言った。
「鐘も、自転車もなくなった」
恵が隣へ座る。
「うん」
「次は何ば持っていくとかな」
恵は答えられなかった。
幸は妹の手を握る。
「恵は持っていかせん」
恵も握り返す。
「お姉ちゃんも」
「勝男さんも」
「龍弥さんも」
「お父さんもお母さんも」
二人は、すべての名前を心の中で呼んだ。
守る力などない。
それでも、名前を呼ぶことだけはやめなかった。
国が人を数字で数えても。
甲種。
兵員。
工員。
供出量。
生産数。
一人ひとりには名前がある。
家族がいる。
夢がある。
帰る場所がある。
それを忘れないことが、双子にできる小さな抵抗だった。
次回予告
対米英開戦によって、日本は太平洋戦争へ突入した。
町では金属供出が進み、寺の鐘や家庭の自転車まで姿を消していく。
龍弥は甲種合格となったものの、軍艦建造に必要な技術者として、ひとまず造船所へ残ることが決まる。
恵は安堵するが、その猶予が永遠ではないことも理解していた。
一方、勝男にも徴兵検査の時期が近づく。
鉄道員として軍需輸送へ欠かせない存在となりつつあるが、召集を免れる保証はない。
そんな中、太平洋戦線での勝利を伝える報道が続き、町には一時的な熱狂が広がる。
幸は、その空気に強い違和感を抱く。
「勝ったって言うけど、そのたびに誰か死んどるんやろ」
次回、第25話。
「勝利の報せ」
新聞は勝利を伝える。
ラジオは万歳を叫ぶ。
しかし、戦地から家族へ届く手紙は、日に日に短くなっていく。
勝っているはずの国で、なぜ暮らしは苦しくなり続けるのか。




