表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
幸と恵の物語  作者: リンダ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
23/41

召集令状

『幸と恵のものがたり』


第23話 召集令状


昭和十六年、春。


長崎の海には、薄い霧がかかっていた。


夜明け前から船を出していた漁師たちは、以前より早く港へ戻るようになっていた。


燃料の割り当てが厳しくなったからである。


必要な分だけ使う。


遠くまで出ない。


漁に出る日を減らす。


篠田家の漁船も例外ではなかった。


父・慶一は、その日の漁を終えると、船の機関を止めた。


いつもなら、次の漁へ備えて燃料の量を確かめ、船体を点検し、翌日の準備を始める。


だが最近は、燃料の残量を見るたびに表情が曇った。


海へ出るための油は減らされる。


一方で、軍艦や軍用車両、軍需列車には優先的に燃料が回される。


漁船が動かなければ、魚が取れない。


魚が取れなければ、町の人々の食卓はさらに寂しくなる。


それでも、戦争に必要なものが先だと言われた。


龍弥は、父の漁船のそばで金具の緩みを確かめていた。


造船所へ向かう前の短い時間だった。


「ここ、少し緩んどる」


龍弥が言う。


慶一が工具を渡す。


「締めてみろ」


龍弥は慎重に力をかけた。


「これくらい?」


「もう少し」


締めすぎれば金具を傷める。


弱ければ波を受けたときに緩む。


造船所で覚えた感覚を、家の漁船へ使う。


龍弥にとっては、好きな時間だった。


軍艦ではない。


兵器を運ぶ船でもない。


父と母を無事に港へ帰すための仕事だった。


「いつか、この船も新しくしてやる」


龍弥が言った。


慶一は笑う。


「造船技師になってから言え」


「なるよ」


「その前に、今の仕事ば覚えろ」


「分かっとる」


家の中から、母・梅の声がした。


「龍弥」


返事がない。


「龍弥、ちょっと来て」


いつもの声ではなかった。


慶一と龍弥は顔を見合わせた。


一 届いた通知


梅は居間に立っていた。


手には、一枚の紙があった。


紙を持つ指が震えている。


龍弥は母の顔を見た。


「どうしたと?」


梅はすぐに答えなかった。


慶一が紙を受け取る。


目を通した瞬間、その表情が変わった。


「徴兵検査……」


龍弥の胸が強く鳴った。


「俺の?」


慶一は紙を見つめたままうなずく。


年齢に達した男子へ、徴兵検査を受けるよう求める通知。


日時。


場所。


持参するもの。


決められた通りに出頭すること。


紙面には、個人の不安など入り込む余地がないほど、事務的な言葉が並んでいた。


龍弥は紙を受け取った。


自分の名前が書かれている。


篠田龍弥。


生年月日。


住所。


検査日時。


文字を追うほど、息が苦しくなった。


「俺……」


声が掠れる。


「兵隊にならなければならないんですか?」


誰へ尋ねたのか、自分でも分からなかった。


父か。


母か。


紙を送ってきた役所か。


国か。


誰かに、違うと言ってほしかった。


徴兵検査を受けることと、すぐに召集されることは同じではない。


造船所で重要な仕事をしていることが考慮される可能性もある。


体の状態や判定によって、結果は変わる。


そうしたことを頭では知っていた。


だが通知を手にした瞬間、龍弥の中では一つの未来だけが大きく膨らんだ。


軍服。


銃。


戦地。


恵との別れ。


「まだ決まったわけやなか」


慶一が言った。


「検査ば受けるだけたい」


「でも、兵隊にできるか調べるんやろ」


「ああ」


「なら、その先に召集があるかもしれん」


慶一は否定できなかった。


梅は、息子の袖をつかんだ。


「造船所で働いとるんやけん」


「うん」


「船ば造る人も必要やろ」


「そうかもしれん」


「だったら、兵隊には取られんよね」


龍弥は母の手を見る。


その手は、ワカメを選別し、網を繕い、家族の食事を作ってきた手だった。


今、その手が息子を国から引き留めるように、強く袖を握っている。


「分からん」


龍弥は正直に答えた。


梅の顔が崩れた。


二 伊藤勝の沈黙


造船所へ向かった龍弥は、いつものように作業着へ着替えた。


だが、手が思うように動かなかった。


工具を取る。


図面を見る。


溶接箇所を確認する。


どの動作をしていても、胸元の通知が気になった。


紙は家へ置いてきた。


それでも、文字だけが頭の中に残っている。


徴兵検査。


伊藤勝は、すぐに龍弥の異変へ気づいた。


「篠田」


「はい」


「何ば考えとる」


「何も」


「その返事ばするときは、何かある」


龍弥は黙った。


伊藤は周囲の職人たちを見た。


「少し外へ出るぞ」


二人は作業場の端へ移動した。


巨大な軍艦の船体が、壁のようにそびえている。


「話せ」


伊藤が言う。


龍弥はしばらく迷ったあと、口を開いた。


「徴兵検査の通知が来ました」


伊藤の表情が変わった。


「いつ」


「今朝です」


「検査日は」


龍弥が答える。


伊藤は黙り込んだ。


「俺、兵隊になるとですか」


「まだ決まっとらん」


父と同じ答えだった。


「でも、可能性はある」


「ある」


伊藤はごまかさなかった。


龍弥は軍艦を見上げた。


「俺は、船ば造りたい」


「分かっとる」


「技師になりたい」


「ああ」


「恵さんと結婚したい」


伊藤は龍弥を見る。


「それも知っとる」


「人ば殺したくない」


龍弥の声が震える。


「銃なんか持ちたくない」


伊藤は何も言わなかった。


慰めるための簡単な言葉を持っていなかった。


国の命令へ逆らえばよいとも言えない。


逃げろとも言えない。


大丈夫だとも言えない。


伊藤自身、多くの若い職人が徴兵されていくのを見てきた。


昨日まで隣で鉄を削っていた青年が。


次の日には軍服を着て出ていく。


そして、二度と戻らない。


「伊藤さん」


「何だ」


「怖かです」


龍弥が初めて、その言葉をはっきり口にした。


伊藤は龍弥の肩へ手を置いた。


「怖くてよか」


龍弥が顔を上げる。


「兵隊に取られることば怖いと思うのは、恥やなか」


「でも、皆は立派に行けって」


「皆が本当にそう思っとるとは限らん」


伊藤は低い声で答えた。


「家族は、生きて帰ってほしいと思っとる」


「恵さんも」


「ああ」


伊藤は軍艦を見た。


「俺も、お前ば行かせたくない」


龍弥は驚いた。


伊藤が、これほど直接的な言葉をかけることは珍しかった。


「お前は、ここで必要な人間になり始めとる」


「なら、止められますか」


伊藤は苦しそうに黙った。


「俺一人には、止められん」


その答えが、何より重かった。


三 言えない帰り道


仕事を終えた龍弥は、恵と会う約束をしていた。


いつもの坂道。


路面電車の音。


夕方の港。


恵は縫製工場から戻ったばかりで、指には小さな布が巻かれていた。


「龍弥さん」


恵が手を上げる。


龍弥も笑おうとした。


「お疲れさま」


「龍弥さんも」


二人は並んで歩き始めた。


いつもなら、恵は工場で起きたことを話す。


今日は何着縫った。


以前子ども服を作っていた職人が、昔の話をしてくれた。


指を刺したが、すぐに手当てした。


龍弥も造船所の出来事を話す。


伊藤に叱られたこと。


図面を少し読めるようになったこと。


父の漁船で見つけた不具合。


だが、その日は会話が続かなかった。


「今日は静かやね」


恵が言う。


「少し疲れとる」


「夜勤?」


「違う」


「伊藤さんに怒られた?」


「それも違う」


恵は龍弥の顔を見る。


目が合うと、龍弥は視線をそらした。


「何かあったの?」


「何もなかよ」


「嘘」


龍弥の足が止まった。


恵も立ち止まる。


「龍弥さん、嘘つくとき、うちの顔ば見んもん」


「そがんことなか」


「今も見とらん」


龍弥は、ゆっくり恵を見る。


言わなければならない。


だが、言った瞬間に、二人の未来が変わってしまう気がした。


婚約した日のこと。


家族の前で、恵と一緒に暮らしたいと言った。


小さな木の船を渡した。


戦争が終わったら、人を生きて帰す船を造ると約束した。


その未来を、徴兵検査という紙が切り裂こうとしている。


「恵さん」


「うん」


「今日、家に通知が来ました」


「何の?」


龍弥は、唇を開いた。


だが声が出ない。


恵の表情が不安へ変わる。


「龍弥さん」


「徴兵検査です」


風の音が、一瞬消えたように感じた。


恵は何も言わなかった。


聞こえなかったのではない。


意味を受け止めることができなかった。


「もう一回言って」


「徴兵検査を、受けんばいかんようになりました」


恵の顔から血の気が引いた。


「兵隊に……なると?」


「まだ決まったわけやなか」


龍弥は急いで言った。


「検査ば受けるだけたい」


「でも、兵隊にするための検査やろ」


「そうやけど」


恵の目に涙が浮かぶ。


「行かんで」


龍弥は言葉を失った。


「行かんで」


恵はもう一度言った。


声が震えている。


「恵さん」


「戦争なんか行かんで」


涙が頬を伝う。


「うちと結婚すると言うたやろ」


「言いました」


「船ば造るって」


「はい」


「子どもの服ば縫ってって」


「はい」


「なら、行かんでよ」


恵は龍弥の胸へ手を置いた。


「行かないで」


それしか言えなかった。


徴兵制度。


国の命令。


造船所の事情。


どれだけ言葉を重ねても、恵の願いは一つだった。


行かないで。


四 泣き崩れる恵


恵の膝から力が抜けた。


龍弥は、慌てて体を支えた。


「恵さん!」


「嫌……」


恵は龍弥の作業着を強くつかんだ。


「嫌たい」


「まだ決まっとらん」


「でも、取られるかもしれんやろ」


「造船所で働いとることが考慮されるかもしれん」


「かもしれんばかりやん」


龍弥は何も返せなかった。


確実なことは、何一つなかった。


「うち、ずっと軍服ば縫いよる」


恵は泣きながら言った。


「誰かが着る軍服」


「うん」


「そのたびに、着る人に帰ってきてって思いよった」


「うん」


「でも、龍弥さんが着るかもしれんなんて思っとらんかった」


その言葉に、龍弥の胸が締めつけられた。


恵の縫った軍服を、自分が着る。


そんな可能性が、突然現実味を持った。


「うちは、軍服姿の龍弥さんなんか見たくなか」


「恵さん」


「作業着でよか」


恵は顔を上げた。


「煤と油で汚れとってよか」


「うん」


「毎日、伊藤さんに怒られて帰ってきてよか」


「それは少し困る」


龍弥は無理に笑おうとした。


だが、声が震えた。


恵は泣きながら、ほんの少しだけ笑った。


すぐに、また表情が崩れる。


「行かないで」


三度目の言葉だった。


龍弥は、恵を強く抱きしめた。


人目があった。


時代の目もあった。


それでも、離すことができなかった。


「行きたくない」


龍弥も初めて、恵の前で正直に言った。


「俺も行きたくなか」


恵の肩が震える。


「人ば殺したくなか」


「うん」


「死にたくなか」


「うん」


「恵さんと暮らしたか」


「うん」


「結婚して、子どもば育てたか」


「うん」


「父さんと母さんの船も直したか」


「うん」


龍弥の目からも涙がこぼれた。


「俺、帰れんかもしれんところになんか、行きたくなか」


二人は、しばらくその場で泣いた。


五 幸に伝える


その夜。


恵が家へ戻ると、幸はすぐに異変へ気づいた。


目が赤い。


歩き方に力がない。


手には、龍弥からもらった小さな木の船を握っている。


「恵」


返事がない。


「何があったと?」


恵は姉を見た。


口を開いた瞬間、また涙があふれた。


「龍弥さんに……」


幸の顔が強張る。


「何かあった?」


「徴兵検査の通知が来たって」


幸は動けなくなった。


「龍弥さんに?」


恵がうなずく。


幸は妹へ駆け寄り、抱きしめた。


「まだ召集ではなかとやろ」


「そう言いよった」


「なら、まだ決まっとらん」


「でも」


「造船所で働いとるんやろ」


「うん」


「必要な技術者として残されるかもしれん」


幸は必死に言葉を探した。


すべて、龍弥が恵へ言った言葉と同じだった。


希望をつなぐための「かもしれない」。


しかし、恵の涙は止まらない。


「お姉ちゃん」


「うん」


「うち、怖か」


「うん」


「勝男さんにも、いつか来ると?」


幸の顔が固まった。


考えないようにしていたことだった。


勝男も年齢を重ねている。


鉄道員として軍需輸送に必要な人材であっても、絶対に召集されない保証はない。


「来んよ」


幸は即答した。


根拠はなかった。


「勝男さんは汽車ば動かさんばいかん」


「龍弥さんも船ば造らんばいかんよ」


「うん」


幸は妹を抱きしめる腕へ力を込めた。


「二人とも行かん」


「本当に?」


「行かせん」


国の命令を止める力など、幸にはない。


それでも、そう言わずにはいられなかった。


六 大村家の夜


勝一と節子も、龍弥の徴兵検査について知らされた。


食卓には、夕食が並んでいた。


だが、誰も箸を進められない。


「検査はいつね」


節子が尋ねる。


恵が答えた。


勝一は深く息を吐いた。


「造船所から、必要な人材だと申し出てもらえる可能性はある」


「伊藤さんも動いてくれるとかな」


幸が尋ねる。


「できることはするだろう」


「なら、大丈夫?」


勝一は娘たちを見る。


「大丈夫とは言えん」


幸は唇を噛んだ。


以前なら、父が何とかしてくれると思っていた。


だが、戦争の前では、父も一人の市民にすぎない。


「お父さん」


恵が尋ねる。


「徴兵検査を受けんかったら、どうなると?」


勝一の表情が重くなる。


「処罰される可能性がある」


「逃げたら?」


節子が恵の手を握った。


「恵」


「だって、戦争へ行ったら死ぬかもしれん」


「分かっとる」


勝一が答える。


「でも、逃げれば篠田家も責められる」


家族。


職場。


近所。


周囲のすべてへ影響が及ぶ。


戦争は、本人だけの意志で逃げることさえ難しくしていた。


「何で」


幸が言う。


「何で国が、一人の人生ば勝手に決めると?」


勝一は答えられなかった。


「龍弥さんは船ば造りたかとよ」


「分かっとる」


「恵と結婚するとよ」


「分かっとる」


「それば全部、国が取り上げてよかと?」


勝一は拳を握った。


「よいわけがない」


声は低く、怒りに満ちていた。


「だが、今の国は、それを当然と思っとる」


七 篠田家の家族会議


篠田家では、龍弥、慶一、梅の三人が向き合っていた。


食卓には、味噌汁と少量の魚が並んでいる。


梅は、ほとんど箸をつけていなかった。


「母さん、食べんね」


龍弥が言う。


「食べられん」


「倒れるよ」


「龍弥が兵隊に取られるかもしれんとに、御飯なんか喉ば通らん」


慶一が静かに言う。


「まだ検査だ」


「あなたまで同じこと言うと?」


梅の声が強くなる。


「検査の次は何ね」


慶一は答えない。


「合格したら、召集されるとやろ」


「すぐとは限らん」


「限らんばかり!」


梅の目から涙がこぼれた。


「この子は船ば造るとよ」


「分かっとる」


「恵さんと結婚するとよ」


「分かっとる」


「なら、守ってよ!」


慶一は俯いた。


父親として。


家族の長として。


息子を守りたい。


だが、徴兵検査を止める力はない。


「俺に何ができる」


その声には、悔しさが滲んでいた。


梅は、言いすぎたことに気づいた。


「ごめんなさい」


慶一は首を振った。


「謝らんでよか」


龍弥は両親を見た。


自分が怖い。


だが、両親も同じように怖がっている。


「俺、検査は受ける」


梅が息子を見る。


「龍弥」


「受けんかったら、父さんと母さんまで責められる」


「でも」


「まだ召集とは決まっとらん」


龍弥は、自分へ言い聞かせるように言った。


「造船所からも話ばしてもらう」


「伊藤さんが?」


「うん」


慶一がうなずく。


「できることは全部しよう」


梅は息子の手を握った。


「兵隊にならんで」


「うん」


「必ず、ここにおって」


「うん」


龍弥は答えた。


約束できないことを知りながら。


八 伊藤の申し入れ


翌日。


伊藤勝は、造船所の上層部へ龍弥の件を申し出た。


「篠田龍弥は、重要区画の溶接と点検に必要な人材です」


上司は書類を見た。


「まだ見習いに近いだろう」


「技術は伸びとります」


「代わりはいる」


伊藤の表情が険しくなる。


「代わりを一人前にするには時間がかかります」


「国の徴兵へ口を出す話ではない」


「造船所も国の仕事をしとる」


伊藤は退かなかった。


「軍艦を造れと言いながら、育てた職人ば次々取られたら、誰が船ば造るとですか」


上司は黙った。


「篠田は、図面を読む力もついてきた。溶接不良を見つける目もある」


「お前が可愛がっとるだけではないのか」


「可愛がっとるから言うとるんやなか」


伊藤の声が低くなる。


「必要やけん言うとります」


一部の技術者や熟練工は、軍需生産に不可欠として召集を猶予されることがある。


だが、誰が対象になるかは簡単には決まらない。


「検査結果が出てからだ」


上司は言った。


「それまでは何もできん」


伊藤は拳を握った。


「申し入れだけは記録してください」


「分かった」


それ以上、引き出すことはできなかった。


作業場へ戻ると、龍弥が待っていた。


「どうでした」


伊藤は正直に答えた。


「すぐには何も決まらん」


龍弥の表情が曇る。


「でも、話はした」


「ありがとうございます」


「まだ礼を言うな」


伊藤は龍弥の肩をたたいた。


「お前は今までどおり仕事ばせえ」


「検査のことば考えずに?」


「考えてよか」


「はい」


「だが、足元と手元は見ろ」


龍弥は小さく笑った。


「それ、いつもと同じですね」


「仕事はいつもと同じにするしかなか」


九 勝男の言葉


幸は、長崎駅近くで勝男へ龍弥のことを伝えた。


勝男の表情が重くなる。


「篠田君に」


「うん」


「恵が泣き崩れた」


「そうでしょうね」


勝男は線路の方を見る。


蒸気機関車が、構内で白い蒸気を吐いている。


「俺にも来るかもしれん」


幸の手が勝男の袖をつかんだ。


「言わんで」


「でも」


「言わんでよ」


幸の声が震える。


「今は龍弥さんのことだけでも、胸がいっぱいやけん」


勝男は黙った。


「勝男さんまで兵隊に取られたら」


幸は続けられなくなった。


勝男は幸の手を包んだ。


「俺は鉄道員です」


「うん」


「軍需輸送にも必要な仕事です」


「うん」


「だから、簡単には召集されんかもしれん」


「かもしれんやろ」


恵と同じ言葉だった。


勝男は苦しそうにうなずいた。


「はい」


「うち、かもしれんは嫌い」


「俺もです」


「絶対帰ってくるって言って」


「まだ行くとも決まっとらん」


「それでも言って」


勝男は幸の目を見る。


「絶対、幸さんのところへ帰ります」


幸は涙を拭った。


「約束ね」


「約束です」


十 検査前夜


徴兵検査の前日。


龍弥は、恵へ会いに行った。


坂の上の喫茶店は、すでに閉店時刻が近かった。


老婆は二人を見ると、何も尋ねず、奥の席へ案内した。


温かい紅茶を二つ置く。


チーズケーキはなかった。


材料が手に入らなかったからだ。


代わりに、小さな芋を焼いたものが皿へ載っていた。


「ゆっくりしていきなさい」


老婆はそれだけ言って、離れた。


恵と龍弥は向かい合った。


言葉が出ない。


龍弥が先に口を開いた。


「明日、行ってきます」


恵の目に涙が浮かぶ。


「うん」


「検査だけたい」


「うん」


「すぐ兵隊になるわけやなか」


「うん」


何度説明されても、怖さは消えない。


「恵さん」


「何?」


「これ、持っとって」


龍弥は、上着の内側から小さな紙を取り出した。


木の船を削ったときに残しておいた薄い木片へ、文字が刻まれている。


『必ず帰る』


恵は受け取った。


「まだ行かんとに」


「検査からも帰る」


龍弥は言った。


「仕事からも帰る」


「うん」


「もし、どこかへ行かされても」


「言わんで」


恵は首を振った。


「でも」


「今は、明日のことだけでよか」


龍弥は口を閉じた。


恵は木片を胸へ押し当てた。


「検査が終わったら、ここに来て」


「はい」


「結果がどうでも」


「はい」


「一人で抱えんで」


「はい」


恵は龍弥の手を握った。


指には、軍服を縫う仕事でできた傷が残っている。


龍弥は、その手を見た。


「この手で、俺の軍服ば縫わんでください」


恵の表情が崩れる。


「縫わん」


「はい」


「絶対に縫わん」


「はい」


「龍弥さんには、作業着ば縫う」


龍弥は笑った。


「作業着は丈夫にしてください」


「軍服より丈夫にする」


二人は泣きながら笑った。


十一 行かないで


店を出ると、夜の長崎は静かだった。


坂の下から、路面電車の音が聞こえる。


港の方角には、造船所の明かりが見えた。


龍弥が造る軍艦。


恵が縫う軍服。


勝男が運ぶ兵士。


幸と勝一が作る軍用部品。


すべてが戦争へつながっている。


恵は龍弥の袖をつかんだ。


「龍弥さん」


「はい」


「行かないで」


また、その言葉だった。


「うん」


「検査には行かんばいかんのは分かっとる」


「うん」


「でも、戦争には行かないで」


「うん」


「人ば殺すところには行かないで」


「うん」


「うちば一人にせんで」


龍弥は恵を抱きしめた。


「一人にせん」


「約束できる?」


龍弥は一瞬、言葉に詰まった。


それでも答えた。


「約束します」


本当に守れるかは分からない。


国が何を命じるかも分からない。


それでも、恵の前で約束しないという選択はできなかった。


「必ず戻る」


「うん」


「恵さんと結婚する」


「うん」


「子どもも育てる」


「うん」


「人ば生きて帰す船ば造る」


「うん」


恵は龍弥の胸へ顔を埋めた。


二人は、長い時間そのままでいた。


十二 徴兵検査の朝


翌朝。


篠田家では、誰も普段どおりに振る舞えなかった。


梅は、龍弥の服の襟を何度も整えた。


「もうよかよ」


龍弥が言う。


「曲がっとる」


「曲がっとらん」


「母さんには曲がって見えると」


慶一は玄関で靴を履きながら、息子を見た。


「俺も一緒に行く」


「子どもやなかよ」


「父親たい」


龍弥は反論できなかった。


梅は息子の胸元へ、小さなお守りを入れた。


「必ず帰ってきて」


「検査だけたい」


「検査でも帰ってきて」


「うん」


「寄り道せんで」


「恵さんに会う」


梅は一瞬黙った。


「それならよか」


慶一が戸を開ける。


朝の光が差し込んだ。


龍弥は、家の中を振り返った。


食卓。


母。


漁具。


窓から見える船。


日常のすべてが、今日は特別に大切に見えた。


「行ってきます」


梅は涙を堪えながら答えた。


「行ってらっしゃい」


慶一と龍弥は、徴兵検査の会場へ向かった。


その背中を、梅は見えなくなるまで見送った。


十三 待つ恵


恵は縫製工場にいた。


機械の音。


軍服の布。


糸。


針。


いつもと同じ作業場。


だが、何も手につかなかった。


今頃、龍弥は検査を受けている。


身長。


体重。


視力。


聴力。


胸囲。


体の状態。


数字と判定。


国は、龍弥という人間を兵士として使えるかどうか、測っている。


造船技師になりたい夢。


恵との婚約。


父母への思い。


そうしたものは、検査表のどこにも書かれない。


「恵ちゃん」


指導役の女性が声をかける。


「今日は休んでもよかったとよ」


「家におっても、同じことば考えるだけです」


「婚約者の検査ね」


恵はうなずいた。


女性は、軍服を縫う手を止めた。


「うちの弟も、前に受けた」


「どうなりました?」


「兵隊に行った」


恵の顔が青ざめる。


女性はすぐに続けた。


「でも、皆が同じとは限らん」


「帰ってきました?」


長い沈黙。


女性は、静かに首を横へ振った。


恵は目を伏せた。


「ごめんなさい」


「謝らんでよか」


女性は再び針を動かした。


「だから、龍弥さんは残れるよう祈っとく」


「ありがとうございます」


恵も作業へ戻った。


だが、軍服を一着縫い終えるたび、胸が痛んだ。


十四 夕暮れの坂道


夕方。


恵は、坂の上の喫茶店で待っていた。


紅茶は冷めている。


外が暗くなり始めても、龍弥は来ない。


何度も戸の方を見る。


老婆は何も言わず、紅茶を温め直してくれた。


「遅かね」


恵がつぶやく。


「検査には時間がかかることもあるよ」


「何かあったとやないですよね」


「まだ何も分からん」


分からない。


それが一番苦しかった。


やがて、戸が開いた。


龍弥が立っていた。


恵は椅子から立ち上がる。


「龍弥さん!」


龍弥は、疲れた顔をしていた。


だが、自分の足で戻ってきた。


恵は駆け寄る。


「お帰りなさい」


「ただいま」


「どうやったと?」


龍弥は、すぐに答えなかった。


判定は。


今後は。


召集は。


恵の目には、恐怖が浮かんでいる。


龍弥はその手を握った。


「今日は、帰ってきました」


「うん」


「約束どおり」


「うん」


恵の目から涙がこぼれる。


「それでよか」


判定を聞く前に、まずそう言った。


今日、帰ってきた。


それだけでよかった。


龍弥は、恵の手を握ったまま、検査で告げられたことを話し始めた。


結果が何を意味するのか。


それは、まだ完全には分からない。


召集されるかどうかも決まっていない。


だが、国は確かに龍弥の体へ番号をつけ、兵士になり得る人間として数え始めた。


二人の未来は、以前よりも不安定になった。


それでも。


恵は龍弥の手を離さなかった。



次回予告


徴兵検査を終え、恵のもとへ戻った龍弥。


しかし、検査の判定は、二人が安心できるものではなかった。


身体は健康。


兵役に耐え得る。


その言葉が、龍弥と家族の胸へ重くのしかかる。


造船所は、龍弥を軍艦建造に必要な技術者として残すよう働きかける。


伊藤勝も、上層部や役所へ何度も申し入れを行う。


一方、梅は息子の衣服を畳みながら、もし召集されたときに備える自分へ気づき、泣き崩れる。


恵は軍服工場で、自分と同じ年頃の女性が婚約者の戦死通知を受け取る瞬間を目の当たりにする。


次回、第24話。


「甲種合格」


健康であることが、本来なら喜ばしいはずだった。


だが戦争の時代。


「健康な青年」という判定は、戦場へ近づく言葉でもあった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ