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幸と恵の物語  作者: リンダ


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22/36

重連機関車の夜

『幸と恵のものがたり』

 第22話 重連機関車の夜


 昭和十五年、晩秋。


 長崎の夜は、深い霧に包まれていた。


 山あいの線路には、湿った冷気が漂っている。


 遠くの家々の灯りも、白い靄の向こうでぼんやりとにじんでいた。


 長崎駅の構内では、二両の蒸気機関車が低い唸り声を上げていた。


 先頭に立つ一両。


 その後ろへ連結された、もう一両。


 重連運転。


 長い貨物列車を引くために、二両の機関車が力を合わせる。


 貨車へ積まれているのは、佐世保へ運ばれる造船資材だった。


 厚い鋼板。


 補強用の鉄材。


 船体内部に使われる金具。


 大量のボルトとナット。


 機関部品。


 行き先は、佐世保の造船施設。


 建造されるのは、沿岸や近海の警戒任務に用いられる哨戒艇だった。


 軍需輸送。


 遅れは許されない。


 そう繰り返し告げられた列車だった。


 一 深夜の出発


 勝男は、後方の機関車の運転室に立っていた。


 正式な機関助手となってから、軍需列車へ乗る回数は増えている。


 作業着には石炭の粉が染み込み、顔にも煤がついていた。


 それでも、その目つきには見習いの頃とは違う落ち着きがあった。


 原田正勝が、計器を確認しながら言う。


「今日は佐世保までだ」


「はい」


「途中、急勾配が続く。編成も重い」


「本川内へ入る前に、火ば早めに作ります」


「それだけでは足りん」


 原田は勝男を見る。


「今夜は霧が濃い。線路も湿っとる」


「空転しやすかとですね」


「ああ」


 動輪が線路をつかめず、空回りする可能性がある。


 重たい貨物列車では、一度速度を失えば、勾配の途中で立ち往生することもある。


「前の機関車の汽笛ば聞き逃すな」


「はい」


「力ば出しすぎてもいかん。遅れてもいかん」


「はい」


 原田は火室の前へ立つ勝男を見た。


「重連は、二両で一つだ」


 何度も教えられた言葉。


 勝男は強くうなずいた。


 出発を知らせる合図。


 先頭の機関車が汽笛を鳴らす。


 後方の機関車も応える。


 夜の構内へ、二つの汽笛が重なった。


 ガタン。


 ガタン。


 貨車の連結器が一両ずつ張りつめていく。


 列車はゆっくり動き始めた。


 二 佐世保へ向かう鋼材


 貨車の側面には、行き先を示す札が取り付けられていた。


 佐世保。


 軍需優先。


 取り扱い注意。


 哨戒艇建造資材。


 勝男は、貨車の長い列を思い浮かべた。


 この鋼材が船体になる。


 ボルトが部材をつなぐ。


 機関部品が船を動かす。


 完成した哨戒艇は海へ出て、敵船や潜水艦を警戒する。


 場合によっては、武器を使う。


 龍弥が造船所で抱えている迷いと、同じものが胸へ浮かんだ。


「また考え事か」


 原田が言う。


 勝男は火室から目を離さず答えた。


「少しだけです」


「何ば考えとる」


「この鉄が、どがん船になるか」


 原田は短く息を吐いた。


「考えるなとは言わん」


「はい」


「だが、今のお前が扱っとるのは船やなか」


 原田は足元へ目を向けた。


「機関車だ」


「はい」


「この列車ば無事に走らせろ」


 勝男はショベルを握り直した。


「分かっとります」


 戦争に使われる荷物であっても。


 輸送を喜べなくても。


 列車を危険にさらしてよい理由にはならない。


 それが、原田から教え込まれてきたことだった。


 三 夜の勾配


 列車は長崎の市街地を離れ、次第に山あいへ入っていった。


 家々の灯りが減る。


 線路の左右には暗い斜面が迫る。


 霧の中へ、機関車の灯りが細く伸びていた。


 前方から、先頭機関車の排気音が聞こえる。


 シュッ。


 シュッ。


 シュッ。


 一定の間隔。


 勝男は、その音へ耳を澄ませる。


 自分たちの機関車も、同じ呼吸へ合わせる。


 火室の炎。


 蒸気圧。


 水位。


 速度。


 すべてを順番ではなく、同時に見る。


「勾配まで、あと少し」


 原田が言う。


「はい」


 勝男は火床を確認した。


 左奥が少し弱い。


 石炭を少量すくい、奥へ投げ込む。


 火の粉が舞う。


 蒸気圧は安定している。


 水位計を見る。


 異常なし。


 もう一度、火室。


 次に圧力計。


 そして、水位計。


 そのときだった。


 勝男の目が止まった。


 水位計の表示が、わずかに揺れている。


 通常の揺れとは違う。


 列車の振動に合わせた細かな上下ではない。


 一度、急に下がった。


 すぐに戻る。


 勝男は目を細めた。


「原田さん」


「何だ」


「水位が不安定です」


 原田がすぐに計器を見る。


「どがん動きだ」


「一度、急に下がりました。今は戻っとります」


 原田は水位計を確認する。


「見間違いやないか」


「分かりません」


「火室の状態は」


「異常ありません」


「蒸気圧は」


「安定しとります」


 原田は計器の前へ近づいた。


 しばらく見る。


 表示は正常に見える。


「もう一度動いたら言え」


「はい」


 勝男は水位計から目を離さなかった。


 四 二度目の異常


 列車は勾配へ入り始めた。


 速度がわずかに落ちる。


 先頭機関車の排気音が強くなる。


 前方から汽笛。


 力を加える合図。


 原田が言う。


「平戸、火を保て」


「はい」


 勝男は石炭をくべた。


 火室の炎が勢いを増す。


 蒸気圧を確認する。


 そして水位計。


 また、表示が下がった。


 今度は先ほどより明確だった。


「原田さん!」


 勝男が声を上げる。


「また下がりました!」


 原田がすぐに見る。


 水位は再び戻ろうとしていた。


 だが、動きが不自然だった。


「水位計の不良かもしれん」


 原田が言う。


「はい」


「配管の詰まりもあり得る」


「本当の水位が下がっとる可能性もあります」


 勝男は答えた。


 水位計だけの故障なら、ボイラー内部の水量は問題ない。


 だが本当に水が不足しているなら、危険は重大だった。


 ボイラー内部の水位が下がり、加熱部分が露出すれば、金属が異常に熱せられる。


 最悪の場合、ボイラーの重大事故につながる。


 運転室の乗務員だけではない。


 後ろに連なる貨車。


 前方の機関車。


 線路周辺。


 すべてを巻き込む可能性がある。


「勾配の途中です」


 原田が言う。


「はい」


「ここで止まれば、再出発が難しくなる」


「分かっとります」


「後ろは重たい貨車だ」


「はい」


「軍需列車だ。遅れれば問題になる」


 勝男は水位計を見た。


 表示は再び通常の位置へ戻っている。


 見間違いかもしれない。


 一時的な揺れかもしれない。


 機器の故障だけかもしれない。


 それでも。


「止めます」


 勝男が言った。


 原田が勝男を見る。


「本気か」


「はい」


 迷いはなかった。


「本当の水位が下がっとる可能性がある以上、このまま勾配ば上るのは危険です」


「前の機関車には、まだ異常を伝えとらん」


「今すぐ伝えます」


「止まれば、輸送は遅れる」


「安全が最優先です」


 勝男は、はっきり言い切った。


「資材は遅れても運べます」


 原田の目をまっすぐ見る。


「でも、事故が起きたら、人の命は戻りません」


 短い沈黙。


 その間にも列車は勾配を上っている。


 原田は前方を見た。


 そして、強くうなずいた。


「よか判断だ」


 勝男の胸へ、その言葉が届いた。


 原田はすぐに機関士へ指示を出す。


「前へ停止の合図!」


 汽笛が鳴る。


 通常とは異なる、異常を知らせる合図。


 前方の機関車から、応答の汽笛が返る。


 五 勾配上での停止


 二両の機関車は、慎重に力を抜いていった。


 急に止めれば、貨車同士へ大きな衝撃がかかる。


 後ろから押す力と、前から引く力。


 その釣り合いを崩さないよう、ゆっくり速度を落とす。


 ブレーキがかかる。


 車輪が線路をきしませる。


 貨車の連結器が次々と押し縮められる。


 ガシャン。


 ガシャン。


 長い音が、夜の山あいへ続いた。


 やがて列車は停止した。


 深い霧。


 急勾配。


 周囲に駅はない。


 前方の機関車から乗務員が降りてくる。


 後方からは車掌が駆けてきた。


「何があった!」


 原田が答える。


「水位計の異常だ」


「本当の水位は?」


「今から確認する」


 車掌の表情が険しくなる。


「佐世保への軍需資材だぞ」


 勝男は運転室から降りた。


「分かっとります」


「納入時刻が決まっとる」


「事故ば起こしたら、納入どころやありません」


 車掌が若い勝男を見る。


「お前が止めたのか」


「はい」


「見間違いだったらどうする」


 勝男は一瞬だけ息を吸った。


 それでも、言葉は揺れなかった。


「見間違いなら、それを確認してから走ります」


「軍の輸送を遅らせることになるぞ」


「人の命より優先される輸送はありません」


 原田が勝男の隣へ立った。


「俺も停止に同意した」


 車掌は原田を見る。


「原田さんまで」


「ああ」


「責任を問われるぞ」


「構わん」


 原田は低い声で答えた。


「事故を起こした責任より軽い」


 六 計器の確認


 原田と勝男は、機関車の状態を慎重に調べ始めた。


 水位計の弁。


 接続部分。


 配管。


 ガラス管。


 周辺に漏れはないか。


 詰まりはないか。


 表示だけが異常なのか。


 本当に内部の水位が下がっているのか。


 原田が言う。


「平戸、手順ば言え」


「まず、水位計の通水状態ば確認します」


「やれ」


 勝男は弁を操作した。


 蒸気と水の動きを見る。


 表示が一度大きく揺れた。


「反応が遅かです」


「もう一度」


 勝男は繰り返した。


 やはり、通常より戻りが遅い。


「配管の一部が詰まりかけとるかもしれません」


 原田が確認する。


「完全には詰まっとらん」


「はい」


「だが、表示ば信用できる状態でもなか」


 勝男は緊張したままうなずいた。


 本当の水位を別の方法で確かめる必要がある。


 機関士も加わり、複数の手順で状態を確認していく。


 やがて、ボイラー内部の水量自体は危険な水準まで下がっていないことが分かった。


 しかし、水位計につながる部分へ不具合が生じ、正確な表示ができていなかった。


「計器の異常か」


 車掌が言う。


「なら走れるだろう」


 原田は首を横へ振った。


「このままでは走らせられん」


「水はあるんだろう」


「今はな」


 原田は厳しい目で車掌を見る。


「勾配を上り続け、火を強くしながら、正確な水位が分からん状態で走れと言うのか」


 車掌は黙った。


 勝男も続ける。


「途中で本当に水位が下がっても、気づくのが遅れます」


「ではどうする」


「応急処置をして、確実に確認できる状態へ戻します」


 原田が答えた。


「それまでは動かさん」


 七 軍の係官


 しばらくして、貨車に同行していた軍の係官が機関車まで来た。


 厚い外套を着た男だった。


「何をしている」


 車掌が事情を説明する。


 係官は険しい顔で原田を見る。


「この資材は、佐世保での建造工程に必要なものだ」


「承知しとります」


「遅れは認められん」


 原田は機関車を指した。


「計器に異常があります」


「走行できないほどか」


「安全を保証できません」


「前の機関車だけで引けないのか」


 原田の表情が強張る。


「この勾配で、この編成を一両だけで引くのは無理です」


「貨車を分けろ」


「ここは駅やなか」


「何とかせえ」


 係官の声が強くなる。


 勝男は拳を握った。


 この男が急がせる気持ちも、立場も分かる。


 それでも。


「できません」


 勝男が言った。


 係官が若い機関助手を見る。


「何だと」


「安全が確認できるまで、走らせられません」


「お前は自分の立場を分かっているのか」


「機関助手です」


 勝男は答えた。


「列車を安全に走らせる立場です」


 係官の顔が赤くなる。


「これは軍の命令だぞ」


 勝男の喉が鳴った。


 怖くないわけではない。


 だが、退かなかった。


「軍の命令でも、事故は止まってくれません」


 霧の中に、勝男の声が響いた。


 原田がすぐ横へ立つ。


「平戸の判断は正しい」


 係官が原田をにらむ。


「責任を取れるのか」


 原田は答えた。


「この列車を無理に走らせて事故を起こすよりは」


 八 伊藤の言葉を思い出す龍弥


 同じ夜。


 佐世保へ届くはずの鋼材を待つ造船現場では、作業の遅れが伝えられていた。


 長崎本線の途中で、軍需貨物列車が停止。


 機関車の不具合。


 到着時刻未定。


 現場では不満の声が上がった。


「今夜の作業が進まん」


「納期に間に合わんぞ」


「鉄道は何ばしよる」


 その報せを聞いた龍弥は、伊藤勝を見る。


 伊藤は図面を閉じた。


「止めた理由は」


「計器の異常だそうです」


「なら、止めて当然だ」


 近くの職人が言う。


「でも、資材が来んかったら仕事にならん」


 伊藤はその男を見る。


「事故で資材ごと谷へ落ちたら、もっと仕事にならん」


 龍弥は、勝男の姿を思い浮かべた。


 もしかすると、彼が乗っている列車かもしれない。


「平戸さんやろうか」


 小さくつぶやく。


 伊藤が聞く。


「知り合いか」


「恵さんの姉さんの婚約者です」


「機関助手の青年か」


「はい」


 伊藤は少しだけ笑った。


「もしあの青年の判断なら、よか仕事ばしたな」


「まだ分からんですよ」


「誰の判断でも同じだ」


 伊藤は現場を見回した。


「工期より安全ば選べる人間は、信用できる」


 それは造船でも鉄道でも変わらなかった。


 九 応急処置


 山あいでは、原田と勝男たちの作業が続いていた。


 携帯する工具。


 限られた明かり。


 霧。


 冷たい風。


 火室の熱。


 条件はよくない。


 それでも焦らない。


 水位計へつながる部分の詰まりを除き。


 弁の動きを確かめ。


 表示が正常に戻るかを、何度も確認する。


 一度。


 二度。


 三度。


 勝男は手順を繰り返した。


「戻り、正常です」


 原田が見る。


「もう一度」


「はい」


 再確認。


「異常ありません」


「本当に?」


「はい」


 原田自身も確認した。


 機関士も確認する。


 複数の人間が同じ状態を確かめる。


「よし」


 原田が言った。


「走行を再開する」


 車掌が腕時計を見る。


「大幅な遅れだ」


 原田は答えた。


「だが、全員生きとる」


 軍の係官は何も言わなかった。


 十 再出発


 前方の機関車へ、再出発の合図が送られた。


 霧の向こうから汽笛が返る。


 勝男は運転室へ戻った。


 ショベルを握る。


 火室を見る。


 水位計を見る。


 表示は安定している。


「平戸」


 原田が呼ぶ。


「はい」


「さっきの判断」


 勝男は原田を見る。


「間違っとらん」


 その言葉に、胸の奥が熱くなった。


「ありがとうございます」


「礼は要らん」


 原田は前を見る。


「だが、覚えとけ」


「はい」


「結果的に計器の不具合だけやったからよかった、ではない」


「はい」


「もし何もなかったとしても、あの時点では止めるべきだった」


 勝男は深くうなずいた。


「はい」


「判断は、結果だけで決めるもんやなか」


 その時点で何が見えていたか。


 何が分からなかったか。


 最悪の場合、何が起こり得たか。


 それを考え、止めるべきと判断した。


「安全を守る者は、時には列車ば止める勇気も必要たい」


 原田の言葉が、勝男の胸へ刻まれた。


 再び汽笛が鳴る。


 二両の機関車が、ゆっくり力を加える。


 動輪が線路をつかむ。


 貨車の連結器が張る。


 重たい列車が、再び勾配を上り始めた。


 十一 佐世保到着


 列車が佐世保へ到着したのは、予定より大幅に遅い時刻だった。


 空は、わずかに白み始めていた。


 造船所の係員たちが、貨車の到着を待っている。


 軍の係官は、すぐに遅延の報告へ向かった。


 資材の荷下ろしが始まる。


 厚い鋼板。


 鉄材。


 部品。


 一つずつ貨車から降ろされていく。


 勝男は機関車の横へ立ち、疲れた体で足回りを確認していた。


 原田が言う。


「まだ見るとか」


「到着後の確認までが仕事です」


 原田は小さく笑った。


「よう覚えとる」


 勝男は機関車の水位計を見上げた。


 もし、あのまま走っていたら。


 本当に事故が起きたかは分からない。


 何事もなく佐世保へ着いた可能性もある。


 だが、分からない状態で進むことを選ばなかった。


「原田さん」


「何だ」


「止めてよかったです」


「ああ」


「軍の人に怒られても?」


「ああ」


 原田は機関車へ手を置いた。


「汽車は、命令で安全になるわけやなか」


 整備。


 確認。


 判断。


 そして、危険なら止める。


 それだけだった。


 十二 幸へ届いた報せ


 翌日。


 勝男が乗った軍需列車が途中で停止し、佐世保への到着が遅れたという話は、大村家にも伝わった。


 鉄道関係者から加工場へ部品の相談が入り、その中で勝一が事情を聞いたのだ。


 幸は父から話を聞くと、顔を青くした。


「勝男さんの機関車やったと?」


「そうらしい」


「事故?」


「事故にはならんかった」


 幸は胸を押さえた。


「計器の異常を見つけて、止めたそうだ」


「勝男さんが?」


「原田さんと判断したらしい」


 幸は、しばらく何も言えなかった。


 列車が止まる。


 軍需輸送が遅れる。


 軍人から責められる。


 それでも、安全を優先した。


 勝男らしいと思った。


 同時に、怖かった。


 もし止めずに走っていたら。


「帰ってきとると?」


 幸が尋ねる。


「今日の夕方には長崎へ戻るそうだ」


 幸はすぐに立ち上がった。


「駅へ行く」


「仕事は?」


「終わらせる」


 勝一は娘の顔を見る。


「慌てて怪我するなよ」


「分かっとる」


「お前の大丈夫も信用できんからな」


 幸は父を見る。


「誰のせいでそうなったと?」


 勝一は苦笑した。


 十三 お帰りなさい


 夕方。


 長崎駅。


 勝男が戻ってきた。


 顔は煤で汚れ、目の下には疲れが浮かんでいる。


 それでも、自分の足でホームへ降り立った。


 幸は、少し離れた場所で待っていた。


 勝男が気づく。


「幸さん」


 幸は駆け寄った。


 人目を気にしながらも、勝男の袖を強くつかむ。


「何で知らせんかったと」


「仕事中やったけん」


「危なかったんやろ」


「事故にはなっとりません」


「事故になる前に止めたとやろ」


「はい」


 幸の目に涙が浮かぶ。


「怖かった?」


 勝男は少し考えて答えた。


「軍の係官に怒られたときは」


 幸は思わず笑いそうになり、すぐに涙を拭った。


「そこね?」


「計器の異常を見つけたときも怖かったです」


「でも止めた」


「はい」


「迷わんかった?」


「止めること自体は」


 勝男は言った。


「止めたあと、間違いやったらどうしようとは思いました」


「間違いやなかったやろ」


「結果はそうでした」


「ならよか」


 勝男は首を横へ振った。


「原田さんが言いました。結果的に異常があったから正しかったんやなくて、あの時点で安全を確認できんかったから止めるべきやったって」


 幸は勝男を見る。


「原田さん、よかこと言うね」


「いつも怖かけど、よか人です」


「うん」


 幸は勝男の手を握った。


「うちは、勝男さんの判断、誇りに思う」


「軍の輸送を遅らせましたけど」


「そんなもの、遅れてよか」


 幸は迷わず答えた。


「人の命より大事な荷物なんか、なかよ」


 勝男は、少しだけ笑った。


「幸さんなら、そう言うと思いました」


 十四 原田家の誇り


 原田が家へ帰ると、紀江と英二、正三郎が待っていた。


 紀江は夫の顔を見るなり尋ねた。


「列車ば止めたと?」


「ああ」


「危なかったと?」


「事故にはならんかった」


「そうやなくて」


 紀江は夫の手を取った。


「あなたたちが危なかったと?」


 原田は少し考えた。


「走り続けとったら、危なかったかもしれん」


 英二が父を見る。


「父ちゃんが止めたと?」


「最初に気づいたのは勝男兄ちゃんたい」


 正三郎の目が輝く。


「勝男兄ちゃん、すごか!」


 原田はうなずいた。


「ああ。よか判断やった」


 紀江は、夫が若い勝男を褒めたことに気づいた。


「あなたが、そがん素直に褒めるとは珍しかね」


「本当によかったけんたい」


 原田は息子たちへ向かって言った。


「汽車ば動かす人間は、走らせるだけが仕事やなか」


「止めるのも仕事?」


 英二が尋ねる。


「ああ」


「どうして?」


「危なかときに止められん人間は、汽車ば走らせる資格がなか」


 正三郎は真剣にうなずいた。


「僕も止める」


「お前はまず、勝手に汽車へ乗るな」


 家族に小さな笑いが起きた。


 十五 龍弥と勝男


 数日後。


 勝男と龍弥は、坂の上の喫茶店で顔を合わせた。


 恵と幸も一緒だった。


 老婆は、少ない材料で作った温かい紅茶を出してくれた。


 龍弥が言う。


「佐世保の資材、勝男さんの列車やったとですね」


「はい」


「造船所では、遅れたって騒ぎになっとりました」


「すみません」


「何で謝るとですか」


 龍弥は首を横へ振る。


「伊藤さんが、止めて当然だって言いよりました」


 勝男は少し安心した顔になる。


「本当に?」


「工期より安全ば優先できる人間は信用できるって」


 幸が腕を組む。


「ほら、みんな勝男さんが正しかったって言いよる」


 勝男は困ったように笑う。


「でも、責任の報告は書かんばいかんです」


 恵が言う。


「書けばよかよ」


「何て?」


「安全のために止めましたって」


「それだけでは足りんでしょう」


 幸が言う。


「なら最後に、文句があるなら自分で機関車ば動かしんしゃいって書いとけば」


「幸さん、それは書けません」


 四人は久しぶりに笑った。


 十六 安全という抵抗


 哨戒艇の資材は、遅れて佐世保へ届いた。


 建造工程にも、わずかな遅れが出た。


 軍の係官から、鉄道側へ厳しい確認が行われた。


 だが、機関車の計器異常が記録されていたことで、勝男と原田の判断は処罰されなかった。


 それでも、勝男は知っていた。


 次も同じように止められるとは限らない。


 命令。


 圧力。


 納期。


 軍事優先。


 これから、さらに強くなるだろう。


 だが、原田から教えられた言葉がある。


 安全を守る者は、時には列車を止める勇気も必要。


 列車を走らせることだけが、鉄道員の忠誠ではない。


 危険なときに止める。


 分からないときに確認する。


 遅れを恐れず、人の命を優先する。


 それもまた、戦争の時代に人間らしさを守る小さな抵抗だった。


 夜。


 勝男は長崎機関区で、機関車の水位計をもう一度確認していた。


 幸は大村加工所で、民間向けのボルトを検品している。


 恵は縫製工場で、軍服の袖を縫いながら着る人の無事を祈る。


 龍弥は造船所で、佐世保へ届いた鋼材の状態を確認していた。


 四人とも、戦争の仕事から逃れることはできなかった。


 それでも、目の前の命を軽くしない。


 その一点だけは、誰にも譲らなかった。


 次回予告


 軍需輸送よりも安全を優先し、列車を止めた勝男。


 原田は、その判断を鉄道員としての成長だと認める。


 だが、戦争はさらに大きな転換点を迎えようとしていた。


 アメリカやイギリスとの関係が悪化し、町では石油や金属の不足が深刻になる。


 平戸家では、肥料や農具が手に入りにくくなり、増産命令へ応えることが難しくなっていく。


 篠田家では、漁船の燃料が制限され、慶一たちは海へ出られる日を減らされる。


 造船所と機関区へ燃料が優先される一方、庶民の暮らしはますます締めつけられていく。


 そんな中、龍弥のもとへ一通の通知が届く。


 徴兵検査。


 梅は、その紙を握ったまま動けなくなる。


 次回、第23話。


「召集令状」


 造船技師になるはずだった青年。


 恵と家庭を築くはずだった婚約者。


 国は彼を、一人の人間ではなく、兵士として数え始める。

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