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幸と恵の物語  作者: リンダ


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三国同盟の影

『幸と恵のものがたり』


第21話 三国同盟の影


昭和十五年九月。


長崎の町には、日独伊三国同盟の締結を伝える新聞が行き渡っていた。


大きな活字。


三国の結束。


新しい世界秩序。


強固な協力関係。


日本とドイツとイタリアが手を結んだことを、喜ばしい出来事として伝える言葉が紙面を埋めていた。


町の一部には旗が掲げられ、学校や職場でも、同盟締結を祝うよう求められた。


だが、長崎で暮らす人々の多くにとって、それは遠い外交の話だけではなかった。


軍需列車が増える。


軍艦の建造が増える。


軍服の注文が増える。


農産物の供出が増える。


民間向けの仕事が減る。


三つの国が手を結んだその日から、町の暮らしを締めつける縄は、さらに強く引かれ始めていた。


一 祝賀を求められる町


朝。


路面電車の車内には、三国同盟を伝える新聞を広げる乗客がいた。


「これで日本も安泰たい」


一人の男が言う。


「ドイツはヨーロッパで勝ち進んどる。イタリアもおる。三国が組めば、アメリカも簡単には手を出せんやろ」


向かいに座る別の男は、曖昧にうなずいた。


だが、その顔に喜びはない。


幸と恵は、少し離れた場所に並んで立っていた。


幸は新聞の見出しへ目を向ける。


「何が安泰ね」


小さく漏らした声を、恵がすぐに拾った。


「お姉ちゃん」


「分かっとる。大きな声では言わん」


幸は窓の外を見た。


通りには三国の旗を模した飾りが掲げられている。


学校へ向かう子どもたち。


軍需工場へ急ぐ人々。


配給を待つ列。


軍服姿の兵士。


華やかな飾りの下を、疲れた顔をした人々が歩いていた。


「ドイツもイタリアも戦争しよる国やろ」


幸が囁く。


「うん」


「人の国ば攻めて、町ば壊して、たくさん人ば殺しよる」


「うん」


「そこと手ば組んで、何でお祝いせんばいかんと?」


恵も答えられなかった。


電車はモーター音を響かせながら、長崎の坂道を上り下りしていく。


以前と同じ路面電車。


以前と同じ通学路。


しかし窓の外には、戦争を祝えと迫る時代の色が濃くなっていた。


二 破り捨てたい注文書


大村加工所。


勝一の机には、新たな注文書が置かれていた。


軍事用車両のボルト。


エンジン周辺の固定金具。


修理用工具。


さらに、これまでより多くの部品を、短い納期で納めるよう記されている。


注文書の末尾には、民間向けの製造を縮小し、軍需を最優先するよう求める文言があった。


幸は、その紙を両手で持っていた。


「民間の仕事ば断れって」


声が震えている。


勝一は加工機の調整を続けながら答えた。


「そう書いてある」


「機関車の部品も?」


「軍事輸送に使う機関車なら、優先されるだろう」


「漁船の金具は?」


「後回しだ」


「農具の修理は?」


「それもだ」


幸は注文書を強く握った。


紙の端に皺が寄る。


「おかしかよ」


「幸」


「漁船が動かんかったら、魚ば取れんやろ。鍬が壊れたままなら、畑ば耕せんやろ」


勝一は黙っていた。


「人が暮らすための仕事ば止めて、戦争の車ば動かす部品ば作れって?」


幸の指に力が入る。


注文書が破れそうになる。


「こんなもの……」


「破るな」


勝一の声が鋭く響いた。


幸の手が止まる。


「でも!」


「破って何になる」


「こんな注文、受けたくなか!」


「俺もだ!」


勝一の怒声が加工場へ響いた。


幸は息をのんだ。


父が娘へこれほど強く声を上げたのは、久しぶりだった。


勝一は機械から手を離し、娘を見た。


「俺だって、受けたくない」


声が震えている。


「毎日、何のために鉄ば削っとるか分からんようになる」


軍用車両。


兵器を運ぶ車。


兵士を戦場へ送る車。


自分の作った部品が、人を殺すために使われるかもしれない。


その苦しみは、幸だけのものではなかった。


「なら断ろうよ」


幸が言う。


「断ったら、この加工場はどうなる」


「民間の仕事ばすればよか」


「材料が回ってこん」


勝一は棚を指した。


「鉄も工具も、軍需が優先だ。民間の注文を受けても、作る材料がなければ何もできん」


「でも……」


「取引を切られたら、働いとる人たちはどうする」


勝一の声は次第に低くなる。


「その家族は、何ば食べる」


幸は答えられなかった。


「俺一人の気持ちだけで決められるなら、とっくに断っとる」


勝一は注文書へ視線を落とした。


「戦争は、一人ひとりが嫌だと思う気持ちさえ、暮らしを人質にして押さえつける」


幸の手から力が抜けた。


注文書は破れなかった。


だが、紙についた深い皺は残った。


三 父と娘の衝突


「お父さんは、仕方なかって思っとると?」


幸が尋ねた。


「思いたくない」


「でも作るんやろ」


「ああ」


「それなら、戦争ば手伝うことになる」


勝一の顔が強張る。


「分かっとる」


「人ば殺すものに――」


「分かっとると言っとるやろ!」


再び怒声が響いた。


節子と恵が、家の中から加工場へ駆けつけた。


「どうしたと?」


節子が尋ねる。


幸は涙を浮かべている。


勝一は背を向けた。


「何でもない」


「何でもない声ではなかったよ」


恵は、幸が握っている注文書を見た。


紙についた皺で、おおよそのことを察した。


「姉ちゃん、破ろうとしたと?」


幸は答えなかった。


節子は夫と娘を交互に見る。


「二人とも、同じことで苦しんどるのに、何で互いを責めるとね」


「責めとらん」


幸が言う。


「お父さんが悪いとは思っとらん」


「なら、どうしてそがん言い方ばした」


勝一が振り返る。


「お父さんが諦めたように見えたけん!」


「諦めてなど――」


「毎日、仕方ない顔ばしとる!」


勝一の言葉が止まった。


幸は涙を拭った。


「うちは、お父さんまで戦争の言うとおりになってしまうのが怖かとよ」


その言葉に、勝一の表情が変わった。


怒りではない。


痛みだった。


「俺が、戦争を正しいと思っとるように見えるか」


「違う」


幸は首を振った。


「でも、毎日嫌な仕事ば続けよったら、いつか何も感じんようになるんやないかって」


勝一は、自分の手を見た。


軍需部品を作ることへ、初めは吐き気がするほど抵抗を感じていた。


今も苦しい。


だが確かに、注文書を見るたびに感じていた衝撃は、以前より小さくなっている。


慣れ。


諦め。


仕事だからという言葉。


それらが少しずつ、自分の心を鈍らせているのかもしれない。


「お前の言うとおりかもしれん」


勝一が静かに答えた。


幸が顔を上げる。


「嫌な仕事でも、毎日続ければ慣れる」


勝一は注文書を受け取った。


「人は、何にでも慣れる。だから怖い」


節子が夫のそばへ立つ。


「でも、あなたはまだ悩んどる」


「悩むだけで何になる」


「悩まなくなるよりはいい」


節子は言った。


「幸も、お父さんに戦争ば止める力がないことは分かっとるやろ」


幸は俯いた。


「うん」


「お父さんも、幸がただ我がままで注文書ば破ろうとしたんやないって分かるやろ」


勝一はうなずいた。


父と娘。


どちらも戦争が嫌いだった。


それなのに、戦争は二人の間に入り込み、互いを傷つけさせようとしていた。


四 残す仕事


勝一は、注文書を机へ置いた。


「軍需の注文は受ける」


幸の表情が曇る。


「だが、民間の仕事を全部断るつもりはない」


「材料は?」


「残ったものを使う」


「足りると?」


「足りん」


勝一は即答した。


「それでも、できる範囲でやる」


漁船の金具。


壊れた農具。


生活に必要な工具。


鉄道の安全を守る部品。


軍需の納期に追われる中でも、人を生かすための仕事を完全には捨てない。


「幸」


「何?」


「お前には、そちらを手伝ってもらう」


幸は父を見る。


「民間の仕事?」


「ああ」


「軍の部品は?」


「検品を頼むこともある」


幸の表情が曇る。


勝一は続けた。


「嫌なら嫌と思ったままでよか」


「でも、ちゃんと確認せんば危なか」


「そうだ」


軍用車両に乗る兵士にも家族がいる。


整備する人間もいる。


粗悪な部品を作れば、その場で別の命が失われる。


戦争へ加担したくない。


だが、手を抜いてよいわけでもない。


「矛盾ばかりやね」


幸が呟く。


「戦争は、何を選んでも矛盾が残る」


勝一は答えた。


「だから、自分が何のために働いとるかだけは、毎日考えろ」


幸は深くうなずいた。


五 倍増する軍服


縫製工場では、三国同盟締結を境に軍服の生産数が大幅に増やされた。


朝礼で、工場長が声を張り上げる。


「国家の要請に応えるため、今月から生産目標を倍にする」


工員たちの間に小さなどよめきが起きた。


倍。


だが、働く人の数が倍になるわけではない。


一日の時間が倍になるわけでもない。


「勤務時間も延長する」


恵は、自分の指先を見た。


針に刺した傷。


布で擦れた皮膚。


絆創膏の代わりに巻いた小さな布。


すでに痛みはあった。


それでも、さらに多く縫わなければならない。


隣で働く女性が小さく言った。


「また増えるとね」


「はい」


「ドイツとイタリアと同盟ば結んだら、何でうちらの仕事まで増えるとやろ」


恵は、声を落として答える。


「戦争ばする約束やけんでしょう」


「怖かこと言わんで」


女性は周囲を見る。


「でも、本当たい」


別の工員が呟いた。


三国同盟。


新聞では、国家同士が握手する写真として伝えられた。


だが、縫製工場で働く女性たちには、軍服を倍縫えという命令として届いた。


六 血のにじむ指


昼を過ぎても、機械の音は止まらなかった。


恵は軍服の襟を縫っていた。


同じ動作を繰り返す。


布を押さえる。


針を進める。


糸を切る。


次の布を取る。


疲れで指先の感覚が鈍くなっていた。


そのとき、針が指へ刺さった。


「痛っ」


小さな血の粒が浮かぶ。


恵は慌てて軍服から手を離した。


血を布へつけてはいけない。


指導役の女性が駆け寄る。


「大丈夫ね」


「はい」


「休んで」


「でも、目標が」


「血がついたら、やり直しになる方が困る」


恵は作業台を離れた。


水で指を洗う。


傷は深くない。


だが、指には古い傷もいくつも残っている。


「恵ちゃん」


女性が隣へ立った。


「無理したらいかん」


「皆さんも同じやろ」


「同じやけん止めよると」


恵は軍服の山を見た。


「これ、一着ずつ誰かが着るとですよね」


「そうやろうね」


「倍作れってことは、兵隊さんも倍必要になると?」


女性は答えなかった。


恵は、胸が苦しくなった。


軍服の数だけ、戦地へ向かう人間がいる。


その一人ひとりに家族がいる。


「この服ば縫い終えんかったら、その人は戦争へ行かんで済むとかな」


思わず漏れた言葉だった。


女性は悲しそうに首を振る。


「ほかの服ば着せられて行くだけたい」


恵は目を伏せた。


自分が針を止めても、戦争は止まらない。


その事実が、何より苦しかった。


七 夜の造船所


造船所では、新たな軍艦建造の命令が届いていた。


夜間作業が始まり、巨大な船体が照明に浮かび上がっている。


火花。


鉄を打つ音。


職人たちの掛け声。


昼と夜の境目が失われた作業場で、龍弥と伊藤勝は溶接部分を確認していた。


「篠田、手元が遅れとる」


伊藤が言う。


「すみません」


「疲れとるか」


「大丈夫です」


伊藤の表情が険しくなる。


「その言葉ば簡単に使うな」


龍弥は口を閉じた。


「疲れとるなら疲れとると言え」


「でも、皆も働いとります」


「皆が倒れたら、全員正しいとでも言うつもりか」


伊藤は龍弥の溶接面を上げさせた。


目の周りに疲労が浮かんでいる。


「十分休め」


「工期が」


「俺が話す」


「伊藤さんが責められます」


「指導員は何のためにおる」


伊藤の声は厳しかった。


「お前ば働かせ続けるためやなか。事故ば起こさせんためだ」


龍弥は俯いた。


「恵さんも、工場で勤務時間が延びたそうです」


「婚約者の心配か」


「はい」


「なら、なおさら自分も無事に帰れ」


伊藤は軍艦を見上げた。


「国は、船も人間も、壊れるまで使うつもりかもしれん」


「伊藤さん」


「だが、俺たちまでそれに従う必要はない」


仕事を拒むことは難しい。


だが、仲間の命を守るために休ませることはできる。


伊藤は、現場でできる小さな抵抗を選んでいた。


八 増発される軍需列車


長崎機関区。


新しい勤務表が掲示された。


軍需列車の増発。


兵員輸送。


軍用資材。


弾薬。


食糧。


造船所へ運ぶ鋼材。


通常の旅客列車の間へ軍需列車が組み込まれ、乗務員の勤務はさらに複雑になった。


勝男は勤務表を見上げた。


「また夜勤ですか」


原田正勝が答える。


「ああ」


「原田さんも?」


「俺もだ」


「いつ休むとですか」


「次の非番」


勝男は表を見る。


非番といっても、前の勤務が長引けば、家で眠るだけで終わる。


「紀江さんたち、心配しとるでしょう」


原田は何も言わなかった。


その沈黙が答えだった。


「幸さんから、手紙は来たか」


原田が尋ねる。


「はい」


「何て」


「無理ばするなって」


「そのとおりたい」


「原田さんが言うとですか」


勝男は思わず笑った。


原田も、口元をわずかに緩める。


「俺は無理してよか。お前はするな」


「そがん理屈ありますか」


「指導員の理屈たい」


二人は短く笑った。


だが、すぐに軍需列車の汽笛が響く。


笑顔は消え、仕事の顔へ戻った。


九 原田家の夜


原田が家へ戻ったのは、夜も遅くなってからだった。


紀江は起きて待っていた。


英二と正三郎は、居間で眠ってしまっている。


二人のそばには、父へ見せるために描いた絵が置かれていた。


蒸気機関車。


家族四人。


線路の向こうには山と海。


原田は、子どもたちの頭を撫でた。


「待っとったとよ」


紀江が小声で言う。


「起こさんでよか」


「父ちゃんに見せるって、ずっと起きとった」


原田は絵を手に取った。


「戦争が終わったら乗る汽車だそうです」


紀江が言う。


絵の機関車には、原田が乗っている。


客車の窓から、紀江と英二と正三郎が手を振っていた。


「いつ終わるとかな」


紀江の声が震える。


原田は答えられなかった。


「三国同盟ば結んで、もっと戦争が広がるとやない?」


「ああ」


「あなたの仕事も増える?」


「ああ」


「体は」


「大丈夫」


紀江は夫を見た。


「その言葉、信じてよかと?」


原田は苦笑した。


「平戸にも、同じことば言われた」


「皆から信用されとらんね」


「困ったものたい」


紀江は笑おうとしたが、涙が浮かんだ。


原田は妻の手を取る。


「帰ってくる」


「毎日?」


「ああ」


「約束よ」


「約束たい」


それは、戦地へ向かう兵士の約束とよく似ていた。


ただ仕事へ行くだけだったはずの鉄道員でさえ、家族へ無事の帰宅を誓わなければならない時代になっていた。


十 平戸家の供出


三国同盟締結後、平戸家にも新たな通達が届いた。


軍需輸送の拡大に備え、食糧供出をさらに増やすよう求める内容だった。


和徳は畑の前で紙を握りしめていた。


「これ以上、何ば出せっていうとや」


畑には芋や大根が育っている。


だが、家族が食べる分。


翌年の種にする分。


市場へ出す分。


すでに余裕はほとんどない。


真子が通達を見る。


「うちらの食べる分まで出せってこと?」


「そこまでは書いとらん」


「書かんでも、残らんやろ」


勝男も畑へ来た。


勤務明けで、顔には疲れがある。


「俺の給金で、買えるものば買う」


真子は首を振った。


「店にも物がなかとよ」


和徳は畑の土へ目を落とした。


「国は、ドイツとイタリアと手ば組んだ」


「うん」


「でも、畑ば耕す手が増えたわけではなか」


作物が急に多く実るわけでもない。


天候が命令へ従うわけでもない。


国際政治の決定が、遠く離れた農家へ「もっと作れ」という言葉だけで降りてくる。


「父さん」


勝男が言う。


「無理な分は、無理と言おう」


和徳は苦く笑った。


「誰に言うとや」


答えられる相手はいなかった。


十一 老婆の喫茶店


日曜日。


家族たちは、久しぶりに坂の上の喫茶店へ集まった。


以前より、料理は少なくなっていた。


砂糖も小麦粉も貴重で、チーズケーキはさらに小さくなっている。


それでも老婆は、全員へ一切れずつ行き渡るよう丁寧に切り分けた。


「小さかね」


正三郎が率直に言う。


原田がすぐに叱る。


「出してもらったものに、そがんこと言うな」


老婆は笑った。


「よかよ。小さかのは本当やけん」


英二が尋ねる。


「前は大きかったと?」


恵が答える。


「うちと龍弥さんが初めて食べたときは、もう少し大きかったよ」


幸がすぐに笑う。


「二人の思い出のチーズケーキね」


「お姉ちゃん、また言うと?」


店内に笑いが広がった。


だが、その笑いの裏には疲れがあった。


勝一。


和徳。


慶一。


原田。


伊藤。


節子。


真子。


梅。


紀江。


誰もが、自分の暮らしへ増えた戦争の重さを背負っている。


十二 三つの国と小さな食卓


老婆が紅茶を注ぎながら言った。


「三つの国が手ば結んだそうやね」


原田がうなずく。


「はい」


「町ではお祝いしよる人もおる」


「国から、喜ばしいことだと言われとりますけん」


伊藤が答えた。


老婆は、テーブルを見回した。


平戸家の小さな芋。


篠田家のワカメ。


節子が持ってきた漬物。


わずかなパン。


小さなケーキ。


「三つの大きな国が手ば組んでも、ここの食べ物は増えんとね」


誰も答えられなかった。


「むしろ減りました」


真子が言う。


「畑から、もっと出せって」


恵も自分の傷ついた指を見せた。


「軍服も倍作れって言われました」


龍弥が続く。


「軍艦も増えます」


勝男は言った。


「列車も」


幸は父の注文書を思い出す。


「加工場も、軍の仕事ば優先しろって」


老婆は静かにうなずいた。


「三つの国が手ば結んだんやなか」


全員が老婆を見る。


「国が、あんたたちの手ば戦争へ引っ張ったとよ」


恵の縫う手。


龍弥の溶接する手。


勝男の石炭をくべる手。


勝一の鉄を削る手。


和徳と真子の土を耕す手。


それぞれの手が、本人の望みとは関係なく、戦争へ使われている。


十三 戦争に渡さないもの


「でもね」


老婆は続けた。


「全部は渡したらいかんよ」


幸が尋ねる。


「何ば?」


「心たい」


老婆は自分の胸へ手を当てた。


「手は仕事に取られるかもしれん」


「はい」


「時間も、食べ物も、自由も取られるかもしれん」


店内が静まる。


「でも、人が死んだことば喜ばない心まで渡したらいかん」


幸は、ゆっくりうなずいた。


「戦争が嫌だって思う心も?」


「もちろん」


「大切な人と暮らしたいって思うことも?」


「それもたい」


老婆は、幸と勝男、恵と龍弥を見た。


「国が何ば決めても、誰ば好きになるかまでは決められんやろ」


幸は勝男を見る。


恵は龍弥の手へそっと触れた。


「結婚することも?」


幸が尋ねる。


「戦争が決めることやなか」


老婆は笑った。


「自分たちで決めんね」


勝一が静かに言う。


「だからこそ、生き残らんばな」


原田も続く。


「戦争が終わったあと、何ばするか考え続ける」


伊藤が龍弥を見る。


「覚えた技術ば、人を生かすために使う」


和徳は畑の話をした。


「食べ物ば、家族が笑って食べられるように作る」


慶一も言う。


「漁船ば、無事に港へ帰す」


小さな喫茶店の中で、人々は戦争後の仕事を語った。


今は遠い未来。


だが、語ることをやめれば、その未来そのものが消えてしまう気がした。


十四 幸の謝罪


集まりのあと。


幸は父と並んで坂道を下っていた。


「お父さん」


「何だ」


「注文書、破ろうとしてごめん」


勝一は前を向いたまま答える。


「破らんかったからよか」


「でも、お父さんば責めるようなこと言った」


「俺も怒鳴った」


「怖かったよ」


「すまん」


父が素直に謝ったことに、幸は少し驚いた。


勝一は続ける。


「お前が怒る気持ちは、なくさんでよか」


「本当に?」


「ああ」


「でも、仕事はする」


「それも本当だ」


幸は苦く笑った。


「難しかね」


「大人になれば、答えが分かると思っとったか」


「少しは」


「残念ながら、大人も分からんことばかりたい」


幸は父の腕へそっと手を添えた。


「じゃあ、一緒に考えよう」


勝一は娘を見る。


「何を」


「どの仕事ば残すか。どこまで軍の注文ば受けるか。誰か困っとる人がおらんか」


「お前にできるか」


「お父さん一人より、二人の方がよかやろ」


勝一は小さく笑った。


「恵みたいなこと言うな」


「双子やけんね」


十五 四人の夜


その夜。


幸と勝男は長崎駅近くで短い時間だけ会った。


勝男は次の夜勤へ向かう途中だった。


「また兵員列車?」


幸が尋ねる。


「今日は軍需貨物です」


「危なかもの?」


「詳しくは言えません」


その答えで十分だった。


幸は勝男の作業着の袖を握る。


「帰ってきてね」


「はい」


「絶対よ」


「はい」


「大丈夫って言わんで」


勝男は少し笑った。


「原田さんと同じ扱いやな」


「信用ば取り戻したかったら、毎日帰ってくること」


「努力します」


「約束って言って」


「約束します」


恵と龍弥も、造船所近くで会っていた。


龍弥は夜間作業へ戻るところだった。


「指、大丈夫?」


龍弥が恵の手を見る。


「少し刺しただけ」


「大丈夫って言うたらいかんそうです」


「誰が?」


「幸さん」


恵は笑った。


「姉ちゃんらしかね」


「無理せんで」


「龍弥さんも」


「伊藤さんに休まされました」


「よかった」


「情けなくなか?」


恵は首を横へ振った。


「無事に帰ってくる方が立派たい」


龍弥は、恵の傷ついた指を包むように握った。


「戦争が終わったら」


「うん」


「この手で、子どもの服ば縫って」


恵は驚いて龍弥を見る。


「うちが?」


「俺たちの子どもの」


恵の顔が赤くなる。


「急に何ば言いよると」


「婚約者やけん、言ってもよかかと思って」


「人がおらんところで言って」


「今、おらんでしょう」


「そういう問題やなか」


二人は、小さく笑った。


十六 影の中の灯


夜。


長崎の町を、軍需列車が通過していく。


黒い煙。


重たい車輪の音。


貨車へ積まれた兵器や資材。


造船所では、軍艦の船体へ火花が散る。


縫製工場には、明日縫われる軍服の布が積まれている。


大村加工所の机には、皺のついた軍需注文書が置かれている。


三国同盟。


三つの国が手を結んだ。


だが、その手が庶民へ差し出したものは、平和でも豊かさでもなかった。


長時間労働。


物不足。


軍服。


軍艦。


兵員列車。


沈黙。


そして、さらに大きな戦争への不安だった。


それでも、戦争へ渡さなかったものがある。


幸の怒り。


恵の優しさ。


勝男の帰る約束。


龍弥の造船技師としての夢。


勝一の迷い。


節子の祈り。


原田と伊藤の、若者を無事に帰そうとする意志。


それらは小さかった。


軍艦を止めることも。


列車を止めることも。


同盟を破棄させることもできない。


だが、その小さな灯がなければ、人々の心は完全に戦争のものになっていただろう。


幸は、自室の窓から夜空を見上げた。


遠くで汽笛が鳴る。


「勝男さん」


小さく名前を呼ぶ。


隣では、恵が木で作られた小さな船を握っていた。


「龍弥さん」


二人の声が重なる。


双子は顔を見合わせた。


「帰ってくるよね」


幸が言う。


「帰ってくる」


恵は答えた。


確信があったわけではない。


それでも、そう言わなければ眠れなかった。


三国同盟の影は、長崎の町を覆い始めている。


だが、その影の中で。


四人は、自分たちの未来を照らす灯を守り続けていた。



次回予告


三国同盟締結によって、戦争の影はさらに濃くなった。


軍需注文をめぐって衝突した幸と勝一は、民間の仕事を少しでも残すため、親子で加工場を支えていく。


恵は軍服工場の長時間勤務に耐えながら、一着ごとに「生きて帰って」と願い続ける。


龍弥は夜間作業中、疲労で足場から転落しかけた若い職人を救う。


伊藤は工期を優先する上層部へ、現場の休息を認めるよう強く迫る。


一方、勝男と原田が乗る軍需貨物列車は、深夜の長崎本線を走行していた。


本川内付近の勾配へ差しかかったとき、勝男は火室の水位計に異常を感じる。


見間違いか。


機器の故障か。


それとも、ボイラーに関わる重大な兆候か。


次回、第22話。


「重連機関車の夜」


止まれば軍需輸送が遅れる。


進めば、列車全体が危険にさらされる。


勝男は初めて、命令より安全を優先する決断を迫られる。

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