戦地へ向かう汽車
『幸と恵のものがたり』
第20話 戦地へ向かう汽車
昭和十四年、秋。
長崎駅の構内に、低く重たい汽笛が響いた。
ホームの向こうには、長い客車の列が止まっていた。
窓の一つひとつに、軍服姿の若者たちの顔が並んでいる。
十八歳。
二十歳。
二十五歳。
三十歳。
年齢も、生まれた町も、家族の形も違う。
だが、全員が同じ軍服を着せられ、同じ列車へ乗せられ、同じ方向へ運ばれようとしていた。
博多へ。
その先は門司か、下関か。
あるいは港から船へ乗り、大陸へ。
行き先を詳しく知らされていない兵士も多かった。
列車の先頭では、二両の蒸気機関車が白い蒸気を吐いていた。
長編成を引くための重連運転。
一両目の機関車の後ろに、もう一両が連結されている。
二つの火室。
二組の機関士と機関助手。
二本の煙突。
急勾配を越えるために、二両が呼吸を合わせて走る。
後ろ側の機関車の運転室に、平戸勝男がいた。
正式な機関助手となって初めて、火室を任される兵員輸送列車だった。
一 婚約者を胸に
勝男は、作業着の内側へ手を当てた。
そこには、幸が縫った小さな布袋が入っている。
中の紙には、短い言葉が書かれていた。
『必ず帰ってきて』
婚約してから、幸は以前よりもこの言葉を口にするようになった。
仕事へ向かうとき。
駅で別れるとき。
手紙の最後。
何度も。
何度も。
まるで言い続ければ、未来がその通りになると信じているかのように。
勝男自身も、幸と別れるたびに同じ言葉を返していた。
「必ず帰ります」
だが今日の列車には、その約束を口にできなかった男たちが大勢乗っている。
勝男は運転室の窓から、ホームを見た。
兵士を見送る家族たち。
母親。
父親。
妻。
子ども。
婚約者。
兄弟姉妹。
誰もが笑顔を作ろうとしていた。
しかし、笑えてはいなかった。
「平戸」
原田正勝の声が飛んだ。
「はい」
勝男はすぐに振り返る。
原田は火室と計器を交互に見ていた。
「今日は、お前に火ば任せる」
「はい」
「ただし、全部一人でできると思うな」
「分かっとります」
「分からんときは聞け。異常を感じたら、すぐ言え」
「はい」
「自分だけで解決しようとするな」
原田の声は厳しかった。
だが、勝男が正式な機関助手となった今も、その厳しさは変わらない。
いや、以前より厳しくなっていた。
見習いの失敗は、指導員が止められる。
だが、正式な乗務員の判断は、そのまま列車全体の安全へつながる。
「今日の編成は重い」
原田が言う。
「兵員だけやなか。後ろに荷物も多い」
「本川内の勾配へ入る前に、早めに火ば作ります」
「言うだけなら誰でもできる」
原田は勝男を見る。
「列車の音を聞け。速度ば見ろ。前の機関車の動きば読め」
「はい」
「重連は二両で一つだ」
前の機関車だけが力を出してもいけない。
後ろが押しすぎてもいけない。
連結器へ余計な力がかかれば、編成全体に衝撃が伝わる。
互いの動きを感じ、同じ列車を引かなければならない。
勝男は火室の扉を開いた。
赤い炎。
石炭の黒。
顔を焼く熱気。
炎の状態を見つめる。
「右奥が少し弱いです」
「どうする」
「少量ずつ入れて、燃え方ば見ます」
「やれ」
勝男はショベルを握った。
二 窓の向こうの婚約者
ホームでは、一人の若い女性が客車の窓へ近づいていた。
窓の中には、二十歳ほどの兵士がいる。
「正太郎さん」
女性が名前を呼ぶ。
兵士は笑った。
「泣くなって」
「泣いとらん」
「泣いとるやないか」
女性は袖で涙を拭いた。
左手の指には、細い指輪があった。
兵士も同じ指輪をしている。
「帰ってきたら、式ば挙げよう」
兵士が言う。
「本当に?」
「約束したやろ」
「いつ帰れると?」
兵士は答えられなかった。
「すぐたい」
代わりに、そう言った。
誰にも分からない「すぐ」。
数か月かもしれない。
数年かもしれない。
二度と帰れないかもしれない。
それでも、婚約者を安心させるには、そう言うしかなかった。
女性は窓越しに手を伸ばした。
「勝たんでもよか」
兵士の表情が変わる。
「何ば言いよると」
「立派なことせんでもよか」
女性は声を落とした。
周囲に聞かれれば、何を言われるか分からない。
「逃げてもよかけん」
「そがんこと、できるわけなか」
「分かっとる」
女性は泣きながら笑った。
「でも、生きて帰ってきて」
兵士の目にも涙が浮かぶ。
「帰る」
「約束よ」
「約束たい」
窓越しに重なった二人の手を、勝男は運転室から見ていた。
幸と自分の姿が重なる。
もし、自分が兵士として列車へ乗せられる日が来たら。
幸も、あのようにホームから手を伸ばすのだろうか。
「平戸!」
原田の声が響いた。
勝男ははっとする。
「すみません」
「どこば見とる」
「ホームです」
「今のお前が守るのは、あの人たちを乗せた列車だ」
「はい」
原田は勝男が何を見ていたのか気づいていた。
だが、慰める言葉はかけなかった。
仕事中だからだ。
「思う人がおるなら、なおさら手ば動かせ」
「はい」
勝男は再び火室へ向き合った。
三 出発
出発を知らせる笛が鳴った。
ホームに緊張が走る。
家族たちが客車から離れるよう促される。
誰も離れたくない。
それでも駅員の声に従い、少しずつ後ろへ下がる。
前の機関車が汽笛を鳴らした。
長く。
低く。
続いて、勝男たちの機関車も応える。
二両の汽笛が、長崎駅の屋根を震わせた。
「出るぞ」
原田が言う。
「はい」
連結器が張る。
先頭の機関車が動く。
後ろの機関車が力を加える。
ガタン。
ガタン。
何両もの客車が、一両ずつ引き出されていく。
列車はゆっくりと動き始めた。
ホームから声が上がる。
「元気で!」
「手紙ば書いて!」
「帰ってこいよ!」
「体ば大事に!」
「父ちゃん!」
「兄ちゃん!」
兵士たちも窓から手を振る。
「行ってくるけん!」
「待っとってくれ!」
「母ちゃん、泣くな!」
「すぐ帰るぞ!」
誰もが、大きな声を出していた。
声が途切れた瞬間、涙があふれてしまうからだった。
列車が速度を上げる。
家族たちはホームを走った。
幼い子どもが転びそうになり、母親に抱き上げられる。
年老いた父親が、息子の名前を叫び続ける。
婚約者の女性は、指輪をはめた手を高く掲げた。
客車の兵士も、同じ手を窓から伸ばしている。
二人の距離が離れていく。
それでも最後まで、互いの姿を見つめていた。
勝男はショベルを握りながら、奥歯を噛みしめた。
この列車を走らせることが、自分の仕事だった。
けれど、動輪が一回転するたび、兵士たちは家族から遠ざかっていく。
四 世界で力を持つ男たち
同じ頃。
世界では、戦争を拡大させようとする力が強まり続けていた。
ドイツでは、アドルフ・ヒトラーが独裁的な権力を握り、軍備を拡大していた。
反対する者を排除し。
人々を民族や出自によって分け。
自国の領土と勢力を広げるため、周辺国へ圧力を加えていく。
イタリアでは、ベニート・ムッソリーニがファシズム体制を築き、ドイツとの結びつきを強めていた。
軍服。
行進。
旗。
演説。
国家の強さを誇示する光景が、人々の生活を覆っていく。
日本でも、軍部の発言力が強まっていた。
中国大陸での戦争は長期化し、終わりが見えない。
それでも撤退や和平を訴える声は弱く、戦線をさらに広げる考えが力を持ち始めていた。
新聞には、ドイツとイタリアの動きを好意的に伝える記事も増えた。
強い国家。
統一された国民。
指導者のもとへ集まる力。
そのような言葉が並ぶ。
やがて、日本、ドイツ、イタリアの三か国が、軍事的な結びつきを強めるべきだという声が広がっていった。
五 大村家のラジオ
その夜。
大村家では、ラジオから海外情勢を伝える放送が流れていた。
ドイツ。
イタリア。
軍事協力。
防共。
国際情勢。
難しい言葉が並んでいる。
幸は加工場の帳面を整理しながら聞いていた。
恵は、縫製工場から持ち帰った自分の衣服を繕っている。
節子は夕食の支度。
勝一は機械の手入れをしていた。
放送の中で、ヒトラーとムッソリーニの名が繰り返された。
幸は手を止めた。
「この人たちは、何でそがんに戦争ばしたがると?」
勝一が加工場から答える。
「自分の国を強くしたいと考えとるんだろう」
「人ば殺して強くなると?」
「軍事力を持てば、他国を従わせられると思っとる」
幸は顔をしかめた。
「それのどこが強かと」
恵が姉を見る。
「姉ちゃん」
「だって、人ば怖がらせて言うこと聞かせるだけやろ」
幸はラジオを指した。
「それは強いんやなくて、乱暴なだけたい」
節子は鍋をかき混ぜながら言った。
「その言葉は、外では言わんようにね」
「分かっとる」
幸は悔しそうに答えた。
「最近、何ば言っても最後はそれやね」
外では言わない。
学校では言わない。
知らない人の前では言わない。
正しいかどうかより、危険かどうかを考えなければならない。
「日本もドイツやイタリアと一緒になると?」
恵が尋ねる。
勝一はラジオの音へ耳を傾けた。
「そういう動きはあるようだ」
「どうして?」
「アメリカやイギリスに対抗するためだろう」
「また対抗ね」
幸が言う。
「みんな誰かに負けたくない、誰かより強うなりたいって、そればかり」
「国同士は、簡単にはいかん」
勝一が答える。
幸は父を見る。
「簡単じゃないから、戦争してよかと?」
「そうは言っとらん」
勝一の声も強くなる。
すぐに、互いに黙った。
父と娘が争いたいわけではない。
二人とも戦争が嫌いだった。
ただ、どうすれば止められるのか分からない苛立ちを、近くにいる相手へ向けてしまっただけだった。
節子が静かにラジオの電源を切った。
部屋が静かになる。
「今日はここまでにしましょう」
誰も反対しなかった。
六 恵が縫う軍服
翌日。
恵は縫製工場で軍服の袖を縫っていた。
同じ色。
同じ形。
同じ寸法。
縫っても。
縫っても。
次の布が運ばれてくる。
工場の責任者が、作業する女性たちへ話していた。
「これから、さらに注文が増える予定です」
誰かが小さくため息をつく。
「海外でも戦争が始まるかもしれんそうです」
責任者は声を落とした。
「日本も、ドイツやイタリアとの関係を強めるという話があります」
恵の手が一瞬止まった。
「手ば動かして」
隣の女性が小声で言う。
「はい」
恵は針を動かした。
この軍服を着る男は、どこへ送られるのだろう。
中国大陸。
北方。
南の島。
それとも、まだ誰も知らない別の戦場。
三国が同盟を結ぶ。
新聞では、大きな国同士が力を合わせることとして描かれるかもしれない。
だが、軍事同盟が結ばれるたびに必要となるのは、軍服だった。
武器。
車両。
船。
列車。
そして、それを使う人間。
政治家が紙へ署名するとき。
その裏では、工場の女性たちが何千着もの軍服を縫う。
農家が食糧を増産する。
鉄道員が兵士を運ぶ。
造船所が軍艦を造る。
誰かの決定が、遠く離れた庶民の手を動かしていた。
「恵ちゃん」
指導役の女性が声をかけた。
「縫い目が少しずれとる」
恵は確認した。
ほんのわずかなずれ。
「すみません。やり直します」
「疲れとると?」
「少し考え事ばしとりました」
女性は軍服を見た。
「最近は、皆そうたい」
「何を考えとるんですか」
「この先、どこまで行くとかなって」
戦争。
軍服。
物不足。
言葉の統制。
そして、外国との軍事同盟。
「前は、子どもの服ば作りよったとにね」
女性はつぶやいた。
恵は軍服の袖をほどき、縫い直した。
「また作れます」
「いつ?」
「戦争が終わったら」
女性は寂しそうに笑った。
「終わればよかね」
七 軍艦の溶接不良
造船所では、龍弥が軍艦の重要区画で溶接部分を点検していた。
伊藤勝が、少し離れた場所で別の職人と図面を確認している。
龍弥は溶接線へ光を当てた。
表面は一見、問題ないように見える。
だが、わずかに不自然な箇所があった。
線の一部が細い。
熱の入り方が均一ではない。
龍弥は指で触れる。
目を近づける。
工具を使って確かめる。
「伊藤さん」
「何だ」
「ここば見てください」
伊藤が近づく。
「どこだ」
龍弥が位置を示した。
伊藤はしばらく無言で確認した。
「溶け込みが浅いかもしれんな」
「やっぱり?」
「ああ」
近くにいた班長が不機嫌そうに言った。
「表面だけでは分からん。工期が遅れとるんだ。次へ進め」
伊藤の表情が険しくなる。
「確認が先です」
「やり直せば半日は遅れる」
「半日で済むなら、なおさら今やるべきです」
班長は龍弥を見る。
「見習いが余計なものば見つけたな」
龍弥は唇を結んだ。
伊藤が一歩前へ出る。
「見つけたことが余計なんやなか」
「しかし」
「ここに不良があれば、海へ出てから亀裂が広がる可能性がある」
「軍艦だぞ。多少のことでは沈まん」
伊藤の声が低くなる。
「船を沈めるのは、いつも“多少のこと”の積み重ねです」
周囲が静まった。
龍弥は伊藤の横顔を見た。
仕事には厳しい。
だが、立場が上の人間を相手にしても、安全に関わることでは引かない。
班長はしばらく黙ったあと、吐き捨てるように言った。
「確認しろ。ただし、急げ」
「分かりました」
伊藤は龍弥へ向き直る。
「篠田」
「はい」
「よく見つけた」
龍弥の表情がわずかに明るくなる。
「ありがとうございます」
「礼を言う前に、原因ば調べろ」
「はい」
伊藤はいつもの調子へ戻っていた。
八 ヒトラーの戦争
昭和十四年九月。
ドイツ軍がポーランドへ侵攻したとの報せが、日本にも届いた。
ヨーロッパで大きな戦争が始まった。
ラジオは連日、その戦況を伝えた。
ドイツ軍の進撃。
イギリスとフランスの参戦。
爆撃。
戦車。
多くの避難民。
幸と恵は、食卓で放送を聞いていた。
「また戦争」
幸が言った。
「今度はヨーロッパ」
恵は軍服を縫った指先を見つめた。
「ドイツでは、子どもたちも逃げよるとかな」
「ポーランドの人たちやろ」
勝一が答えた。
「家ば捨てて、逃げとる人も多いだろう」
幸は拳を握った。
「ヒトラーって人が、命令したと?」
「そうだ」
「一人の男が命令したら、何万人も戦わんばいかんと?」
「一人だけで戦争はできん」
勝一は言った。
「命令する者。その命令へ従う者。武器を作る者。運ぶ者。支持する者。止められない者」
大村家の全員が黙った。
自分たちも、遠い戦争と無関係ではなかった。
日本がドイツへ近づけば。
ドイツの戦争と、日本の戦争が結びつけば。
さらに大きな戦争になるかもしれない。
「同盟って、仲良しになることやろ」
幸が言った。
「普通はな」
「なら、人ば殺すために仲良しになるのは変たい」
節子が娘を見る。
「本当にね」
「困っとる人ば助けるために力ば合わせたらよかとに」
幸は続けた。
「戦争するために三つの国が集まって、何になると」
誰も答えられなかった。
九 東條英機という名
昭和十五年。
新聞やラジオで、東條英機という名を耳にすることが増えていった。
陸軍の中で影響力を持ち、やがて陸軍大臣となった人物。
国民には、強硬な軍人として伝えられていた。
戦争を続けるための体制。
軍備の拡大。
国民生活の統制。
そうした方針の中心にいる人物の一人だった。
ある日、長崎機関区の休憩所で、鉄道員たちが新聞を見ていた。
「また軍の力が強うなるな」
一人が言う。
別の男が周囲を気にして声を落とす。
「ドイツとイタリアとも、本格的に組むつもりらしか」
勝男は黙って聞いていた。
原田が新聞を畳む。
「仕事へ戻るぞ」
「原田さんは、どう思いますか」
勝男が尋ねる。
原田は周囲を見る。
「ここで話すことやなか」
二人は機関車の陰へ移動した。
「三国で軍事同盟ば結べば、日本は強うなるって話です」
勝男が言う。
原田は低い声で答えた。
「強く見えるかもしれん」
「違うとですか」
「三人で喧嘩ば始めれば、相手も三人では済まん」
勝男は黙った。
「同盟は、守りにも使える」
原田は続ける。
「だが、戦争ば止めるためやなく、さらに広げるために使えば、最後は皆が巻き込まれる」
「日本も?」
「ああ」
原田は機関車を見上げた。
「今でも兵士と武器ば運ぶ列車が増えとる」
「もっと増える?」
「そうなるかもしれん」
勝男は胸元の布袋へ手を当てた。
幸との約束。
結婚。
家族。
十年後。
その未来が、国同士の動き一つで遠ざかるように感じられた。
十 博多へ向かう兵員列車
兵員輸送列車は、本川内付近の勾配へ近づいていた。
前の機関車から汽笛が響く。
短い合図。
原田が答えるよう、機関士へ目を向ける。
後ろの機関車も汽笛を鳴らす。
「平戸、火床」
「右奥、少し弱いです」
「勾配まで時間は」
「もうすぐです」
「なら、急に入れるな。燃える時間ば考えろ」
「はい」
勝男は石炭をすくった。
量を見極める。
一度に入れすぎない。
火室の奥へ広げる。
炎の色を見る。
蒸気圧を確認する。
列車の速度がわずかに落ち始める。
急勾配へ入った。
前の機関車の排気音が強くなる。
勝男たちの機関車も力を加える。
シュッ。
シュッ。
シュッ。
二両分の音が山へ響く。
客車の中では、兵士たちが揺れに耐えていた。
窓の外を見ている者。
手紙を読んでいる者。
目を閉じている者。
故郷の歌を小さく口ずさむ者。
一人の若い兵士は、婚約者からもらった写真を手にしていた。
写真の裏には文字がある。
『帰ったら一緒になりましょう』
その兵士も。
勝男も。
同じ約束を胸に持っていた。
違うのは、乗っている場所だけだった。
一人は戦地へ向かう客車。
一人は、その列車を引く機関車。
どちらも、戦争の流れから自由ではなかった。
「圧力、保っとります!」
勝男が声を上げる。
「前の機関車へ遅れるな!」
原田が答える。
「はい!」
勝男は火を守った。
幸のために。
兵士たちのために。
ホームで待っている家族のために。
少なくとも、この列車の中では誰も死なせない。
それが今の自分にできる、唯一の抵抗だった。
十一 三国同盟締結
昭和十五年九月二十七日。
日本、ドイツ、イタリアの三国は、ベルリンで同盟条約へ調印した。
新聞には、大きな見出しが躍った。
三国の結束。
新秩序。
強固な同盟。
万歳。
祝賀。
町では、同盟締結を祝うよう求める空気が広がった。
学校でも。
工場でも。
役所でも。
国民は喜ぶべきだとされた。
大村家の夕食で、勝一は新聞を広げていた。
幸が見出しを読む。
「おめでたいことなん?」
勝一は答えに迷った。
「国は、そう言っとる」
「お父さんは?」
「怖いと思っとる」
幸と恵が父を見る。
「ドイツとイタリアは、ヨーロッパで戦争を広げとる」
勝一は新聞を畳んだ。
「そこへ日本が正式に加わる」
「日本の戦争と、ドイツの戦争が一つになると?」
恵が尋ねる。
「完全に同じではない」
「でも、助け合う約束ばしたんやろ」
「そうだ」
幸は怒りを抑えきれなかった。
「誰ば助けると?」
「幸」
「ヒトラーがほかの国ば攻めるのを助けると? ムッソリーニが戦争するのを助けると?」
節子が窓の外を確認した。
「声を落として」
幸は立ち上がりそうになり、恵に腕をつかまれた。
「何が新しい秩序ね」
幸の目に涙が浮かぶ。
「人ば殺して、町ば壊して、家族ば引き離して」
新聞の見出しを指す。
「そんなもの、秩序やなか。滅茶苦茶にしよるだけたい」
勝一は娘を叱らなかった。
節子も止めなかった。
家の中だから。
この家の中だけは、本当の言葉を言える場所でありたかった。
十二 それぞれの家の反応
平戸家でも、和徳が新聞を読んでいた。
「また食糧ば増やせって言われるやろうな」
真子が不安そうに言う。
「戦争が広がれば、兵隊も増える」
「畑は、命令したら無限に野菜ができるとでも思っとるとかな」
和徳は新聞を閉じた。
勝男が言う。
「列車も増えると思う」
「体は大丈夫ね」
真子がすぐに尋ねる。
「大丈夫」
「幸さんとの約束、忘れたらいかんよ」
「分かっとる」
「大丈夫ば信用せん家族が、また一つ増えたな」
和徳が苦笑した。
篠田家では、慶一が海を見ていた。
「軍艦の仕事が増えるやろう」
龍弥がうなずく。
「伊藤さんも言いよった」
梅は息子の袖を握った。
「兵隊には行かんよね」
「造船所の仕事があるけん」
龍弥は答えた。
だが、以前より自信はなかった。
原田家では、正勝が家族へ同盟の話を説明していた。
英二が尋ねる。
「ドイツとイタリアは、友達になると?」
原田は言葉を選んだ。
「国同士で、助け合う約束ばした」
「なら、よかこと?」
正三郎が聞く。
原田は首を横に振った。
「友達になることは悪くない」
「じゃあ、どうして父ちゃん怖い顔しとると?」
紀江が夫を見る。
原田は息子たちへ答えた。
「悪いことばするときに、助け合う約束なら怖かけんたい」
英二と正三郎は、すぐには理解できなかった。
それでも、父が喜んでいないことだけは分かった。
造船所では、伊藤勝が龍弥へ言った。
「同盟が結ばれたからって、仕事ば誇らしげにするな」
「はい」
「軍艦が増えるかもしれん」
「はい」
「技術は覚えろ」
伊藤は軍艦の船体を見上げた。
「だが、何のための船かは忘れるな」
「人ば殺すための船」
「そうだ」
伊藤は苦しそうに認めた。
「そして、戦争が終わったら、その技術ば人を生かす船へ戻せ」
「はい」
十三 幸と勝男
数日後。
幸は長崎駅近くで勝男と会った。
勝男は博多までの兵員輸送を終え、戻ってきたばかりだった。
顔には疲れが浮かんでいる。
幸は勝男の姿を見るなり、駆け寄った。
「お帰りなさい」
「ただいま」
「無事やった?」
「はい」
「本川内の坂は?」
「二両で越えました」
「兵隊さんたちは?」
勝男は少し俯いた。
「博多まで、全員無事でした」
「そこから先は?」
「分かりません」
二人の間に沈黙が落ちる。
勝男は兵士たちが降りていく姿を見た。
荷物を抱え。
隊列を組み。
次の列車か船へ向かっていった。
その中に、婚約者の写真を持った青年もいた。
「幸さん」
「何?」
「今日、婚約者がおる兵隊さんを見ました」
幸の表情が変わる。
「帰ったら結婚するって」
「うちらと同じやね」
「はい」
勝男は幸を見る。
「俺は、兵隊にはなりたくなかです」
初めて、はっきり口にした。
「人ば殺したくない」
「うん」
「でも、もし命令が来たら」
「行かんで」
幸は即座に答えた。
「行きたくないって言って」
「そがんこと、通らんです」
「なら逃げて」
勝男は苦しそうに笑った。
「幸さんが駅で見たお母さんと、同じこと言いよる」
「だって」
幸の目から涙がこぼれる。
「機関助手でよかやん」
「はい」
「ずっと汽車ば動かして、人ば家に帰す仕事ばして」
「はい」
「戦争なんか行かんでよか」
勝男は幸の手を握った。
人目があった。
それでも、このときだけは離せなかった。
「俺も行きたくなか」
「うん」
「幸さんと結婚したか」
「うん」
「子どももほしか」
幸は泣きながら笑った。
「ようしゃべる子ね」
「幸さんに似たら」
「勝男さんに似たら汽車ばかり」
二人は少しだけ笑った。
三国同盟が結ばれた。
世界の戦争は、さらに大きくなろうとしている。
それでも二人は、自分たちの小さな未来を手放さなかった。
十四 龍弥と恵
恵は、工場を終えたあと龍弥に会った。
龍弥の作業着には、鉄と油の匂いが残っている。
恵の衣服には、布と機械油の匂い。
「今日も軍服ば縫ったと?」
龍弥が尋ねる。
「うん」
「何着?」
「数えたくなかくらい」
恵は小さく息を吐いた。
「同盟が結ばれてから、もっと作れって」
「造船所も同じたい」
「軍艦が増えると?」
「たぶん」
龍弥は港を見る。
「技師に近づくほど、戦争に近づいていく」
「うちも、縫うのが上手になるほど、たくさん軍服ば作れるようになる」
二人は、自分の手を見た。
技術を覚えることは本来、喜ばしいことだった。
だが今は、その技術が戦争へ利用される。
「でも」
恵が言った。
「軍服ば縫いよって思うと」
「何を?」
「この服ば着る人も、生きて帰ってほしかって」
龍弥もうなずく。
「俺も軍艦ば見ながら、沈まんでほしかと思う」
「敵を倒すためやなく?」
「乗っとる人が帰るために」
「うん」
恵は龍弥の手へ触れた。
「うちら、矛盾ばかりやね」
「戦争が矛盾ばかりやけん」
それでも、二人は互いの手を離さなかった。
十五 戦地へ向かう汽車
夜。
長崎駅から、また兵員輸送列車が発車した。
二両の機関車。
長い客車。
窓から手を振る兵士。
泣きながら見送る家族。
汽笛が夜空へ響く。
列車は博多へ。
その先の戦地へ向かっていく。
政治家たちは同盟を語る。
指導者たちは国家の強さを語る。
新聞は万歳を伝える。
だが、実際に列車へ乗るのは、名前を持つ一人ひとりの人間だった。
家族がいる。
恋人がいる。
帰りたい家がある。
幸は、自宅の窓から遠い汽笛を聞いていた。
胸元には、勝男からもらった畑の花を乾燥させて挟んだ小さな紙がある。
恵は、小さな木の船を手のひらへ乗せていた。
勝男は火室の前に立つ。
龍弥は軍艦の溶接線を確かめる。
四人の仕事は、さらに戦争へ深く組み込まれていった。
日本。
ドイツ。
イタリア。
三つの国が軍事同盟を結んだ日。
四人は祝わなかった。
強くなったとも思わなかった。
ただ、不安が増えた。
戦争が広がる未来。
大切な人が奪われる未来。
それでも、その未来へ抵抗するように、四人は約束を確かめ続けた。
生きて帰る。
結婚する。
家族を作る。
戦争の終わった町で、汽車と船に乗る。
その約束だけが、暗い時代を照らす小さな灯だった。
次回予告
昭和十五年九月。
日独伊三国同盟が結ばれ、日本はドイツとイタリアとの軍事的な結びつきを強めていく。
町では祝賀を求める声が上がる一方、家族たちは戦争の拡大を恐れていた。
長崎機関区では、軍需列車の増発が決定。
勝男と原田の勤務はさらに過酷になる。
造船所には、新たな軍艦建造の命令が届き、龍弥と伊藤は夜間作業へ入る。
縫製工場では軍服の生産量が倍増し、恵の指には傷が増えていく。
大村加工所でも、民間向けの仕事を断って軍需品を優先するよう強く迫られる。
そんな中、幸は一枚の注文書を破り捨てそうになる。
次回、第21話。
「三国同盟の影」
三つの国が手を結ぶ。
だが、その手が握っていたのは、平和ではなく武器だった。
同盟締結の祝砲の陰で、庶民の暮らしはさらに戦争へ縛りつけられていく。




