婚約
『幸と恵のものがたり』
第19話 婚約
昭和十四年、春。
長崎の坂道には桜が咲いていた。
薄桃色の花びらが風に舞い、路面電車の線路へ静かに落ちていく。
幸と恵は、女学校の最終学年を迎えていた。
教室では、卒業後の進路について尋ねられることが増えていた。
どこで働くのか。
家庭へ入るのか。
軍需工場へ行くのか。
学校の指示に従って勤労奉仕へ加わるのか。
以前なら、進路とは自分の夢を考えるものだった。
何が好きか。
何を学びたいか。
どんな仕事をしたいか。
どんな町で暮らしたいか。
しかし今の時代、最初に問われるのは違った。
国の役に立つか。
戦争を支えられるか。
必要とされる場所へ行けるか。
本人が望むかどうかは、後回しにされていた。
一 白紙の進路希望
女学校の教室。
生徒たちの机には、進路希望を書き込む用紙が配られていた。
幸は筆を持ったまま、長い時間動かなかった。
用紙の上には、いくつかの選択肢が並んでいる。
工場勤務。
事務職。
鉄道関係。
造船関係。
軍需関連の補助作業。
家庭。
その他。
幸は、一つずつ目で追った。
どこを選んでも、戦争の影があった。
工場へ行けば、軍需品を作ることになるかもしれない。
鉄道へ行けば、兵士や武器を運ぶ仕事へ組み込まれるかもしれない。
造船所へ行けば、軍艦の建造を支えることになる。
事務職でも、軍の帳簿や物資の管理へ回される可能性がある。
家庭へ入っても、配給や供出、防空訓練、地域の奉仕活動から逃れられるわけではない。
「どこにも行きたくなか……」
幸が小さくつぶやいた。
隣の恵が顔を上げる。
「姉ちゃん」
「どの仕事ば選んでも、戦争につながるやろ」
「うん」
「うちは戦争に加担したくなか」
幸は用紙を見つめた。
「人ば殺すためのものば作りたくない。運びたくない。数えたくない。送り出したくない」
恵は何も言えなかった。
姉の気持ちは、自分にも痛いほど分かる。
だが、働かないという選択が許される時代でもなかった。
家族の暮らし。
国の命令。
学校の指示。
社会から向けられる目。
すべてが、若者たちへ働けと迫っていた。
「何もしないって書いたら、どうなるとかな」
幸が尋ねる。
「先生に呼ばれるやろうね」
「また職員室?」
「今度は前より大事になるかもしれん」
幸は大きくため息をついた。
「うちの人生なのに、どうして自分で決められんと」
その問いに、答えられる者はいなかった。
二 恵の苦渋の決断
恵も、自分の進路希望用紙を見つめていた。
姉より慎重な性格だった。
現実を見なければならないことも分かっている。
家族に余計な心配をかけたくない。
父の勝一は、過労で倒れてから体調を崩しやすくなっている。
加工場の仕事も、軍需の注文を断れず続いていた。
母の節子は、家事と帳簿の整理を手伝っている。
自分も働かなければならない。
だが、働く先が戦争へつながることは怖かった。
「姉ちゃん」
「何ね」
「うち、勤労動員へ行く」
幸が顔を上げる。
「本当に?」
「うん」
「嫌なんやろ」
「嫌よ」
恵は迷わず答えた。
「でも、行かんって言っても、別の場所へ回されるだけやろ」
「だからって」
「うちが行けば、その分だけ家にも少しお金が入るかもしれん」
「お父さんは、恵にそこまでしてほしいと思っとらんよ」
「お父さんが思うかどうかだけでは決められんと」
恵の声には、苦しさがあった。
「うちも、この家の娘たい」
幸は黙った。
「お父さんだけ働いて倒れて、お母さんだけ家ば支えて、姉ちゃんだけ悩んどるのを見とるのは嫌」
「うちだけ悩んどるわけやなか」
「分かっとる」
恵は用紙へ筆を置いた。
勤労動員。
その文字をゆっくり書く。
一画ずつ。
まるで、自分の未来を国へ差し出すような気持ちだった。
「どこへ行くかは、まだ分からんと?」
幸が尋ねる。
「うん」
「軍需工場だったら?」
恵の手が止まる。
「それでも、行かんばいかん」
「嫌って言えばよか」
「嫌って言うだけで、全部変わるなら言うよ」
恵の声が少し震えた。
「でも今は、嫌でも生きるために行かんばいかんこともある」
幸は妹を見つめた。
恵は昔から、姉より現実を見てきた。
けれど、現実を見られるから苦しくないわけではない。
むしろ、逃げられないことを理解しているからこそ、痛みは深かった。
三 軍服の縫製工場
数週間後。
恵の配属先が決まった。
長崎市内にある縫製工場。
その工場は、もともと洋服を仕立てる会社だった。
女性用の外套。
男性用の背広。
子ども用の服。
祝い事に着る晴れ着。
学校へ通う子どもの上着。
人々の暮らしを彩る衣服を作ってきた会社だった。
店先には、以前なら布地の見本が並び、客が好みの色や形を選んでいた。
子どもを連れた母親が、少し大きめの服を注文する。
「来年も着られるように」
そう言って笑う。
職人たちは、着る人の体に合わせて布を裁ち、縫い、仕上げていた。
だが今、工場の中に並んでいる布は、ほとんど同じ色だった。
軍服。
同じ形。
同じ寸法。
同じ色。
大量に縫い上げることが求められていた。
恵が初めて工場へ入った日。
機械の音が絶え間なく響いていた。
縫い針が上下する。
布が送られる。
糸が巻かれる。
仕上がった軍服が積み重ねられていく。
以前、子ども服を作っていた職人の女性が、恵へ作業を教えた。
「ここをまっすぐ縫うとよ」
「はい」
「縫い目が曲がったら、着る人が動きにくくなるけんね」
「はい」
恵は軍服の袖を持った。
しっかりした布。
まだ誰も袖を通していない。
これを着る兵士が、どこへ行くのか。
帰ってこられるのか。
恵には分からなかった。
「前は、どがん服ば作りよったんですか」
恵が尋ねる。
指導する女性は、少しだけ手を止めた。
「いろいろよ」
「子どもの服も?」
「作りよった」
女性の表情が柔らかくなる。
「七五三の服とか、入学式の上着とか」
「きれいやったでしょうね」
「色も形も、たくさんあった」
女性は積み重なる軍服を見た。
「今は、こればかりたい」
恵も同じ方向を見る。
「また、子どもの服ば作れる日が来るとよかですね」
女性は少し驚いたように恵を見る。
そして、静かにうなずいた。
「本当にね」
四 誰が着るのか
工場での仕事は、想像していたより厳しかった。
長時間、同じ姿勢で座る。
目を離さず、縫い目をそろえる。
糸が切れれば、すぐ直す。
布を無駄にしない。
納期に間に合わせる。
軍服は次々と必要とされた。
それだけ多くの兵士が送られているということだった。
恵は一着を仕上げるたびに思った。
この服は、誰が着るのだろう。
勝男と同じくらいの青年かもしれない。
龍弥より少し年上の男性かもしれない。
原田家の英二が大きくなったような若者かもしれない。
母親が見送った息子。
妻が待っている夫。
子どもが帰りを待つ父。
人間の体を包む服。
寒さから守る服。
本来なら、衣服は人を守るものだった。
だが、この軍服は、着る人を戦場へ送り出す印でもあった。
「恵ちゃん」
隣の女性が声をかける。
「手が止まっとるよ」
「すみません」
恵は再び針を動かした。
仕事を止めることはできない。
縫い目が乱れれば、着る人が困る。
着る人が戦争へ行くことは嫌でも、粗末な服を作ることもできなかった。
それは勝一が軍用部品を作るときに抱いた矛盾と同じだった。
戦争を支えたくない。
それでも、目の前の仕事は正しくやらなければならない。
「うちも、お父さんと同じところに来たとね」
恵は小さくつぶやいた。
五 幸の進路
幸は、最後まで進路を決められずにいた。
勤労動員へ行くことも考えた。
父の加工場を本格的に手伝うことも考えた。
母とともに家を支えることも考えた。
だが、何を選んでも、自分が戦争の一部になるように思えた。
ある夜。
幸は加工場の入口で、父の仕事を見ていた。
勝一は軍用車両用の部品を削っている。
以前より仕事量は減らしているが、軍需注文は止まらない。
「お父さん」
「何だ」
「うち、卒業したらここを手伝おうかな」
勝一の手が止まる。
「本気か」
「うん」
「戦争の部品ば作ることになるぞ」
「分かっとる」
「お前は、それが嫌なんやろ」
「嫌たい」
幸は迷わず答えた。
「でも、お父さん一人に背負わせるのも嫌」
勝一は娘を見た。
「俺を助けるために、自分の気持ちば曲げる必要はない」
「じゃあ、どうしたらよかと?」
幸の声が震えた。
「どこへ行っても戦争。何ばしても戦争。逃げる場所がなかやん」
勝一は何も言えなかった。
「うちは人ば助ける仕事がしたかった」
幸は続けた。
「誰かが安心できるような人になりたかった」
女学校で書いた作文。
人を安心させられる人になりたい。
その夢は今も変わっていない。
だが、戦争の時代に、その夢をかなえる道が見えなかった。
節子が加工場へ入ってきた。
「なら、家でできることからしたらよか」
「家で?」
「お父さんの帳面を手伝う。材料ば整理する。壊れた道具を持ってきた人の話を聞く」
節子は幸の隣へ立った。
「全部が戦争の仕事ではなかよ」
加工場には、今も民間からの依頼が少し残っていた。
壊れた鍬。
漁船の金具。
機関車の補修部品。
町工場の工具。
軍需に押され、後回しにされがちな仕事。
だが、それこそ人々の暮らしを支える仕事だった。
「軍の仕事ばせんわけにはいかん」
勝一が言う。
「だが、暮らしの仕事ば全部捨てるつもりもない」
幸は父を見る。
「うち、その方ば手伝ってよか?」
「ああ」
「軍の部品より?」
「どちらが上とは言えん」
勝一は苦しそうに答えた。
「だが、お前が何のために働くか、自分で忘れんようにせえ」
幸はうなずいた。
「うちは、人ば生かす仕事ばしたい」
「なら、その気持ちば持ったまま働け」
こうして幸は、卒業後、大村加工所で家族とともに働く道を選んだ。
完全に戦争から離れることはできない。
それでも、暮らしを支える仕事をできるだけ残す。
自分が何のために鉄へ触れるのかを忘れない。
それが、幸に選べる精いっぱいの進路だった。
六 勝男の試験
長崎機関区では、勝男が機関助手として正式に乗務へ加わるための試験を受けていた。
筆記。
機関車の構造。
蒸気圧と水位。
火室の管理。
勾配での石炭の使い方。
異常時の対応。
工具の扱い。
そして実地試験。
原田正勝は、試験中の勝男へ普段以上に厳しかった。
「圧力ば読め」
勝男が数値を答える。
「火床は」
「右奥が少し弱いです」
「どうする」
「少量ずつ入れて、燃え方を見ます」
「水位が急に下がったら」
勝男は答える。
一つずつ。
焦らず。
これまで教わったことを思い出す。
機関助手は、ただ石炭をくべる仕事ではない。
機関士と呼吸を合わせ。
先を読み。
音を聞き。
異常へ気づき。
乗客や乗務員の命を守る。
試験を終えたあと。
勝男は機関車の脇で結果を待った。
原田が用紙を持って現れる。
「平戸」
「はい」
「合格だ」
勝男は一瞬、言葉を失った。
「本当ですか」
「試験結果に冗談ば言うか」
勝男の顔が明るくなる。
「ありがとうございます!」
「俺に礼を言うな」
原田はいつものように答える。
「ここからが始まりだ」
「はい」
「今まで以上に、人の命ば預かる」
「はい」
「浮かれるな」
「はい」
それでも勝男の喜びは隠せなかった。
まず伝えたい相手がいた。
両親。
そして、幸。
七 龍弥の新しい配属
造船所では、龍弥が軍艦の重要区画を担当する班への配属候補に選ばれていた。
伊藤勝は、龍弥へ図面を渡した。
「喜べ」
龍弥は図面を見た。
「喜んでよか仕事ですか」
伊藤は答えなかった。
配属されれば、技術を学べる。
高度な溶接。
船体の強度計算。
重要区画の構造。
造船技師へ近づくためには、大きな経験になる。
だが、造るのは軍艦だった。
人を運ぶ商船でも。
漁師を海へ送り出す船でもない。
「断れんとですか」
龍弥が尋ねる。
「断れば、別の班へ回されるか、仕事そのものを失うかもしれん」
「伊藤さんならどうします」
「俺なら行く」
龍弥が驚く。
伊藤は続けた。
「技術を覚える」
「軍艦のために?」
「今は軍艦に使われるかもしれん」
伊藤は図面を指した。
「だが、技術そのものは戦争のものやなか」
強い船体。
浸水を防ぐ構造。
火災を広げない区画。
乗員を守る設計。
それらは、戦争が終わったあとにも使える。
「いつか商船や漁船を造るとき、この経験を使え」
龍弥は図面を見つめた。
「戦争のために学んだことを、人ば生かすために使うとですか」
「そうだ」
伊藤は龍弥の肩へ手を置いた。
「時代に仕事ば選ばされても、その技術を何に使うかまで全部渡すな」
龍弥は深くうなずいた。
「行きます」
「覚悟はあるか」
「あります」
「なら、手ば抜くな」
「はい」
八 平戸家の申し出
勝男が正式な機関助手となった日。
平戸家では、ささやかな祝いの食事が用意された。
白い米は少ない。
畑の芋を混ぜた御飯。
大根の煮物。
白菜。
真子が大切に取っておいた少量の肉。
和徳は、息子へ湯のみを差し出した。
「よう頑張ったな」
勝男は頭を下げる。
「まだ始まったばかりたい」
「原田さんの言葉ばそのまま使うな」
真子が笑う。
食事の途中。
和徳は息子へ尋ねた。
「幸さんとは、今後どうするつもりだ」
勝男の箸が止まった。
「どうするって」
「結婚したいと思っとるとやろ」
真子が息子を見る。
勝男はしばらく黙った。
やがて、はっきり答える。
「思っとる」
両親の前で、初めて認めた言葉だった。
「幸さんと結婚したい」
真子の目が潤む。
和徳は静かにうなずいた。
「なら、大村さんの家へ話ばしに行くか」
勝男は驚く。
「今?」
「今だからたい」
和徳は言った。
「先が見えん時代やけん、口約束だけにせん方がよか」
「でも、まだ俺は――」
「一人前ではなか?」
「うん」
「誰も最初から一人前ではなか」
和徳は息子を見る。
「仕事も、家庭も、二人で育てていくものたい」
真子も続ける。
「幸さんの気持ちが同じなら、家族同士で約束してもよかやろ」
勝男の胸が大きく鳴った。
九 篠田家の夜
同じ頃。
篠田家でも、龍弥は両親へ恵との将来を話していた。
父の慶一は、漁具を手入れしながら聞いていた。
母の梅は、乾燥ワカメを束ねる手を止めている。
「恵さんと結婚したい」
龍弥が言った。
梅の目に、すぐ涙が浮かんだ。
「そうね」
「まだ早かと思う?」
「年齢だけなら早かね」
慶一が答えた。
「でも、戦争は年齢ば待ってくれん」
龍弥は父を見る。
「兵隊に行くかもしれんってこと?」
梅が顔を伏せる。
慶一は、すぐには答えなかった。
「何が起きるか分からん」
そして、息子へ向き直る。
「だからこそ、恵さんと家族の気持ちば確かめた方がよか」
「婚約してよかと?」
「恵さんが望むならな」
梅が龍弥の手を握る。
「大切にすると約束できる?」
「できる」
「戦争が終わっても?」
「終わってからが本当たい」
龍弥は答えた。
「俺は恵さんと、戦争のない暮らしば作りたい」
十 二組の申し出
その日曜日。
大村家へ、平戸家と篠田家がそろって訪れた。
勝一。
節子。
幸。
恵。
和徳。
真子。
勝男。
慶一。
梅。
龍弥。
全員が大村家の居間へ集まった。
幸と恵は、何の話が始まるのか薄々分かっていた。
それでも、緊張で落ち着かなかった。
勝男と龍弥は、普段以上に背筋を伸ばしている。
最初に口を開いたのは和徳だった。
「大村さん」
「はい」
「今日は、息子と幸さんのことについて話しに来ました」
幸の顔が赤くなる。
勝男も俯いた。
和徳は続ける。
「勝男は、幸さんと将来夫婦になりたいと申しております」
勝一は勝男を見る。
「平戸君」
「はい」
「自分の言葉で言いなさい」
勝男は息を吸った。
幸を見る。
そして勝一と節子へ頭を下げた。
「幸さんと結婚したいです」
声は震えていた。
だが、言葉ははっきりしていた。
「今すぐではありません」
勝男は続ける。
「もっと仕事ば覚えて、家族ば支えられるようになってからです」
「戦争が続いても?」
勝一が尋ねる。
「続いても、終わっても」
「幸を幸せにできるか」
勝男は一瞬、答えに迷った。
「必ず幸せにするとは、簡単には言えません」
幸が驚いて勝男を見る。
勝男は続けた。
「この時代に、何が起きるか分からんけんです」
勝一は黙って聞いている。
「でも、幸さんが苦しいとき、一人にはしません」
勝男の目は真っすぐだった。
「一緒に考えて、一緒に生きます」
節子の目に涙が浮かぶ。
勝一は幸を見る。
「お前はどうしたい」
幸は迷わなかった。
「勝男さんと結婚したい」
「本当に?」
「うん」
幸は勝男の隣へ座った。
「勝男さんと、戦争が終わったあとの暮らしば作りたい」
勝一は長く息を吐いた。
「分かった」
そして、二人へ向かって言った。
「婚約を認める」
幸と勝男は顔を見合わせた。
言葉にならない喜びが、二人の表情へ広がった。
十一 恵と龍弥
続いて、慶一が頭を下げた。
「うちも、息子と恵さんのことばお願いしたい」
梅はすでに涙を拭っている。
龍弥は恵の前へ座った。
「恵さん」
「はい」
「俺と婚約してください」
恵は、姉よりも落ち着いて見えた。
だが、膝の上に置いた手は震えていた。
「俺はまだ、造船技師ではなか」
龍弥は言った。
「今は軍艦ば造る仕事にも入らんばいかん」
「うん」
「いつ兵隊に取られるかも分からん」
梅が顔を伏せる。
龍弥は続けた。
「それでも、帰る場所は恵さんのところにしたい」
恵の目に涙が浮かぶ。
「戦争が終わったら、人ば生きて帰す船ば造ります」
「うん」
「そのそばに、恵さんがおってほしか」
恵は涙を拭った。
「うちも、龍弥さんと一緒に暮らしたか」
龍弥の表情が明るくなる。
「本当に?」
「うん」
恵は少し笑った。
「でも、船の話ばかりする夫にはならんでね」
「努力します」
「そこは約束して」
「約束します」
家族たちの間に、小さな笑いが起こった。
勝一は恵を見る。
「本当に決めたとね」
「うん」
「龍弥君でよかと」
「龍弥さんがよか」
恵ははっきり答えた。
勝一は慶一と梅へ頭を下げる。
「娘を、よろしくお願いします」
慶一も深く頭を下げた。
「こちらこそ」
こうして、恵と龍弥も正式に婚約した。
十二 四人の約束
婚約を祝う宴は、ささやかなものだった。
豪華な料理はない。
平戸家の芋。
篠田家のワカメ。
節子が作った煮物。
真子が持ってきた漬物。
梅が用意した小魚。
それでも、食卓には久しぶりに明るい空気があった。
幸と勝男。
恵と龍弥。
二組は、それぞれ家族の前で並んでいた。
勝一が言う。
「婚約したからといって、すぐ何でも許されるわけではないぞ」
幸が頬を膨らませる。
「分かっとるよ」
「お前が一番心配たい」
「何でうちだけ?」
恵が横から言う。
「姉ちゃんは勢いで何かしそうやけん」
「恵まで!」
勝男が笑う。
龍弥もつられて笑った。
節子は四人を見ながら、涙を拭った。
「本当なら、もっと平和な時代に祝いたかったね」
その言葉に、少しだけ沈黙が落ちる。
幸はすぐに答えた。
「平和になるまで待たんでもよかよ」
節子が娘を見る。
「戦争があっても、うちらの人生まで全部止められん」
恵もうなずく。
「婚約は、戦争に負けたくないって約束でもあるけん」
勝男が言った。
「必ず生き残ります」
龍弥も続く。
「四人で、十年後の約束ば守ります」
家族たちは、その言葉を聞いた。
誰も、絶対に守れるとは言えなかった。
それでも、信じたかった。
十三 指輪の代わり
婚約指輪を用意できる時代ではなかった。
金属は軍需へ回されている。
宝石など、庶民には手の届かないものだった。
そこで勝男は、平戸家の畑の隅に咲いていた小さな花を一輪摘み、幸へ渡した。
「枯れてしまいますけど」
幸は大切そうに受け取った。
「枯れても覚えとるよ」
「いつか、ちゃんとしたものば渡します」
「いらんよ」
幸は花を見つめた。
「勝男さんが生きて帰ってきたら、それでよか」
勝男は何も言えなくなった。
恵には、龍弥が小さな木片を渡した。
漁船の修理で出た端材を磨き、船の形に削ったものだった。
「下手ですけど」
恵は手のひらに乗せる。
小さな船。
少し形は不揃いだった。
「かわいかね」
「いつか、本物の船ば造ります」
「これはこれで大事にする」
「本物より?」
「今はね」
龍弥はうれしそうに笑った。
十四 それぞれの仕事へ
婚約した翌日も、日常は変わらなかった。
恵は軍服の縫製工場へ向かった。
幸は父の加工場で、民間向けの部品整理を始めた。
勝男は正式な機関助手として、軍需列車へ乗り込んだ。
龍弥は軍艦の重要区画を担当する班へ入った。
婚約したからといって、戦争の影が消えるわけではない。
むしろ、失いたくない相手がはっきりした分だけ、怖さは強くなった。
工場で軍服を縫いながら、恵は思う。
この服を着る人にも、婚約者がいるかもしれない。
妻がいるかもしれない。
待っている人がいるかもしれない。
一針ずつ。
せめて寒さを防げるように。
破れにくいように。
そして、どうか生きて帰ってほしいと願いながら縫った。
幸は加工場で、漁船用の金具を磨いていた。
軍需部品の注文書が横に積まれている。
それでも、目の前の金具は漁師を海から帰すためのものだった。
「これは人ば生かす仕事」
幸は小さく口にした。
勝男は火室へ石炭をくべながら、幸から受け取った布袋を胸元へ入れていた。
中には、幸が書いた短い紙がある。
『必ず帰ってきて』
龍弥は溶接面を下ろす前に、恵からもらった小さな布切れを作業着の内側へしまった。
軍服工場で余った布を、恵が小さく縫ったものだった。
『人ば生かす船を』
四人は、それぞれの場所で働いた。
戦争に加担したくないと思いながら。
それでも、仕事を投げ出すこともできず。
せめて自分の心まで戦争へ渡さないように。
十五 婚約という抵抗
その夜。
幸と恵は並んで布団へ入った。
「婚約したね」
幸が言う。
「したね」
「うちら、もうお嫁さんになる約束ばしたとよ」
「まだ約束だけね」
「分かっとる」
幸は天井を見つめた。
「十年後、本当に子どもがおるかもしれんね」
「姉ちゃんの子は、絶対ようしゃべる」
「恵の子は、船ば分解する」
「それ前も言うた」
二人は小さく笑った。
「でも」
幸の声が静かになる。
「本当に、そこまで生きられるとかな」
恵は姉の手を握った。
「生きるとよ」
「絶対?」
「絶対とは言えん」
恵は正直だった。
「でも、生きるつもりで約束したんやろ」
「うん」
「なら、生きよう」
幸も妹の手を握り返した。
「四人でね」
「四人で」
婚約。
それは、ただ結婚を約束することではなかった。
先の見えない時代に、未来を信じること。
自分たちには、その先があると宣言すること。
戦争が若者の人生を国のものとして扱おうとする中で、自分の人生は自分たちのものだと確かめること。
小さな抵抗だった。
家族の中だけで交わされた約束。
だが、四人にとっては何より強い誓いだった。
幸と勝男。
恵と龍弥。
四人は、戦争に奪われる前に、自分たちの未来へ名前をつけた。
夫婦。
家族。
子ども。
暮らし。
帰る場所。
そのすべてがまだ形のない夢だった。
それでも、確かに存在していた。
⸻
次回予告
正式に婚約した幸と勝男、恵と龍弥。
四人は、それぞれの仕事へ戻っていく。
恵は軍服の縫製工場で、以前子ども服を縫っていた職人たちの思いを知る。
幸は大村加工所で、軍需部品と民間部品の間に立ちながら、自分なりの働き方を探していく。
勝男は正式な機関助手として、初めて一人で火室を任される。
龍弥は軍艦の重要区画で、わずかな溶接不良を発見する。
報告すれば、工期は遅れる。
黙れば、乗員の命が危険にさらされる。
次回、第20話。
「戦地へ向かう汽車」
婚約者ができても、汽車の行き先は変わらない。
勝男は、兵士たちを乗せた列車を再び博多へ運ぶ。
窓の向こうの若者たちは、もう誰かの知らない兵士ではない。
幸と同じように、帰りを待つ人を持つ者たちだった。




