それでも笑う食卓
『幸と恵のものがたり』
第18話 それでも笑う食卓
昭和十三年、秋。
長崎の町から、食べ物が少しずつ消えていた。
商店の棚には空いた場所が増え、以前なら普通に並んでいた品物も、いつ入荷するか分からなくなっている。
米。
砂糖。
油。
肉。
魚。
衣服に使う布。
金属製の日用品。
戦争に必要だと判断されたものは、軍や大きな工場へ優先的に回された。
一般の家庭では、限られたものを分け合い、工夫しながら暮らすしかなかった。
大村家の食卓も、以前よりずっと質素になっていた。
それでも母の節子は、家族四人が同じものを囲み、少しでも温かい気持ちになれるよう、毎日知恵を絞っていた。
平戸家から届いた、小さな大根。
篠田家から分けてもらった乾燥ワカメ。
傷がついて市場へ出せなかった芋。
庭先で育てたわずかな葱。
豪華な材料は何もない。
だが節子は、それらを細かく刻み、薄い汁の中へ入れた。
「今日は何が入っとると?」
台所をのぞき込んだ幸が尋ねる。
「食べてからのお楽しみ」
節子は鍋の蓋を閉じた。
「お肉は?」
「入っとりません」
「魚は?」
「入っとりません」
「卵は?」
「聞かんでも分かるでしょう」
幸は肩を落とした。
「何もなかやん」
節子は娘の額を軽く指ではじいた。
「何もないとは何ね。大根も芋もワカメも入っとるよ」
「でも、御飯が進むものが……」
後ろから恵が言った。
「姉ちゃんは、御飯そのものも少なかことを忘れとるよ」
「それば言われたら、何も返せん」
節子は二人のやり取りを聞きながら笑った。
「少ないものでも、家族で食べればおいしかとよ」
幸は鍋を見つめた。
「お母さん、それ毎日言いよるね」
「毎日忘れる人がおるけんね」
「誰のこと?」
「自分の胸に聞きなさい」
恵が姉の胸元へ顔を寄せた。
「姉ちゃんの胸は、もっと食べたいって言いよる」
「勝手に聞かんで!」
台所に小さな笑い声が広がった。
食べ物は減っても。
家族の冗談までは減らしたくない。
節子は、そう思っていた。
一 武勲をたたえる文章
その日の女学校。
国語の時間が始まると、教師は生徒たちへ一枚ずつ便箋を配った。
「今日は、戦地で立派に戦っている兵士の武勲をたたえる慰問文を書いてもらいます」
幸の手が止まった。
黒板には、文章の例が書かれていく。
『勇敢なる兵士の皆様へ』
『尊い御奉公に感謝いたします』
『敵を打ち破る皆様の御活躍を誇りに思います』
『一層の武勲をお祈り申し上げます』
教室のあちこちで、筆が紙を走る音が始まった。
恵は便箋を見つめたまま動かなかった。
そして、隣の幸をそっと見る。
幸は黒板を見上げていた。
その顔から、いつもの明るさが消えている。
唇は強く結ばれ、筆を持つ指がわずかに震えていた。
「姉ちゃん」
恵が小声で呼ぶ。
幸は反応しない。
「お姉ちゃん」
今度は少し強く呼んだ。
幸はゆっくり恵を見る。
「書けん」
「うん」
「こんなこと、書けんよ」
恵は周囲を見た。
教師は教室の前方で生徒たちの様子を見ている。
「前みたいに、体を大事にしてくださいって書いたら?」
「今度は武勲ばたたえろって言いよる」
「でも、言葉を少し変えれば――」
「変えられん」
幸の声は、抑えられていた。
だが、その奥には強い怒りがあった。
「うちは、人ば殺したことば褒められん」
「姉ちゃん」
「誰かを撃って、誰かを刺して、誰かの家ば焼いて」
幸の指先が、さらに震える。
「それの何が立派ね」
恵は姉の腕へそっと触れた。
「今は少し落ち着いて」
「落ち着けん」
幸は目を伏せた。
長崎駅で見た兵員輸送列車。
窓越しに母親の手へ触れていた若い兵士。
幼い子どもへ、すぐ帰ると約束していた父親。
あの人たちは、最初から人を殺したいと思っていたのだろうか。
違う。
家族と暮らしたかったはずだ。
故郷へ戻りたかったはずだ。
だが、戦場へ送られれば、目の前の相手を殺さなければ、自分が殺される。
その状況へ追い込まれた人間に向かって、もっと敵を殺せと励ます。
それが慰問なのか。
「大村幸さん」
教師の声が飛んだ。
幸は顔を上げる。
「まだ何も書いていませんね」
「はい」
「黒板の例文を参考にしなさい」
幸は便箋を見た。
真っ白なままだった。
「書けません」
教室の筆音が止まった。
教師の表情が硬くなる。
「何ですか」
「書けません」
幸は、もう一度繰り返した。
二 抑えられなかった言葉
教師は幸の机の前まで歩いてきた。
「理由を言いなさい」
恵の胸が大きく鳴った。
幸の腕を引こうとする。
「姉ちゃん」
しかし、幸は立ち上がった。
便箋を手に持つ。
指先は震えている。
怖くないわけではなかった。
教師に叱られること。
学校から家へ連絡されること。
父や母へ迷惑をかけること。
すべて怖かった。
だが、それ以上に、自分の心にない言葉を書かされることが耐えられなかった。
「私は、人ば殺すことを英雄だとは思えません」
教室に、息をのむ音が広がった。
教師の顔色が変わる。
「大村さん」
「戦場では、自分の目の前におる人ば殺さんかったら、自分が殺されるとでしょう」
幸の声は、最初は震えていた。
しかし、言葉を重ねるごとに強くなっていった。
「兵隊さんたちは、そがんところへ送られとるんでしょう」
「やめなさい」
「どうして同じ人間同士が、殺し合わんばいかんとですか」
「大村幸!」
教師の声が教室へ響いた。
それでも、幸は止まらなかった。
これまで学校で飲み込んできた言葉。
家でしか言えなかった怒り。
兵員輸送列車を見送った日の悲しみ。
オリンピックを奪われた悔しさ。
父の仕事が軍需へ変えられた苦しさ。
すべてが一気にあふれ出した。
「誰のための戦争なんですか!」
幸の目から涙がこぼれた。
「何のための戦争なんですか!」
誰も答えない。
「国のためって言うけど、国って誰のことですか!」
教師は言葉を失っていた。
「兵隊さんが死んで、その家族が泣いて、向こうの国の人も死んで、その家族も泣いて」
幸は便箋を握りしめた。
「それで誰が幸せになるとですか!」
教室の中には、泣き始める生徒もいた。
兄が出征している者。
父親が軍需工場で働いている者。
家族をすでに戦地で失った者。
幸の言葉は、皆が心の奥へ押し込めていた問いだった。
「武勲って何ですか」
幸は教師を見た。
「たくさん人ば殺したことですか」
「それ以上、言ってはいけません」
教師の声にも、わずかな震えがあった。
「どうしてですか」
「今の発言は、国の方針へ反するものです」
「人ば殺したくないって言うことが、国に反するとですか」
「大村さん!」
「私は書きません!」
幸は便箋を机へ置いた。
「嫌なものは嫌です!」
その声は教室だけでなく、廊下にまで響いた。
三 恵の決断
教師はしばらく幸を見つめていた。
怒り。
動揺。
そして、わずかな迷い。
その表情の奥に何があるのか、幸には分からなかった。
「大村幸さん。職員室へ来なさい」
教師が言った。
幸は顔を青くした。
それでも、目をそらさなかった。
「はい」
教室を出ようとする姉の腕を、恵がつかんだ。
「うちも行きます」
教師が恵を見る。
「あなたは関係ありません」
「関係あります」
恵は立ち上がった。
普段の恵は、幸よりずっと慎重だった。
言う場所を考え。
声の大きさを考え。
家族へ危険が及ばないよう、姉を止めてきた。
だが今、幸を一人で行かせることだけはできなかった。
「姉の言い方は強かったかもしれません」
恵の声も震えていた。
「でも、うちも同じことば思っとります」
教師の表情がさらに厳しくなる。
「大村恵さん」
「兵隊さんに生きて帰ってほしいです」
恵は姉の隣へ立った。
「向こうの国の人にも、家族がおると思います」
「あなたまで……」
「人が死んだことば喜ぶ文章は、うちも書けません」
幸が妹を見る。
「恵」
「姉ちゃんば一人にせんよ」
恵は小さく言った。
幸の目から、新たな涙がこぼれた。
双子は並んで教室を出た。
背後では、級友たちが声も出せずに二人を見送っていた。
四 職員室の扉
職員室の前。
幸と恵は並んで立っていた。
さすがの幸も、先ほどまでの勢いを失っていた。
「どうしよう」
小さな声で言う。
恵が姉を見る。
「今さらね」
「お父さんとお母さんに連絡されるかな」
「されるやろうね」
「退学になる?」
「分からん」
「うち、ちょっと言いすぎたかな」
恵はため息をついた。
「ちょっとどころではなかったよ」
「やっぱり?」
「教室中に聞こえたし、廊下にも聞こえた」
幸は俯いた。
「ごめん」
「何が?」
「恵まで巻き込んで」
「うちが勝手についてきたと」
「でも」
「姉ちゃんの言うこと、間違っとらんと思ったけん」
幸は妹の手を握った。
「怖か?」
「怖かよ」
恵は正直に答えた。
「でも、姉ちゃん一人より二人の方が少しましやろ」
「うん」
「双子やけん」
二人は手を握ったまま、職員室へ入った。
五 教師の本心
職員室では、校長と担任教師が待っていた。
幸と恵は並んで立たされた。
校長は机の上へ、幸の真っ白な便箋を置いた。
「大村幸さん」
「はい」
「あなたは、自分が何を言ったか分かっていますか」
「分かっています」
「国のために戦っている兵士を侮辱する発言だと受け取られる可能性があります」
幸は顔を上げた。
「兵隊さんば侮辱したつもりはありません」
「では、何を言いたかったのです」
「兵隊さんに、人ば殺せと励ましたくなかったんです」
校長の眉が動く。
「戦っている方々に感謝する気持ちはないのですか」
「あります」
幸はすぐに答えた。
「怖い思いばしながら、家族と離れて戦っとる人たちです」
「ならば、武勲をたたえることも――」
「違います」
幸はまた言葉を遮った。
恵が心配そうに姉を見る。
「兵隊さんが苦しんどることと、人ば殺したことを褒めることは違います」
校長は黙った。
幸は続ける。
「うちは、兵隊さんに生きて帰ってほしかとです」
「大村さん」
担任教師が声をかけた。
先ほど教室で見せた怒りとは違う、疲れた声だった。
「あなたの気持ちは分かります」
幸と恵は驚いた。
教師は周囲を確認し、声を落とした。
「私にも、戦地へ行った弟がいます」
教室では一度も語らなかったことだった。
「毎月、手紙を書いています」
「先生も、武勲ばたたえとるとですか」
幸が尋ねる。
教師は俯いた。
「学校で教えるような言葉を書いています」
「本当は?」
長い沈黙。
「生きて帰ってほしい」
教師の声が震えた。
「ただ、それだけです」
幸と恵は何も言えなくなった。
教師もまた、同じ思いを抱えていた。
だが、生徒たちへ国の言葉を教えなければならない立場にいる。
「なら、どうしてうちらには書かせるとですか」
恵が尋ねた。
教師は答えられなかった。
代わりに校長が口を開く。
「学校にも、守らなければならない方針があります」
「国から言われるけん?」
幸が尋ねる。
「そうです」
「先生たちも、嫌でも従わんばいかんと?」
校長はすぐには認めなかった。
しかし、否定もしなかった。
「今は、誰もが自分の立場を守りながら生きなければならない時代です」
「それで戦争が続くとやないですか」
幸の言葉に、職員室の空気が凍る。
恵が姉の袖を引いた。
「お姉ちゃん」
幸は唇を噛んだ。
これ以上言えば、本当に取り返しがつかなくなるかもしれない。
校長は深く息を吐いた。
「今回のことは、家庭へ連絡します」
二人の顔が強張る。
「ただし」
校長は続けた。
「すぐに外部へ報告することはしません」
幸と恵は顔を上げた。
「あなたたちが若く、感情的になった結果として、校内で指導します」
それは、校長なりの守り方だった。
「今後、同じ発言を人前でしないこと」
幸の表情が曇る。
「心の中でどう思うかまでは、学校には止められません」
校長は静かに言った。
「しかし、言葉にすれば、あなたたちだけでなく家族も危険になります」
幸は悔しそうに俯いた。
「分かりました」
完全に納得したわけではない。
ただ、家族へ危険を及ぼしたくなかった。
「慰問文は、どうしたらよかですか」
恵が尋ねる。
担任教師が答えた。
「武勲をたたえる文章でなくてもよいことにします」
校長が教師を見る。
教師は続けた。
「体を大切に。無事に帰ってきてください。そう書きなさい」
幸の目に、少しだけ安堵が浮かんだ。
「それなら書けます」
六 父と母への知らせ
その日の夕方。
大村家へ、学校から連絡が来た。
勝一と節子は、向かい合って話を聞いた。
幸と恵は、その前で正座している。
担任教師が帰ったあと。
部屋には重たい沈黙が残った。
勝一は腕を組み、二人を見た。
「幸」
「はい」
「教室で、戦争反対と叫んだそうだな」
「反対とは、そのまま言っとらん」
「ほとんど同じだ」
「はい……」
「恵も一緒になったと」
「はい」
勝一は長く息を吐いた。
「お前たちの言っとることが間違いだとは思わん」
二人は顔を上げる。
「俺も戦争は嫌いだ」
勝一は続けた。
「人を殺したことを褒める文章なんか、書きたくないという気持ちも分かる」
「なら」
幸が言いかける。
「でもだ」
勝一の声が強くなる。
「今の世の中で、外でそがんことば言えば、何が起きるか分からん」
「正しいことでも?」
「正しいかどうかを決めるのが、お前たちではなくなっとる」
その言葉は重かった。
「学校が報告しとったら、警察が来たかもしれん」
節子の顔が青ざめる。
幸はようやく、自分の発言が家族へ及ぼしかねなかった危険を実感した。
「ごめんなさい」
「謝る相手は俺たちだけやなか」
勝一は言った。
「恵まで巻き込んだ」
「うちが自分で行ったと」
恵がすぐに答える。
「お姉ちゃんだけのせいにせんで」
「恵」
「うちも同じことば思っとった」
勝一は双子を見た。
二人とも震えていた。
怖かったはずだ。
それでも互いを一人にしなかった。
父として叱らなければならない。
だが同時に、娘たちの真っすぐさを誇らしく思う気持ちもあった。
節子が二人の前へ座った。
「嫌なものを嫌と言えることは、大事たい」
幸と恵は母を見る。
「でも、生きておらんば、その言葉を言い続けることもできん」
節子は幸の手を握った。
「お母さんは、あんたの気持ちをなくせとは言わん」
次に、恵の手も握る。
「ただ、命まで差し出さんで」
幸の目から涙がこぼれた。
「うちは、黙っとるのが悔しかと」
「分かるよ」
「みんな黙っとるけん、戦争が続くとやないかと思う」
「そうかもしれん」
節子は否定しなかった。
「でも、お母さんはあんたたちを失いたくない」
その一言に、幸はもう何も言えなかった。
「ごめんなさい」
今度の謝罪は、心からのものだった。
節子は二人を抱き寄せた。
「謝らんでもよか」
「でも」
「無事でおってくれたら、それでよか」
七 勝男の怒り
翌日。
幸は長崎駅の近くで勝男に会った。
学校での出来事は、すでに勝一から平戸家へ伝わっていた。
勝男の表情は険しかった。
「どうして、そがん危なかことば言うたとですか」
幸は驚いた。
勝男がこれほど強い声を出したことはなかった。
「勝男さんまで怒ると?」
「怒ります」
「うちは間違ったこと言っとらん」
「分かっとります!」
勝男の声がさらに強くなる。
周囲の人が振り返り、二人は少し場所を移した。
「幸さんが間違っとらんことくらい、分かっとります」
「なら」
「だから怖かとです!」
勝男の目には涙が浮かんでいた。
「正しいことば言った人間が、連れていかれる世の中になっとるけん!」
幸は言葉を失った。
「もし、幸さんが学校から戻ってこんかったら」
勝男は拳を握った。
「俺はどうしたらよかとですか」
「勝男さん……」
「俺は汽車ば動かすことしかできん」
戦争を止める力はない。
学校へ命令する力もない。
警察から幸を守る力もない。
「だから、せめて幸さん自身が、自分ば守ってください」
勝男は必死だった。
「うちは、勝男さんに守られてばかりは嫌」
「なら、一緒に生き残ってください」
その言葉に、幸の胸が詰まった。
「戦争が終わったあとも、話したいことがたくさんあります」
勝男は続ける。
「俺が機関士になった汽車にも乗ってもらわんばいかん」
「うん」
「十年後の約束もある」
「うん」
「だから、今ここで全部失うようなことはせんでください」
幸は涙を拭った。
「分かった」
「本当に?」
「思っとることは変えんよ」
「それでよかです」
「でも、言う場所は考える」
勝男はようやく息を吐いた。
「それでよかです」
八 龍弥と恵
恵も、龍弥から心配されていた。
「恵さんまで、職員室へ行ったと聞きました」
「お姉ちゃん一人にはできんかったけん」
龍弥は、しばらく黙って恵を見た。
「恵さんらしかです」
「怒らんと?」
「怒りたいけど、怒れんです」
「どうして?」
「俺も同じことば思っとるけん」
造船所では、軍艦の溶接が進んでいる。
自分の手でつないだ鉄板が、やがて武器を運び、人を撃つ船の一部になる。
「武勲ばたたえろって言われても、俺も何を書けばよかか分からん」
龍弥は言った。
「でも、恵さんに何かあったら嫌です」
「うん」
「姉さんを守ることも大事です」
龍弥は恵の目を見る。
「でも、恵さん自身のことも守ってください」
恵は少し笑った。
「勝男さんと同じこと言いよる」
「平戸さんも?」
「うん」
「やっぱり似とるとですね」
「仕事の話だけやなく、心配の仕方もね」
二人は小さく笑った。
九 少ない食卓
その夜。
大村家の食卓には、節子が作った大根と芋、ワカメの汁物が並んでいた。
御飯は少ない。
おかずも少ない。
だが、四人そろっていた。
勝一が器を持ち上げる。
「今日は、ずいぶん具が多かように見えるな」
節子が答える。
「底の方に沈んどっただけです」
幸が箸で探る。
「うちの器、大根が一枚しかなかよ」
恵が自分の器を見る。
「うちは二枚」
「一枚ちょうだい」
「嫌たい」
「双子やろ」
「食べ物の分配に双子は関係なか」
「冷たか妹ねえ」
節子が笑った。
「幸、お母さんのを一枚あげようか」
幸はすぐに首を振った。
「いらん。お母さんが食べて」
「でも」
「今日、心配かけたけん」
勝一が言う。
「それなら、俺のをやる」
「お父さんは体力戻さんばやろ」
「なら恵からもらえ」
「何でうちだけ!」
恵の声に、家族全員が笑った。
食べ物は少ない。
明日の保証もない。
学校では自由にものを言えない。
父の仕事は戦争へ組み込まれている。
それでも、この食卓には笑いがあった。
節子は家族の顔を見回した。
「今日も四人そろって食べられたね」
その言葉に、笑いが少し静かになる。
長崎駅から出征した兵士の家では、一人分の席が空いている。
戦地で亡くなった者の家では、もう二度と埋まらない席がある。
大村家には、まだ四人分の器が並んでいる。
そのことが、以前よりずっと大切に思えた。
幸は自分の器を持ち上げた。
「お母さん」
「何ね」
「おいしかよ」
節子が少し驚く。
「さっき大根が一枚しかないって言いよったやろ」
「一枚でもおいしか」
「急にどうしたと?」
幸は家族を見た。
「みんなで食べとるけん」
節子の目に涙が浮かんだ。
「そうね」
恵が姉を見る。
「姉ちゃん、たまにはよかこと言うね」
「たまには余計たい」
勝一が笑う。
「今日は大声を出さんで、静かに食べろ」
幸は父を見た。
「お父さん、それ学校の話とかけたと?」
「さあな」
「うまいこと言った顔しとる」
家族の笑い声が、再び小さな家へ広がった。
十 慰問文
翌日。
幸と恵は、改めて慰問文を書いた。
幸の便箋には、こう記されていた。
『戦地で毎日を過ごしている皆様へ。
寒い日も、暑い日もあると思います。
どうか、お体を大切にしてください。
無理をしなければならないことも多いと思います。
それでも、生きることを諦めないでください。
あなたの帰りを待っている人がいます。
お母様。
お父様。
奥様。
お子様。
友人。
恋人。
どうか、その人たちのもとへ帰ってください。
私は、皆様が多くの敵を倒すことではなく、
一人でも多く、無事に故郷へ帰ってくることを願っています。』
恵も、似た文章を書いた。
担任教師は二人の手紙を読んだ。
しばらく黙ったあと、何も書き直させずに受け取った。
「先生」
幸が声をかける。
教師が顔を上げる。
「弟さんも、帰ってきたらよかですね」
教師の表情が崩れそうになる。
「ええ」
小さく答えた。
「ありがとう」
十一 笑うことは負けではない
日曜日。
喫茶店には、再び家族たちが集まった。
全員ではない。
仕事の都合で来られない者もいた。
それでも、平戸家から野菜が届き。
篠田家からワカメが届き。
紀江が直した衣服が持ち込まれ。
節子が少ない材料で作った料理を持参した。
老婆は、小さく切り分けたチーズケーキを出した。
以前より一切れは小さい。
砂糖も小麦粉も貴重になっている。
幸は皿を見た。
「前より小さかね」
恵が肘で姉をつつく。
「言わんの」
老婆は笑った。
「小さくても、みんなで食べられる方がよかやろ」
「はい」
幸は素直に答えた。
正三郎がケーキを一口で食べようとした。
原田が止める。
「味わって食べろ」
「小さかけん、すぐなくなる」
「だからこそ、ゆっくり食べると」
英二が弟の皿を見た。
「俺の方が少し大きか」
「ずるい!」
「同じくらいたい」
紀江が笑う。
店内には、久しぶりに明るい声が響いた。
伊藤勝が、珈琲を飲みながら言った。
「最近、造船所では笑う声が減った」
原田もうなずく。
「機関区も同じです」
勝一が言う。
「加工場も」
和徳が続ける。
「畑でも、作物の量ば数えてばかりだ」
老婆は全員を見渡した。
「だから、ここでは笑いなさい」
幸が尋ねる。
「戦争中でも?」
「戦争中だからこそ」
老婆は答えた。
「笑うことは、戦争に賛成することやなか」
店内が静かになる。
「苦しいことを忘れたふりすることでもなか」
老婆は微笑んだ。
「心まで暗くされんために笑うとよ」
幸は、その言葉をゆっくり受け止めた。
戦争へ反対するために大声を上げることはできないかもしれない。
だが、家族を大切にする。
人が死んだことを喜ばない。
少ない食べ物を分け合う。
そして、笑う。
それもまた、戦争に心を奪われないための小さな抵抗だった。
十二 それでも笑う食卓
夜。
大村家へ戻った幸と恵は、並んで布団へ入った。
「今日、楽しかったね」
幸が言う。
「うん」
「うち、学校であんなこと言うたのに、また笑ってよかとかな」
恵は姉の方を向いた。
「どうして笑ったらいかんと?」
「戦地では、苦しんどる人がおるやろ」
「うちらが苦しい顔ばし続けたら、その人たちが帰ってこられると?」
「それは……違う」
「なら、笑えるときは笑ってよかよ」
恵は姉の手を握った。
「笑ったからって、戦争が嫌な気持ちは変わらんやろ」
「うん」
「人が死んだことば喜ばない気持ちも」
「うん」
「なら大丈夫たい」
幸は小さく笑った。
「恵は、うちより大人やね」
「姉ちゃんが考えずに突っ走るけん、うちが考えんばいかんとよ」
「それ、褒めとらんやろ」
「半分はね」
「残り半分は?」
「苦情」
二人は布団の中で笑った。
遠くから、夜汽車の汽笛が聞こえた。
勝男が乗っているかもしれない。
港の向こうでは、龍弥が夜勤に入っているかもしれない。
父の加工場では、明日からまた軍需部品を作る。
食卓は、これからさらに寂しくなるだろう。
自由に言葉を口にできる場所も減っていく。
それでも。
家族がそろう夜だけは。
大切な人と会える日だけは。
人々は笑おうとした。
戦争に心まで奪われないために。
食べ物は少なくても。
未来が見えなくても。
その笑いは、決して軽いものではなかった。
生きるための笑いだった。
⸻
次回予告
慰問文をめぐる騒動を乗り越えた幸と恵。
だが、戦争の長期化により、二人の進路にも影響が及び始める。
女学校を卒業したあと、どこで働くのか。
家庭へ入るのか。
勤労動員へ向かうのか。
自分の人生を、自分で選べるのか。
一方、勝男は機関助手として正式に乗務へ加わるための試験を受けることになる。
龍弥も、軍艦の重要区画を担当する班への配属候補に選ばれる。
夢へ近づくはずの昇進。
しかし、その仕事は戦争へさらに近づくことでもあった。
次回、第19話。
「婚約」
未来が見えなくなるほど、人は約束を求める。
幸と勝男は、いつか必ず夫婦になると誓う。
それは祝福だけではなく、戦争に奪わせないための約束だった。




