配給の日々
『幸と恵のものがたり』
第17話 配給の日々
昭和十三年。
戦争は、終わらなかった。
前年の夏に始まった中国大陸での戦闘は、秋を越え、冬を越え、さらに春を迎えても続いていた。
新聞には毎日のように戦況が載った。
どこを占領した。
どこで勝利した。
どれだけの兵士が進軍した。
勇ましい言葉が大きな活字で並ぶ一方、その紙面の隅には、戦死した者の名前や、物資不足を知らせる記事が小さく掲載されていた。
長崎の町では、出征する兵士を見送る列車が増えた。
造船所では軍艦の建造が進み、夜になっても作業場の明かりが消えなかった。
大村家の加工場には軍事用車両の部品注文が入り続け、平戸家の畑では戦地へ送る食糧の増産が求められた。
日常は、まだ残っていた。
路面電車は走っている。
女学校では授業が行われる。
商店も店を開けている。
だが、人々が自由に使える時間も、物も、言葉も、少しずつ減っていた。
そして昭和十三年四月。
国家総動員法が公布された。
一 国家総動員
女学校の朝礼。
生徒たちは校庭へ整列させられていた。
春の風が吹いている。
それでも、教師たちの表情は硬かった。
校長が壇上へ立つ。
「現在、我が国は重大な時局を迎えています」
幸は前を向いたまま、その言葉を聞いていた。
最近、学校では「重大な時局」という表現が何度も使われるようになっていた。
国のため。
勝利のため。
一致団結。
我慢。
奉仕。
どの話も、最後は同じ言葉へたどり着いた。
「国家総動員法の制定により、国民一人ひとりが、それぞれの立場で国へ尽くすことが求められます」
校長の声が校庭へ響く。
「工場も、農家も、鉄道も、学校も、一つになって戦いを支えなければなりません」
幸の眉がわずかに動いた。
工場。
農家。
鉄道。
学校。
父の加工場。
平戸家の畑。
勝男の機関区。
龍弥の造船所。
自分たちの女学校。
すべてが、国のためという言葉で一つにまとめられようとしている。
「生徒の皆さんも、ぜいたくを慎み、勤労と奉仕の精神を持って生活してください」
誰かが小さく息を吐いた。
だが、声を上げる者はいなかった。
朝礼が終わると、生徒たちは教室へ戻った。
幸は席へ着くなり、机へ教科書を置いた。
少し強い音がした。
恵が姉を見る。
「お姉ちゃん」
「何ね」
「怒っとる?」
「怒っとるよ」
幸は声を抑えて答えた。
「何が国家総動員法ね」
恵が周囲を見る。
「少し静かに」
「うちらの食べるものが、どんどん少のうなっていくとに」
幸は止まらなかった。
「お父さんは休む暇もなく軍の部品ば作らされて、平戸さんの家は畑ば増やせって言われて、勝男さんは兵隊と武器ば運ばされて、龍弥さんは軍艦ば造らされよる」
「うん」
「それで今度は、国民みんな動員するって?」
幸の声には、怒りよりも悔しさがあった。
「そんな法律作る前に、戦争ばやめなさいよ」
恵は、すぐには返事をしなかった。
姉の言うことは分かる。
自分も同じように思っている。
だが、学校の中でそれを口にする怖さも知っていた。
「姉ちゃんの言うとおりたい」
恵は小さな声で答えた。
「でも、聞かれたら危なかよ」
「正しいことば言って、何で危なかと?」
「今は、そがん世の中になりよるけん」
幸は唇を噛んだ。
それが一番、腹立たしかった。
戦争をやめてほしいと言うこと。
人が死んでほしくないと言うこと。
家族で御飯を食べたいと言うこと。
その当たり前の願いを口にすることさえ、危険になろうとしている。
二 食卓から消えるもの
大村家の食卓も、以前とは変わっていた。
白い米だけの御飯は、ほとんど見られない。
麦や芋を混ぜることが増えた。
魚も小さくなり、肉が食卓へ上る日は少なくなった。
節子は、わずかな材料を無駄にしないよう、工夫して料理を作っていた。
大根の葉も捨てない。
魚の骨からも汁を取る。
芋の皮も厚くむかない。
「今日はこれだけ?」
幸が言った瞬間、すぐに後悔した。
食卓には、芋を多く混ぜた御飯と、薄い味噌汁、少量の漬物が並んでいた。
節子は怒らなかった。
「ごめんね。今日は、これしか手に入らんかったと」
幸は俯いた。
「お母さんが悪いんやなか」
「分かっとるよ」
節子は娘の器へ、自分の分から少し芋を移そうとした。
幸はすぐに止めた。
「いらん。お母さんが食べて」
「育ち盛りやろ」
「お母さんだって働いとるやろ」
恵も、自分の器を見た。
「前は、八百屋さんに行けば、もっといろいろあったのにね」
勝一が静かに答える。
「軍や大きな工場へ優先して回されるものが増えた」
「平戸さんの家が作った野菜も?」
幸が尋ねる。
「戦地へ送られる分が多いだろう」
幸は箸を置いた。
「変やない?」
誰も答えなかった。
「長崎で暮らしよる人が食べるものまで減らして、遠くで戦争ば続けるために送ると?」
勝一は低い声で言った。
「幸」
「分かっとる。大きな声では言わん」
幸は俯いた。
「でも、変なものは変たい」
勝一は娘を叱ることができなかった。
自分も同じことを思っていたからだ。
三 平戸家の畑
平戸家では、畑の使い方が変わっていた。
食糧増産の通達を受け、和徳と真子は保存の利く芋や大根を増やした。
これまで育てていた、家族が好む野菜の一部は減らされた。
畑は、家族の食卓のためだけの場所ではなくなった。
作付けの内容。
収穫量。
供出する量。
さまざまなことが外から決められるようになっていた。
勝男は休日になると畑を手伝った。
機関区で石炭を運び、家へ帰れば鍬を握る。
体は疲れていた。
それでも両親だけに任せることはできなかった。
「そこまで耕したら、今日はよか」
和徳が言う。
「もう少し」
「明日も機関区やろ」
「父さんたちも毎日畑やん」
「農家はこれが仕事たい」
「俺もこの家の息子たい」
勝男は鍬を振り下ろした。
真子が、水を持って畑へ来る。
「二人とも休まんね」
「あと少し」
和徳と勝男の声が重なった。
真子はため息をついた。
「父子で同じこと言わんで」
三人は畑の端へ腰を下ろした。
真子が水を渡す。
「この芋も、ほとんど持っていかれるとかな」
勝男が畝を見る。
和徳は答えた。
「決められた分はな」
「自分たちの分は?」
「残った中からやりくりする」
「作っとる人が食べられんって、おかしかね」
勝男の言葉に、和徳は苦く笑った。
「戦争は、作った人の都合なんか聞かん」
勝男は幸の言葉を思い出した。
――そんな法律を作る前に、戦争をやめなさいよ。
まったくその通りだと思った。
四 統制される加工場
国家総動員法が制定されると、大村加工所への要求もさらに強まった。
どの材料を、何のために使うのか。
どの注文を優先するのか。
何人働かせるのか。
これまで勝一が自分の判断で決めていたことへ、国や取引先の指示が入り始めた。
ある日、役所の関係者が加工場を訪れた。
「軍需品の生産を、さらに増やしてもらいたい」
勝一は注文書を見た。
「今でも限界です」
「国家の要請です」
「人手も材料も足りません」
「必要なら、ほかの仕事を減らしてください」
ほかの仕事。
それは、長崎機関区へ納める鉄道部品。
町工場で使う工具。
漁船の修理に必要な金具。
人々の暮らしを支えるための仕事だった。
「軍の注文だけを優先したら、民間の仕事が止まります」
勝一は言った。
役人は表情を変えなかった。
「今は非常時です」
「町の暮らしも非常時です」
「国が勝たなければ、その暮らしも守れません」
勝一は、思わず拳を握った。
国を守る。
暮らしを守る。
その言葉を使いながら、実際には暮らしが壊されていく。
「検討します」
それだけ答えるのが精いっぱいだった。
役人が帰ったあと。
勝一は、加工場の棚を見た。
漁船用の金具。
機関車のボルト。
軍用車両の部品。
すべて同じ鉄から作られている。
だが、どれを優先するかによって、守られる暮らしが変わる。
勝一は頭を抱えた。
五 東京オリンピック返上
夏。
学校へ向かう路面電車の中で、一人の男性が新聞を広げていた。
紙面には、東京オリンピックの開催権返上を伝える記事が載っていた。
昭和十五年に東京で開かれる予定だった大会。
日本で初めて開催されるはずだったオリンピック。
国際情勢の悪化と戦争の長期化により、その開催は断念された。
幸は記事の見出しを見つめた。
「オリンピック、なくなると?」
恵も紙面を見る。
「そうみたいね」
幸は思い出した。
昭和十一年。
ベルリンオリンピック。
前畑秀子選手の競泳。
ラジオへかじりつき、家族四人で声を上げて応援した夏。
「前畑さん、頑張れ!」
「いけーっ!」
あのとき、オリンピックは希望だった。
遠い国で戦うのではなく、スポーツで競い合う。
国が違っても、同じ場所へ集まり、速さや強さを競う。
勝った者をたたえ。
負けた者の健闘も認める。
幸は、それが平和の象徴のように思えていた。
女学校へ着いたあと。
幸は教室の窓際で、恵へ言った。
「東京オリンピックまで返上って」
「うん」
「スポーツまで楽しむことができん世の中で、何が国のためよ」
恵は姉の横へ立った。
「選手の人たち、ずっと練習しよったやろうにね」
「前畑さんみたいに、東京で金メダルば取りたかった人もおったやろ」
幸は悔しそうに窓の外を見る。
「戦争って、人の命ば奪うだけやなかとね」
夢。
目標。
楽しみ。
未来の予定。
そうした形のないものまで奪っていく。
「東京でオリンピックがあったら、うちらも見に行きたかったね」
恵が言った。
「勝男さんの汽車に乗って」
「龍弥さんも一緒に」
「家族みんなで」
幸は少し笑った。
だが、その笑顔はすぐに消えた。
「何で、そがん普通のことができんとかな」
恵は答えられなかった。
六 国民政府を対手とせず
昭和十三年一月。
政府は、中国の国民政府を「対手とせず」とする声明を出していた。
難しい言葉だった。
だが、その意味が戦争の終結を遠ざけるものだということは、勝一たち大人には分かった。
大村家の夕食で、勝一は新聞を畳んだ。
「話し合う相手ではないということか」
節子が尋ねる。
「そういう意味だろう」
「話し合わんで、どうやって戦争ば終わらせると?」
幸がすぐに言った。
勝一は答えなかった。
「相手にせんって言うても、相手の国には何千万人も人がおるんやろ」
恵が静かに続ける。
「政府だけが消えるわけやなか」
幸は苛立ちを隠せなかった。
「話し合う相手じゃないって決めて、ずっと戦うつもりね?」
「幸、声を落としなさい」
節子が注意する。
幸は悔しそうに俯いた。
「大人が話し合いばやめたら、最後に戦わされるのは若い人やろ」
勝一は、加工場で作っている軍用部品を思い出した。
節子は、兵員輸送列車のホームで泣いていた母親を思い出した。
恵は龍弥の顔を。
幸は勝男の顔を思い浮かべた。
話し合うことを拒む政治家。
その決定のために、戦地へ送られる若者たち。
あまりにも距離が遠かった。
七 学校の統制
女学校でも、教育内容は変わり続けた。
救護訓練。
防空訓練。
慰問袋作り。
軍歌の練習。
長時間の行進。
教師は、生徒たちへ「銃後の守り」を繰り返し説いた。
「皆さんも、立派な国民として戦争へ協力しなければなりません」
幸は、以前ほどすぐに反論しなくなった。
納得したからではない。
危険を知ったからだった。
それでも、恵と二人きりになると、思いを吐き出した。
「立派な国民って、何ね」
放課後。
誰もいない教室で、幸は机へ肘をついていた。
「黙って御飯ば減らされて、黙って働いて、黙って大切な人ば戦争に送り出すこと?」
恵は窓を閉めた。
廊下に声が漏れないようにするためだった。
「先生たちも、好きで言いよるとは限らんよ」
「分かっとる」
「国から言われとるんやろ」
「分かっとるけん、余計に怖かとよ」
幸は妹を見る。
「誰も本当は戦争したくなかのに、みんなが命令どおり動いて、戦争がどんどん大きくなる」
「止まり方が分からんとね」
「うん」
一度動き始めた大きな機械のようだった。
誰か一人が止めようとしても、別の歯車が動かし続ける。
工場。
鉄道。
農家。
学校。
役所。
新聞。
国民全体が戦争のために動かされる。
それが国家総動員というものなのだと、幸と恵は肌で感じ始めていた。
八 龍弥の図面
造船所では、軍艦建造が進んでいた。
龍弥は伊藤勝の指導を受けながら、船体の一部へ使われる図面を読んでいた。
以前よりも仕事の範囲は広がった。
だが、喜びは少なかった。
「この区画は、何のためにあるとですか」
龍弥が尋ねる。
伊藤は図面を見た。
「弾薬庫に近い区画だ」
龍弥の表情が曇る。
「弾薬」
「そうだ」
「人ば撃つためのものば積む場所」
伊藤は龍弥を見る。
「仕事中だ」
「分かっとります」
「なら、図面を読め」
龍弥は歯を食いしばった。
伊藤は少し間を置き、声を落とした。
「嫌だと思う気持ちは、なくすな」
「はい」
「だが、今ここで寸法ば間違えたら、作業する仲間が危険になる」
「はい」
「戦争へ協力したくない気持ちと、目の前の人間を守る仕事は分けろ」
「難しかです」
「難しいから、考え続けろ」
伊藤は図面を龍弥へ戻した。
「考えるのをやめたときが、一番危ない」
九 勝男の列車
勝男は、軍需列車の乗務へ入ることが増えていた。
積み荷の内容は知らされない。
だが、木箱の形。
軍人の警備。
取り扱いへの厳しい指示。
危険なものが含まれていることは分かった。
その日、貨物列車の出発前。
勝男は連結器を確認していた。
原田正勝が声をかける。
「今日の編成は長い」
「はい」
「勾配へ入る前の火の準備を早めろ」
「はい」
「それから、荷扱いは特に慎重にしろ」
勝男は貨車を見る。
「弾薬ですか」
原田は答えなかった。
その沈黙が答えだった。
勝男の喉が乾く。
「俺たち、どんどん戦争の中へ入っていきますね」
原田は低い声で言った。
「最初から入っとったのかもしれん」
「気づいてなかっただけ?」
「ああ」
汽車を走らせる。
荷物を運ぶ。
それ自体は、以前と同じ仕事である。
だが、運ぶものの意味が変わった。
「平戸」
原田が言う。
「嫌だと思っても、確認は飛ばすな」
「分かっとります」
「この貨車が脱線すれば、駅や町まで巻き込むかもしれん」
勝男は深く息を吸った。
「必ず無事に運びます」
その言葉が、以前とは違う重みを持っていた。
十 食べ物を分ける
物が不足する中でも、喫茶店に集まった家族たちは助け合いを続けていた。
平戸家からは、供出後に残った形の悪い野菜が少しずつ届いた。
篠田家からは、乾燥させたワカメや小魚が届けられた。
大村家では、壊れた農具や漁具の金具を、勝一が無理のない範囲で直した。
節子は、少ない材料を使った料理を真子や梅へ教えた。
紀江は、英二や正三郎の着られなくなった服を直し、小さな子どものいる家へ譲った。
誰かが多く持っているわけではない。
少ないものを、さらに分けていた。
ある日、幸が平戸家から届いた小さな芋を見て言った。
「これ、勝男さんの家で食べる分やったんやない?」
節子は答えた。
「真子さんが、大村さんの家にもって」
「返さんでよかと?」
「代わりに、お父さんが壊れた鍬ば直したでしょう」
幸は芋を手に取った。
小さく、形も不揃いだった。
だが、それは家族同士が助け合っている証だった。
「戦争は分けろって言わんとにね」
恵が言う。
「国は出せ、我慢せえって言うばかり」
幸は芋を見つめた。
「でも、うちらは助け合うために分ける」
同じ「差し出す」でも、意味はまったく違う。
命令されて奪われること。
大切な人を思って分けること。
幸は、その違いを忘れたくないと思った。
十一 前畑選手の記憶
夜。
大村家のラジオから、戦況を伝える放送が流れていた。
勝一は途中で電源を切った。
部屋が静かになる。
幸は、ラジオの木枠へ手を触れた。
「前畑さんの実況、ここで聞いたね」
恵がうなずく。
「うちら、畳ばたたきながら応援した」
節子が懐かしそうに笑う。
「近所に聞こえるくらい大声やったよ」
勝一も言う。
「幸は、前畑選手が一番偉いって言いよった」
「お父さんよりって」
恵が付け加える。
家族に小さな笑いが起きた。
幸はラジオを見つめた。
同じ箱から、以前はスポーツの歓声が流れていた。
今は戦争の報道が流れている。
「また、オリンピックば聞ける日が来るとかな」
幸が尋ねる。
「来るよ」
節子が答えた。
「戦争が終わったら」
「いつ終わると?」
節子は答えられなかった。
勝一が言う。
「終わらせんばいかん」
誰が。
どうやって。
その答えはない。
それでも、「終わるのを待つ」だけではなく、「終わらせなければならない」と言った父の言葉が、幸の心へ残った。
十二 減っていくもの、残るもの
昭和十三年。
長崎の町から、さまざまなものが少しずつ減っていった。
食べ物。
燃料。
衣服。
自由に使える金属。
余暇。
スポーツを楽しむ機会。
遠い未来を無邪気に語る時間。
そして、自分の考えを自由に口にすること。
だが、まだ残っているものもあった。
家族の食卓。
恋人を思う気持ち。
困った人へ手を差し出すこと。
戦争は嫌だと思う心。
人の命を軽くしてはいけないという感覚。
それらだけは、法律でも命令でも簡単には奪えなかった。
学校からの帰り道。
幸と恵は路面電車に揺られていた。
窓の外を、長崎の町が流れていく。
商店の棚は以前より寂しくなっていた。
軍服姿の男性。
荷物を抱える家族。
工場へ急ぐ人々。
幸は小さく言った。
「国家総動員って、結局、みんなの暮らしば戦争に差し出せってことやろ」
恵は姉の手へ自分の手を重ねた。
「でも、心まで差し出さんでよか」
幸は妹を見る。
「うん」
「戦争が正しいとは思わん」
「うん」
「オリンピックがなくなったことも、食べ物が減ったことも、仕方ないだけで終わらせん」
幸は、窓の外へ目を向けた。
遠くから、蒸気機関車の汽笛が聞こえた。
勝男が乗っているかもしれない。
港では、龍弥が軍艦の図面を見ているかもしれない。
畑では和徳と真子が、供出する芋を収穫しているかもしれない。
加工場では勝一が、軍用車両の部品を削っている。
皆が戦争の歯車へ組み込まれていた。
それでも、幸は思った。
歯車になっても、人間であることまで忘れてはいけない。
「戦争が終わったら」
幸が言った。
「みんなでオリンピックば見ようね」
「東京で?」
「どこであってもよか」
恵は笑った。
「前畑さんみたいな選手ば、みんなで応援すると」
「うん」
「勝男さんと龍弥さんも?」
「もちろん」
「お父さんとお母さんも?」
「みんなたい」
二人は、その日を思い描いた。
ラジオから戦況ではなく、競技の実況が流れる日。
誰かが勝っても、人が死なない日。
国が違う人々が、武器ではなくスポーツで競い合う日。
その未来は、まだ遠かった。
戦争の足音は、すでに町の中へ入り込んでいる。
国家総動員の掛け声のもと、人々の暮らしはさらに厳しくなっていく。
それでも幸と恵は、心の中で声を上げ続けた。
戦争をやめて。
人を帰して。
夢を奪わないで。
その声は小さく。
誰にも届かないように思えた。
だが、二人が人間らしく生き続けるためには、決して消してはならない声だった。
⸻
次回予告
国家総動員法のもと、町のあらゆる仕事が戦争へ組み込まれていく。
食料や日用品はさらに不足し、家族の食卓も少しずつ寂しくなっていく。
それでも節子は、わずかな芋と野菜を工夫し、家族四人が笑える夕食を作ろうとする。
平戸家から届いた小さな大根。
篠田家から分けてもらったワカメ。
紀江が直した古い衣服。
助け合いによってつながる家族たち。
一方、幸は女学校で、戦地へ送る慰問文を書くよう再び求められる。
今度の課題は、
「兵士の武勲をたたえる文章」。
幸の筆は動かない。
次回、第18話。
「それでも笑う食卓」
食べ物は少なくても。
明日の保証がなくても。
家族がそろっている夜だけは、笑っていたい。
節子は、小さな食卓へ希望を並べる。




