戦争の足音
『幸と恵のものがたり』
第16話 戦争の足音
昭和十二年、冬。
長崎の町を覆う空気は、以前よりも重くなっていた。
新聞には戦地の記事が並び、ラジオからは勇ましい言葉が繰り返し流れる。
町では兵士を見送る光景が増え、駅へ向かう家族の姿も珍しいものではなくなった。
大村家の加工場には軍需品の注文が押し寄せていた。
平戸家の畑には、戦地へ送る食糧を増産するよう求める通達が届いた。
長崎機関区では、兵士や武器を運ぶ臨時列車が増えていた。
造船所では、軍艦建造へ向けた準備が本格化している。
人々の暮らしは続いている。
朝になれば働き。
夜になれば食卓を囲み。
家族の帰りを待つ。
けれど、誰もが心のどこかで分かり始めていた。
昨日までの暮らしには、もう戻れないのかもしれない。
一 笑顔が減った家
大村家の夕食。
勝一は過労で倒れてから、加工場へ入る時間を減らしていた。
医師から休むよう言われ、節子や娘たちからも厳しく見張られている。
それでも、食卓に座る父の顔には焦りが浮かんでいた。
「今日も取引先から連絡が来た」
勝一が言った。
「納期を三日早められんかと」
節子の箸が止まる。
「断ったと?」
「ああ」
「本当に?」
「本当だ」
幸が父の顔をのぞき込む。
「夜中にこっそり仕事せんよね」
「せん」
「昨日も布団から起きようとしよったやろ」
「水を飲みに行こうとしただけだ」
恵が静かに言う。
「水差しは枕元に置いとったよ」
勝一は黙った。
幸は父を指さす。
「やっぱり仕事しようとしたとね」
「少し帳面ば見るだけなら――」
「駄目」
節子、幸、恵の声が同時に重なった。
勝一は肩を落とした。
「三人から怒られるとは思わんかった」
「家族全員ば心配させた罰たい」
幸が言う。
以前なら、そこで笑いが起こった。
だが最近の大村家では、笑い声が長く続かなくなっていた。
軍需品の注文。
戦地へ向かう兵士。
物不足。
学校で繰り返される戦争協力の話。
何を話していても、最後には戦争の影へ行き着いてしまう。
幸は食卓を見回した。
父も。
母も。
恵も。
みんな疲れた顔をしている。
「ねえ」
幸が突然言った。
「今度の日曜日、みんなでどこか行かん?」
恵が姉を見る。
「みんなって?」
「うちの家族と、勝男さんの家族。それから龍弥さんの家族」
「そんな大人数で?」
「原田さんの家族も」
勝一の眉が上がる。
「原田さんというのは、平戸君の指導員か」
「うん。奥さんと息子さんが二人おると」
幸は少し考え、続ける。
「伊藤さんにも来てもらおう。龍弥さんの指導員」
恵は、姉が何を考えているのか分かり始めた。
「家族を紹介すると?」
「うん」
「どうして急に?」
幸は少し俯いた。
「最近、みんな暗か顔ばしとるやろ」
勝一も節子も、何も言わなかった。
「戦争の話ばかりで、家でも職場でも息が詰まりそうって、勝男さんも龍弥さんも言いよった」
幸は顔を上げる。
「だったら、一日くらい、みんなで御飯ば食べて話したらよかやん」
「場所はどうすると?」
恵が尋ねる。
その瞬間、二人は同じ場所を思い浮かべた。
坂の頂上近くにある小さな喫茶店。
恵と龍弥が、重い荷物を運ぶ老婆を助けたあと、温かい紅茶とチーズケーキを振る舞ってもらった店。
「おばあさんの喫茶店」
二人の声が重なった。
幸が笑う。
「ほら、やっぱりそこたい」
二 長崎駅で伝える約束
翌日の放課後。
幸と恵は長崎駅へ向かった。
勝男と龍弥へ話を伝えるためだった。
駅には、軍需品を積んだ貨車が並んでいた。
木箱。
幌をかけられた荷物。
見張る兵士。
それらを横目に、二人は機関区の近くで勝男を探した。
やがて、作業を終えた勝男が姿を見せた。
「幸さん。恵さん」
幸は手を上げた。
「勝男さん、今度の日曜日、空いとる?」
「日曜日ですか」
「うん」
「午前中だけ畑ば手伝いますが、昼からなら」
幸はうれしそうに言った。
「じゃあ、家族みんなで来て」
勝男が目を丸くする。
「家族みんな?」
「お父さんとお母さんも」
「何かあったとですか」
「何もなかけん集まるとよ」
勝男はますます分からない顔をした。
恵が説明する。
「最近、みんな戦争のことで疲れとるやろ」
「はい」
「一度、家族同士で会って、御飯ば食べながら話そうって」
幸が続けた。
「原田さんと、原田さんの家族にも来てもらいたいと」
勝男は少し驚いた。
「原田さんまで?」
「指導員さんやろ。勝男さんにとっては、家族みたいな人やないと?」
勝男は言葉に詰まった。
原田からは毎日のように叱られている。
だが、それだけではない。
働き方。
人の命を預かる責任。
休むことの大切さ。
不安を抱えながら仕事へ向き合う姿勢。
勝男は原田から、鉄道員としてだけでなく、人として多くのことを教わっていた。
「誘ってみます」
「お願いします」
ちょうどそのとき、造船所の方角から龍弥が歩いてきた。
手には図面を包んだ布を持っている。
恵が呼びかける。
「龍弥さん!」
龍弥の表情が明るくなる。
「恵さん」
四人は駅近くの通りで集まった。
恵は、日曜日の計画を話した。
「父さんと母さんも?」
龍弥が尋ねる。
「うん。慶一さんと梅さんにも来てもらいたいと」
「伊藤さんもですか」
「できたら」
龍弥は少し困ったように笑った。
「仕事以外の場所で伊藤さんに会うの、何か緊張します」
「毎日怒られとると?」
幸が尋ねる。
「怒られます」
「怖か人?」
「怖かです」
龍弥は即答した。
だが、すぐに続ける。
「でも、失敗したら一緒に残って教えてくれます。父さんの船のことも気にしてくれとる」
恵は微笑んだ。
「なら、来てもらおう」
四人は、それぞれの家族へ伝えることを約束した。
三 原田家への招待
その日の仕事終わり。
勝男は原田正勝へ声をかけた。
「原田さん」
「何だ」
原田は工具を拭いていた。
「今度の日曜日、予定ありますか」
原田の手が止まる。
「お前から休日の予定ば聞かれるとは思わんかった」
「大村さんの家族が、皆で集まらんかって」
「皆?」
「僕の父さんと母さん。篠田君の家族。伊藤さんも」
原田は眉を寄せた。
「何の集まりだ」
「家族を紹介する集まりらしかです」
「結婚の話か」
勝男の顔が一気に赤くなる。
「違います!」
機関区に、勝男の声が響いた。
近くにいた鉄道員たちが振り返る。
原田は口元を少し緩めた。
「なら、そがん大声で否定せんでもよか」
「まだ、そがん話では……」
「まだ?」
「いや、その……」
勝男は完全に言葉を失った。
原田は少し笑ったあと、真面目な顔へ戻る。
「俺だけでよかとやないか」
「幸さんが、奥さんと息子さんたちにも来てほしいって」
「紀江たちも?」
「最近、皆が疲れとるけん、一日くらい御飯ば食べて話したいそうです」
原田は、しばらく何も言わなかった。
家では紀江が、つらいことを話してよいと言ってくれた。
英二と正三郎は、父と一緒に旅行へ行く日を楽しみにしている。
しかし、自分は仕事の苦しさを家庭へ持ち込みたくないと思い、つい黙ってしまう。
家族同士で話すことが、何かの救いになるかもしれない。
「紀江に聞いてみる」
勝男の表情が明るくなる。
「ありがとうございます」
「まだ行くとは言っとらん」
「でも、聞いてくれるんでしょう」
「仕事より素早く返事ばするな」
原田はそう言いながら、少しうれしそうだった。
四 伊藤勝の返事
造船所では、龍弥が伊藤勝へ話を切り出した。
「伊藤さん」
「何だ」
「日曜日の昼、時間ありますか」
伊藤は図面から顔を上げた。
「補習でも頼みたかと?」
「違います」
「なら、何だ」
龍弥は喫茶店での集まりについて説明した。
大村家。
平戸家。
篠田家。
原田家。
そして、伊藤にも参加してほしいこと。
伊藤は腕を組んだ。
「俺は家族やなかぞ」
「でも、僕の指導員です」
「職場での話だ」
「それでも来てほしかです」
龍弥はまっすぐ伊藤を見た。
「最近、僕が仕事のことで悩んどるとき、ずっと話ば聞いてくれたでしょう」
伊藤は顔をそらした。
「指導員として当たり前のことだ」
「なら、日曜日も指導員として来てください」
「休日まで仕事ばさせる気か」
「御飯を食べるだけです」
伊藤は大きくため息をついた。
「お前は、たまに強引やな」
「恵さんの姉さんに比べたら、まだ大人しいです」
「それは誰だ」
「大村幸さん」
伊藤は少し考えたあと、笑った。
「平戸の見習いが気にしとる娘か」
「知っとるんですか」
「造船所にも噂くらい入る」
「どがん噂ですか」
「見習い二人が、双子の女学生に骨抜きにされとると」
龍弥の顔が赤くなる。
「誰がそがん話を!」
伊藤は笑いながら図面を閉じた。
「分かった。行く」
「本当ですか」
「ただし、俺は愛想よくできんぞ」
「いつものままでよかです」
「それは喧嘩ば売っとるとか」
「違います!」
造船所に、二人の声が響いた。
五 喫茶店の準備
一週間後の日曜日。
坂の頂上近くにある小さな喫茶店では、朝から準備が進められていた。
店主の老婆は、恵から大人数で集まりたいと相談されたとき、両手をたたいて喜んだ。
「あのとき荷物ば持ってくれた二人の家族ね」
「はい」
「もちろんよ。店ば貸し切りにしてもよか」
「そこまでしてもらうのは」
「普段から昼は客も少なかけん、気にせんで」
老婆は張り切っていた。
大きな鍋で温かいシチューを作る。
パンを焼く。
チーズケーキもいつもより多く用意する。
紅茶。
珈琲。
子どもたちには甘い飲み物。
店内の椅子とテーブルも動かし、大人数で顔を見ながら座れるように整えた。
「戦争の話ばかりでは、心が冷えてしまうけんね」
老婆は言った。
「温かかものば食べて、少しでも笑わんば」
六 大村家の到着
最初に到着したのは、大村家だった。
勝一。
節子。
幸。
恵。
勝一はまだ完全に体調が戻っているわけではない。
節子は、坂道を上る夫の歩調に合わせて、何度も休憩を取らせた。
「大丈夫だ」
勝一が言う。
「その言葉は信用できません」
節子がすぐに返す。
幸が笑う。
「お母さん、うちらと同じこと言いよる」
恵も続ける。
「お父さんの大丈夫も信用できんようになったけんね」
「家族全員から信用を失っとるな」
勝一は苦笑した。
喫茶店へ入ると、老婆が迎えた。
「よう来てくれました」
恵が頭を下げる。
「この前はありがとうございました」
「こちらこそ。今日は賑やかになりそうね」
幸は店内を見回した。
「ここで恵と龍弥さんが紅茶ば飲んだとね」
恵が小声で言う。
「お姉ちゃん、余計なこと言わんで」
「チーズケーキも」
「もう知っとるやろ!」
七 平戸家
次に、平戸家が到着した。
父の和徳。
母の真子。
そして勝男。
和徳は、大きな籠を持っていた。
中には畑で採れた大根、白菜、葱、芋が入っている。
「手ぶらでは悪かと思って」
和徳が言う。
老婆は籠を見て目を輝かせた。
「立派な野菜ねえ」
「最近は供出に回す分が多くて、家で自由にできるものは少なかですが」
和徳の言葉に、一瞬だけ空気が重くなる。
だが真子が明るく続けた。
「形の少し悪かものば選んできました。でも、味はよかですよ」
「形より味たい」
老婆は笑った。
幸は勝男の姿を見る。
今日は作業着ではない。
以前より少し背が伸びたようにも見えた。
「勝男さん」
「幸さん」
二人は互いに呼び合ったあと、何を話せばよいか分からず黙った。
恵が小声で言う。
「今日は家族が見よるけん、いつも以上にぎこちなかね」
「恵、聞こえるよ」
真子は幸の顔を見た。
「あなたが幸さんね」
幸は緊張して頭を下げる。
「はい。大村幸です」
「勝男から、よう話ば聞いとります」
「母さん!」
勝男の声が裏返る。
真子は楽しそうに笑った。
「汽車の仕事は格好よかって言ってくれた娘さんやろ」
幸の顔も赤くなる。
「そ、その話まで」
「毎回、嬉しそうに話すけんね」
和徳が勝男の肩をたたいた。
「畑では見せん顔ばしよる」
「父さんまでやめてよ」
大村家と平戸家は、初めて正式に向き合った。
勝一と和徳は、互いに頭を下げる。
「大村勝一です」
「平戸和徳です。息子がいつもお世話になっとります」
「こちらこそ、娘が」
二人とも、その先の言葉が難しかった。
まだ結婚の話ではない。
だが、ただの友人とも言い切れない。
節子と真子は、そのぎこちなさを見て笑った。
八 篠田家
続いて現れたのは、篠田家だった。
父の慶一。
母の梅。
龍弥。
慶一は、乾燥させたワカメと、小さな魚の干物を持ってきていた。
「うちの海で採れたものです」
老婆は今度も喜んだ。
「今日は畑と海が店に来たごたるね」
梅は恵を見つけると、すぐに歩み寄った。
「あなたが恵さん?」
「はい」
恵は緊張して頭を下げた。
「大村恵です」
梅は恵の両手を取った。
「龍弥から、毎日のように聞いとります」
「母さん!」
今度は龍弥の声が響いた。
幸が恵へ囁く。
「勝男さんと同じやね」
「お姉ちゃん、笑わんの」
梅は続けた。
「坂道で荷物ば一緒に運んだこと。紅茶ば飲んだこと。双子のお姉さんより静かだけど、言うべきことはちゃんと言う娘さんだって」
恵の頬が赤くなる。
「そがんに話しよると?」
龍弥は顔をそらした。
「少しだけ」
慶一が笑う。
「少しではなかぞ」
「父さんまで!」
龍弥は完全に逃げ場を失った。
慶一は勝一へ頭を下げる。
「篠田慶一です。漁師ばしとります」
「大村勝一です」
「金属加工の仕事だそうですね」
「はい」
「船の整備で使う金具や工具には、いつも助けられとります」
二人は、仕事の話をきっかけにすぐ打ち解け始めた。
鉄道の部品。
漁船の金具。
造船所で使われる工具。
異なる仕事が、どこかでつながっている。
九 原田家
しばらくして、原田家がやってきた。
原田正勝。
妻の紀江。
長男の英二。
次男の正三郎。
英二と正三郎は、店へ入るなり勝男を見つけた。
「勝男兄ちゃん!」
二人が駆け寄る。
勝男は驚きながらも笑った。
「今日は元気やな」
正三郎は幸へ目を向けた。
「この人が、勝男兄ちゃんの好きな人?」
店内の時間が止まった。
幸の顔が一気に赤くなる。
勝男はむせた。
「正三郎!」
原田の大きな声が響く。
正三郎は首を傾げた。
「母ちゃんが言いよった」
今度は紀江が慌てる。
「私は、気になる人がおるみたいねって言うただけよ!」
英二が幸の顔を見上げる。
「幸さん?」
幸は何とか笑顔を作った。
「はい。幸です」
「勝男兄ちゃん、家で幸さんの話ばしよる?」
英二が尋ねる。
原田が勝男を見る。
「ほう」
「原田さん、そがん目で見んでください」
店内に笑いが起こった。
戦争が始まってから、これほど自然な笑い声が大勢の間に広がったのは久しぶりだった。
原田は勝一へ頭を下げる。
「息子さんではないですが、平戸は私が指導しとります」
勝一も頭を下げた。
「娘が、いつもお世話になっとるようです」
「仕事中に娘さんのことを考えて、何度か注意しました」
「原田さん!」
勝男の叫びに、再び笑いが起きる。
幸は勝男を見た。
「何度か?」
「一度か二度です」
原田が冷静に訂正する。
「それを何度かと言う」
「もう言わんでください」
紀江は節子の隣へ座った。
「男の人たちは、家であまり話さんけん、今日は奥さん同士で話しましょう」
節子は微笑んだ。
「ぜひ」
十 伊藤勝
最後に現れたのは、伊藤勝だった。
一人で店へ入る。
きちんとした服装ではあるが、表情は仕事場にいるときとほとんど変わらない。
龍弥はすぐに立ち上がった。
「伊藤さん」
「遅れてすまん」
伊藤は店内を見回した。
想像以上の人数だったらしく、一瞬だけ戸惑う。
老婆が声をかける。
「あなたが造船所の指導員さんね」
「はい。伊藤勝と申します」
「今日は仕事の顔ばせんでよかよ」
伊藤は少し困ったように答えた。
「仕事の顔以外が、よう分からんもので」
龍弥が小声で言う。
「いつもあの顔です」
「聞こえとるぞ、篠田」
「すみません」
そのやり取りに、皆が笑った。
伊藤は慶一と梅へ頭を下げた。
「龍弥君を指導しとります」
慶一が応じる。
「息子がいつも世話になっとります」
「まだまだですが、見込みはあります」
龍弥が驚く。
「伊藤さんが、そがんこと言うと初めて聞きました」
「本人がおる前では言わんようにしとる」
「今日はおるでしょう」
「しまったな」
伊藤の冗談に、また笑い声が広がった。
十一 全員そろった昼下がり
こうして、喫茶店には全員がそろった。
大村家。
平戸家。
篠田家。
原田家。
伊藤勝。
そして、店主の老婆。
テーブルの上には、温かいシチュー。
焼きたてのパン。
平戸家の野菜。
篠田家のワカメ。
老婆のチーズケーキ。
紅茶と珈琲。
人々は、最初こそ緊張していた。
だが、食事が始まると、少しずつ会話が増えていった。
勝一と和徳は、仕事の注文について話した。
慶一も加わり、鉄や機械、農作物、船の整備へ話が広がる。
「農家は、食べ物ば作る」
和徳が言う。
「金属加工は、道具ば作る」
勝一が応じる。
「漁師は、海から食べ物ば取る」
慶一が続ける。
「鉄道は、それば運ぶ」
原田が言った。
「造船は、海の向こうへ運ぶ船ば作る」
伊藤も加わる。
それぞれの仕事は違う。
だが、人々の暮らしを支えるという点では同じだった。
「本当なら、全部、人ば生かす仕事たい」
老婆が静かに言った。
全員が、少しだけ黙った。
本当なら。
その言葉が胸に刺さる。
今では、畑の作物は戦地へ送られ。
鉄道は兵士や武器を運び。
造船所は軍艦を造り。
加工場は軍用車両の部品を作っている。
人を生かす仕事が、人を殺す戦争へ利用され始めていた。
十二 大人たちの本音
食事がひと段落した頃。
原田が口を開いた。
「今日は、家族もおるけん、少しだけ本当の話ばしてよかですか」
皆が原田を見る。
「俺は戦争が嫌いです」
英二と正三郎も、父の顔を見つめた。
紀江は黙って夫の隣にいる。
「外では、そがんこと言えません」
原田は続けた。
「鉄道員として、命令された列車ば走らせる。兵士も武器も運ぶ」
拳が固く握られている。
「でも、その先で何人死ぬか分からん」
伊藤も静かに言った。
「造船所も同じです」
「軍艦の仕事ですか」
勝一が尋ねる。
「ああ」
伊藤は顔を上げた。
「俺は、人が無事に海を渡れる船ば造りたかった」
慶一がうなずく。
「漁師としても、そういう船に乗りたい」
和徳は手元の野菜を見る。
「うちは、食べた人が元気になるように作物ば育ててきた」
「私は、それば家族に食べさせてきました」
真子が言う。
「でも今は、どれだけ戦地へ送れるかばかり聞かれます」
勝一も口を開いた。
「俺は、人の暮らしを支える部品ば作りたかった」
軍用車両の部品を作り続ける苦しさ。
断れば家族や従業員が困る現実。
勝一は、これまで胸の中に抱えていたことを話した。
「仕事を続けることが、戦争ば支えることになる」
誰も反論できなかった。
「でも、仕事をやめれば、家族ば守れん」
節子が夫の手へ触れた。
「みんな、同じところで苦しんどるとですね」
紀江も言った。
「誰も戦争ばしたくなかのに」
梅は、龍弥の顔を見る。
「息子が兵隊に取られるかもしれんと思うだけで、眠れん夜があります」
真子も勝男の肩へ手を置いた。
「うちも」
母親たちの不安は、言葉にした瞬間、店内へ広がった。
十三 子どもたちの未来
その空気を変えたのは、原田の次男・正三郎だった。
「戦争が終わったら、父ちゃんの汽車で旅行するとよ」
原田が息子を見る。
正三郎は得意げに続ける。
「英二兄ちゃんと、母ちゃんと、みんなで遠くまで行くと」
英二もうなずいた。
「父ちゃんが約束した」
店内の大人たちは、静かに原田を見た。
原田は少し照れながら答える。
「ああ。約束した」
幸が言った。
「だったら、みんなで行こう」
「みんな?」
英二が目を輝かせる。
「うん。ここにおる人、みんな」
恵も続けた。
「勝男さんが機関士になったら、その汽車に乗ると」
勝男は驚く。
「こんなに大勢ですか」
「乗せられんと?」
幸が尋ねる。
勝男はすぐに姿勢を正した。
「乗せます」
龍弥も言う。
「そのあとは、僕が造った船にも乗ってください」
慶一が笑う。
「船酔いせん船にしてくれ」
「父さんまで恵さんと同じこと言うと?」
恵が笑う。
「やっぱり必要やろ」
正三郎が尋ねた。
「船にも汽車にも乗れると?」
「乗れるよ」
幸が答える。
「戦争が終わったらね」
その一言に、店内が少し静かになる。
それでも、今度の沈黙は先ほどまでとは違った。
絶望ではない。
未来を思い描くための沈黙だった。
十四 老婆のチーズケーキ
店主の老婆は、全員へチーズケーキを運んだ。
「あのとき、恵ちゃんと龍弥君に出したものと同じよ」
幸がすぐに反応する。
「これが、二人の思い出のチーズケーキね」
恵が姉をにらむ。
「お姉ちゃん、全員の前で言わんで」
梅が笑う。
「龍弥からも聞いたよ」
「母さんまで!」
真子は勝男を見る。
「勝男たちは、思い出の食べ物はなかと?」
勝男が困った顔をする。
幸が答える。
「雨の日の傘」
「食べ物ではなかやろ」
恵が突っ込む。
幸は考えた。
「石炭?」
「食べられんよ!」
店内が笑いに包まれた。
原田まで肩を揺らしている。
伊藤も、珍しく声を出して笑った。
老婆は満足そうに皆を眺めた。
「これでよかとよ」
節子が尋ねる。
「何がですか」
「戦争があっても、笑うことまでやめたらいかん」
老婆は静かに答えた。
「笑ったからって、苦しいことを忘れたわけやなか」
皆が耳を傾ける。
「でも、苦しい顔ばかりしよったら、戦争に心まで取られてしまう」
幸は、その言葉を胸に刻んだ。
十五 家族同士の約束
昼下がり。
店の窓から、柔らかな冬の日差しが差し込んでいた。
外では冷たい風が吹いている。
それでも店内は、人の声と温かい飲み物で満たされていた。
勝一が全員を見渡した。
「今日、集まれてよかった」
和徳もうなずく。
「同じように悩んどる人がおると分かっただけでも、少し楽になった」
慶一が言う。
「何かあったら、家族同士で助け合いましょう」
原田も続けた。
「鉄道で困ったことがあれば、俺に言ってください」
伊藤は腕を組みながら言う。
「船や造船所のことでできることがあれば、俺も」
真子が節子へ微笑む。
「野菜は以前ほど自由にできんけど、困ったときには分けます」
梅も言った。
「ワカメや魚も」
節子は頭を下げた。
「加工場で直せる道具があれば、勝一さんに相談します」
勝一が苦笑する。
「勝手に仕事ば増やすな」
「無理のない範囲で、です」
全員が笑った。
戦争は止められない。
国の方針を変える力もない。
それでも、目の前の人を助けることはできる。
食べ物を分ける。
道具を直す。
話を聞く。
子どもを預かる。
苦しいときに、苦しいと言える場所を作る。
それは小さな約束だった。
だが、小さいからこそ、人々の暮らしを支える力になった。
十六 帰り道
集まりが終わり、それぞれの家族が坂道を下りていった。
幸と勝男は、少しだけ並んで歩いた。
「今日は、よかったですね」
勝男が言う。
「うん」
「父さんと母さんが、幸さんの家族と話せて安心したみたいです」
幸は少し照れた。
「うちも」
「幸さん」
「何?」
「戦争が終わったら、本当にみんなで旅行しましょう」
幸は勝男を見る。
「約束ね」
「はい」
少し後ろでは、恵と龍弥が歩いていた。
「伊藤さん、思っとったより笑う人やったね」
恵が言う。
「今日、初めてあんなに笑うところば見ました」
「龍弥さんが失敗したときも、あのくらい笑ってくれたらよかのにね」
「それは困ります」
二人は笑った。
原田家では、英二と正三郎が両親の手を握って歩いていた。
「父ちゃん、今日は楽しそうやった」
英二が言う。
原田は少し照れた。
「そうか」
「いつも怖い顔しとるけん」
正三郎も言う。
紀江が笑う。
「父ちゃんも、笑えるとよ」
原田は息子たちの手を握り直した。
「戦争が終わったら、もっと笑う」
「約束ね」
「ああ」
十七 近づく足音
その夜。
長崎の町には、再び軍用列車の汽笛が響いた。
造船所では、夜を徹して軍艦建造の作業が続いていた。
大村家には、翌日からの軍需品の納期を知らせる書類が届いた。
平戸家には、さらに作物を供出するよう求める通知が来た。
原田は翌朝、また兵員輸送列車へ乗る予定だった。
伊藤も、軍艦の重要な接合部分を任されることになっていた。
昼間の笑い声が嘘のように、戦争の歯車は止まらず回り続けている。
それでも人々の心には、今日交わした約束が残っていた。
困ったときは助け合う。
戦争を格好いいものだと思わない。
人の命を軽く見ない。
そして、終わったあとの未来を諦めない。
遠くで鳴っていた戦争の足音は、もう長崎のすぐそばまで来ている。
だが、その足音に消されないように。
人々は、家族の声を大切にした。
幸と恵は、並んだ布団の中で、今日の集まりを思い返していた。
「楽しかったね」
幸が言う。
「うん」
「また集まりたいね」
「戦争が終わってからも」
「うん。十年後も」
恵は姉の手を握った。
「みんな一緒にね」
幸も握り返す。
「約束」
二人は目を閉じた。
その約束が、どれほど切実なものになるのか。
そして、十年後には果たすことのできない約束になることを。
このときの二人は、まだ知らなかった。
次回予告
喫茶店で互いの家族を紹介し、助け合うことを誓った人々。
束の間の笑顔を取り戻した彼らだったが、翌日には再び戦争の日常が待っていた。
女学校では、軍事教練を意識した行進や救護訓練が始まる。
幸は、戦争へ向かうための教育に疑問を抱く。
恵は、もし町が攻撃されたとき、家族を助けられるようにと救護の知識を学ぼうとする。
一方、長崎機関区では、軍需輸送の増加によって勤務がさらに過酷になり、勝男が初めて大きな判断を任される。
造船所では、龍弥が軍艦の実物へ使われる溶接作業へ加わることになる。
次回、第17話。
「配給の日々」
食べ物が減り。
暮らしの自由が減り。
それでも、人々は分け合って生きようとする。
戦争は、食卓の上にまで姿を現す。




