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幸と恵の物語  作者: リンダ


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15/18

母・節子の祈り

『幸と恵のものがたり』

 第15話 母・節子の祈り


 昭和十二年、冬。


 長崎の町には、冷たい雨が降っていた。


 坂道の石畳は濡れ、路面電車の線路は鈍く光っている。


 港には白い靄がかかり、遠くの船影はぼんやりとしか見えなかった。


 大村家の加工場では、夜になっても機械の音が止まらなかった。


 軍事用車両へ取り付けるボルト。


 エンジン周辺に使う金属部品。


 整備用の工具。


 注文は増え続けていた。


 納期は短くなり、数量は多くなる。


 勝一は朝早くから加工場へ入り、夕食を終えたあとも仕事へ戻っていた。


 家族を養うため。


 従業員たちの給金を守るため。


 取引を失わないため。


 そして、注文された部品に不具合を出さないため。


 頭では、そのすべてを理解していた。


 だが体は、理解しているからといって疲れなくなるわけではなかった。


 一 加工場の大きな音


 その夜。


 幸と恵は、居間で学校の課題に取り組んでいた。


 節子は台所で、翌朝の支度をしている。


 加工場からは、金属を削る一定の音が続いていた。


 いつもの音。


 幼い頃から聞いてきた、父が働いている音だった。


 幸は筆を止めた。


「お父さん、今日も遅かね」


 恵も帳面から顔を上げる。


「最近、ずっとやろ」


「夜まで働いて、朝も早か」


「軍の注文が増えたけんね」


 幸は不満そうに口を結んだ。


「戦争のために、お父さんまで倒れたら意味なかよ」


 節子は台所から答えた。


「あとで休むよう言うよ」


「お母さんが言っても、聞かんやろ」


「聞かせると」


 その言葉に、母としての強さがあった。


 しかし節子自身も、夫が簡単には仕事を止められないことを知っていた。


 その直後だった。


 加工場から、激しい金属音が響いた。


 ガンッ。


 続いて、何かが床へ落ちる音。


 幸と恵は同時に立ち上がった。


「お父さん!」


 二人が加工場へ駆け込む。


 節子も後を追った。


 勝一は作業台へ両手をつき、俯いていた。


 足元には、工具が落ちている。


 肩が大きく上下し、苦しそうに息をしていた。


「お父さん!」


 幸が駆け寄る。


 勝一は片手を上げた。


「来るな。部品がまだ熱い」


 こんなときでさえ、娘たちの安全を先に考える。


 節子は機械を止め、作業場の状態を確かめた。


「あなた、大丈夫ね」


「少し、立ちくらみがしただけだ」


「それだけで工具ば落とすと?」


「手が滑った」


 節子は夫の顔を見た。


 青白い。


 額には冷たい汗が浮かんでいる。


「座って」


「まだ作業が残っとる」


「座りなさい」


 節子の声が強くなった。


 勝一は何か言い返そうとした。


 だが、もう一度体が揺れた。


 幸と恵が両側から支える。


「お父さん、無理したらいかんよ」


 恵が言う。


「納期より体の方が大事たい」


 幸も続けた。


「お父さんがおらんようになったら、うちら困るとよ」


 その言葉に、勝一は抵抗をやめた。


 三人に支えられ、加工場の椅子へ腰を下ろす。


 節子は水を持ってきた。


「ゆっくり飲んで」


 勝一は一口飲み、深く息を吐いた。


 加工場へ静けさが戻った。


 いつも響いていた機械音が消えると、家全体が不安になるほど静かだった。


 二 守るために働いて


「いつから、こがん具合やったと?」


 節子が尋ねる。


 勝一は目をそらした。


「何のことだ」


「とぼけんで」


 節子は夫の手へ触れた。


 冷たい。


「食欲も減っとった。夜中に何度も起きよった。胸ば押さえとることもあった」


 幸と恵は驚いて父を見る。


「お父さん、胸が痛かったと?」


「痛いというほどではない」


「どうして言わんかったと!」


 幸の声が震える。


 勝一は申し訳なさそうに娘を見る。


「心配かけたくなかった」


「黙っとる方が心配するやろ!」


 幸の目に涙が浮かんだ。


 恵も父の袖を握った。


「うちら、もう何も分からん子どもやなかよ」


 勝一は娘たちを見た。


 ほんの少し前まで、二人は加工場の仕事へ興味を持ち始めたばかりだった。


 ボルトを持って重いと驚き。


 測定器具の数字を読み間違え。


 互いにからかい合っていた。


 それが今では、父の仕事の責任も、戦争へつながる苦しみも理解しようとしている。


「俺が休めば、仕事が遅れる」


 勝一は言った。


「注文を落とせば、次から仕事ば回してもらえんかもしれん」


「でも、倒れたら全部できんようになるやろ」


 恵が静かに返す。


「分かっとる」


「分かっとる人が、どうして休まんと?」


 勝一は答えに詰まった。


 幸が尋ねる。


「うちらを守るため?」


「それもある」


「従業員さんのため?」


「ああ」


「それなら、お父さん自身も守ってよ」


 幸の声が震えた。


「家族の中に、お父さんも入っとるやろ」


 勝一は俯いた。


 その通りだった。


 家族を守るために働きながら、自分だけを家族の外へ置いていた。


 自分が倒れても、家族さえ暮らせればよい。


 いつの間にか、そんな考えになっていた。


 節子は夫の隣へ座った。


「明日は休んで」


「それはできん」


「できます」


「納期が――」


「私が取引先へ話します」


 勝一が顔を上げる。


「お前が?」


「妻ですから」


 節子はまっすぐ夫を見た。


「あなた一人の加工場やない。この家の暮らしに関わることなら、私にも話す権利がある」


 勝一は何も言えなかった。


「部品は作り直せる」


 節子が言う。


「仕事の遅れも、誰かに謝って取り戻せる」


 そして夫の手を強く握る。


「でも、あなたの命は作り直せんとよ」


 幸と恵は、母の横顔を見つめた。


 普段の節子は穏やかな人だった。


 大きな声を出すことは少ない。


 だが、家族を守るときには誰よりも強かった。


 三 平戸家への通達


 同じ頃。


 平戸家にも、一枚の通達が届いていた。


 父の和徳は、畑の脇へ立ち、その紙を何度も読み返していた。


 戦地へ送る食糧を確保するため、農家は生産量を増やすよう求められていた。


 米。


 芋。


 大根。


 白菜。


 保存の利く作物。


 できるだけ多く作り、市場や指定された集荷先へ出すように。


 紙には、国のため、兵士のためという言葉が並んでいた。


 和徳は、冬の畑を見渡した。


 土。


 畝。


 収穫を待つ野菜。


 これまでは、町の人々が食べるために育ててきた。


 市場で売り。


 家族の食卓へ出し。


 近所の人へ分ける。


 形の悪いものは、自宅で食べる。


 それが当たり前だった。


 だが、これからは違う。


 どれだけ作れるか。


 どれだけ供出できるか。


 誰の腹を満たすための作物なのか。


 和徳には、はっきり分からなかった。


「父さん」


 勝男が畑へ来た。


 勤務を終えたばかりで、作業着には煤の匂いが残っている。


「何ば読んどると?」


 和徳は通達を渡した。


 勝男が目を通す。


「食糧の増産」


「ああ」


「戦地へ送るため?」


「そう書いてある」


 母の真子も家から出てきた。


「畑を増やせってことね」


「簡単に言うな」


 和徳の声には苛立ちが混じる。


 土地には限りがある。


 種も肥料も無限ではない。


 人手も必要だ。


 収穫量を急に増やせと言われても、作物は命令で育つわけではない。


「兵隊さんに食べてもらうこと自体が嫌なわけやなか」


 和徳は言った。


「腹を空かせとる若者に、食べ物ば送りたい気持ちはある」


 真子もうなずく。


「誰かの息子さんやもんね」


「だが、この野菜が戦争を長引かせるために使われると思うと……」


 和徳は言葉を止めた。


 勝男は父の手にある通達を見た。


 自分は軍需貨物を運んでいる。


 父は兵士のための野菜を作る。


 母はそれを選び、洗い、出荷する。


 ついに平戸家も、戦争の流れへ組み込まれ始めた。


「断れんと?」


 勝男が尋ねる。


 和徳は苦く笑った。


「大村さんの加工場と同じたい」


「仕事ば切られる?」


「それだけやなか」


 国の方針へ逆らう農家と見られれば、今後の配給や取引にも影響するかもしれない。


 近所から何を言われるかも分からない。


「俺は畑ば守りたいだけたい」


 和徳は土を握った。


「兵隊ば増やすために野菜ば作りよるんやなか」


「父さん」


「人が生きるために作りよる」


 その言葉は、強く、悔しさに満ちていた。


 勝男は父の隣へ立った。


「俺も手伝う」


「機関区の仕事があるやろ」


「休みの日だけでも」


「体ば壊すぞ」


 勝男は大村家の勝一を思い出した。


 軍需の注文に追われ、休む暇もなく働いていると幸から聞いていた。


「無理はせん」


「本当に?」


 真子が尋ねる。


「原田さんにも、休むのも仕事だって言われとる」


 和徳は息子の顔を見た。


「なら、自分の言葉ば忘れるな」


「うん」


 その日の夕方。


 平戸家は、畑の作付けについて話し合った。


 どこへ芋を増やすか。


 どの野菜を減らすか。


 市場へ出す分と、供出する分。


 自分たちが食べる分。


 計算すればするほど、暮らしの余裕が減っていくことが分かった。


 戦争は、畑の畝の幅まで変えようとしていた。


 四 真子の苦しみ


 夕食には、畑で採れた大根と芋が並んだ。


 以前なら、真子は息子へたくさん食べるよう勧めた。


 だが、その日は器へ盛る手が少し止まった。


「これから、家で食べられる分も減るとかな」


 真子が言う。


 和徳は答えなかった。


「市場に出す分だけでも大変やったのに」


「仕方なか」


「その言葉、嫌いになりそう」


 真子の声が震えた。


「戦争が始まってから、何でも仕方なかで終わらせるやろ」


 供出。


 軍事輸送。


 長時間勤務。


 物不足。


 危険な仕事。


「仕方なかって言い続けたら、最後は何も残らんのやないと?」


 勝男は母を見る。


 いつも明るく、食卓を支えていた真子。


 その母の顔にも、戦争への恐れが浮かんでいた。


 和徳は静かに言った。


「俺も好きで言いよるんやなか」


「分かっとる」


 真子は目元を拭った。


「分かっとるけん、余計につらかとよ」


 勝男は両親を見た。


 兵士を乗せた列車で見た家族。


 軍需品を運ぶ自分。


 畑で増産を求められる父と母。


 戦争は、前線だけで起きているのではなかった。


 家族の会話を変え。


 食卓の量を変え。


 働き方を変え。


 人々の心へ、仕方ないという言葉を植えつけていた。


 五 原田家の食卓


 その夜。


 原田正勝は、いつもより遅く家へ帰った。


 妻の紀江は、冷めかけた夕食を温め直していた。


 長男の英二と次男の正三郎は、父が帰るまで起きて待っていた。


「父ちゃん、お帰り」


 英二が玄関へ駆ける。


 正三郎も続く。


「おかえり!」


 原田は疲れた顔を隠すように笑った。


「まだ起きとったとか」


「父ちゃんと御飯食べるって言うたけん」


 紀江が答えた。


 原田は手を洗い、食卓へ座った。


 簡素な食事だった。


 大根の煮物。


 味噌汁。


 少しの魚。


 以前より、手に入るものが減っていた。


 正三郎が父の顔を見る。


「父ちゃん、今日も汽車ば運転したと?」


「父ちゃんは運転だけやなか。今日は列車の確認もした」


 英二が尋ねる。


「兵隊さんの汽車?」


 原田の箸が止まった。


 紀江が息子を見る。


「どうして知っとると?」


「学校で、兵隊さんがたくさん汽車に乗って行くって聞いた」


 原田は少し考えてから答えた。


「今日は兵隊さんが乗る列車やった」


「どこに行くと?」


「博多。その先は分からん」


 英二は父を見つめた。


「帰ってくると?」


 原田は答えられなかった。


 正三郎が心配そうに父の袖を握る。


「父ちゃんも、どこか行くと?」


「父ちゃんは帰ってくる」


 原田はすぐに答えた。


「ここで汽車ば動かす仕事やけん」


「本当に?」


「ああ」


 正三郎は少し安心したようだった。


 だが、紀江の表情は曇っていた。


 子どもたちが寝たあと。


 紀江は、洗い物をしながら夫へ言った。


「あなたも、つらかろうね」


 原田は黙っていた。


「生きて帰れるか分からん人たちば運ばんばいかん」


 水の音が続く。


「それに、人を殺すための道具も」


 原田は低い声で答えた。


「仕事やけん」


 紀江の手が止まった。


「あなた、その言い方ばするときが一番つらそう」


 原田は妻を見る。


 紀江は振り返った。


「前に言うとったやろ」


「何を」


「戦争が大嫌いだって」


 原田の表情が強張る。


「誰が幸せになるんかって」


 それは家でだけ口にした言葉だった。


 外では言えない。


 職場でも言えない。


 同僚にさえ、簡単には話せない。


「子どもたちには言うなよ」


「分かっとる」


 紀江は夫の隣へ座った。


「でも、私は覚えとる」


 原田は俯いた。


「列車に乗せる人には、みんな家族がおる」


「うん」


「俺が無事に運んだ先で、誰かを殺すかもしれん」


「うん」


「武器ば運べば、それで人が死ぬかもしれん」


 紀江は何も否定しなかった。


 原田の手へ、自分の手を重ねる。


「それでも、あなたが事故ば防いどることも本当たい」


「それで自分ば許してよかとかな」


「許さんでもよか」


 原田が妻を見る。


 紀江は静かに続けた。


「苦しいと思い続けてよか。戦争が嫌いだと思い続けてよか」


「でも、仕事はせんばいかん」


「そうね」


 紀江の目に涙が浮かんだ。


「だからせめて、家では本当のこと言ってよ」


 外では強い鉄道員。


 若者を叱る指導員。


 大勢の命を預かる男。


 だが家では、苦しいと言ってよい。


 嫌だと言ってよい。


 原田は長く息を吐いた。


「今日、若い兵士がおった」


「うん」


「英二より、少し大きくなったくらいの顔ばしとった」


 紀江は夫の手を強く握った。


「帰ってきたらよかね」


「ああ」


「みんな」


「ああ」


 六 父を休ませる夜


 大村家では、勝一が布団へ横になっていた。


 節子は枕元へ座り、額の汗を拭いていた。


 幸と恵も、少し離れたところで父を見守っている。


 医師からは、疲労と睡眠不足が重なっていると言われた。


 しばらく休むこと。


 無理な夜仕事を避けること。


 食事を取ること。


 当たり前のことばかりだった。


 しかし、その当たり前を守ることが難しい時代になっていた。


「お父さん」


 幸が声をかける。


「何だ」


「明日は加工場に行ったらいかんよ」


「分かっとる」


「本当に?」


「お前は恵みたいになってきたな」


 恵が横から言う。


「姉ちゃんは昔から心配性よ」


「そうか?」


「平戸さんのことになると特に」


 幸の顔が赤くなる。


「今、その話は関係なか!」


 勝一が小さく笑った。


 その笑顔を見て、節子も少し安心した。


 だが、すぐに表情を戻す。


「明日から、加工場の仕事を少し減らします」


「勝手に決めるな」


「もう決めました」


「従業員が困る」


「みんなに話しました」


 勝一が驚く。


「いつ」


「あなたが医者に診てもらっとる間に」


 節子は淡々と答えた。


「納期の相談もします。できんものは、できんと言います」


「取引を失うかもしれんぞ」


「夫を失うよりはましです」


 勝一は黙った。


 幸は母を見た。


 節子の目には、迷いがなかった。


 この人は、戦争も軍も止められない。


 だが、目の前の夫を守るためには動く。


「お母さん、強かね」


 幸が言う。


 節子は少し笑った。


「怖いだけよ」


「怖い?」


「お父さんがおらんようになるのが」


 節子は夫の手へ触れた。


「怖いけん、強うならんばいかんと」


 恵も母の隣へ座った。


「うちらも手伝う」


「何を?」


「家のこと」


「加工場の帳面も」


 幸が続ける。


「危なか仕事はできんけど、数を数えたり、注文ば整理したりはできる」


 勝一は娘たちを見た。


「勉強はどうする」


「ちゃんとする」


 幸が答える。


 恵がすぐに言う。


「うちが姉ちゃんば見張る」


「恵!」


 家族の間に、久しぶりに小さな笑いが起きた。


 七 節子の祈り


 その夜更け。


 家族が眠ったあと。


 節子は一人、仏壇の前へ座っていた。


 小さな灯り。


 静かな家。


 加工場の機械音はない。


 勝一の寝息。


 幸と恵の眠る部屋。


 すべてが、今はここにある。


 節子は手を合わせた。


「どうか……」


 声がかすかに震える。


「この家から、誰も奪わんでください」


 夫。


 二人の娘。


 娘たちが大切に思っている勝男と龍弥。


 平戸家。


 篠田家。


 原田家。


 名前も知らない、駅で見送られた兵士たち。


 その家族。


 節子は、一人ずつ思い浮かべた。


「誰かの家族を守るために、別の誰かの家族が泣くようなことが、早う終わりますように」


 祈っても、戦争は止まらないかもしれない。


 祈りが届く保証もない。


 それでも、祈らずにはいられなかった。


「幸も、恵も」


 節子の目から涙がこぼれる。


「どうか、普通に大人になれますように」


 女学校を卒業し。


 好きな人と結ばれ。


 子どもを育て。


 父と母を年寄り扱いして笑い。


 家族の食卓を囲む。


 それだけでよい。


 特別な栄光はいらない。


 国に褒められなくてもよい。


 ただ、生きていてほしい。


「勝一さんも」


 夫の名を口にする。


「私より先に、勝手にいなくならんでください」


 節子は涙を拭いた。


 そして、もう一度手を合わせた。


 戦争の影に包まれ始めた家で。


 一人の妻として。


 一人の母として。


 節子は、家族の命を祈った。


 八 それぞれの朝


 翌朝。


 勝一は加工場へ行かず、家で休んだ。


 落ち着かない様子で何度も起き上がろうとし、そのたび節子に止められた。


 幸と恵は学校へ行く前に、父の枕元へ来た。


「帰ってきても寝とらんかったら、怒るけんね」


 幸が言う。


「どっちが親か分からんな」


 勝一が苦笑する。


 恵は水差しを枕元へ置いた。


「ちゃんと飲んでね」


「分かった」


「御飯も残したらいかんよ」


「真子さんみたいなこと言うな」


 平戸家では、和徳と真子が増産のための畑を見ていた。


 勝男も出勤前に、土を耕すのを手伝っている。


「仕事に遅れるぞ」


 和徳が言う。


「もう行く」


 勝男は鍬を置いた。


「無理せんでね」


 真子が言う。


「母さんたちも」


「分かっとる」


 だが、三人とも互いを心配していた。


 原田家では、正勝が家を出る前に、英二と正三郎から抱きつかれていた。


「今日も帰ってくる?」


 正三郎が尋ねる。


「ああ」


「絶対?」


「絶対だ」


 原田は息子の頭を撫でた。


 紀江は夫へ弁当を渡す。


「ちゃんと食べて」


「分かっとる」


「つらくなったら、家で話して」


 原田は少しだけ笑った。


「分かった」


 篠田家では、慶一と梅が漁船を整備し、龍弥が造船所へ向かう支度をしていた。


 家族それぞれが、戦争へつながる仕事を抱えながらも、今日を生きようとしていた。


 戦争は、すでに誰か一人の問題ではなかった。


 畑へ。


 加工場へ。


 鉄道へ。


 造船所へ。


 家庭の食卓へ。


 子どもたちの問いへ。


 あらゆる場所へ入り込み始めていた。


 それでも朝は来る。


 人々は働く。


 家族は送り出す。


 そして、帰りを待つ。


 その繰り返しの中で、節子の祈りだけが静かに続いていた。


 どうか、この家から誰も奪われませんように。


 その祈りが、八年後にどれほど残酷な形で破られるのか。


 このときは、まだ誰も知らなかった。


 次回予告


 過労で倒れた勝一は、家族に支えられながら仕事の量を減らしていく。


 だが軍需の注文は減らず、取引先からは納期を早めるよう求められる。


 平戸家では、食糧増産のために畑が広げられ、和徳と真子の体にも疲れがたまり始める。


 原田家では、英二が父へ尋ねる。


「戦争が終わったら、父ちゃんの汽車で旅行できる?」


 原田は笑って約束する。


「終わったら、みんなで遠くへ行こう」


 一方、幸と恵は女学校で、戦争へ協力することを当然とする空気に、ますます息苦しさを感じていた。


 次回、第16話。


「戦争の足音」


 遠くで鳴っていた足音は、もう町のすぐそばまで来ている。


 それでも人々は、終わったあとの未来を信じようとしていた。

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