父・勝一の背中
『幸と恵のものがたり』
第14話 父・勝一の背中
昭和十二年、秋。
戦争が始まってから、長崎の町では軍服姿の男性を見かけることが増えていた。
駅前。
港。
役所の近く。
家族と並んで歩く若い兵士。
胸を張っている者。
緊張した顔をしている者。
無理に笑っている者。
その隣には、息子の腕を離せずにいる母親や、何度も衣服の襟を整える父親がいた。
幼い子どもの手を引く妻もいた。
町の人々は、彼らを見かけると足を止めた。
「お国のために」
「立派に務めてきなさい」
「必ず勝って帰ってきてください」
そんな言葉が交わされた。
けれど、送り出す家族の顔に浮かんでいたのは、誇らしさよりも不安だった。
本当の願いを、誰も大きな声では言わなかった。
死なないでほしい。
戦わなくてもよいから、帰ってきてほしい。
ただ、もう一度この家の戸を開けてほしい。
それだけだった。
一 慰問袋
女学校では、慰問袋を作る時間が設けられるようになった。
布を縫い合わせ、その中へ日用品や手紙を入れる。
教師は教壇に立ち、生徒たちへ説明した。
「戦地で戦っている兵隊さんたちを励ますためです」
机の上には、裁縫道具と白い便箋が並んでいた。
生徒たちは、教師が黒板へ書いた例文を写していく。
『勇敢に戦ってください』
『日本の勝利を信じています』
『敵を打ち破ってください』
幸は筆を持ったまま、手を止めていた。
黒板の言葉が、どうしても自分の心と重ならない。
隣の席では、恵も便箋を前に考え込んでいた。
教師が教室を回ってくる。
「大村幸さん。どうしました」
幸は便箋を隠すように手を置いた。
「何でもありません」
「まだ一行も書けていませんよ」
幸は黒板を見た。
「先生」
「何ですか」
「兵隊さんは、本当に『戦ってください』って言われたら、うれしかとでしょうか」
教室の空気が静まった。
教師の表情が硬くなる。
「何を言っているのです」
「だって、怖かと思うとです」
幸は続けた。
「家族と離れて、知らん土地へ行って、人ば撃たんばいかんかもしれん」
「兵隊さんは、国を守るために戦うのです」
「でも、兵隊さんにも家族がおるでしょう」
「大村さん」
教師の声が強くなった。
「今は個人の気持ちより、国全体のことを考えるときです」
幸は唇を結んだ。
個人の気持ち。
その中に、命も家族も含まれるのではないか。
国全体という言葉が、なぜ一人ひとりの悲しみより上に置かれるのか。
納得できなかった。
しかし、それ以上言えば問題になることを、母の節子から教えられていた。
幸は俯き、便箋へ筆を置いた。
黒板の文章は書かなかった。
代わりに、自分の言葉を書いた。
『遠いところで、毎日大変だと思います。
どうか、体を大事にしてください。
御飯を食べられるときには、少しでも食べてください。
寒いときには、体を冷やさないでください。
あなたの帰りを待っている人がいます。
どうか、生きて帰ってきてください。』
幸は最後の一文を見つめた。
「勝って」ではない。
「戦って」でもない。
生きて。
それだけだった。
休み時間。
恵が姉の便箋を読んだ。
「先生に怒られん?」
「分からん」
「書き直せって言われるかもしれんよ」
「でも、うちはこれしか書けん」
恵は自分の手紙を見せた。
そこにも、似た言葉が並んでいた。
『無事でいてください。
故郷へ帰ったら、家族と温かい御飯を食べてください。』
幸は妹を見る。
「恵も同じやね」
「双子やけん」
二人は小さく笑った。
だが、その笑いは長く続かなかった。
二 長崎駅へ
放課後。
幸と恵は、長崎駅へ向かった。
節子から頼まれた買い物があったわけではない。
勝男に会う約束をしていたわけでもない。
ただ、女学校で戦争の話を聞いたあと、二人とも家へ真っすぐ帰る気持ちになれなかった。
路面電車に乗り、駅の近くで降りる。
町には、いつもより多くの人が歩いていた。
軍服姿の男性。
荷物を持つ家族。
白い布に文字を書いた旗。
出征する兵士を送る人々。
幸は人の流れを見た。
「みんな、駅へ行きよる」
恵がうなずく。
「兵隊さんを見送るとやろ」
二人も、人々の後ろについて駅へ向かった。
駅前は、普段とはまったく違う様子だった。
名前を呼ぶ声。
泣き声。
万歳の声。
太鼓。
軍歌。
それらが一つに混ざり合い、落ち着かない空気を作っていた。
幸は恵の手を握った。
「離れんでね」
「うん」
双子は人混みの中を進み、ホームが見える場所まで来た。
そこで二人は、息をのんだ。
三 長い兵員輸送列車
ホームには、長い列車が止まっていた。
何両もの客車が連なっている。
窓には兵士たちの顔が並び、車内には大きな荷物や軍装品が積まれていた。
列車の先頭には、二両の大型蒸気機関車が連結されている。
重連運転。
一両では、この長い編成を引いて急勾配を越えるのが難しい。
長崎本線には、本川内駅付近をはじめ、機関車へ大きな負担がかかる勾配区間がある。
大勢の兵士と荷物を乗せた長編成を博多まで運ぶため、二両の機関車が力を合わせるのだ。
前の機関車。
その後ろに、もう一両。
二本の煙突から、黒い煙が立ち上っていた。
白い蒸気が足元を包む。
二両の機関車は、まるでこれから背負う重さを知っているかのように、低く唸っていた。
幸はその姿を見つめた。
以前なら、大型機関車が二両も連結されている光景に目を輝かせたはずだった。
「格好よか」
そう言って、車輪や連結部分を見ようとしただろう。
だが、今日は違った。
この汽車が運ぶのは、旅行へ向かう人々ではない。
家族のもとから引き離され、戦地へ送られる若者たちだった。
「これが……兵員輸送列車」
幸がつぶやく。
恵は客車の窓を見た。
兵士たちは、笑顔を作って手を振っている。
だが、その笑顔は硬い。
何人かは唇を強く結び、泣かないよう耐えている。
ホームに立つ家族は、さらに苦しそうだった。
四 帰ってきて
一人の年老いた母親が、客車の窓へ手を伸ばしていた。
窓の向こうには、二十歳を少し過ぎたほどの兵士が座っている。
「正雄!」
母親が叫ぶ。
「御飯ば、ちゃんと食べんね!」
兵士は笑ってうなずく。
「分かっとるよ、母ちゃん」
「寒いときは、ちゃんと着込むとよ!」
「分かったって」
「病気したら、すぐ休むとよ!」
兵士は少し困ったように笑った。
「軍隊で、そがん勝手はできんよ」
母親の顔が崩れた。
「なら……」
声が震える。
「なら、何でもよかけん……帰ってきて」
兵士の笑顔が消えた。
母親は窓へ手を当てる。
「勝たんでもよか」
周囲に聞かれないよう、小さな声で言った。
「立派じゃなくてもよか」
「母ちゃん」
「生きて帰ってきてくれたら、それでよかけん」
兵士は何も答えられなかった。
ただ、窓越しに母親の手へ自分の手を重ねた。
幸はその光景から目を離せなかった。
学校では、勝ってくださいと書くよう言われた。
だが、この母親は勝たなくてもよいと言っている。
生きて帰ってほしい。
それが、家族の本当の願いだった。
少し離れたところでは、若い妻が幼い子どもを抱いていた。
「お父ちゃんに、ばいばいして」
妻が子どもの小さな手を動かす。
子どもは何が起きているのか理解していない。
笑いながら、父親へ手を振る。
「とうちゃん、ばいばい」
客車の窓から身を乗り出した兵士は、笑顔を作った。
「ばいばいじゃなかぞ」
声が震えていた。
「また会おうな」
妻は唇を噛んでいる。
兵士は子どもへ言った。
「母ちゃんの言うことば、ちゃんと聞くんぞ」
「うん」
「母ちゃんば困らせたらいかん」
「うん」
「父ちゃん、すぐ帰るけん」
その言葉を、本人が信じているかどうか分からなかった。
妻も分かっていた。
「約束よ」
妻は言った。
「絶対、帰ってきて」
兵士は一度だけ強くうなずいた。
だが、目には涙が浮かんでいた。
五 勝男の姿
ホームの先頭近くには、鉄道員たちが忙しく動いていた。
二両の蒸気機関車。
石炭と水の確認。
連結器。
ブレーキ。
信号。
長編成の列車を安全に走らせるため、何度も確認が行われている。
その中に、勝男の姿があった。
作業着姿。
煤のついた頬。
原田正勝の指示を受けながら、後方の機関車の足回りを点検している。
幸はすぐに気づいた。
「勝男さん」
だが、大きな声では呼ばなかった。
今は仕事中だ。
しかも、大勢の命を乗せる列車の出発前。
勝男は部品へ手を当て、工具を使い、何度も状態を確認している。
表情は厳しかった。
普段、幸と話すときの柔らかい笑顔はない。
原田が尋ねる。
「平戸、連結部は」
「異常ありません」
「本当に見たか」
「はい。固定、緩みなし。給水管も確認しました」
原田は自分でも確認した。
「よし」
勝男は次の場所へ移る。
長い列車。
二両の機関車。
大勢の兵士。
通常の旅客列車よりも、さらに慎重な確認が必要だった。
二両の機関車は、互いの動きと力を合わせなければならない。
前の機関車だけが力を出しすぎてもいけない。
後ろの機関車が押しすぎても、連結部へ負担がかかる。
汽笛の合図。
加速のタイミング。
勾配へ入る前の蒸気の準備。
機関士と機関助手だけでなく、二両分の乗務員が呼吸を合わせる。
勝男は初めて、重連列車の補助作業へ入っていた。
手は震えていなかった。
だが、胸の中は重かった。
窓から手を振る兵士。
泣く家族。
この列車を無事に博多へ運ぶ。
その先で兵士たちは、さらに列車や船を乗り継ぎ、戦地へ向かうのかもしれない。
自分の仕事は、彼らを戦争へ近づけることだった。
「平戸」
原田が低い声で呼ぶ。
「何ば考えとる」
勝男は機関車へ意識を戻した。
「すみません」
「今は点検に集中しろ」
「はい」
原田は少し間を置いて続けた。
「戦地へ送る列車でも、ここで事故ば起こしてよか理由にはならん」
「分かっとります」
「この人たちにも、家族がおる」
勝男はホームを見た。
原田の妻・紀江。
息子の英二と正三郎。
自分の両親である和徳と真子。
そして、幸。
誰かを送り出す家族の姿が、自分の大切な人々と重なった。
「必ず博多まで無事に運びます」
勝男が言った。
原田は短くうなずいた。
「そのために、もう一度見ろ」
「はい」
六 姉妹が見た別れ
幸と恵は、ホームの端で家族たちを見ていた。
恵の目から、涙がこぼれた。
「お姉ちゃん」
「うん」
「学校では、みんな笑って送り出せって言われたやろ」
「うん」
「でも、笑えるわけなかよね」
幸も涙を拭った。
「泣いたら兵隊さんが心配するけん、みんな無理に笑っとるとよ」
「つらかね」
「うん」
「何で、行かんばいかんとやろ」
「戦争があるけん」
「その戦争を、何でやめられんと?」
幸は答えられなかった。
国が決めたから。
命令だから。
戦わなければならないから。
どれも答えになっていないように思えた。
家族を守るために戦うと言いながら、家族を引き離している。
国を守るためと言いながら、町の若者を遠い土地へ送っている。
人を生かすためと言いながら、人を殺すよう命じている。
「おかしかよ」
幸が言った。
「全部、おかしか」
恵は姉の手を握った。
「姉ちゃん、声ば少し小さく」
「でも――」
「分かっとる」
恵も泣いていた。
「うちも同じこと思っとるけん」
七 出発の合図
やがて、出発の時刻が近づいた。
駅員たちがホームを回る。
家族は列車から離れるよう求められた。
それでも、誰もすぐには動こうとしない。
母親は窓へ伸ばした手を離せない。
妻は子どもを抱きしめたまま、夫から目をそらさない。
父親は泣くまいとして、何度も鼻をすすっている。
出発を知らせる笛が鳴った。
前の機関車が、短く汽笛を鳴らす。
続いて、後ろの機関車も応える。
二両の機関車の汽笛が、長崎駅へ響き渡った。
これまで幸が聞いてきた汽笛とは違って聞こえた。
遠くへ旅立つ希望の音ではない。
家族を引き裂く合図。
帰ってこられるか分からない人々を運び出す音。
二両の機関車から蒸気が噴き出した。
動輪がゆっくりと回り始める。
前の機関車が客車を引く。
後ろの機関車が、その重さを支える。
連結器が一両ずつ張りつめる。
ガタン。
ガタン。
ガタン。
長い列車が、少しずつ動き始めた。
ホームから一斉に声が上がる。
「元気でな!」
「手紙ば書くとよ!」
「必ず帰ってこいよ!」
「体ば大事に!」
「忘れんでね!」
家族たちが走る。
列車の速度に合わせて、ホームを走りながら手を振る。
窓から兵士たちも手を振る。
帽子を振る者。
涙を拭う者。
声を張り上げる者。
「母ちゃん!」
「父ちゃん!」
「待っとってくれ!」
「必ず帰るけん!」
幸と恵も、知らない兵士たちへ手を振った。
「生きて帰ってきて!」
幸が叫んだ。
恵も続く。
「絶対、帰ってきてください!」
周囲の万歳の声に混じり、二人の言葉はかき消されそうになる。
それでも、窓際にいた一人の若い兵士が、二人の方を見た。
そして、強くうなずいた。
八 重連の咆哮
列車はホームを離れた。
二両の蒸気機関車が、黒い煙を空へ吐き出す。
長編成を引くため、いつもの旅客列車よりも低く、力強い音を響かせていた。
シュッ。
シュッ。
シュッ。
二両分の排気音が重なる。
線路の継ぎ目を、何両もの車輪が通過していく。
列車は長崎を発ち、博多を目指す。
その途中には、本川内付近の急勾配が待っている。
坂へ入る前に火室の火を整え。
蒸気圧を高め。
二両の機関車が力を合わせる。
先頭の機関士が汽笛で合図を送り。
後ろの乗務員が応える。
一両では越えることが難しい坂を、二両で越えていく。
だが、その力強い姿を見ても、幸は胸を躍らせることができなかった。
機関車が強ければ強いほど。
列車が長ければ長いほど。
より多くの兵士を、より遠くの戦場へ運べる。
その事実が悲しかった。
列車の最後尾がホームを離れる。
家族たちは、それでも手を振り続けた。
線路の先へ列車が消えても。
煙だけになっても。
汽笛が聞こえなくなっても。
誰もすぐには帰ろうとしなかった。
まるで、そこに立ち続けていれば、列車が戻ってくるような気がしているかのようだった。
九 勝男の乗務
勝男は、後方の機関車へ乗り込んでいた。
原田とともに、火室と計器の状態を確認する。
「本川内の勾配へ入る前に、火ば作るぞ」
原田が言う。
「はい」
「前の機関車の合図を聞き逃すな」
「はい」
勝男はショベルを握った。
客車から聞こえる兵士たちの声は、機関車までは届かない。
だが、ホームで泣いていた家族の姿は、目に焼きついていた。
石炭をすくう。
火室へ入れる。
炎が強くなる。
機関車は加速していく。
「勝男さん」
幸の声が聞こえた気がした。
――必ず帰ってきて。
それは勝男自身へ向けられた言葉ではない。
出征する兵士たちへ叫んだ言葉だった。
それでも、自分にも言われているように感じた。
勝男は火室を見つめた。
今、自分にできることは、この列車を事故なく博多まで走らせること。
兵士たちを戦地へ送ることを、喜ぶことはできない。
それでも、この汽車の中で彼らを死なせるわけにはいかない。
「原田さん」
「何だ」
「この人たち、みんな帰ってこられると思いますか」
原田は前を見たまま答えた。
「分からん」
「そうですよね」
「だが、帰ってきてほしいとは思う」
原田は火室を見た。
「俺たちにできるのは、少なくとも今、この人たちば生きたまま運ぶことだ」
「はい」
「火ば切らすな」
「はい!」
勝男は石炭をくべた。
力を込める。
しかし、乱暴には入れない。
火の状態を見る。
蒸気圧を読む。
前の機関車の排気音を聞く。
二両の呼吸を合わせる。
やがて列車は勾配へ差しかかった。
前の機関車が長い汽笛を鳴らす。
後ろの機関車が応える。
二両の力が一つになる。
重たい列車が、坂を上り始めた。
十 父の加工場
幸と恵が家へ戻ると、勝一は加工場で仕事をしていた。
軍事用車両のエンジンに使われる部品。
大きなボルト。
ナット。
整備用の工具。
機械が鉄を削る音が響いている。
幸は入口に立ち、父の背中を見つめた。
長崎駅で見た兵士たち。
泣く家族。
勝男が乗り込んだ重連列車。
そして今、父が作っている軍用部品。
すべてが一本につながって見えた。
「お父さん」
勝一は機械を止めた。
「帰ったか」
幸は加工場へ入った。
「今日、兵隊さんの列車ば見た」
勝一の表情が曇る。
「そうか」
「博多に向かうって」
「その先は、港から大陸だろう」
恵も父の近くへ来た。
「家族が、みんな泣いとった」
勝一は工具を作業台へ置いた。
「そうだろうな」
「お父さんが作った部品も、あの人たちが乗る車に使われると?」
「使われるかもしれん」
幸は父の手を見た。
油と鉄粉に汚れた手。
「嫌やないと?」
勝一はすぐに答えなかった。
「嫌だ」
静かな声だった。
「今でも、作りたくないと思っとる」
「なら、どうして作ると?」
勝一は加工場を見回した。
機械。
材料。
注文書。
家族を支えてきた仕事場。
「お前たちを食べさせるためだ」
その言葉に、幸は何も言えなくなった。
「ここで働く人の家族もおる」
勝一は続けた。
「注文を断れば、仕事を失うかもしれん」
「でも――」
「分かっとる」
勝一の声が強くなった。
すぐに、怒りを抑えるように息を吐く。
「分かっとるんだ」
その背中が、以前より小さく見えた。
父は強い人だと思っていた。
何でも知っている。
何でも決められる。
家族を守る。
加工場を支える。
だが、父にも答えの出ないことがある。
何を選んでも苦しむしかないことがある。
「俺がこの部品を作らんでも、別の誰かが作る」
勝一は言った。
「そう考えれば、少しは楽になる」
しかし、すぐに首を振る。
「だが、それで自分の責任がなくなるわけでもない」
幸は父の隣へ立った。
「お父さん」
「何だ」
「うち、お父さんば責めとらんよ」
勝一は娘を見る。
「ただ、戦争が嫌い」
「俺もだ」
「お父さんも?」
「ああ」
勝一は軍用車両のためのボルトを手に取った。
「戦争がなければ、こんなことで悩まずに済んだ」
幸は父の背中へ、そっと手を置いた。
恵も反対側へ立った。
「お父さんが悪いんやなか」
恵が言う。
「でも、何が悪いか分からん」
勝一は苦しそうに笑った。
「それが一番怖いんだ」
誰か一人の悪意だけで始まるわけではない。
国の命令。
会社の判断。
暮らしを守るための仕事。
少しずつ重なった結果、人々は戦争を支える側へ組み込まれていく。
気づいたときには、簡単には抜けられなくなっている。
勝一は二人の娘を見た。
「お前たちは、今日見たことを忘れるな」
「うん」
幸が答える。
「兵隊さんを、勇ましい姿だけで見るな」
「うん」
恵もうなずく。
「その後ろに、泣いとる家族がおることを忘れるな」
二人は父の言葉を胸へ刻んだ。
十一 背中が教えたもの
その夜。
大村家の食卓は、いつもより静かだった。
節子が作った味噌汁。
煮物。
漬物。
四人分の食事。
誰もいなくなっていない。
今日も家族四人で食卓を囲めている。
それが、長崎駅で見た家族たちと比べると、奇跡のように思えた。
節子が幸と恵へ尋ねた。
「兵隊さんの列車、見たとね」
「うん」
幸が答える。
「二両の機関車で引いとった」
「長か列車やった」
恵も言う。
「家族がずっと手ば振りよった」
節子は目を伏せた。
「帰ってこられたらよかね」
「うん」
幸は箸を握りながら言った。
「みんな帰ってきてほしか」
勝一が静かに答える。
「そうだな」
その言葉には、加工場で見せた迷いも、苦しみも含まれていた。
食事のあと。
勝一は再び加工場へ向かった。
納期が迫っている。
作らなければならない部品が残っていた。
幸と恵は、廊下から父の背中を見送った。
「お父さん、つらそうやったね」
恵が言う。
「うん」
「でも、仕事せんばいかんとね」
「うん」
機械の音が始まる。
金属が削られる。
火花が散る。
父は人を殺すために働いているのではない。
家族を守るために働いている。
だが、その仕事が戦争へつながってしまう。
幸は、その矛盾を忘れないと決めた。
「恵」
「何?」
「うちら、大人になっても今日のこと覚えとこうね」
「長崎駅のこと?」
「うん」
幸は窓の外を見た。
遠くから汽笛が聞こえた。
勝男が乗る列車かもしれない。
兵士たちを乗せ、博多へ向かう重連列車。
「戦争の列車ば、格好よかだけで見らんように」
恵は姉の手を握った。
「忘れんよ」
十二 坂を越える列車
その頃。
列車は、本川内付近の勾配を上っていた。
二両の蒸気機関車が、激しく煙を吐いている。
シュッ、シュッ、シュッ。
前の機関車。
後ろの機関車。
二つの排気音が、山あいへ響く。
勝男は火室の前で石炭をくべ続けていた。
汗が目へ入る。
腕が重い。
それでも止めない。
客車には、家族と別れた兵士たちがいる。
泣いている者もいるだろう。
眠れずに窓の外を見ている者もいるだろう。
手紙を読み返している者もいるかもしれない。
勝男は思った。
この坂だけでも、無事に越える。
次の駅まで。
その次の駅まで。
博多まで。
一つずつ安全をつないでいく。
自分にできるのは、それだけだった。
前方から汽笛が響く。
原田が声を上げる。
「平戸、もう少しだ!」
「はい!」
勝男は最後の石炭を火室の奥へ投げ込んだ。
炎が大きく立ち上がる。
蒸気圧が保たれる。
二両の機関車は力を合わせ、ついに勾配の頂上へ達した。
列車は、ゆっくり速度を整えていく。
原田が水筒を差し出した。
「飲め」
勝男は受け取り、一口飲んだ。
「越えましたね」
「ああ」
「みんな、無事です」
原田は客車の方向を見た。
「ここまではな」
勝男は、その言葉の意味を理解した。
汽車の旅は、まだ続く。
そして兵士たちの先には、もっと長く、危険な旅が待っている。
勝男は窓の外へ目を向けた。
夕日が山の向こうへ沈みかけている。
「幸さん」
心の中で名前を呼ぶ。
幸も長崎駅で、この列車を見送っていたことを、勝男はまだ知らなかった。
同じ夕日を。
違う場所から。
二人は見つめていた。
戦争は人々を遠くへ引き離す。
それでも、思う心まで奪うことはできない。
少なくとも、このときはまだ。
次回予告
長崎駅で兵員輸送列車を見送った幸と恵。
勝男は重連の蒸気機関車で、本川内の急勾配を越えていく。
軍事輸送が増える一方、大村家の加工場にはさらに多くの注文が入り、勝一は休む間もなく働くようになる。
だが、鉄や油に向き合い続けた体には、少しずつ疲労が積み重なっていた。
ある夜。
加工場から大きな音が響く。
幸と恵が駆けつけると、勝一が作業台へ手をつき、苦しそうに息をしていた。
家族を守るために働く父。
その背中は、娘たちが思っていたよりもずっと疲れていた。
次回、第15話。
「母・節子の祈り」
夫を支え。
娘たちを守り。
戦争の影に包まれ始めた家で、節子は静かに祈る。
どうか、この家から誰も奪われませんように。




