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幸と恵の物語  作者: リンダ


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12/17

港に沈む夕日

『幸と恵のものがたり』

 第12話 港に沈む夕日


 昭和十二年、夏の終わり。


 長崎の港には、赤い夕日が沈みかけていた。


 水面は金色に染まり、造船所の巨大なクレーンや、停泊する船の影が長く伸びている。


 見慣れた景色だった。


 毎日、同じように夕日は沈む。


 路面電車はベルを鳴らしながら町を走り、長崎駅からは汽笛が響く。


 市場には野菜が並び、漁師たちは船を岸へ戻す。


 人々は仕事を終え、家族の待つ家へ帰っていく。


 けれど、その日の長崎は、昨日までと同じではなかった。


 町の景色は変わらなくても、人々の仕事の中へ、少しずつ別のものが入り込み始めていた。


 それは戦争だった。


 一 見慣れない注文書


 大村家の加工場。


 父の勝一は、作業台の前で一枚の注文書を見つめていた。


 いつもなら、そこには長崎機関区から依頼された工具や部品の名称が並んでいる。


 機関車の足回りに使うボルト。


 蒸気管の周囲に使うナット。


 点検用のレンチ。


 補修に必要な金具。


 どれも、人や荷物を安全に運ぶためのものだった。


 だが、その日の注文書は違っていた。


 軍事用車両。


 装甲車。


 輸送車。


 エンジン周辺に使う部品。


 高い強度を求められるボルトとナット。


 専用の工具。


 通常とは異なる寸法の金具。


 勝一は、書かれている文字を何度も読み返した。


 読み間違いではない。


 依頼主も、用途も明記されている。


 軍事関係。


 戦地へ送られる車両。


 兵士や武器を運ぶための機械。


 勝一は注文書を置いた。


 加工場の中には、いつもと同じ匂いがしていた。


 鉄。


 油。


 削られた金属。


 だが今日は、その匂いまで違って感じられた。


「軍事用……」


 勝一は小さくつぶやいた。


 手元には、加工前の鋼材がある。


 いつもと同じ鉄。


 形を変える前には、汽車の部品になるのか、農機具になるのか、軍用車両になるのか分からない。


 鉄そのものには意思がない。


 作る人間にも、完成した部品がその先でどう使われるかを選べないことがある。


 それでも勝一は、注文書を前に手を動かせなかった。


「俺は……」


 誰もいない加工場で、低い声が漏れる。


「人を殺すかもしれんものの部品ば、作らされるとやろうか」


 作ったボルトが、軍事車両のエンジンへ取り付けられる。


 その車両が兵士を運ぶ。


 武器を運ぶ。


 誰かの町へ入っていく。


 誰かの家を壊すために使われるかもしれない。


 もちろん、軍事車両には負傷者を運ぶものもある。


 食料を運ぶこともある。


 だが、その先にあるものが戦争であることは変わらない。


 勝一は両手を作業台へついた。


 これまで自分は、人を無事に目的地へ届ける機関車の部品を作ってきた。


 家族の待つ場所へ帰すための部品。


 暮らしを支えるための工具。


 その仕事に誇りがあった。


 けれど今、同じ技術を、戦争のために使うよう求められている。


 二 断るということ


 夕方。


 節子が加工場の入口から声をかけた。


「お父さん、そろそろ御飯よ」


 返事がない。


 節子は中へ入り、作業台の前で止まっている勝一を見た。


「どうしたと?」


 勝一は注文書を見せた。


 節子は一通り目を通したあと、静かに息を吐いた。


「軍の仕事ね」


「ああ」


「断れんと?」


 勝一はすぐに答えなかった。


 注文を断れば、仕事を失うかもしれない。


 取引先との関係も悪くなる。


 軍の意向へ逆らったと見られる可能性もある。


 加工場だけの問題ではない。


 大村家の生活がかかっている。


 幸と恵の学費。


 食費。


 材料代。


 働いてくれている職人がいれば、その家族の暮らしもある。


「断ったら、次から仕事が来んかもしれん」


 勝一が言う。


 節子は注文書を見つめた。


「でも、受けたら苦しかね」


「仕事だからと割り切ればよかのかもしれん」


「割り切れる人なら、そがん顔はしとらんよ」


 勝一は何も言えなかった。


 節子は責めなかった。


 ただ、加工場に並ぶ工具を見た。


「お父さんは、ずっと人を守る仕事ばしてきたもんね」


「部品を作っとるだけたい」


「その部品で、汽車が走るんやろ」


「そうやけど」


「なら、人を守る仕事たい」


 節子の言葉は優しかった。


 だからこそ、勝一の胸へ重く落ちた。


「同じ手で、戦争の部品ば作ることになる」


 勝一は自分の手を見た。


 油の染み込んだ指。


 金属片でできた小さな傷。


 長年、家族を支えてきた手。


 その手が、誰かを傷つける側へ回るかもしれない。


「俺は戦争に加担したくない」


 勝一は初めて、はっきり口にした。


「でも、家族ば守らんばいかん」


 節子は何も言わず、夫の隣へ立った。


 正しい答えは、どこにもなかった。


 三 軍艦の図面


 同じ頃。


 長崎の造船所でも、新しい仕事の話が広がっていた。


 篠田龍弥は、作業場の隅で見慣れない図面を見ていた。


 船体の形。


 装甲。


 砲を据えるための区画。


 通常の商船や漁船とは明らかに違う構造。


 軍艦だった。


 造船所の中では、以前から軍に関わる仕事があった。


 だが、その規模が大きくなり始めていた。


 使われる鋼材。


 求められる強度。


 作業工程。


 人員配置。


 すべてが、これまでの仕事とは違う緊張を帯びていた。


 龍弥の指導員である伊藤勝は、図面を見つめながら腕を組んでいた。


「篠田」


「はい」


「この線は何ば示しとる」


 龍弥は図面を見た。


「船体内部の隔壁です」


「役割は」


「浸水したときに、水が全部へ広がるのを防ぐためです」


「そうだ」


 伊藤は次の部分を指す。


「ここは」


 龍弥の声が少し止まる。


「砲を……取り付ける場所です」


 伊藤は黙ってうなずいた。


 軍艦は、ただ海を渡るための船ではない。


 戦うための船。


 敵を攻撃し、攻撃を受けながら進むための船。


 龍弥は図面から目を離した。


「伊藤さん」


「何だ」


「俺たちは、これを造るんですか」


「そういう話になっとる」


「人を乗せて、荷物ば運ぶ船やなか」


「軍艦も人を乗せる」


 伊藤の声は静かだった。


「だが、何をしに行く船かは、お前の言うとおりだ」


 龍弥は唇を結んだ。


「俺は、漁師が無事に帰れる船ば造りたい」


「知っとる」


「人を撃つための船を造りたいわけやなか」


 伊藤は、しばらく龍弥を見た。


 叱ることはしなかった。


 若い見習いが抱える疑問を、軽く扱おうともしなかった。


「俺も、若い頃は同じことば思った」


 龍弥が顔を上げる。


 伊藤は図面へ視線を戻した。


「船は人を運ぶものだ。海を越え、荷物を届け、人ば帰すものだと思って造船所へ入った」


「なら、どうして」


「仕事だからだ」


 伊藤は言い切った。


 だが、その声には苦さがあった。


「国が求めれば、造船所は造る。俺たちが断れば、別の誰かが造る」


「それでよかとですか」


「よかとは言うとらん」


 伊藤の声が少し強くなる。


「俺たちは、正しいと思って造るんやなか」


 龍弥は黙った。


「造る以上は、乗る人間が無駄に死なん船にする」


 伊藤は船体の隔壁を指した。


「被弾しても沈みにくくする。火災が広がりにくくする。機関が止まっても帰れるようにする」


「でも、その船が誰かを攻撃する」


「そうだ」


 伊藤は目をそらさなかった。


「そこから逃げることはできん」


 龍弥は拳を握った。


「俺は戦争に加担したくない」


「俺もだ」


 伊藤の返事は早かった。


 龍弥が驚く。


「だが、もう戦争は、俺たちが望むかどうかだけで避けられる場所にはおらん」


 造船所の外では、鋼板を打つ音が響いていた。


 これまでと同じ音。


 だが今は、軍艦の船体を作る音に聞こえた。


 四 海で働く父


 その夜。


 篠田家では、慶一が漁網の修理をしていた。


 梅は収穫したワカメを乾かす準備をしている。


 龍弥は夕食の席で、軍艦の仕事について話した。


 慶一は黙って聞いていた。


「父さんは、どう思う?」


 龍弥が尋ねる。


 慶一は網から目を上げた。


「どうと言われてもな」


「俺は造りたくない」


「なら、辞めるか」


 龍弥は言葉に詰まった。


 造船所を辞めれば、造船技師になる夢から遠ざかる。


 家の収入にも影響する。


 戦争に関わらない仕事を探しても、見つかる保証はない。


「辞めたいわけやなか」


「なら、苦しかまま働くしかなかこともある」


 慶一は手元の網を見る。


「漁師も同じたい」


「何が?」


「俺が採った魚やワカメが、軍の食料になることもある」


 龍弥は父を見る。


「望んどらんでも、どこへ運ばれるか分からん」


 慶一は静かに続けた。


「船の燃料ば軍が優先するようになれば、漁へ出られん日も増えるかもしれん」


 梅も手を止めた。


「戦争は、戦地だけの話やなかとね」


「そうたい」


 慶一は息子を見る。


「始まれば、海も畑も工場も、全部そこへつながっていく」


 龍弥は、伊藤の言葉を思い出した。


 もう、望むかどうかだけでは避けられない。


「それでも」


 龍弥は言った。


「俺は、人が帰ってこられる船ば造りたい」


 慶一はうなずいた。


「なら、その気持ちだけは忘れるな」


「軍艦を造ることになっても?」


「忘れたら、お前まで戦争の道具になる」


 龍弥は顔を上げた。


「船を造る人間でおれ。戦争を喜ぶ人間にはなるな」


 慶一の言葉は、龍弥の胸へ深く残った。


 五 加工場の夜


 大村家では、夕食が終わったあとも、加工場の灯りが消えなかった。


 幸と恵は居間で勉強をしていた。


 節子は縫い物をしている。


 だが、加工場から機械の音は聞こえない。


 幸は何度も気にしていた。


「お父さん、今日は仕事しよらんね」


 恵も顔を上げた。


「ずっと同じところにおるみたい」


 幸は立ち上がった。


「見てくる」


 加工場へ入ると、勝一は注文書を前に座っていた。


「お父さん」


 勝一が振り返る。


「どうした」


「仕事、せんと?」


「今日はもう終わりだ」


「でも、何も作っとらんやろ」


 幸は作業台の上にある注文書を見た。


 軍事用車両。


 エンジン部品。


 ボルト。


 ナット。


 専用工具。


 読めない文字も多かったが、軍という字は分かった。


「これ、何の部品?」


 勝一は迷った。


 娘たちには、まだ戦争の話を重く背負わせたくなかった。


 だが隠しても、いずれ分かる。


「軍の車に使うものだ」


 幸の表情が変わる。


「戦争に使うと?」


「そうなるかもしれん」


 恵も加工場へ入ってきた。


「お父さん、作ると?」


 勝一は答えられなかった。


 幸は、いつも加工場で見てきたボルトやナットを見た。


 機関車を支える部品。


 人を運ぶ部品。


 その同じ形のものが、戦争の車両へ使われる。


「断れんと?」


 恵が尋ねる。


「簡単には断れん」


 勝一は低い声で答えた。


「断れば、仕事ば失うかもしれん」


「でも、作ったら誰かが死ぬかもしれん」


 幸の言葉に、加工場が静まり返った。


 勝一は娘を見る。


 十四歳の少女が、はっきりとその事実を口にした。


 自分が考えないようにしていた言葉を。


「そうかもしれん」


 勝一は認めた。


 幸の顔が曇る。


「お父さんは、人を助ける部品ば作りよったのに」


「幸」


 節子が後ろから声をかけた。


 責めるように言ってはいけない。


 勝一も苦しんでいる。


 幸はそれに気づき、口を閉じた。


「ごめんなさい」


 勝一は首を振った。


「謝るな。お前の言うとおりだ」


 そして注文書を手に取った。


「俺も、そう思っとる」


 六 仕事と良心


 その夜、家族四人は加工場へ集まった。


 いつもの夕食のような笑い声はなかった。


 勝一は、自分の考えを家族へ話した。


 軍の注文を断れば、加工場の仕事がなくなるかもしれないこと。


 生活が苦しくなること。


 それでも、戦争に使う部品を作ることへ抵抗があること。


 節子は夫の話を黙って聞いた。


 恵は帳面の上へ手を置いたまま、考えていた。


 幸は作業台のボルトを見つめていた。


「お父さん」


 幸が言う。


「人を殺すために作るんやなくて、乗っとる人が事故に遭わんように作るって考えたら、少しは違うとかな」


 勝一は娘を見る。


「軍の車に乗る人も、人間やけん」


「そうだな」


「でも、その車で誰かを傷つけるかもしれん」


「そうだ」


 どちらも事実だった。


 正しい答えは一つではない。


 恵が静かに言った。


「作らんかったら、別の人が作るかもしれん」


「うん」


「でも、それで自分は関係なかって言うのも違う気がする」


 勝一は娘の言葉を聞いた。


「お父さんが苦しいと思うことを、忘れんことが大事なんやない?」


 節子が恵を見る。


 恵は続けた。


「仕事やけん仕方なかって、何も考えんようになったら怖い」


 勝一はしばらく黙っていた。


 やがて、ゆっくりうなずいた。


「そうだな」


 仕事は受けることになるかもしれない。


 だが、戦争を正しいと思ったわけではない。


 作ることへ疑問を持ち続ける。


 人を傷つけるものへ加担しているかもしれないという痛みを、忘れない。


 それが今の勝一にできる、わずかな抵抗だった。


 七 勝男の機関区にも


 長崎機関区でも、軍事輸送に関する話が増えていた。


 物資輸送。


 兵員輸送。


 軍関係の貨物。


 通常の旅客列車よりも優先される列車。


 勝男は原田から新しい運行計画の説明を受けていた。


「これからは、夜間の輸送も増える」


 原田が言う。


「機関車も、人も足りんようになる」


「軍の物資ですか」


「そうだ」


 勝男は書類を見る。


「俺たちも、戦争のために汽車ば走らせるとですね」


 原田は答えなかった。


 しばらくして言う。


「汽車は、乗せられたものを運ぶ」


「それだけですか」


「それだけではなか」


 原田は勝男を見る。


「何を運ぶかで、仕事の意味は変わる」


 勝男は、幸と話した日のことを思い出した。


 汽車は人の気持ちも乗せて走る。


 家族との別れ。


 再会。


 暮らし。


 だが今後は、兵士や武器も運ぶことになる。


「俺は、人を家へ帰す汽車ば動かしたいです」


「俺もだ」


 原田は静かに答えた。


「だが、時代は俺たちの望みだけでは動かん」


 その言葉は、伊藤が龍弥へ言ったものと同じだった。


 八 港に沈む夕日


 夕方。


 幸と恵は、学校の帰りに港が見える場所へ立ち寄った。


 そこには勝男と龍弥も来ていた。


 四人は、いつものように冗談を言うことができなかった。


 勝男は軍事輸送の話をした。


 龍弥は軍艦の仕事が始まることを話した。


 幸は父の加工場に軍用車両の注文が来たことを伝えた。


 恵は、漁業にも軍の影響が出るかもしれないと言った。


 四人の仕事や家族は、別々の場所にある。


 だが、同じ影がすべてへ入り込み始めていた。


「戦争って、もっと遠いところの話やと思っとった」


 幸が言う。


「うちも」


 恵が答える。


 龍弥は造船所の方を見る。


「軍艦ば造るようになったら、造船所の空気も変わると思う」


 勝男は線路の方角を見る。


「汽車も、軍のために走るようになる」


 夕日は、港の向こうへ沈みかけていた。


 赤い光が水面を照らしている。


 その色は美しかった。


 だが四人には、どこか不吉な色にも見えた。


「十年後」


 幸が小さく言う。


「この前、十年後もみんなで会おうって約束したやろ」


「うん」


 恵が答える。


「守れるよね」


 誰も、すぐには答えなかった。


 勝男が先に口を開いた。


「守ります」


 幸が勝男を見る。


「何があっても、仕事ば続けて、幸さんを僕の汽車へ乗せます」


 龍弥も続いた。


「僕も、恵さんが安心して乗れる船ば造ります」


 恵は龍弥を見る。


「戦争の船じゃなくて?」


 龍弥は苦しそうに笑った。


「いつか必ず、人が平和に海ば渡れる船を造ります」


 四人は夕日を見つめた。


 戦争の影は、まだ町を覆い尽くしてはいない。


 祭りもある。


 学校もある。


 家族の食卓もある。


 恋も、夢もある。


 けれど、仕事を通して。


 注文書を通して。


 図面を通して。


 輸送計画を通して。


 戦争は一般の人々の暮らしへ入り込み始めていた。


 誰かが宣戦布告を読み上げるより前に。


 兵士が町から出ていくより前に。


 戦争はまず、仕事の内容を変えた。


 作るものを変えた。


 運ぶものを変えた。


 そして、人々が未来を語る声を、少しずつ小さくしていった。


 長崎の港へ、夕日が沈んだ。


 最後の光が消えるまで、四人はその場を動かなかった。


 次回予告


 軍事用車両の部品を作ることになった勝一。


 軍艦の建造へ関わることになった龍弥。


 軍事輸送の増加を知らされた勝男。


 戦争は、遠い国の出来事ではなくなり始めていた。


 そんな中、大村家には平戸家と篠田家の家族が初めて集まる。


 農家。


 金属加工。


 漁業。


 鉄道。


 造船。


 異なる仕事を持つ家族たちは、それぞれの立場から、変わり始めた時代について語り合う。


 しかし食卓には、採れたての野菜とワカメが並び、子どもたちの未来を願う親たちの笑顔もあった。


 次回、第13話。


「ふたりの恋」


 時代が不穏さを増しても、誰かを大切に思う気持ちは消えない。


 幸と勝男。


 恵と龍弥。


 四人は初めて、自分たちの想いを家族の前で認めることになる。

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