夏祭りの約束
『幸と恵のものがたり』
第11話 夏祭りの約束
昭和十二年、春。
長崎の坂道には、柔らかな日差しが降り注いでいた。
冬のあいだ縮こまっていた草木は芽吹き、港を渡る風にも、わずかに温かさが混じり始めている。
大村幸と大村恵は、十四歳になった。
同じ日に生まれ。
同じ家で育ち。
同じ女学校へ通ってきた二人。
けれど、その心の中には、それぞれ異なる青年の姿が浮かぶようになっていた。
幸には、平戸勝男。
恵には、篠田龍弥。
まだ恋人と呼ぶには、どこか照れくさい。
けれど、会えない日には気になり。
会えればうれしくなり。
相手が仕事で失敗したと聞けば、自分のことのように心配する。
四人の関係は、少しずつ変わっていた。
一 走る機関車の中で
その日、勝男は原田正勝とともに、初めて走行中の蒸気機関車へ乗り込むことになっていた。
機関助手の見習いとして、実際の運転の流れを学ぶためである。
朝の長崎機関区。
火室には、すでに石炭がくべられていた。
ボイラーの圧力が上がり、機関車は低く唸るような音を立てている。
勝男は作業着姿で運転室へ入り、緊張した面持ちで計器を見た。
蒸気圧。
水位。
火室の状態。
どこへ目を向ければよいのか、頭では分かっている。
だが、実際に動き始める機関車の中では、すべてが同時に迫ってくる。
「平戸」
原田の声が飛んだ。
「はい!」
「今日は見学やなか」
勝男は姿勢を正す。
「はい」
「自分が機関助手になったつもりで動け」
「分かりました」
原田は火室を指した。
「出発前の火床を見ろ」
勝男は火室の扉を開いた。
赤い炎が揺れている。
石炭の盛り上がり。
燃え方の強い場所。
弱い場所。
勝男は目を細めた。
「左奥が少し弱いです」
「なら、どうする」
「そこへ少量入れます」
「やってみろ」
勝男はショベルで石炭をすくった。
量を考える。
足の位置を決める。
火室の奥を狙って投げ込む。
火の粉が舞い、熱気が顔へ押し寄せた。
原田は何も言わない。
勝男は次に水位計へ目を移した。
「水位、異常ありません」
「圧力は」
勝男が値を読み上げる。
原田は小さくうなずいた。
やがて駅員の合図が出た。
汽笛が鳴る。
巨大な動輪が、ゆっくりと回り始めた。
ガタン。
客車の連結器が一両ずつ引かれていく。
機関車が動き出す。
勝男は思わず窓の外を見た。
ホームに立つ人々。
見送る家族。
荷物を抱える乗客。
その中に、幸の姿を探してしまう。
だが、すぐに原田の声が飛んだ。
「前を見ろ!」
勝男ははっとして機関室へ意識を戻した。
「すみません」
「今のお前は、景色を見る客やなか」
「はい」
「汽車ば走らせる側だ」
機関車は速度を上げた。
車体が揺れる。
鉄の音。
蒸気の音。
火室の熱。
原田の声。
すべてが狭い運転室に押し寄せてくる。
勝男は必死に動いた。
火床を見る。
石炭を入れる。
圧力を確かめる。
機関士の動きを見る。
信号を確認する。
原田の指示へ答える。
駅を発車して間もない頃には、自分の呼吸さえ分からないほどだった。
「力を入れすぎるな」
原田が言う。
「ショベルは腕だけで振るな。腰と足を使え」
「はい」
「先を考えろ。坂へ入ってから火を作っても遅い」
勝男は線路の先を見た。
これから勾配へ入る。
必要になる蒸気。
石炭の量。
火の状態。
すべてを少し早めに整えなければならない。
汽車は、今だけを見て動かすものではなかった。
何分後。
何里先。
次の坂。
次の停車駅。
その先を読みながら、今の仕事を決める。
「機関助手は、火ば守るだけやなか」
原田が言う。
「機関士より先に気づくつもりで見ろ」
勝男は汗を拭う暇もなく、うなずいた。
二 安全に帰す仕事
列車は、長崎の町を離れ、山あいの線路へ入っていった。
蒸気機関車は重たい客車を引き、ゆっくりと勾配を上る。
火室の炎が強くなる。
勝男は何度も石炭をくべた。
腕が重い。
背中から汗が流れる。
冬の終わりとは思えない暑さだった。
それでも手を止められない。
圧力が落ちれば、速度を保てない。
だが入れすぎても、火がうまく燃えない。
原田は横から厳しい目で見ていた。
「平戸」
「はい」
「今の入れ方、右へ寄りすぎた」
勝男は火室を見る。
確かに、片側へ石炭が偏っている。
「直します」
「一度の偏りで、すぐ何か起きるわけではない」
原田は言った。
「だが、偏りを当たり前にするな」
「はい」
「雑な癖は、疲れたときに出る」
勝男は石炭の位置を整えた。
しばらくして、列車は勾配を越えた。
機関室の空気が、少しだけ落ち着く。
原田は水筒を勝男へ渡した。
「飲め」
「大丈夫です」
「大丈夫かどうかは、俺が決める」
勝男は素直に受け取った。
水を口に含む。
冷たい水が喉を通る。
その瞬間、ようやく自分がどれほど疲れていたかに気づいた。
「原田さん」
「何だ」
「毎日、これを続けるんですね」
「ああ」
「何年も?」
「何十年もだ」
勝男は運転室の外へ目を向けた。
煙が後方へ流れていく。
客車には大勢の人が乗っている。
眠っている人。
弁当を食べている人。
窓の外を眺めている子ども。
それぞれが、無事に着くことを当然のように信じている。
「怖かです」
勝男が言った。
原田はすぐに答えなかった。
「何が」
「自分の仕事一つで、たくさんの人に何か起きるかもしれんことが」
原田は前方を見たまま言った。
「その怖さは、持っとけ」
勝男が原田を見る。
「怖さをなくすな。ただし、怖くて動けんようになるな」
「はい」
「怖いから見る。怖いから確かめる。怖いから、もう一度考える」
原田は火室へ視線を向けた。
「それが安全につながる」
勝男は深くうなずいた。
「汽車ば走らせるのが夢だったな」
「はい」
「なら、走らせるだけでは足りん」
原田は客車の方向を顎で示した。
「乗せた人間を、無事に帰せ」
勝男の胸に、その言葉が強く刻まれた。
三 海から見る造船所
同じ頃。
篠田龍弥は、父・慶一の漁船へ乗っていた。
春先の海は、遠目には穏やかに見える。
だが、実際に船へ乗れば、絶えず細かな揺れが続いていた。
上下。
左右。
波を越えるたび、船底が水面をたたく。
龍弥は船べりへつかまりながら、港の方角を見ていた。
造船所の巨大な建物。
高いクレーン。
建造中の船体。
陸から毎日見ている景色が、海から見るとまるで違っていた。
「どうだ」
慶一が操船しながら尋ねる。
「船酔いしそうか」
「大丈夫」
龍弥は答えたが、顔色は少し悪かった。
慶一は笑った。
「造船技師になる男が、漁船で酔うたら格好がつかんな」
「まだ酔ってない」
「まだ、な」
龍弥は唇を結び、遠くを見る。
梅も一緒に乗り、養殖用の縄の状態を確認していた。
海中には、ワカメを育てるための長い縄が張られている。
海の流れ。
水温。
縄の傷み。
浮きの位置。
確認することは多い。
「龍弥、その金具ば見て」
梅が船の脇を指した。
「緩んどらんね」
龍弥はしゃがみ、金具へ手を触れた。
「大丈夫」
「見ただけで決めたらいかんよ」
慶一の声が飛ぶ。
龍弥は工具を取り出し、改めて確かめた。
「緩みなし」
「ならよか」
慶一は船をゆっくり進めた。
「造船所では、船ば大きな鉄の塊として見るかもしれん」
「うん」
「だが、海の上では違う」
船は波に持ち上げられ。
落とされ。
横から風を受け。
潮に流される。
乗っている人間は、ぬれた甲板を歩き、荷物を運び、網を引く。
「図面どおりの船でも、人間が使いにくければ意味がなか」
龍弥は甲板を見た。
どこに手すりが必要か。
足を滑らせそうな場所はどこか。
作業道具を置く位置。
船員が行き来する幅。
造船所で鉄板を溶接しているだけでは、見えなかったことが次々と分かる。
「父さん」
「何だ」
「この船、どこが一番使いにくい?」
慶一は少し驚いた顔をした。
「急に技師みたいなことば聞くな」
「知りたいと」
慶一は考え、いくつかの場所を指した。
網を引き上げるときに狭く感じる場所。
波が高いと水がたまりやすい場所。
機関の点検をするとき、体を入れにくい場所。
龍弥は一つずつ覚えた。
「これば、いつか直したかと?」
「うん」
「なら、造れるようになれ」
慶一は前を向いた。
「漁師が無事に海へ出て、無事に戻れる船ば」
龍弥は造船所を見つめた。
「絶対なる」
「何に」
「造船技師に」
慶一は満足そうに笑った。
四 伊藤勝という指導員
翌日。
造船所では、龍弥の指導員である伊藤勝が、練習用の鉄板を前に腕を組んでいた。
伊藤勝、三十八歳。
仕事には厳しい。
寸法の誤差。
溶接線の乱れ。
道具の置き方。
作業前後の確認。
わずかな手抜きも見逃さなかった。
若い見習いたちからは、怖い指導員として知られている。
だが、誰かが失敗すれば、ただ怒鳴るだけでは終わらない。
なぜ失敗したのか。
どこで判断を誤ったのか。
どうすれば繰り返さずに済むのか。
作業後まで残り、一緒に確かめる男だった。
特に龍弥のことは、将来性のある若者として気にかけていた。
「篠田」
「はい」
「昨日は漁船に乗ったそうだな」
龍弥が驚く。
「どうして知っとるんですか」
「お前の父親が、朝ここへ寄った」
「父さんが?」
「息子が海で酔わんかったか心配だったらしい」
「余計なことば……」
伊藤はわずかに笑った。
「で、何が見えた」
龍弥は昨日の漁船を思い出した。
「陸で見る船と、海で動く船は違いました」
「当たり前だ」
「波でずっと揺れる。船の上では、人が荷物ば持って歩く。網ば引く。ぬれた場所で作業する」
伊藤の表情が真面目になる。
「それで?」
「強い船を造るだけじゃ足りんと思いました」
「ほう」
「乗る人が安全に動けること。点検しやすいこと。海で故障しても、原因ば見つけやすいこと」
龍弥は続けた。
「そういうところまで考えられる技師になりたいです」
伊藤はしばらく何も言わなかった。
やがて、作業台の上の図面を龍弥へ渡した。
「なら、今日から図面の見方も少しずつ覚えろ」
龍弥が目を見開く。
「よかとですか」
「溶接もろくにできんうちから、技師気取りになるなよ」
「はい」
「だが、何のためにこの鉄板をつなぐのか知らんまま、手だけ動かす職人にもなるな」
伊藤は図面の一部を指した。
船体の断面。
補強材。
接合部分。
龍弥には、まだ記号の多くが分からなかった。
「分からんところば、分かったふりするな」
「はい」
「一つずつ聞け」
「はい」
「何度聞いてもよか。ただし、同じことを何も考えずに聞くな」
龍弥は真剣にうなずいた。
伊藤は龍弥の肩をたたいた。
「お前は目だけはよか」
「目だけですか」
「今はな」
伊藤は少し笑った。
「手はこれから育てろ」
龍弥は図面を両手で受け取った。
「ありがとうございます」
「礼は一人前になってから言え」
それは、原田が勝男へかけた言葉と、よく似ていた。
五 春から夏へ
季節は進んだ。
春の風は温かさを増し、やがて長崎の町に夏が近づいてきた。
女学校では、夏祭りの話題が増えていた。
商店街には提灯が下がり始め、祭りの日に向けた準備が進んでいる。
放課後。
幸と恵は、教室の窓際で話していた。
「今年も四人で行けたらよかね」
幸が言う。
「四人って、誰と誰ね」
恵がわざと尋ねる。
「分かっとるくせに」
「平戸さんと、篠田さん?」
「うん」
幸は窓の外を見る。
「去年までは、うちら二人で行きよったのにね」
「お父さんとお母さんも一緒やったやろ」
「今年は、少しだけ別に歩けるかもしれん」
恵は姉の横顔を見た。
「勝男さんと?」
「恵だって、龍弥さんと歩きたいやろ」
恵は否定しなかった。
少し黙ったあと、言った。
「十年後、うちらはどうしとるとかな」
幸が振り返る。
「十年後?」
「うちら、二十四歳やろ」
「二十四かあ」
幸は想像するように目を細めた。
「もう女学校も卒業しとるね」
「当たり前たい」
「結婚しとるかもしれん」
幸の声が、少しだけ小さくなる。
恵は笑った。
「勝男さんと?」
「分からんよ。十年も先やけん」
そう言いながら、幸の顔にははっきり勝男が浮かんでいた。
「恵は龍弥さんと?」
「だから分からんって」
「でも、想像したやろ」
「姉ちゃんもやろ」
二人は顔を見合わせ、笑った。
「子どももおるかもしれんね」
幸が言う。
恵は少し驚いた。
「十年後に?」
「二十四なら、おってもおかしくなかやろ」
「どがん子かな」
「うちの子は、きっとよくしゃべる」
「姉ちゃんに似たらね」
「恵の子は静かそう」
「龍弥さんに似たら、船の部品ば分解し始めるかもしれん」
「勝男さんに似たら、うちの子は家中に石炭ば持ち込むかも」
「それは困るね」
二人は笑った。
まだ見ぬ子ども。
まだ決まってもいない結婚。
十年後の家。
食卓。
仕事から帰ってくる夫。
坂道を走る子ども。
それらを想像するだけで、未来は明るく見えた。
六 四人の夏祭り
夏祭りの日。
長崎の町には、夕方から多くの人が集まった。
通りには提灯が下がり、屋台から焼き物の匂いが漂っている。
子どもたちの笑い声。
太鼓の音。
店を呼び込む声。
幸と恵は、少しだけよそ行きの装いをして家を出た。
勝一と節子も祭りへ向かうが、途中から四人だけで歩くことを許してくれた。
「遅くならんように」
勝一が言う。
「はい」
幸と恵の返事が重なる。
「何かあったら、すぐ戻りなさい」
節子も念を押す。
幸は笑った。
「大丈夫たい」
勝一がすぐに言う。
「お前の大丈夫は信用できん」
恵が吹き出した。
「お父さん、よう分かっとる」
「恵まで言うと?」
祭りの入口では、勝男と龍弥が待っていた。
勝男は紺色の浴衣姿。
龍弥は少し大きめの浴衣を着ている。
二人とも、普段の作業着とはまるで印象が違った。
幸は勝男を見て、また一瞬固まった。
恵が小声で言う。
「姉ちゃん、今度は顔が白いとは言わんと?」
「今日は言わんよ」
勝男も幸の姿を見て、言葉を失っていた。
「何ね」
幸が尋ねる。
「いや……」
勝男は頬を赤くした。
「よく似合っとります」
幸も照れた。
「ありがとうございます」
少し離れたところでは、龍弥と恵も同じようにぎこちなく立っていた。
龍弥が言う。
「恵さんも、よく似合っとります」
「姉と間違えとらん?」
恵が冗談めかして聞く。
龍弥は首を振った。
「間違えません」
その返事に、恵の表情が柔らかくなる。
四人は祭りの中へ入っていった。
屋台を見て。
甘い菓子を分け合い。
射的を眺め。
太鼓の音に足を止める。
幸と勝男は、汽車の話をした。
恵と龍弥は、船と海の話をした。
やがて人混みが増え、四人は少し静かな川沿いへ移動した。
提灯の明かりが水面へ揺れている。
遠くでは花火の準備が始まっていた。
七 十年後の約束
幸が言った。
「今日、恵と十年後の話ばしよったと」
勝男が尋ねる。
「十年後?」
「うちら、二十四歳になっとるでしょう」
龍弥も少し考える。
「僕は二十六か」
勝男は二十五歳。
四人とも、もう立派な大人になっているはずだった。
「勝男さんは、機関士になっとる?」
幸が尋ねる。
勝男は夜空を見上げた。
「なっときたいです」
「きっとなれるよ」
「幸さんは?」
「うちは……」
幸は少し考えた。
「家族が帰ってきたとき、安心できる家ば作りたい」
勝男が幸を見る。
「家族?」
「十年後には、結婚しとるかもしれんやろ」
言ってから、幸は恥ずかしくなった。
だが勝男は笑わなかった。
「そうですね」
むしろ、真剣にうなずいた。
「子どももおるかもしれん」
幸が続ける。
「うちに似たら、よくしゃべる子」
「賑やかな家になりそうですね」
「勝男さんに似たら、汽車の話ばっかりするかも」
「それも賑やかですね」
二人は笑った。
少し離れた場所では、恵と龍弥も話していた。
「龍弥さんは、十年後には造船技師?」
「まだ分からんけど、そうなれるよう頑張ります」
「どがん船ば造りたい?」
「家族が安心して帰りを待てる船」
龍弥は答えた。
「漁へ出た人が、必ず港へ戻ってこられるような船です」
恵は静かにうなずいた。
「うちは、その帰りを待つ家族になっとるかもしれんね」
龍弥が恵を見る。
恵は頬を赤くした。
「誰の家族とは言うとらんよ」
「はい」
龍弥も少し赤くなっていた。
「でも、僕だったらうれしかです」
恵は何も答えなかった。
ただ、口元へ小さな笑みを浮かべた。
四人は、自然と一か所へ集まった。
幸が手を差し出す。
「十年後も、みんなで会おう」
「四人で?」
恵が聞く。
「うん。家族が増えとったら、その人たちも一緒に」
勝男が手を重ねる。
「僕が機関士になっとったら、みんなを汽車に乗せます」
龍弥も手を重ねた。
「僕が造った船にも乗ってもらいます」
恵が最後に手を置く。
「船酔いせん船にしてね」
「それは人によります」
「そこまで技師の仕事やろ」
「難しか注文ですね」
四人は笑った。
「約束たい」
幸が言う。
「十年後も、みんな元気でおる」
勝男がうなずく。
「仕事も続ける」
龍弥が言う。
「夢を諦めん」
恵が最後に言った。
「家族を大事にする」
四人の手が重なった。
その直後、夜空に最初の花火が上がった。
大きな音。
赤い光。
続いて青。
金色。
色とりどりの光が、長崎の空へ広がった。
幸と恵は、並んで空を見上げた。
勝男と龍弥も、その隣に立った。
十年後。
昭和二十二年。
戦争などない未来。
それぞれが仕事を持ち。
結婚し。
子どもを育て。
今日のことを笑って話す。
四人は、そう信じていた。
八 遠い国の不穏な報せ
だが、その頃。
世界の空気は、少しずつ変わり始めていた。
新聞には、遠い国々の争いが以前より大きく載るようになった。
軍備。
国境。
衝突。
対立。
国同士が互いを警戒し、力を誇示する記事。
欧州で高まる緊張。
アジア各地で続く争い。
難しい言葉が並び、十四歳の幸や恵には、そのすべてを理解することはできなかった。
祭りから帰った夜。
勝一は新聞を広げながら、険しい顔をしていた。
節子が尋ねる。
「また何かあったと?」
「外国の情勢が、だいぶ怪しくなっとる」
「戦争になると?」
「分からん」
勝一は新聞を畳んだ。
「だが、どこの国も、自分の方が正しいと言い始めると危ない」
幸は父の言葉を聞きながらも、まだ現実味を持てなかった。
戦争。
それは遠い国で起きるもの。
新聞の中にあるもの。
自分たちの町とは関係のないもの。
長崎には路面電車が走り。
港には船が浮かび。
機関車は毎日、汽笛を鳴らしている。
明日も学校へ行く。
勝男は機関区で働く。
龍弥は造船所へ向かう。
家族は同じ食卓を囲む。
それが変わるはずはない。
「十年後も、みんなで花火ば見られるよね」
幸が恵へ言った。
恵はうなずいた。
「見られるよ」
「子どもたちも連れて」
「うん」
二人は笑った。
しかし窓の外では、夏祭りの最後の花火が消えたあと、黒い煙だけが夜空へ残っていた。
華やかな光のあとに。
形を変えながら広がる、暗い煙。
それはまるで、これから世界を覆おうとしている影のようだった。
四人が語った十年後。
結婚。
子ども。
仕事。
家族。
そのどれもが、ごく普通の願いだった。
けれど、時代はその普通を、少しずつ許さなくなろうとしていた。
まだ誰も知らない。
十年後。
四人がそろって夏祭りを見ることはない。
幸と勝男は広島で。
恵は長崎で。
それぞれ、未来を奪われることになる。
龍弥もまた、戦争の時代の中で、自分の夢と大切な人を守るための選択を迫られる。
それでも今夜だけは。
四人は花火を見上げていた。
十年後も一緒にいられると信じながら。
⸻
次回予告
夏祭りで十年後の約束を交わした四人。
幸と勝男。
恵と龍弥。
それぞれの想いは、まだ言葉にできないまま、確かに深まっていく。
だが新聞では、遠い国々の緊張が報じられ始める。
大村家の加工場には、これまでとは異なる注文が入り始める。
鉄道の修理部品だけではない。
軍需に関わる部品。
造船所でも、龍弥たちの仕事に変化の兆しが現れる。
一方、勝男は初めて一人で火室を任され、判断の重さに直面する。
次回、第12話。
「港に沈む夕日」
夕日は昨日と同じように海へ沈む。
けれど、町の人々が見つめる未来は、少しずつ同じではなくなっていく。




