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すみれが自分の部屋に閉じこもってしまってから一時間。
引き戻す資格がないとは言いつつも、流石に放っておくわけにもいかず、部屋の鍵をどうにか開けてくれるよう説得してみたのだが(電話はつながっているので、声だけはかけることができる)結局なしのつぶてだった。
流石にこのままでは昨日と同じ作戦を採ることはできない。僕と菊乃の二人きりでドッペルゲンガーを捕まえることなどできるわけもないからだ。何か別の作戦を考えなければならない。
そういうことで、30分ほど、僕と菊乃は二人で話し合った。
そして結局、僕と菊乃はどうすることにしたのかと言うと、、
「……ほんとにこんなことしてていいのかな」
僕は呟く。
何故か僕達は、僕達が宿泊している旅館の庭園へと来ていた。
先程の作戦会議の後、「行きたいところがあるの」と菊乃に手を引っ張られ、こうして連れ出されたのだ。
上を見上げれば澄み切った青に、鮮やかなグリーンが割り込んでくる。それを包み込むように「ヴィーンヴィーン」とセミが文字通りあの音楽の国の国名を叫び、大合唱を響かせている。
……庭園とは言ってもあくまで旅館に併設されている庭園なので、何かあってもすぐに部屋までは戻れるからさして抵抗もせずについてきてしまったのだけれど、やっぱりこんなことをしていていいんだろうか。
ひまわりも消え、蓮も消え、すみれは精神を病んでしまっているのに、僕達だけ、呑気に散歩なんてしていていいとは思えない。
「いいんじゃない?それに、すみれも良いって言ってくれたし。そうよね? すみれ」
そんな問いを、未だに僕の手を握って先導する菊乃に告げたのだけど、そんな僕とは対照的に菊乃は笑みさえ浮かべながら、電話の向こうのすみれに向かってそう訊いた。
「うん」
と、電話の奥からくぐもった声ながらも、小さく頷く音が帰ってくる。積極的に会話に参加する様子はないが、必要な場面では必ず短く返事が返ってくる。一応コミュニケーションを取る意思はあるらしい。
「…………」
僕より髪が長いのに、後ろ髪を引かれることなく、菊乃はずんずん歩を進め続ける。
……何故か菊乃は、蓮がいなくなって、そしてすみれが閉じこもってしまったというのに、変に冷静だった。
それも無理をしているという風でもなく、普段の、いや、それ以上に冷静で、加えて機嫌も良いという、はっきり言って不気味な感じ。
いったい何が彼女をそうさせているんだろう。いや、もちろん全て僕の推測なので本当は僕を元気づけるためにやってくれているとか、そういう可能性も否定できないのだけれど。でも、やっぱり、今の菊乃は、少しおかしい。
「それで菊乃、どこ行くの?こんなところまできて」
「そろそろよ。あ、あれね」
前を歩く菊乃が立ち止まったので、後続車である僕も強制的に立ち止まることになる。そして僕達が停車した場所は、
「……足湯?」
足湯だった。
こじんまりしたお茶屋、その前にある小さな足湯。
石でできた囲いに湯が張り巡らされ、その中からほんのりと湯気が踊っている。
囲いの中からは木製のテーブルが生えていて、おそらくお茶屋さんで買ったお菓子やお茶を味わうことができる仕様なのだろう。
しかも目の前はなんと滝。食事だけではなく景色も楽しむことができるという二刀流だ。
一言で言えば風情をぎゅっと濃縮したような空間。いや……けど、ここが菊乃の行きたかったところなのか? なんだか菊乃のイメージとは微妙にかみ合わないのだけれど。
「そうでもないわ。ねぇ、足湯ってとっても不思議だと思わない? 人間、目の前に体全体が浸かれそうなお湯があれば全身を浸かりに行きそうなものなのに、何故か足だけなのよ? どう? 面白くないかしら?」
「……いや、そんな目を輝かせて言われても……」
足湯の楽しみ方が斜め上すぎる……。
確かに言われてみれば少し不思議かもしれないが、しかし、そんな理由で足湯に入りたいと言う人間はおそらく彼女だけだろう。まぁ、不思議大好きっ娘の菊乃らしいと言えばらしいけれど。
「まぁ、とにかく入ろうか」
「ええ」
足湯を前にして突っ立っているというのも意味が分からないので、靴と靴下を脱いで僕たちは石のベンチに座り、そろって足湯に浸かった。
浸けた瞬間こそ熱く感じたものの、しかしそこをぐっと我慢してふくらはぎまで湯に突っ込む。
と、たちまち足だけではなく全身がぽかぽかしてきた。
例えるなら、こたつのような、包み込まれるような温かいぬくもりと、冬の焚火のような開放的な温かさが丁度良くブレンドされたような感じ。
ふくらはぎは第二の心臓と例えられることもあるように、血行がものすごく良くなっている気がする。
真夏に足湯ということで最初は訝しんだものだけれど、風呂の気持ち良さは季節を問わないということを改めて再認識させられた。すみれがこんな状態なので大っぴらに喜ぶことはできないが、しかし、景色も相まってとても癒される。
「……あの、菊乃さん?」
……のは、良かったのだけど。
「何かしら?」
「なぜ手を握ったままなんでしょうか?」
何故か足湯に着いて以降、浸かった後もずっと僕は手を握られっぱなしだった。
足湯に来るまでは、まぁはぐれないようにということでギリギリ分からないでもなかったけれど(それだって単に後ろからついていけばいいだけだったように思うのだけれど)、目的地に到着した今は別につなぎっぱなしじゃなくてもいいのではないだろうか。そう思って、僕は手を離そうとしたのだが、
「何で握り返してきて更に距離まで詰められているのでしょうか?」
「? 気のせいじゃない? ほら、味噌汁とおんなじよ。あれも勝手に動くでしょ」
「自分を味噌汁に例えないでよ。というか、あれはちゃんと科学的な理由があるし。それに、ほら、僕はともかく、すみれがこんな状態なのに、そういうのは……」
「それは大丈夫みたいよ。ほら」
菊乃はポケットからスマホを取り出し、画面を僕に向けてきた。菊乃とすみれのLINEのトーク画面だ。そこには一言、大丈夫、とメッセージが飛んできていた。いや……大丈夫って言われても……。
すみれは今や病人だ。
そして電話越しと言えども、そんな病人の前で、そんな行為に及ぶなんて、流石に倫理的に難しすぎる。
しかも、他の女の子ではなく、よりによって、すみれの前でなんて。
だけど、
「お願い。このままでいさせて。今だけで、いいから」
「……!」
菊乃に。
そう、小さく、しかし力強く早口で菊乃にそう告げられてしまえば、僕は身動きすることができなくなってしまった。
いや、身動きが取れなくなったのは、何もその言葉だけじゃない。
菊乃が、僕の指と彼女の指の隙間がなくなるくらい、ぎゅっと、僕の右手を左手で握ってきたからだ。
肩も、それまで僅かに触れ合うだけだったのが、その面積を増やし、今ではぴったりと二の腕ごとくっ付いてしまっている。
足湯の効果か、それとも別のものが原因か。お互いの火照った体が、これでもかと言うほど、肌越しに伝わってきていた。
「お願い、だから」
……そして。
そして、そんな風に、まるで目の前の湯気のように儚い声でそう告げられれば、抗うことができるほど、僕は人間ができていない。
菊乃の表情は前髪で隠れていて見えない。しかし、さっきの発言を聞く限り、きっとこれまでの菊乃の元気と冷静さは、やっぱり虚勢だったのだろう。菊乃も今のすみれ同様、本当は怖くて仕方がなかったから。だから、こうして僕に寄り添ってきている。だったら、僕が肩を貸さない理由はなかった。
そして、どれくらいが経っただろうか。
長いような、短いような、そんな時間の法則がねじ曲がってしまったような不思議な時間が続いた。
そして、菊乃が僕の肩を自分の顔を置く台として利用し、そろそろ僕の恥ずかしさのリミッターが限界に近づいた頃、
「ねぇ、三日前の夜のこと、覚えてる?」
菊乃がそう囁いた。三日前の、夜?
「ええ。私と累が、二人きりで話したあの日の夜」
「この体勢でそんな風に言うのやめてよ……一緒に帰っただけじゃん。えっと、何話したんだっけ?」
「この夏休み、みんなでしたいことは何かって話」
「ああ」
そういえば、そんな話もした気がする。この二日間、色々ありすぎて、正直あんまり思い出せないけれど。
「私はね。それがこれなの」
「え?」
耳元で内緒話をするように小さくささやかれた台詞。
しかし、そんな近くで発せられた台詞だというのに、僕は自分の耳を疑った。
鼓膜か脳のどちらかが、イカレてしまったのだろうか? それとも、何かの冗談だろうか?
「冗談なんかじゃない。私はずっと、こうしていたかった。小学生の時も。中学生の時も、高校に入った後も。ずっとずっとこうしていたかった。でも、できなかった。だってそんなことを言ったらグループはダメになる。だから、言い出せなかった。だから私は今、こうしてる」
「…………」
まだ汗はかいていない。けど、いつの間にか、僕のシャツの肩の部分は湿っていた。
……菊乃の台詞がどんな意味を持つのか。それは察することはできても、本当のところは分からない。
何故なら結局のところ、言葉なんて、受け取る人間の介錯次第だから。勝手に僕がそんなことを言われて舞い上がっているだけかもしれない。
けど一個だけ確かなことは、互いの体は、まるで一つになったかのように火照ってしまっているということだ。
僕も、菊乃も、同じように、熱い。
そして、同時に思った。
きっとこれは、菊乃がすみれに許可を取ってのことなのだと。
でなければ、すみれが黙っているわけがない。いや自意識過剰という意味ではなく、誰だって、こんな男女の光景を見せられればいい気はしないだろうから。そして、それ以上に何より、やっぱりあの菊乃がこんな状況で、こんなことを、言うはずもないから。
……そして、それが、最終的に何を意味するかと言えば……
「累は、どうだったの? 私と同じで累も、あの夜は、本当のことを言えなかったみたいだけど」
さっきまでの弱弱しい声音から一転、冗談めかして明るい声音で問われて、僕はさっきまでの思考を全て棚の上に放った。
僕は、笑う。
「ばれてたんだ」
「だから分かってるって言ったでしょ? ずっと、見てたんだから」
「……!」
小さく笑いかけてくる菊乃と目が合って、僕は慌てて目を逸らした。
情けないが、ここが温泉でよかった。でなければ顔が赤くなっているという言い訳に、温泉を使うことができなかっただろうから。
「僕は……」
僕は一度目を瞑って三日前の時の事を思い出す。
菊乃がここまで語ってくれたのだ。話さない道理はない。
僕はあの時思っていたことを全て菊乃、そして電話越しに聞いているであろうすみれに語った。
皆成長し、変わっていくのに、変わらない自分にコンプレックスを抱いていたこと。
そしてそんな風に変わろうと頑張っている皆がいるのに、自分勝手にも僕はずっとこのまま皆と変わらない生活をしていたいと思っていたこと。
……そして、今はあんまりそうは、思っていないこと。
それらを全て、何のひねりもなく、語った。
「そう」
一切口を挟まず僕の下手な一人語りを聞いてくれた菊乃は、そう小さく呟く。そして、
「やっぱり、似てるのね」
「え?」
似てる? 誰が何に?
「すみれと累が」
「僕と、すみれ?」
似ている個所があるだろうか?
僕はむしろ真反対のような気さえするのだけれど。
菊乃は微笑みながら、
「去年の夏休みのこと、覚えてるかしら? コミックマーケットに出品するゲームを作っている時。あの時、私と蓮が喧嘩したことでグループの空気が悪くなっちゃったじゃない? そんな時、すみれは私たちにそれぞれ一対一で悩みや愚痴を聞くために会いに来てくれた。覚えてる?」
「それは……」
そう、だったような気もするし、そうじゃなかったような気もする。何だろう。その部分だけ、霧がかかったように鮮明に思い出すことができない。
「その時、すみれもさっきの累と同じようなことを言ってたの。ちょっとニュアンスは違うけれど、たぶん、こんなことを言ってた。『多分私が皆を助けているのは、ほんとはみんなのために助けているんじゃなくて、私自身のために助けてるんだよ。だって皆を助けさえすれば、ずっとこのままで、変わらないでいられるかもしれないから。でもきっと、それは無理なんだよ。だからこれからも皆と一緒にいるためには、私も変わるしかないんだろうな』って」
――そんな、若干声もすみれに似せた、すみれのモノマネをした菊乃の台詞を、全て聞いた直後のことだった。
「っ…………!」
「か、累!? 大丈夫!?」
頭に、これまで経験したことのないような巨大な痛みが襲ってきた。
頭を抱え、うずくまる。傍で大声を出して僕の名前を呼んでいる菊乃の声でさえ、ぎりぎり聞こえるか聞こえないくらいの衝撃が、僕の脳みそをひたすら揺らし続けていた。
ぐわんぐわんと。
そう。まるで何かを脳内から追い出そうとするかのように、ひたすら内側から外側へ殴り続けているかのような。もしくは脳内から何かが出たがっていて、それが、何度何度も体当たりを繰り返しているかのような。
それがどのくらい続いただろうか。感覚的には時計の短い針が90度ほど傾いていたとしてもおかしくないくらいものだったけれど、実際には一分ほどしか経っていなかったらしい。隣には変わらず、僅かに頬を上気させた菊乃が「大丈夫? 何かあったの?」と心配そうに覗き込んでくる。
「……分からない、けど、うん。もう大丈夫」
実際、痛みはすっかり引いていた。けど、さっきのは何だったのだろうか。
去年の夏休み、すみれが皆を助けてくれたことを話していただけ――
「っ……!」
「累!」
またしてもあの痛みが襲ってきて、僕はみっともなく、菊乃にもたれかかってしまった。しかし、今度は痛みはそれほど持続せず、すぐに引いていく。10秒ほどで体調は元に戻った。
「大丈夫? 無理そうなら、旅館に戻るけれど」
「いや、うん。平気。多分、ちょっとのぼせただけだと思う」
「……そう。それならいいけど。やっぱり夏に足湯っていうのがいけなかったのかしらね。それじゃ、そこのお茶屋さんで、冷たいアイスでも食べましょうか。やっぱりお風呂の後のアイスは鉄板よね。アイスは柔らかいけど」
「……そのギャグ、サブいよ」
僕と菊乃は足湯を上がった。いつの間にか、僕たちの手は離れていた。
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