4
「いざ、箱根っ」
「それを言うなら鎌倉でしょ」
午後19時。
弁当を食べ終わった後、何故か口数が少なくなった蓮を除けば特に変わったことは何もなく、いつものすみれ独特のボケにツッコミを入れながら、無事、僕たちは箱根湯本駅のホームへと降り立った。
そのことわざは到着後ではなく緊急時にどこかへ向かう際に発する台詞だ。いや、まぁ、緊急事態なのは、あながち間違っていないけれど。
改札を出るためエスカレーターに向かう。その途中で蓮が言った。
「俺花摘み」
「あ、僕も。ごめん二人とも、ちょっと待ってて」
「りかーい」
「小さい『よ』と『う』を飛ばさないで……。偶然同じ意味になってるのはすごいけど」
大袈裟に手まで振ってくるすみれと小さく頷いた菊乃に見送られながら、僕と蓮は共にトイレに向かう。
男二人で黙って用を足しに行くというのも気持ち悪い。テキトーに会話でもしつつ間を埋めることにした。
「すみれはほんといつでも元気だよね」
「………だな」
「ま、けど、ほんとはすみれなりに気を遣ってるのかもしれない。今でこそ元気だけど、すみれはもともと体が弱い方だし」
「そうだな」
しかし蓮の方はまったくその気がないのか、生返事をするばかりで僕の方を向きもしなかった。流石の僕も若干カチンときたので洗面所の鏡の前で呼び止める。
「ねぇ蓮」
「あん?」
「さっきからどうしたの? なんか弁当の後ぐらいから元気ないけど」
「別に……大したことじゃねぇよ。けど、そうだな……お前は菊乃のこと……」
そこで蓮は僕の顔からトイレの鏡の方へ顔を移した。表情を見られたくなかったからそうしたのかもしれないが、けど、鏡のせいでその表情はこっちからは丸見えだ。そしてその顔は、これまでで見たことがないほど暗い。
「……いや、やっぱなんでもねぇ。俺が言うことでもねぇしな」
が、それもつかの間、すぐにその顔も普段のそれへと変わった。そして大の方だったのか、個室へと入っていく。
「(……なんだったんだ? 蓮の奴)」
お前は菊乃のこと、と蓮は言っていた。そして蓮は不仲からか、まず菊乃のことを菊乃とは呼ばない。たいていあいつとかこいつとか馬鹿とかSFオタクとか天性のサディストとかそういった代名詞を使う。だからそれだけでもその台詞の不思議度はマックスなのだが、そこに『お前』、つまりなぜか僕が絡んできていることが尚のこと疑問性を掻き立てる。さらにそれが連の不機嫌にどう関与しているのかまで考え始めたら、複雑すぎてダチョウぐらいなら脳の使い過ぎで死んでしまいそうだ。
詰問すればまぁ、根はやさしい蓮のことだ。続きを教えてくれるかもしれないが、しかし、ダチョウくらいチキンな僕が、そんな勇猛果敢な行動を取れるわけもない。結局訊けず、ささっと用を足して手を洗い、外に出ることにした。
「……! うお。びっくりした。いつの間に出てたの? 蓮」
あまりにもびっくりして鳥肌が立った。
何故か大の方に行っていたはずの蓮が僕よりも先に外に出ていた。おかしい。普通はドアの音とか流す音とかで気づくはずなのに。さっきみたいに考え事をしていたせいで気づかなかったのだろうか。もしくは僕を驚かすためにこそっと出て来たとか?
「何? ぶりかえしたの?」
が、そう訊いたのも束の間、僕の姿を確認するや否や、蓮は僕のそんな問いかけにすら答えることなく、再度トイレの方に向かって歩き出してしまった。なんなんだ。
「まだなんか怒ってんのかな……」
そこで僕は先ほど自分が発した「ぶりかえしたの?」という質問が結構汚いダジャレになっていることに気付く。ああ、もしかしてそれがあまりにもつまらなさ過ぎて僕を無視したのだろうか。まぁ確かにガン無視されてもおかしくないぐらいのつまらないギャグではあったかもしれないけれど。
でも、やっぱりおかしい。こういうギャグには普段の蓮ならむしろ無視ではなく「つまんねぇよ」とか言って冗談交じりに小馬鹿にしてくるはずなのだけれど。
もしかしたら、そんな反応を返すのさえ無意識に忘れてしまうくらいに機嫌が悪いのかもしれない。……仕方ない。今度純愛ものの小説でも一冊プレゼントしてやろう。すみれら女子勢は知らないであろう衝撃の真実だが、蓮はあんなチャラい見た目ながらそういう小説やマンガが実は大好物だったりするのだ。特に幼馴染ものが好み。幼馴染との関係がよろしくないから逆にそういうものを求めているのかもしれない。蓮が個人で作っている音楽も大抵そんな感じの路線だ。しかしそのことについて話そうとすると激怒するのだけど。なにがなにやら。芸術家は分からん。
……普段の、蓮なら?
瞬間、嫌な想像が脳裏を疾駆し、先にすみれたちのもとへ向かおうとしていた僕の足がぴたりと止まった。
普段とは違う様子の蓮。いつの間にかトイレの外に出ていた蓮。僕の問いかけに反応しなかった蓮。
「――!まさか!」
突如脳に飛来した、虫の知らせのような想像。そんな、それこそ頭上を飛び回る不快な虫を振り払うように、僕は今来たトイレの方向を振り返った。
そして、
「あああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!」
そんな絶叫がトイレの方から響いてきて、気が付けば僕の足は再度トイレの方へ向けて駆け出していた。
「蓮! 大丈夫!? 蓮!」
返事を待つこともなく、僕は蓮が入っているであろう個室のドアを引っ張る。が、中からはがたがたと、蓮が発生源であろう音が聞こえてくるが、鍵が解錠されることはない。どうすればいいか、なんて考える間もなく、僕は背伸びにしてドア枠に手をかけた。当然、僕の足と扉の表面の摩擦を利用してよじ登るのだ。一秒と経たず僕は扉上部から中を覗き込む。そこにいたのは——
「な――!?」
二度目の鳥肌。
そこには数時間前に見て、そして先ほど僕が話しかけたであろう蓮のドッペルゲンガー、そして、そのドッペルゲンガーに押さえつけられ、胸から下が消えかかっている蓮がいた。
本物の蓮の方は、まるで幽霊のように、上半身だけが浮いている。そしてその上半身でさえ、まるで写真の画素を一つ一つ消していくように徐々に下から無くなっていっている。いったいなにが、起こってるんだ。
「――!――!」
蓮は逃げ出そうと抵抗しているものの、しかし、足がなく、力が入らないからか、身をよじってもよじっても、蓮のドッペルゲンガーの拘束を解くことができていない。
「――っ!? 累!」
揉み合っていたせいで僕がよじ登ってくる音も聞こえなかったせいだろう。ドア上部から顔を出し、それを見て呆然としていた僕の存在に気付いた蓮が、僕の名前を呼んだ。そして当然、あの一切人間的な感情を宿していない目で『蓮』の方も振り返ってくる。
「ヒ——」
情けないことに、その冷たい瞳を見て、僕の体は完全に凍えてしまった。まるで石化したかのように、体が動かない。動けと念じても僕の思惑とは裏腹に体は言うことを聞かない。それはまるでこれまでの僕を表しているようで嫌になる。したいことがあっても言い出せない自分。何もない、意思無き、しいて言うならそれこそ石でできたような人間。何も変われず、風化していくだけの、人間。いや、何をやってるんだ。僕は。
「何やってんだ!累!」
ほら。蓮だって怒ってる。当たり前だ。今にも消えかかってるんだぞ。早く僕が救出しないと——
「何やってんだ!お前だけでも逃げろ!お前までやられちまうかもしんねぇぞ!」
「……え?」
何の聞き間違いかと思い、僕は無意識に問い返していた。
が、蓮を再度見ても「何ぼーっとしてんだ!早く逃げろ!」としか言ってくれない。何でだ。何でこんな状況でそんなことが言えるんだ。自分が今にも消えかかってるっていうのに。
……いや、違う。蓮だって怖いに決まってる。けど、それ以上に自分のせいで仲間を失うのが怖いのだ。自分を助けようとしたせいで、僕がやられてしまうことが。
そう考えると自然、これまで僕を拘束していた硬直は解けていった。
そうだ。それは僕だって同じだ。ここで蓮を助けなければ、僕は一生後悔することになる。きっと蓮は僕が助けようとしたことを怒るだろう。何で逃げなかったんだと。でも、それがなんだ。友達に死なれるくらいなら、嫌われた方がましだろうが!
「っ……!」
僕は指を離し、個室の中ではく、外に、飛び降りた。飛び降りる寸前、安心したような蓮の顔が見える。けど、蓮。ごめん。その期待は裏切らせてもらう。
僕は飛び降りてすぐ、隣の空いていた個室に飛び込んだ。それは無論逃げるため——ではもちろんない。逃げるならトイレの外に出る。だから僕がそこに飛び込んだのは逃げるのではなく、あるものを握るためだった。
――トイレのタンクの蓋。
それを握るためだ。
ブロック塀ぐらいの重さがあるそれを、僕は握りこんだ。
これを上からあのドッペル野郎に食らわせてやる。確かにあれは化け物だが、蓮に物理的に触っていた。ということは、実体はあるはずだ。実体があるのなら、流石にこんな重たい石のようなものをぶつけられれば無事では済まないはず。殺人に近いかもしれないが、しかし、あっちだって蓮を殺そうとしてるんだから、正当防衛は成り立つはずだ。
僕は握ったそれを外に持ち出す——ではなくそれを持ったまま、便座の上に立った。流石にこんな重たい物体を抱えたまま扉をよじ登れるほど僕は怪力ではない。しかし、力持ちではなくとも持ち上げることくらいはできる。そう。便座の上に乗り、高さをつけ、仕切りの上から持ち上げ、奴の頭の上に落とすくらいは。
物体である以上いくらなんでもブロック塀ならぬトイレ塀を喰らって平気でいられる存在などいないだろう。見てろ。兵は拙速を尊ぶってやつを教えてやる。
僕は持てる力全てを用いて頭の上までそいつを持ち上げた。
全身全霊であの妖怪なんだか幽霊だかなんだか判然としないあの生物を除霊してやる。
墓石をくれてやるんだからありがたく思え。
僕は真上から奴のつむじを覗き込む。そして墓標を立てるようにそこめがけて思いっきり抱えた塊を放り投げ――
「え……?」
――ようとしたところで、僕は、僕はそれこそブロック塀のように固まってしまった。
意味が、分からない。
蓮が、いなくなっていた。
いや、オリジナルの蓮の方じゃない。ドッペルゲンガーの方の『蓮』だ。
トイレに座っている蓮は目は虚ろじゃないし、さっきまで消えていた下半身が戻ったからか、ペタペタと自分の体を触っている。ドッペルゲンガーならそんなことはすまい。そして、
「……累! お前なんで逃げ……ってその武器はロック過ぎるだろ……」
そう言って、トイレの蓋を振りかぶろうとしていた(?)僕に気付いたのか、そんなつまらないギャグを言う。指摘されてようやく僕も気付いた。僕はいったいなんてものを使おうとしていたのだろうか。危うく殺人犯になってしまうところだ。
僕は苦笑して、便座から降り、タンクの蓋を元あった位置にはめてから個室を出る。そして同じく出てきた蓮と苦笑を交わし、洗面所を出ようとした。
「累! 連! 大丈夫⁉」
「す、すみれ!?どうしたの!?」
――出ようとした、そのタイミングで、すみれがいきなりトイレに乱入してきた。後ろには菊乃もいる。
「あまりにも帰ってくるのが遅いから我慢できなかったんだよ! もう! 遅れるならちゃんと連絡して!」
僕の肩を掴み、新妻みたいな台詞を吐きながらぶんぶん揺さぶってくるすみれ。おそらく心配してくれているのだろうが、場所が場所だけに、トイレに行きたいだけの人のセリフにしか聞こえない。
「で、何!? 何があったの! って蓮シャツよれよれじゃん! 累もなんかパーカー埃まみれだし!」
服を見る。確かに汚れていた。
蓮はもみ合ったときに服がよれて、僕は掃除されていなかった蓋の汚れが服についてしまったのだろう。切羽詰まっていたせいで気づかなかった。
「……まぁ、詳しいことは後で話すよ。とにかく今はここを出よう」
「何でよ!? 累のいじわる! 実はそういう趣味があったわけ! 最悪!」
「いや……僕をそんな変態みたいに言わないで……いや、そうじゃなくてさ」
「そうじゃなくて、何なの!?」
「ここは、男子トイレ」
「あ……」
僕がそう告げた途端、すみれは女子トイレのあのピクトグラムみたいに真っ赤になった。
ご一読ありがとうございました。よろしければ感想などお聞かせいただけますと幸いです。




