第36話 兄妹〈後編〉
ぐちゃぐちゃとした気持ちが消えてくれない……サラはまだ甲板に膝を抱えて座っていた。流れていく雲は、心の落ち着け方を教えてはくれない。
ゆっくり近づく、乾いた足音をサラの耳が捉える。顔を上げると、アベルだった。
「これ、おにぎりっていうんだって。ご飯を握って作るからおにぎり。中に具が入ってるんだよ。リアムが寧々《ねね》に教えてもらったんだって」
アベルはにっこりと笑って二つの白い三角形のご飯の塊が乗った皿を、サラに見せた。
「サラ、こっちで食べたいかなって思って。食堂で食べるなら、それでもいいんだけど」
「あ……ああ。ここで食べる」
せっかく持ってきてくれたのに、また返すのも何だか悪い気がしてサラはおにぎりの皿を受け取った。おにぎりを手で持ってぱくりと一口食べる。ほんのり塩味の効いたご飯がおいしい。心がほっと、安心する味だ。張り詰めた神経が緩んだ感じがした。
「大丈夫、サラ?」
アベルが隣にしゃがんで、顔を覗き込む。
「……泣かないで」
「え?」
アベルがさっと皮の手袋を外し、サラの頬を優しく撫で涙を拭った。サラは自分が泣いていることに気付いていなかった。しかし、一度気付いてしまうと、ダムが決壊したかのように次から次へと溢れ出てきた。アベルは何も言わずサラの隣に座りこむと、手袋を外した手で背中をさすってくれた。
「じいちゃんが、俺が落ち込んでた時してくれたんだ」
「……兄ちゃんも、同じことやってくれたな」
アベルは柔らかく温かな眼差しをサラに向ける。
「サラは兄ちゃんと仲良しだったんだね」
「……そうだな。大好きだ、今でも」
しばらく背中をさすられながら、促されるままサラはもぐもぐとおにぎりを頬張った。食べ終わるころには涙は止まった。アベルの手はもう背中をさすってはいなかったが、まだそっと添えられていた。
「お前をブノワから無理やり引きはがした後、言ったよな。『自分を捨て置いても、誰かを助けたいときがあること』を私は知ってるって」
アベルは少し悲し気な顔をして、すぐに頷いた。
「あれは、兄ちゃんと別れた時の話なんだ。空賊に二人で追いかけられた時があった。あの状況で逃げ切るには、私はお荷物だった。だから……必死で伸ばしてくれる兄ちゃんの手を、私は握らなかった」
アベルは少し俯いて小さく「そっか」と言った。
「自己満足だよな。でも、無事でいてほしかったんだ。さっき龍の上から私を見た時も、あの時と同じ顔をしてた。私は……また遠ざけた。兄ちゃんを傷つけた」
他にやりようがなかったのだ。仕方なかった。どうにもならないことを嘆いているということはわかっている。それでもサラの胸は潰れそうに痛んだ。どうしてうまくいかない。自分の大切な人たちと一緒にいたいだけなのに。
「そうかもしれないけどさ……」
アベルはぽんっとサラの肩に手を置いて続けた。
「サラの兄ちゃんはサラが生きてるってわかって嬉しかったんじゃないかな。生きてれば、どうにかなるかもしれないでしょ?」
アベルの口元は笑っていたが、瞳には深い悲しみの色が差した。そうか、こいつはもう自分の大切な人――ブノワに触れることも、話すこともできない。自分は何てことを言ってしまったんだとサラは思った。
「そうだな……。悪い、弱音吐いた」
「そんなの、誰だって吐くよ。俺で良かったら、いつでも聞くよ。それにね、俺はサラがこの船に残ってくれて嬉しいよ」
いつもの穏やかな表情に戻り、アベルは空になった皿を持って行ってしまった。
サラは両頬を手で挟むように、パチンと叩き青い空を仰ぐ。
空軍に乗り込むわけにもいかないし、この一派から抜けたくもない。もしかしたら、自分と同じように兄も今の立場に居心地の良さを見出しているかもしれない。元気にしていることはわかった。所属も明確。
今すぐ一緒にいられなくても、大丈夫 ……とサラは何度も自分に言い聞かせた。
今後空を巡りながら、空軍の情報も集めよう。巡回航路や軍の規則なんかが分かれば、兄にこっそり会うチャンスがあるかもしれない。
――俺はサラがこの船に残ってくれて嬉しいよ
心に残るアベルの笑顔が、ふとすると沈みそうな気持ちを支えていた。
嘘はあまり得意ではない。そういった器用さは妹のほうが持ち合わせていた。
「……ということで、あの子は生き別れた俺の妹のサラです」
自分の船に戻り問いただされたルイは、正直に話した。自分の処遇がどうなるかは皆目見当がつかなかったが、サラを見つけることが出来たという喜びで危機感が麻痺していた。
「で、その妹は捕らえられていたというより、空賊の仲間といった感じだったんだな」
紫苑がため息混じりに言った。
「まあ、普通に甲板に立ってたからねぇ……」
「脅されていたかもしれない!」
ルイの反論にうーん、と洋が腕を組んで唸る。
「お前の妹が本当に空賊ならば、お前は除隊処分となる。しかし……その狙撃の腕前を失うのは空軍としても大きな損失だ。それに、現時点で確実な証拠はない。本部には報告しない。いいな?」
紫苑の言葉はルイにはありがたかった。何にせよ、サラが幸せに暮らせるようあの空賊は殲滅すべきだ。空軍に居続けられるのは都合が良いとルイは思った。
――第一部、完




