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82.棘の痛み

 竜一は山吹壮自室で立ち尽くしていた。


 部屋に居るのは竜一だけ。

 美桜は行ってしまった。


 あまりにも呆気なく、驚くほど突然に。


 部屋を退出しようとする美桜に、竜一は「途中まで見送るよ」と提案したが、美桜は頑なに拒否をした。

 強く拒否をされ、竜一はそれ以上なにも言えなかった。


 美桜は最後に「ありがとうございました」と言った。

「また会いましょう」とは言わなかった。


 突然訪れた虚無感。

 竜一は自覚する。

 いつの間にか、美桜が自分の中で大きな存在になっていたことを。


 それでも、無理やり気持ちを切り替えるしかない。

 分かっていたことだ。これはいつか来る必然の別れ。

 少しばかり想定より早かったが、いつまでも囚われていてはいけない。


 両手で頬を叩き、気合を入れる。

 勉強でもしよう。

 参考書を鞄から取り出し、ノートにペンを走らせていく。


 静かな部屋。

 ペンが走る音のみが部屋に響いた。


 しばらくしてペンが止まった。

 ペンを置いて立ち上がる。


 足が動いていた。

 玄関に向かい、靴を履いた。

 扉を開け、外に飛び出した。


 いつの間にか走り出していた。


 やっぱり、途中まで見送ろう。

 まだそう遠くには行っていないはずだ。


 そんな風に考え、夜の住宅街を疾走する。


 息を乱しながら美桜の姿を必死に探す。


 どこだ? どこに居る?


 遅かったか。


 諦めようとしたその時、誰かの話声が聞こえた。

 その声の方に向かって走る。


 聞き間違えかもしれないが、美桜の声がしたような気がした。

 幻聴かもしれないが、他にあてもない。


 そして角を曲がった時、桜色の髪の毛が見えた。


 居た。見間違えようがない。

 鮮やかで、美しい桜色の長い髪。

 美桜の後ろ姿が見えた。


 その時、竜一はようやく気付いた。

 美桜を見つけた喜びで視野が狭くなっていた。

 美桜の傍らに女が居た。


 髪色は赤みがかった茶色のオレンジブラウン。

 優し気な表情の美しい女。

 宿敵とも言える存在、朽葉 菖蒲だった。


 菖蒲は竜一の存在に気付いた。


「あら? 久しぶりね、泉谷くん」


 菖蒲のその反応を見て、美桜は後ろを振り返る。


「……お兄さん」


 竜一は乱れた呼吸を整えながら、美桜に尋ねる。


「ど、どういうこと? どうして菖蒲さんと一緒に居る?」


「それは……」


 美桜は困ったような表情を浮かべ、言葉を詰まらせる。

 代わりに菖蒲が答えた。


「御形 美桜さんはね、自ら選んだのよ」


「選んだ? どういうことですか?」


「御形家から離反し、私と共に来る選択をしたの」


「な、なにを馬鹿な!」


「私の言う事を信じることが出来ないかしら? しかたがないわね。美桜さん、ホラ言ってあげて」


 美桜は竜一を見つめ、口を開いた。


「はい。菖蒲さんの言う通りです。私は菖蒲さんと共に行きます」


「な……何故……?」


 美桜は竜一の質問には答えなかった。

 黙り込む美桜を置いて、菖蒲は言う。


「泉谷君。その内、ゆっくりと教えてあげるわね。だから、今日のところは見逃してちょうだい」


「菖蒲さん」


「何かしら?」


「貴方ですね。貴方がその子を唆したんだ」


 菖蒲はヤレヤレといった風に首を振って答えた。


「まあ、否定はしないわよ。でも、決めたのは美桜さんよ。私はあくまで道を示しただけ。その道を歩むのは美桜さんの意志よ。だからね、寧ろ祝福してあげて欲しいわね」


「ふざけるな!」


 竜一は怒声を放って構えを取った。


「もういいです。菖蒲さん、どのみち貴方をこのまま見過ごすわけにはいきません」


「はぁ……。純粋というか、頑固というか。泉谷くん、君は本当に困った子ね。でも、そういうところも好きよ」


「黙れ!」


「あらら、つれないわね」


 竜一は地面を蹴り、菖蒲に接近。

 これ以上の問答は不要。

 武力行使。


 その時、美桜の身に異変が起きた。

 美桜の両腕に桜色の線が浮かび上がった。

 その線は、両腕にびっしりと浮かび上がっている。


 そして、桜色の線から桜色の棘が出現。

 何十という数の棘が、真っ直ぐに伸びる。

 棘は直角に曲がりながら、竜一へと向かって伸びる。

 更に、伸びた棘は幾つもに枝分かれし、直角に曲がりながら竜一へと接近。

 枝分かれした数十本の棘。その様は、大樹の枝のようにも見える。


 加速していた竜一の体は、急には止まれなかった。

 桜色の棘が、手足、腹、胸、肩に突き刺さる。


「―――くッ!」


 痛みで顔を歪める竜一。

 桜色の棘が体中に突き刺さり、竜一の体が止まった。


 両腕から棘を生やしたまま、美桜は言う。


「お兄さん。申し訳ありません。私を思っての行動なのですよね? とても嬉しいです」


 美桜は真剣な顔で続ける。


「ですが、それ以上動かないでください」


 全身から血を流しながら、竜一は叫んだ。


「なんでだ!? どうしちゃったんだよ!?」


 そう叫んだ直後、竜一は腹に衝撃を受けた。


「ごめんなさいね」 


 菖蒲が竜一の腹を蹴りつけたのだ。


 竜一は後方に吹き飛んだ。

 後方の壁に背中をぶつけ、口から息が吐き出された。


 竜一は即座に態勢を立て直し、構えを取った。

 この程度では倒れない。

 ここで菖蒲を倒す。


 そう意気込み、前方を見据える。


「消えた……?」


 菖蒲と美桜の姿が消えていた。

 おそらく、竜一の隙を突いてこの場から離脱したのだろう。


 竜一は膝から崩れ落ちた。

 肉体的なダメージが原因ではない。

 全身の穴は既に塞がろうとしている。菖蒲から受けたダメージも軽微。


「どうしてだよ……」


 それは、しばらく立ち上がれないほどの大きな精神的ダメージだった。

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