70.暗中の遊戯5
茜は空を見上げていた。
月のない夜。上空に浮かぶのは、真っ暗な闇。
「茜」
名前を呼ばれた。
視線を少しズラし、その声の方に目を向ける。
「りゅう……いち?」
黒い瞳に黒い髪。
人の良さそうな顔つきをした少年―――泉谷 竜一がそこに居た。
今、茜は大木の太い枝の上に居る。
竜一に背中と膝裏を支えられ、抱き上げられている状態。
茜は幻覚を見ているのかと疑った。
茜が最後に見た竜一の姿は、苦しそうにうなされている姿。
その竜一が今、目の前に居る。
「茜、動けるかな?」
幻覚じゃない。竜一の声が茜の認識を正常に戻した。
「どうして……ここに?」
「それは勿論、助けるために」
「助ける?」
「そう、茜と天染さんをね」
その竜一の発言を聞いて、茜は焦った。
そうだ、今は蜘蛛の化け物達と戦闘中。
危機的な状況である筈だ。
その茜の認識を裏付けるように、蜘蛛の化け物達が地面を這いずり回っている。
更に、大木を駆け上ってくる蜘蛛の化け物達。
「茜、今は喋っている余裕はない。まだ戦える?」
茜は自分の状態を確認した。
体は問題なく動く。大した怪我はしていない。
問題は体ではなく精神。
鈴巴が消えたことによる精神的ダメージ。精神的失調。心の震え。
それらが、今は消え失せている。
「―――戦える!」
茜は気合を入れた。
体の内側から爆発的な力が湧き上がる。
燃えるように体が熱くなり、皮膚から煙が発生。
朱い瞳で竜一を見据える。
竜一も朱い瞳で茜を見据え、茜を大木の枝に下ろしてから言う。
「動き回る蜘蛛達を頼めるかな? 俺はあの大蜘蛛をやる」
動き回る蜘蛛達の奥には、巨大な岩石のような大蜘蛛。
まさに怪物。到底一人でどうにか出来る相手ではない。
だが、そういった否定的な考えは今の茜にはなかった。
竜一なら出来る。
茜の胸にあるのは、竜一への確かな信頼。
「分かった」
短く返事をする茜。
竜一は笑みを見せ、拳の骨を鳴らした。
そして、二人の鬼神は動き出した。
茜は枝から飛び降り、近くに居る蜘蛛に向かって足を蹴り上げた。
茜の足刀。蜘蛛の頭部が吹き飛んだ。
蜘蛛達は茜へと狙いを絞った。
全方向から茜に襲い掛かる。
茜は敢えて蜘蛛達の好きなようにさせた。
蜘蛛達は茜の体に群がっていく。
隙間もないほど茜にびっしりとはりつく蜘蛛達。
蜘蛛達は茜の皮膚へ牙を立てていく。
しかし、茜の皮膚は牙を通さない。
茜の皮膚から立ち上る煙の勢いが増した。
噴射。細い煙が茜の皮膚から吹き出し、茜の体がもう一段熱くなった。
「―――ふんッ!」
掛け声と共に、茜は全身に力を入れた。
まるで茜の体から衝撃波が放たれているようだった。
蜘蛛達は紙切れのように吹き飛んだ。
そして吹き飛んだ蜘蛛達の殆どが、頭部や腹に重大なダメージを負った。
「さあ、どんどんこい!」
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竜一は襲い掛かってくる蜘蛛達をいなし続けた。
最小限の動きで躱し、蜘蛛の横腹に裏拳を当てる。
竜一は足を止めない。蜘蛛へ追撃はしない。必要以上に構わない。
竜一の狙いは一つ。奥で控える大蜘蛛のみ。
大蜘蛛は動かない。
しかし、無機質な赤い眼は確実に竜一を見据えている。
大蜘蛛の間合いに侵入した瞬間、大蜘蛛が動いた。
大蜘蛛の巨大な脚。
その脚が持ち上がり、振り下ろされる。
竜一はそれを難なく躱す。
そして跳躍し、大蜘蛛の横腹に拳を突き入れた。
「―――硬い!」
まるで鋼鉄。鬼神化した状態でこれほど手応えがなかったのは初めて。
「それがなんだ!」
声を張り上げ気合を入れる。
どれほど硬かろうと関係ない。ただ、拳を打ち込むのみ。
「あああああああああッ!」
竜一は拳を打ち込み続けた。
風圧を感じた。大蜘蛛の脚が薙ぎ払われた。
暴風。岩石をぶつけられたような衝撃。
攻撃に集中していた竜一は、躱すことが出来なかった。
脚が竜一に命中。
竜一は後方に弾き飛ばされた。
樹木を破壊しながら森の奥へ。
仰向けに倒れる竜一。
竜一はすぐに起き上った。
「まだまだ!」
気合を入れ直し、地面を蹴り上げた。
風を切り竜一は進む。
飛び掛かってくる蜘蛛を拳で迎撃し、更に加速。
大蜘蛛の脚が接近。
竜一はそれを屈んで躱し、地面をスライディングした。
そのまま大蜘蛛のすぐ傍まで接近し、体勢を立て直し拳を叩き込む。
相変わらず手応えはないが諦めない。
「うあああああああああッ!」
とにかく拳を打ち込み続ける。
そしてその時、竜一は感じ取った。
ほんの小さな亀裂。
水滴が岩に穴を穿つが如く、竜一の拳が大蜘蛛の腹に罅を入れた。
ほんの僅かな罅。その程度では当然ながら大蜘蛛にダメージはない。
しかしそれは、竜一にとっては大きな希望。
竜一は、一縷の望みに全てを懸けた。
拳を繰り出し続ける竜一。
無我夢中で拳を叩きつけた。
しかし、そんなことをすれば当然反撃を食らう。
大蜘蛛の脚が鞭のようにしなる。
竜一に直撃。
後方へ弾き飛ばされる竜一。
だが、これでいいと思った。
態勢を立て直し、また攻撃を当て続ければいい。
そう思っていた。今の今まで。
「―――なっ」
蜘蛛の糸は森の至る所に仕掛けられている。
竜一は蜘蛛の糸に囚われてしまった。
蜘蛛の巣から逃れようと必死に力を入れる。
しかし、もがけばもがくほど糸が絡みついてくる。
地響き。
山が移動しているのかと錯覚した。
大蜘蛛の突進。
大蜘蛛はこの時を待っていた。
獲物が捕まるこの時を。
大蜘蛛は顎を大きく開いた。
口元から覗く鋭い牙。
竜一は限界まで力を入れた。
「ああああああああああッ!」
それでも、柔軟で強靭な糸から逃れることは出来なかった。
だが、竜一の剛力は不可能を可能とする。
糸は体に巻き付いたまま。それでも竜一は動いた。
糸は樹木の樹皮に巻き付いているが、竜一は糸ごと樹木を引っこ抜いた。
樹木を引きずりながら移動する竜一。
大蜘蛛の牙を躱すことに成功。
竜一は、一度心を落ち着けた。
下手にもがかず、力を一か所に集中。
糸が引き伸ばされていき、やがて千切れた。
そして竜一は大蜘蛛から距離を取り、一度自分の状態を確認。
「―――えっ」
竜一は驚愕した。
右の脇腹が消失していた。骨と内臓が見えていた。
大量に血が噴き出している。
そこで気付いた。
これは大蜘蛛に食い千切られた傷だ。
さっきの大蜘蛛の咢。躱しきれていなかったのだ。
この状態でもまだ生きているのは、一重にこの鬼神の力によるものだろう。
また地響きが聞こえた。
大蜘蛛だ。
大蜘蛛が竜一へと迫る。
凶悪な牙が、闇の中で不気味に濡れ光っている。
竜一は地面を蹴り上げた。
動かねばならない。
だが、血を流しすぎていた。
竜一の動きは明らかに鈍っている。
大蜘蛛の突進を避けることは出来たが、足がもつれた。
躱した勢いそのまま、竜一は地面を転がってしまう。
まずい。と焦るが、すでに遅かった。
大蜘蛛の脚が竜一に直撃。
左腕で脚をガードしたが、その威力は絶大。
竜一は再び地面を転がってしまう。
大蜘蛛の追撃。
鋭い牙。
竜一は起き上がって真横に飛んだ。だが間に合わなかった。
大蜘蛛に左足を持っていかれた。
「くッ!」
呻きを漏らした竜一。
左足を失いバランスを崩した。
片足を失った竜一は、絶体絶命の窮地に陥る。
これでは大蜘蛛の攻撃を躱し続けるのは難しい。
竜一は大蜘蛛の脚に打たれ続けた。
「うッ……」
それでも立ち上がる竜一。
腕の力で真横に飛び跳ねた。
そして、また体の一部を失った。
次は右腕。大蜘蛛の咢に噛みちぎられた。
竜一は左足と右腕を失った。
満身創痍。
絶対絶命。
勝利は限りなく低かった。




