59.夏の海
竜一は、如月製作所から五日間の休みを与えられている。
如月製作所も夏季連休に入ったのだ。
といっても、先輩達は交代で出勤するようだ。
竜一は夏季連休中の出勤を免除されている。
その理由は、竜一がまだ新人で大きな戦力にはならないことにある。
喜ぶべきか悔しがるべきか、少し複雑な心境であったが、竜一は与えられた権利を甘受することにした。
今、竜一の目の前には、青空と地平線まで続く綺麗なコバルトブルーが広がっている。
爽やかな青空と美しい海だ。
「おーい! りゅういちー!」
自分を呼ぶ声が聞こえる。
視線を声の方へ向ける。
茜が手を振って、こちらに駆けてくるところだった。
茜はセパレートタイプのオレンジの水着を着用していた。
よく引き締まった腹部。水を弾く健康的な肌。
そして、大きすぎず、かといって小さすぎることもない丘陵。
「うーむ」
竜一は、ついつい唸り声を上げてしまった。
今の茜は、まるで黄金に輝く宝石。
眩しすぎて直視できないほど。
「竜一! 一緒に泳ごうよ!」
眩しい笑顔で茜は元気よく言った。
「うん、いいね」
竜一は立ちあがり、砂浜を駆けだした。
そして改めて考える。何故、自分がここにいるのかと。
それは夏季連休に入る前のことだ。
鈴巴は言った。天染家配下の者達へ感謝と慰労の気持ちを込め、リゾート地へ招待すると。
鈴巴に連れていかれたのは、海の近くのリゾート地。
海の近くには、高く聳えるホテル。ホテル・ヒュペリオンは天染家の資本が入ったリゾートホテルである。
故に鈴巴は、この場所では特別待遇を受けている。
スイートルームを割り当てられ、一流のサービスを受けている。
そしてここは、ホテルから数キロメートル離れた位置に存在する孤島。
この孤島は天染家の所有地。つまりこのビーチは、天染家のプライベートビーチである。
竜一は海に足を付けた。
透き通るような綺麗な海が目の前に広がっていた。
「すごい……」
感嘆の声が漏れると同時に、腕を引っ張られた。
「はやくはやく!」
「ちょっと、茜、あぶないって―――」
竜一は、茜に腕を引っ張られ海の中へ。
そして茜に腕を引っ張られたまま海中を遊泳。
海中には様々な生物で溢れていた。
カラフルな魚が群れになって泳ぐ様は圧巻の一言。
茜は、人間離れした身体能力で海の中を泳ぐ。
その様はまるで人魚のようだった。
どこまでも自由に、本当に楽しそうに。
竜一はただ、茜に身を任せることにした。
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海中から上がり、砂浜に足を付けた時、目の前に少女の姿があった。
澄んだ水色の髪で、背は高め。アメジストの美しい紫の瞳。
天染 鈴巴がそこに立っていた。
「ようやく戻って来たわね」
どうやら鈴巴は、竜一の帰りを待っていたようだ。
竜一は、少し申し訳なさそうに返事をする。
「お待たせしてしまってすみません」
竜一は、鈴巴の姿を直視できなかった。
鈴巴の姿を見て、心臓の動きが加速してしまう。
鈴巴が着用しているのは水色の水着だ。
モデルかと見まごう程の抜群のプロポーション。
日光を反射する白い肌と、すらりと伸びた四肢は、芸術的な美しさだった。
「泉谷君、どうかしたの?」
「へ? あ、いや! なんでもないんです!」
「そう? ところで茜はどこに?」
「茜は……まだ泳いでますね……」
「まったく、あの子ったら」
茜を咎めるような口調ではあったが、鈴巴は微かに笑っていた。
「まあ、いいわ。私達だけで始めちゃいましょうか?」
「ですね」
竜一と鈴巴は砂浜を歩き出した。
そこには人が集まっていた。
人数は竜一と鈴巴を入れて全部で六人。
鈴巴を除く五人は、全員鈴巴の配下の者達だ。
その中には怜も居た。
竜一は怜に挨拶をした。
「片瀬さん、お疲れさまです」
「泉谷殿、お疲れさまです」
怜の恰好は、竜一的には安心できるものだった。
丈の長い白いロングシャツを羽織ってくれているお陰で、幾分平静でいられる。
怜はクーラーボックスからボトルを取り出した。
高級シャンパンの代名詞ドン・ペリニヨン。
鈴巴配下の者達から「待ってました」と歓声が上がる。
「お嬢様と泉谷殿にはこちらを」
そう言って怜は、お手製のノンアルコールカクテルを竜一と鈴巴に差し出した。
グラスには綺麗なルビーレッドの液体が注がれている。そしてグラスの縁には柑橘系の果物が添えられていた。
竜一はバーテンダーが作ったかのようなクオリティに感心しながら怜に感謝を伝え、グラスを受け取った。
「さあ、全員受け取ったわね!」
鈴巴がこの場にいる面々に視線を走らせ、声を上げた。
「今日、こうして私がバカンスを楽しんでいるのは、ひとえに皆のお陰よ。私は、本当に皆に感謝しているわ。どうかこれからも私を支えて頂戴」
その鈴巴の挨拶に、感涙している者達が数人。
怜は泣いてこそいなかったが「立派になられて」と口から感嘆の声を漏らしていた。
竜一は流石に泣けはしなかったが、鈴巴が愛されていることを改めて感じ、温かい気持ちになった。
竜一達はグラスを掲げて乾杯。
カンとグラスがぶつかる音が響き、和やかな空気が生まれる。
竜一の口元が緩む。平和だ。ここ数か月の出来事は信じられないような出来事の連続で、まるで映画でも見ているような気持にさえなった。
色々とあった。痛いこと、苦しいこと、腹の底から湧き上がる憎悪に、死ぬほどの激しい痛み。
それでも、今日というこの日を、この瞬間を、心の底から喜ぶべきなのだ。
死が身近なものとなり、暗い死がすぐ隣に存在することを意識する。
それと同時に、輝く生もまた、強く自覚出来るようになった。
人はいつか死ぬ。いつその時を迎えるかは神のみぞ知る。それはもしかしたら明日なのかもしれない。
それ故に、いつ死んでもいいように今を精一杯生きるべきなのだろう。
何故だが少し感傷的な気分になり、ついついそんなことを考えてしまう。
「泉谷君、楽しんでる?」
鈴巴から声を掛けられ、竜一は返事をする。
「はい、とても。ここに連れて来て頂いて、本当にありがとうございます」
「いいえ。これぐらいは上に立つ者として当然よ」
その後、鈴巴は少し考えるような仕草をして、竜一に喋りかけた。
「ねえ、この機会に教えて欲しいのだけどいいかしら?」
「はい、なんでしょう?」
「その……君は、本当に後悔していないかしら?」
「後悔?」
「ええ。私の下で働くようになって、君の人生は大きく変わってしまった。まだ半年と経たぬうちに、生死の境を彷徨ってしまう程に。どれだけ覚悟があろうと、流石に……少し酷な選択を強いてしまったんじゃないかと、時々そう思うの……」
「―――ハハッ」
「え? 笑うところかしら?」
「ごめんなさい。悪気があった訳ではないんです」
「そ、そう。どうして笑ったの?」
「はい。なんというか……本当に優しい人だなって思って」
「そうかしら?」
「そうですよ。俺みたいな下っ端に言われるのは癪かもしれませんけど、とても裏の世界で大きな力を持つ一人とは思えないです」
「それは……褒めているの?」
「勿論。だから俺は、やっぱり後悔していません。俺は、天染さんの下で働けることを誇らしく思います」
「……」
「えっと、どうかしました?」
鈴巴は黙り込んだ。
少し頬を赤く染め、グラスに口をつける。
「君、少し厭らしいわね」
「い、厭らしい!?」
「気を付けなさい。そのまま行くと君、とんでもない女泣かせになってしまうわよ」
「え? そ、そうでしょうか?」
「ええ、そうよ。危うく私も―――」
「あ! ずるーい! 私も混ぜてよ!」
鈴巴の声を遮る大音量が響き渡った。
声の方に目を向けると、茜が砂浜を駆けてこちらに近付いているところだった。
鈴巴は大音量で返した。
「遅いのよ!」
しかりつけるように言う鈴巴であったが、その顔は笑っていた。
竜一は改めて思った。
このバカンスは、鈴巴から配下達への慰労を込めて開催されたものだ。
ならば配下ではない茜がここに居る理由は何だ。それには鈴巴の優しさが込められている。
きっと鈴巴なりに、茜のことを気遣っているのだ。
少しでも茜の受けた傷を癒そうと、また前に歩き出すことが出来るようにと。
そういう気持ちが込められている。
「本当に、優しすぎますよ……」
竜一は、誰にも聞こえないような声で小さく呟いた。




