51.学校と自宅
黒松高校で授業を受け終えた竜一は、教室で帰る準備を整えていた。
鞄に教科書をしまいながら、欠伸を一つ漏らした。
体に纏わりつくのは、疲労感と倦怠感。
だがこれは、悪いものではない、と竜一は思う。
これはまだ、自分が生きている証拠。
生死の境を彷徨った竜一には、そんな風に考えることが出来た。
「泉谷君」
と呼びかけられ、竜一は声の方へ振り向く。
そこに居たのは、二十代前半の女。
冬城 静。
肩口辺りまで伸びた、緩くウェーブした灰色の髪。
毛先にかけて薄い青色でグラデーションがかかっているのが特徴。
竜一は、静に向かって深く頭を下げた。
「冬城さん、本当にありがとうございました」
静には、色々と助けてもらっている。
一か月の入院生活で、勉強が遅れている竜一が授業になんとかついていけているのは、静のお陰といっても過言ではない。
静が纏めてくれた授業のノートは、竜一的には非常に助かるものだった。
「うん、全然大丈夫。それよりも、体の方は大丈夫なの?」
「はい、お陰様で、全然大丈夫です」
「それなら良かった」
静はそう呟いて、薄い笑みを作った。
薄幸美人。まさにその言葉を体現したような姿だった。
竜一は、少しはにかみながら返事をした。
「冬城さんには、お世話になってばっかりなので、何かお返しができるといいんですが……」
これは竜一の本心だ。
静に助けてもらったのは、今回が初めてではない。
以前、ジェイミー・ブランドナーと戦った時のことだ。
警護対象の大葉子組会長、岡田 勝重を警護するため、数日授業をすっぽかしてしまった。
その時も、静には助けられた。無断欠席した竜一に対して憤る担任教師へのフォローや、竜一に手渡すための授業のノートの複写など。
すでに静も竜一にとっては頭が上がらない者の一人だ。
静は、少し考えたそぶりを見せ口を開いた。
「お返しはいらない。約束したことを守ってくれればいいよ」
約束。その内容は、竜一が卒業するまで彼女を作らないようにと、静に言い含められている件だ。
晴れて竜一が卒業できた暁には、私が彼女になってあげると言って、静は譲らない。
竜一は、愛想笑いで返した。
「アハハ……約束した覚えはないんですが……」
静はその竜一の言葉を無視し、何か思いついたように言う。
「あ、一つあるかも」
「え、何でしょう? 俺に出来ることなら何でもします」
「うん、ちょっと付き合って欲しいんだ」
「付き合う?」
「あ、付き合うってのは、異性間の交際って意味じゃないよ」
「ああ、はい、分かってます。それで、付き合うとは?」
「うん。来週から夏休みに入るでしょ?」
夏休み。そう言えばそうだった。色んなことがあってすっかり忘れていた。
「あ、はい。そうですね」
「その休みを利用して、一緒に修行体験してみない?」
「修行体験?」
「桂山の麓に円唐寺っていうお寺があるんだけど、そこで修行体験が出来るらしいの」
「なるほど……」
「一泊二日なんだけど……どうかな?」
竜一は思った。
お寺での修行体験。その話は、竜一的には少し興味があるものだった。
きっと以前までの自分であれば、興味は湧いて出なかった筈だが今は違う。
恐らく修行とは、座禅を組んだり、滝に打たれたりと、そういったものの類だろう。
それをしたからといって、即座に強くなれるものではないだろう。
だが、何事もやってみなければ分からない。
少しでも強くなれることならば、何でもやってみたい。
そんな風に思いながら、竜一は返事をした。
「わかりました。よろしくお願いします」
竜一は、軽く頭を下げた。
それに、静の誘いを無碍に断るのは難しい。
静は、竜一の返事を聞いて微笑んだ。
「じゃあ、きまり……だね」
竜一は、ふと疑問に思い、静に尋ねた。
「それにしても、宗教……に興味があるんですね? 少し意外でした」
竜一の頭の中にあるイメージでは、宗教とは、何となく敷居が高いもので、熱心な信者と厳しい戒律を守る厳格な僧侶の姿。
ダウナーでいつもテンションの低い静とは、あまり結びつくものではなかった。
「意外かな?」
「そうですね……少し」
「うーん、泉谷君。君は少し勘違いしているかも」
「勘違い……ですか……」
「うん。宗教っていうのはね、難しいものでもないし、誰にでも許されるものなんだよ」
「そうなんですか?」
「そう。宗教っていうのは、この世界で迷える人達を支える拠り所。答えの無い、この世の問題にヒントを与えてくれる概念。何も難しいことはない。言ってみれば、少しだけ楽に生きれるための道具、とでも言えばいいのかな」
「ツール……」
「なくても生きられないことはないけれど、あった方が絶対にいいもの。そういう認識でいいよ。まあ、中には傾倒しちゃう人も居るけれどね」
静の話は、竜一的には目新しいものだった。
竜一は、無難な返事をするしか出来なかった。
「そうなんです……ね」
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授業を終えた竜一は、山吹壮自室で寛いでいた。
平常時であれば、授業を終えたあとは、怜の訓練を受けるためにエスペランサ月白に向かうのだが、しばらくは訓練を中止し、回復に専念するように鈴巴から指示されているのだ。
竜一としては、体は全快していると思っているし、むしろ訓練を受けたいぐらいなのだが、業務命令とあってはそれを守るしかない。
せめて戦闘のイメージトレーニングだけでもしておくか、と思い立ち、畳の上に胡坐をかいて目を瞑る。
心を静め、頭の中にしっかりとイメージする。
イメージするのは、今まで戦った強敵たち。
『喰龍』ワン・ジーウェン。
『金剛』ジェイミー・ブランドナー。
そして、朽葉家から出奔した朽葉 菖蒲。
鈴巴から聞いた話では、菖蒲の居場所は杳として知れないらしい。
一体、どこへ行ったのやら。
竜一は警戒していた。おそらく、というか確実に、今後、菖蒲が何かを仕掛けてくる筈だ。
竜一は覚えている。最後に見た菖蒲の狂気に満ちた瞳を。
思い出すだけでも寒気がする。
それと同時に強く誓う。もう二度と、茜に手を出させはしない。
と、熱くなっていることに気付いた竜一は、頭を冷やすように努める。
これではイメージトレーニングにはならない。
再び心を落ち着け、イメージトレーニングを再開。
強敵の姿をイメージし、頭の中で戦う様を思い浮かべる。
強敵たちと実際に戦った竜一は、鮮明にイメージすることが出来る。
ワンの執念。ジェイミーの自尊心。菖蒲の狂気。
それぞれの信念が竜一へと襲い掛かるが、それらを竜一は、まとめて叩き潰す。
竜一にも譲れないものがある。それは、少女を守りたいという真の心。
その思いを原動力に、竜一は自分を奮い立たせた。
たっぷりと時間をかけてイメージトレーニングを終えた竜一は、へとへとに疲れていた。
精神的な疲労は、身体にも影響を与える。
横になるとすぐに眠気が襲ってきた。
今日は、ここまでだな……。
もうあと数秒で寝落ちするというところで、ちゃぶ台の上に置かれた携帯電話が震え出した。
「ん?」
竜一は、すぐさま携帯を手に取り通話ボタンを押した。
「あ、竜一、今いいかなー?」
スピーカー越しに、明るい声が聞こえた。
電話を掛けてきたのは茜だ。
「うん。大丈夫だよ」
竜一の返事に「良かった」と返事をして茜は喋り出した。
「次の日曜日、空けといてくれない?」
「うん? いいけど、どうしたの?」
「うん。どうせなら早い方がいいと思って」
「早い方がいい?」
「お母さんに竜一のことを紹介したいの」
「あー、お母さん? 茜のお母さんって確か……」
「うん。朽葉家の当主だね。紹介するなら早い方がいいと思うんだよねー」
早い方がいいって、なにがいいんだろう?
そもそも、紹介したいって、なんでそんなことする必要があるんだろう?
と竜一は疑問に思ったが、深く考えないことにした。
まあ、いいか。茜の好きなようにさせてあげよう。
竜一は、茜に甘い自分に苦笑しつつも、返事をする。
「分かった。大丈夫だよ」
「じゃあ、決まりだね!」
茜の弾むような声が聞こえた。
それからしばらく世間話をして、竜一は通話を切った。
畳の上に寝そべり、瞼を落とす。
駄目だ。もう、布団を敷く力は残っていない。
今日は、ここまで……。
竜一は、茜と約束した次の日曜日のことを深く考えず、眠りについた。




