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46.再戦9

 この世には、悪意が溢れている。

 竜一は本当に、心の底からそう思った。


 悪意とは、他者を憎む心。他者を恨み、他者を呪い、他者を殺し得る力。

 竜一は今更ながら気付いた。気付かされた。


 その負の感情は、人々の奥底に隠れている。

 誰もが持っていながら、表向きそう感じないのは、誰もかれもがそれを上手く隠しているから。

 そうしなければならないから。隠さなければ都合が悪いから隠しているだけなのだ。

 

 だから竜一は今まで気付くことができなかった。

 

 この世には悪意が溢れている。


 目の前の女の強烈な悪意にあてられ、そのような考えが、竜一の心を支配する。


 菖蒲の頭上に掲げられた、瓦礫の塊。それは、竜一の目には、悪意の塊が具現化したように見えた。

 その塊が振り落とされる直前、竜一は茜を押しのけて立ちあがった。

 すでに手足の感覚はなく、内臓は活動を低下させ、脳は錆びついたように酷く鈍い。

 それでも竜一は立ちあがった。


 大切な人を守るために。願わくば、この世の全ての悪意から、少女を守りたかった。


 「竜一!」


 茜の声が聞こえ、その直後、頭蓋に大きな衝撃。

 頭蓋骨がへこみ、脳に損傷を受け、生命活動をすることが難しくなる。

 

 だが、それでも竜一は倒れなかった。

 額から大量に血を流し、世界が歪んで見えても倒れなかった。

 ただ目の前の敵を睨み続けた。


 「驚いた、まだ立つの?」


 そう言って、菖蒲は嗤う。そして、少し小さくなった瓦礫の破片を再び振り上げた。


 「でも、次はどうかしら?」


 菖蒲は悪意の笑みを浮かべ、嘲るようにそう言った。

 そして、茜は竜一の上着を掴み、心の底から訴えた。


 「竜一! もういい、もういいよ! そうだ、一緒に逃げよう! このまま二人で、どこか遠くへ! それで、誰にも見つからないようにさ! 二人で一緒に暮らそうよ!」


 竜一は笑った。

 上手く笑えなかったが、精一杯の笑顔で、擦れた声で、茜に言葉を返した。

 

 「それじゃあ……だめ……だ」


 「どうして!?」


 「そんなのは、君に相応しくない。俺は、君に笑ってて欲しいんだ。だから、ここで悪意を払って見せる」


 「りゅう―――」


 茜の声に割って入るように、菖蒲の声が響いた。


 「いい加減にしてくれるかしら? そういうの、本当に要らないのよ」


 菖蒲は、一切躊躇うことなく、竜一の頭に瓦礫を振り下ろした。

 

 竜一は菖蒲を睨みつけ、不動を誓う。

 すでに体は満身創痍。無事でないところを探す方が難しい。

 だが、その目だけは、まだ死んでいなかった。

 

 竜一の黒の瞳と菖蒲の琥珀の瞳が交差し、視線がぶつかる。


 信念と悪意がぶつかり、瓦礫が竜一の頭に振り下ろされる瞬間、瓦礫がピタッと止まった。


 静寂が訪れ、無音の時間が続く。


 そして、菖蒲の口から声がこぼれた。


 「なに……かしら……これ……は?」


 菖蒲は瓦礫を脇に放り捨て、自分の心臓の辺りを鷲掴みにし、苦しそうに喘ぐ。


 「いったいこれは……何を……したの? 何を……したのよ。何をしたのよ! 貴方!」


 菖蒲は呼吸を乱し、竜一に怒声を張り上げた。

 突然起きた菖蒲の異変。


 竜一は戸惑いつつも確信していた。


 菖蒲は肩で息をしながら、目を見開き、静かに言った。


 「もしかして、これがそうなの? これが―――恋?」


 竜一は確信した。この土壇場の状況で、竜一が授かった神からの贈り物(ギフト)、魅了が発動したのだ。


 「うふふふっ、うふふふふふふふふふふっ」


 体をくの字に曲げ、菖蒲は笑う。


 「そうなのね。これがそうなのね。―――いいわあぁ」


 目線を上げ、菖蒲は言う。


 「うふふっ。こんなにいい気分なのは、本当に久しぶりだわあ。いいわ、今日のところは、これで引いてあげる」


 そして菖蒲は、茜に告げる。


 「茜、今日限り、私は朽葉家を抜けるわ。お母さまによろしく伝えておいてね」


 「お、おねえ―――」


 「ここからが本当の勝負よ。私と貴方、どちらが泉谷君を手に入れることが出来るかのね。今は、貴方に預けておきましょう。でも、私は諦めない。今度こそ、貴方に勝ってみせるわ」


 そう告げたあと、菖蒲は壁に空いた穴に向かって飛び込み、部屋を駆け抜け、窓を叩き割った。


 「待って! お姉ちゃん!」


 茜の叫びに振り返ることなく、菖蒲は窓から身を投げ出した。

 そして、重力に囚われ、体が降下した瞬間、風を切る駆動音。


 突然、空に現れたヘリコプター。


 菖蒲はヘリコプターから垂れ下がる梯子に捕まり、そのまま何処かに消え失せた。


 竜一は最後まで立っていた。菖蒲が消え失せるその瞬間まで。

 そして今、限界を迎えていた。


 竜一は膝から崩れ落ちた。すぐに瞼が重くなる。

 竜一の心に大きな不安が去来する。

 このまま眠ってしまって大丈夫だろうか? 自分は、また目を覚ますことが出来るだろうか?

 

 「竜一!」


 茜は竜一に慌てて駆け寄り、竜一の顔を凝視する。


 竜一は茜と視線を合わせ、小さく言葉を吐き出した。


 「もう一度……君に……会えると……いいな」


 そしてすぐに、竜一の意識は途絶えた。

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