23.待ち人
鈴巴の下についてからの竜一の日々は、途轍もないハードスケジュールであった。
まず朝は仕事先に向かい、夕方まで労働。仕事を終えると次は学校。
学校で授業を受けたのち、鈴巴と怜の待つマンションへ直行。
それからひたすらに怜から訓練を受ける。
一日の予定が全て完了する頃には、日付が変わってしまっている。
その頃には精魂尽き果て、山吹壮まで帰宅する力は残っていない。
それ故、鈴巴から譲り受けたマンションの自室で眠り、朝が来たらマンションから仕事先へ通勤という流れが、竜一の生活リズムになりつつある。
毎日ハードであるが、竜一は後悔していなかった。
確実に強くなっている実感がある。怜との組手で、まだ怜から一本取れたことはないが、それでも初めの頃に比べれば、格段に動けていることを自覚している。
自分の成長を感じられるのは楽しい。
勉強にしても仕事にしてもそうだが、どうやら自分は、コツコツと積み重ねていくことが得意なようだ。
それになにより、頑張れるのは、茜を守りたいという目標があるからであろう。
以上のことから、山吹壮には最近帰れていなかったのだが、鈴巴から明日は休むようにと命じられたので、今日は山吹壮に帰ることにした。
夏の気配が近付きつつあるが、それでも夜はまだ涼しい。
適度に冷たい風が竜一の頬を撫で、住宅街の通りを駆け抜ける。
人通りのない、静かな夜の住宅街を竜一は歩く。
少々頼りない街灯の灯を道しるべに歩みを進め、やがて懐かしきホームが見えて来た。
「久しぶりだな……」
約五日ぶりの山吹壮を見て、竜一はとても懐かしい気持ちになった。
わずか五日だというのに、これほど懐かしい気持ちになるのは何故だろう。
それは、ここ最近の出来事があまりにも現実離れしすぎて、日常を置いて行ってしまった感覚になったからだろうか。
山吹壮は、竜一にとって最後に残された懐かしき日常といったところか。
それをいうなら、仕事先や学校だってそうなのだが、山吹壮は竜一にとっては特別な場所だ。
山吹壮の自室は、竜一の聖域。そこでは、何人たりとも竜一の行動を制限することはできない。
そんなことを胸に秘め、山吹壮の階段を昇り、二階に到達した時、竜一の足が止まった。
203号室。竜一の部屋へと通じる扉の前で、ある人物が座り込んでいたのである。
竜一は、その人物に近付いて尋ねた。
「あの……何してるんですか? 冬城さん」
冬城 静。二十代前半と思われる女。ウェーブした灰色の髪に、薄い青色でグラデーションがかかった毛先が特徴。
その静が、扉を背にして座り込んでいた。
姿勢は体育座り。太腿に顔を埋めているので、表情は読み取れない。
静から返事がない。
「あの……」
しゃがみ込んで静の表情を覗き見ようとする竜一の耳に、小さな寝息が聞こえた。
寝てる……のか?
竜一は「まいったな」と呟いて、静の肩を優しく揺する。
すると、ようやく静が反応した。
「やあ、ようやく帰ってきた……」
静は竜一の帰りを待っていたようだ。
以前、静との会話の流れで山吹壮に住んでいることは伝えたが、部屋の番号まで伝えた覚えはない。
何故203号室が竜一の部屋だと分かったのだろう。
それを不思議に思ったが、竜一はまず、静に目的を訊くことにした。
「どうしたんですか? こんな夜遅くに?」
「……何か用事がないと来ちゃだめ?」
上目遣いでそんなことを言ってくる静の姿は、妙に色っぽかった。
竜一は、どもりながら返事をした。
「えっ……い、いえ、そんなことはないですけど……」
それ以上何も言わない静に、どうしたらいいものか、と考える竜一。
静は竜一の様子を見て、囁くように言う。
「ねえ、君の部屋、上がっていい?」
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「どうぞ……」
そう言って竜一は、緑茶で満たされた湯呑を静に差し出した。
ちゃぶ台の上に置かれた湯呑を見て、静はボソッと礼を言う。
そうして静は、チビチビと緑茶を飲み始めた。
どこか保護欲をかきたてられるようなその様を見つめながら、竜一は静を観察。
静の服装は薄手のニットに細身のストレッチデニム。
胸のラインが浮き出ているピッタリとしたニットは、少々目のやり場に困る。
表情はやはり暗く、纏う雰囲気はダウナー系。
外で立ち話もするのも何だったので、静の要望通り部屋に上げたはいいが、静は多くを語らない。
特に用事はないと静は言うが、本当にそうなのだろうか?
用事がないのに、こうして会う程、自分たちは仲が良かっただろうか?
自分と静の関係を言い表すのは難しい。
友達と言えるほど仲がよいかと言えばそうではないし、ましてや恋人なんかでは決してない。
クラスメイトと言えばそれまでだが、それ以外に関係性を表せないのが難しいところ。
竜一は、一口緑茶を飲んでちゃぶ台に湯呑を戻してから静に尋ねた。
「あの、冬城さん、やっぱりどうしたんですか?」
抽象的な訊き方になってしまったのは、静の真意を測りかねたため。
静は視線を湯呑に固定したまま、ボソッと答えた。
「だって君、最近すぐに帰っちゃうし、話したくても話せなかったから……」
「えっ……」
静の今の言葉を自分なりに解釈してみる。
「最近すぐに帰っちゃう」とは、学校の授業を終えたあとのことだろう。
怜の訓練を受けなければならないので、すぐさまマンションへ直行しなければならない。そのため、竜一は授業を終えると一目散に教室を飛び出す。
クラスメイトと談笑している時間はないのだ。
「話したくても話せなかったから」とは、つまりそういうことか。
「本当に、俺と会話するためだけに、ここまで来たってことですか……?」
「そうだよ。だからそう言ってる。特に用事はないけど、君と話したかったの」
「そ、そうですか……」
静とは友達と言えるほどの関係は築かれていないと思っていたのだが、それは自分の勘違いだろうか? 少なくとも静は、わざわざ足を運んで自分に会いに来てくれている。
少し肌寒い夜に、静を外で待たせてしまったことに若干の罪悪感を感じていると、聞こえてくる静の声。
「ねえ、最近何かあったの?」
「それは……」
とても答えずらい質問。ありすぎるほどにあったのだが、ありのままに答えるわけにはいかない。
竜一が答えを躊躇っていると、静は重ねて質問。
「もしかして、彼女……とか?」
「いえ、まさか! そんなわけないですよ!」
これだけは自信を持って断言できる。
そんな浮かれた話では決してない。
凛とした佇まいの年上女性と密室で二人っきり。そのシチュエーションだけ見れば羨ましがるものは大勢いようが、内容はそんな生易しいものではない。
怜の容赦のない打ち込みに、何度心が挫けそうになったことか。
感情が籠った竜一の否定の言葉を聞いて、静はニッコリと笑った。
優し気で、少し儚げな気なその笑顔に、竜一の心臓が一瞬だけ跳ねる。
静は安堵したような表情を浮かべて、ポツリと言う。
「よかった。私との約束、ちゃんと守ってくれてるみたいだね……」
約束? 疑問に思ったが、静の言葉が頭によぎる。
君が卒業する時にもう一度、同じこと言うから、それまではフリーでいてね。
別に約束した覚えはないし、そもそもあれは本気なのだろうか?
それを確かめるために、竜一は静に尋ねる。
「あの冬城さん……その……思わせぶりな発言は男子高校生には毒ですので、控えて頂ければと……」
「私は本気だよ。だから、卒業までは我慢してね。卒業したら、私が彼女になってあげる」
「うっ……」
ヘビー級ボクサーのパンチを喰らったような衝撃。
年上で儚げな美人からそう言われたのでは、理性を保つのはなかなか難しい。
だが、竜一は直ぐに体勢を立て直した。
何故なら竜一は、免疫が出来ていたのだ。
それは、美人に対しての免疫。茜を筆頭に、鈴巴、怜と竜一の周りには、美しい女性が多すぎる。流石の竜一も多少の耐性ぐらいつくというもの。
体勢を立て直した竜一は、すぐさま冷静に思考。
やっぱりからかわれているような気がするな。
冷静に考えて、俺に惹きつけられる理由が分からない。
そして、魅了の権能が働いていないことも確か。
竜一がそう考えていると、静が膝を引きずるように移動を開始。
竜一の方へ近づき、竜一の横にピタッと密着すると、頭を竜一の肩に預けてきた。
「あ、あの……冬城さん?」
「ふう……やっぱり、ここが一番落ち着く」
「あ、あの……冬城さん、重いのですが……」
竜一は肩に重みを感じたまま、遠慮がちに言うが、
静はそれを無視して目を閉じる。
静の重みと匂いを感じながら、戸惑う竜一。
さてどうしようかな、と考えていると、静の寝息が聞こえた。
静はいよいよ本格的に眠りに入ったようで、竜一が揺すっても目を覚まさない。
「まじか……」と呟いて、頭を掻いた竜一は、次の行動を決めた。
そっと静を畳に寝かせて、掛け布団を上からかけやる。
「まあ、いいか」と気持ちを切り替えて、電気を消した。
今日はもう遅いので、竜一も眠ることにする。
静から少し離れた位置で、仰向けになり目を閉じた。
少しだけ冷えるが、眠りに支障をきたすほどではない。
訓練で疲れているし、すぐ眠れるだろうという竜一の考えは、すぐに間違いだったと気付く。
左腕に温もりを感じる。それに、静の寝息がすぐそばで聞こえる。
目を開けて隣を見ると、密着するように体を寄せる静の姿。
またからかわれているのか、と静の顔を覗き見るが、静は本当に眠っている様子。
流石にこの状態では、色んな意味で眠れないと思った竜一は、
そっと立ち上がり、場所を変えることにする。
静に掛け布団を掛け直し、竜一は、離れた位置で横になった。
そして、しばらくするとまた人の温もり。
わざとやっているのか? と疑いが芽生えたが、やはり静は夢の中。
竜一は先程と同じ手順で場所を変える。
しかし、それでも結果は同じだった。何度場所を変えても静が密着してくる。
まるで磁石に引き付けられる砂鉄のように。
数回繰り返し、やがて竜一は観念した。
結局、竜一は、この日満足に眠れなかった。
自分の鼓動の音が、静に聞こえていないだろうか?
そんなことを気にしながら、朝を迎えたのである。




