19.月白にて1
地上三十五階建てエスペランサ月白は、都心部に聳え立つタワーマンションである。
建物内にフィットネスジム、シアタールーム、ライブラリーが備え付けらえており、おまけにコンシェルジュが存在するという高級マンション。
およそ庶民には到底縁のないそんな場所に、庶民中の庶民である竜一は居た。
竜一は、部屋の内部を改めてグルッと見回す。
山吹壮の自室とは比較にならないほど広い。
軽く走り回れそうなほど広い空間。しかも、このリビング以外にも部屋が他に三部屋あるというのだから驚きだ。
部屋には磨き上げられたガラスの机、高級感溢れる革張りのソファ、壁に埋め込まれた極大のテレビなど、質に入れればそれだけで一か月は生活できそうなほどの家具類が設置されている。
竜一は、自分がここに居ることが余りにも場違いのような気がして、さっきから落ち着かない。
「どうぞ」
その声と共に、竜一の前に湯気の立つカップが置かれる。
竜一は、お礼を言って一口飲んだ。
うまい。これほど上手い紅茶は飲んだことがない。
正直言って、紅茶の良し悪しなど分からないが、それでもこれは上手いと感じる。
上品な香りが鼻孔から脳内へ通り抜ける。舌の上で深いコクが広がり、竜一の心を至福で満たした。
そのお陰で、竜一は少しだけ心を落ち着けることが出来た。
肩の力を抜いて、軽く息を吐く。
クスッと笑う声が聞こえた。
竜一は、その声の方へ顔を向ける。
顔を向けられた人物、天染 鈴巴は上品に口元を手で覆い、謝罪を述べる。
「ごめんなさいね。貴方の反応が、あまりにも素直だったから」
「あ、いえ……大丈夫です」
鈴巴から笑みを向けられ、少し照れながら返事をする竜一。
「んんッ! ゴッホン!!」
緩んだ空気を引き締めるような、激しい咳払いが聞こえた。
竜一は、咳ばらいをした人物、朽葉 茜の方へ顔を向けた。
「落ち着いたことだし、そろそろ始めようよ!」
元気よく言い放つ茜に、鈴巴は返事をする。
「ええ、そうね」
ワンが自爆した爆心地から逃れることに成功した竜一達は、一旦、鈴巴が居住しているというマンションで休むこととなった。
ここはマンションの最上階三十五階。
驚くことに、三十三階から三十五階までの三フロアすべて、鈴巴が所有しているとのこと。
鈴巴が住居として使用しているのは、この部屋だけ。残りの部屋は、普段は使っていないのだという。
なんという贅沢な使い方か。なんとなく立ち振る舞いから滲み出てはいたが、鈴巴が規格外のお金持ちだということは、間違いないだろう。
そして今、話し合いが開始されようとしている。
竜一と茜が机を挟んでソファに対面で座り、鈴巴は、竜一から見て右側に設置されたソファに座っている構図。
まずは、鈴巴が口を開いた。
「泉谷君、まずは貴方に話しておくわ。この世界の裏側のこと、そして私達のこと」
竜一は鈴巴の説明を聞いた。
前半は、概ねワンから聞いた通り。異形種という怪物の血が突然開花した変異種。
現代まで異形の血を継承し、力を極限まで研ぎ澄ませきた純粋種。
そういった尋常ならざる存在が実在し、この世界の裏側で暗躍していること。
そして、竜一と茜に危害を加えた人物、ワン・ジーウェンは裏に属する存在。
通り名は『喰龍』。純粋種を本物の龍と呼び、執念ともいえるほどの対抗意識を燃やしていた殺し屋。
鈴巴独自のネットワークで入手した情報であるが、分かっているのはここまで。
ワンに殺しを依頼した人物、その動機ともに不明。
ワンが自爆した今、それを暴くのは雲を掴むのに等しい。
後半は、鈴巴と茜について。
二人とも、すでに竜一も知っての通り、純粋種の血族だ。
世界規模で見ても極少数の、異形の血を継承してきた家系。
天染家と朽葉家は、その昔大きな抗争を起こしていたようだが、現在は友好関係にあり、同盟を結んでいるそうだ。
朽葉家は、身体能力を爆発的に上げ、阿修羅の如く戦闘力を高めることが出来る家系。
天染家は、背中から巨大な翼を生やし、天使の力を模倣することが出来る家系。
鈴巴は現在、天染家当主代行という立場にあるそうだ。
現当主、天染 天成は、海外の拠点に身を置いているそうで、この国は鈴巴に任されているとのこと。
竜一は、説明を聞きながら、しっかりと頭の中で反芻する。
自分は既に裏の世界に足を踏み入れた。この話はもう他人事ではない。
身を固くする竜一に、鈴巴は真剣な調子で話しかける。
「私からの説明はこのぐらいかしら。さあ、聞かせてくれるかしら? 泉谷君のことを」
竜一はゴクリと唾を飲み込んだ。茜の顔をチラッと窺う。
茜は、真剣な様子で竜一を見ている。茜も気になっているようだ。
それはそうか。代々引き継いできた力を、平凡な男子高校生が突然使ったのだ。
驚くなというほうが無理がある。
竜一は理解していた。
ワンと戦った時は無我夢中で理解が及んでいなかったが、今なら分かる。
この力は、神からの贈り物の権能だ。
魅了の効果で、茜は竜一の眷属という位置づけになったのだろう。
そのため竜一は、眷属の力を借り受けることが出来た。そういうことだと竜一は理解している。
竜一は、洗いざらい全て話した。
自分が別の世界からの転移者であること。
ギフトの権能で、茜を魅了したこと。
ギフトを獲得した理由、原理共に不明であること。
竜一の説明を聞いて、茜と鈴巴は押し黙る。
沈黙が訪れる。
竜一にとっては、恐怖の数秒間。
竜一は、茜の顔を恐る恐る覗き見る。
茜は、目を見開いて口を開いた。
「そ、そんな……」
竜一は、顔を曇らせた。次に茜から発せられる言葉が想像できる。
失望、悲観、失意のいずれかに属する言葉。あるいは怒りか。
茜は口をパクパクし、言葉の続きを探す。
「それってさあ、それって―――」
ガバッと立ち上がり、茜は声を張り上げた。
「―――すごすぎない!?」
えっ?
竜一は、予想していなかった茜の反応に困惑した。
茜の反応は、竜一が想像したいずれの感情でもなかった。
「すごいって竜一君! 異世界からやってきた!? 何それ!? それって、私以上のレアキャラじゃん!」
「レ、レアキャラ?」
「うん、そうだよ! レアキャラ! いやスーパーレア! 超超超レア! 世界中探しても、そんなの竜一君だけじゃない!?」
「い、いや、でも俺自身は何もしてないし。誇れるものなんかじゃないよ」
「そう? でもそれなら私だって同じだよ。私だって、望んで力を手にした訳じゃない。たまたま朽葉家に生まれて、気が付いたらこうなってた。それって、本質的には竜一君と同じじゃない? だからさ、ラッキーな自分をまずは喜ぼうよ!」
「ラッキーって、そんな風には思えないよ。だって、俺は君を騙していたんだから」
「騙すって、魅了のこと? それなら何も問題ないよ」
「えっ?……どうして?」
「だってさ、恋っていう感情自体、まやかしみたいなものじゃん。脳内のシナプスが誤動作を起こして、ありもしない幻想を見せている。そんな感じじゃない? だからさ、この件も、やっぱり同じだよ」
「そう……なのかな? 俺のこと、恨んだり憎んだりしないの?」
「ハハッ! なんでよ! 全然まったく、これっぽちも、そんなこと思わないよ! だって私、今、楽しいんだもん! 恋って凄いね! 何もかもが輝いで見える! これがまやかしでも別に構わない。私って、まやかしでも幻想でも、楽しむタイプだから!」
すごい勢いでまくしたてる茜。
茜は独自の理論をハッキリと、楽し気に口にする。
そこにあるのは、正の感情のみ。
竜一は、心の底から茜に感謝した。
心の底から安堵した。
どこまでも前向きな茜に、竜一は救われる。
「朽葉さん、ありがとう」
竜一は優しい笑みで感謝を述べた。
茜の口から声が漏れた。
「いい……」
「えっ?」
「いいよ、その顔、すごくいい。なんかこう……体の中心が熱くなってきちゃう……」
茜の瞳に危険な光が宿り始める。
口元が緩み、いかがわしいことを考えているような表情。
竜一は、茜に感謝しているし、恋愛感情はないとしても親しみを覚えている。
それでも、茜のこの顔ばかりは、背筋に寒気が走り、危機感を覚える。
竜一が茜に対して愛想笑いを向けていると、乾いた音が部屋に響いた。
今まで黙っていた鈴巴が手を叩いた音だ。竜一と茜の視線が鈴巴に集まる。
鈴巴は、咳ばらいを一つして竜一に喋りかけた。




