貴族の歓待 アントン騎士爵家
タイル張りの部屋には湯気が満ち、そこそこの広さの部屋の奥半分を占める浴槽の中が温かい事を物語っている。
…難しいことは言いこなしだな。
今世で初めての風呂だ。楽しむとしよう。
…掛け湯をして、そそくさと湯船へ向かう。
風呂に入って「ああ」と親父臭い声を吐くまでが日本人の仕様だろうか。
「そう言えば、風呂の風習はセルラニアでも帝国領内でもなかったな。お湯で濡らしたタオルで体を拭くだけだったような?」
「フォルセウス様は博識ですね!
風呂をご存知でしたか!」
案内役として屋敷の入り口から風呂場にまで付いてきたこの家の長男も同じように湯船に浸かって、息を吐きながら賞賛を表す。
「まあ、書籍での知識だが」
「これは北方にありますクリングオルフ地方で好まれる風習なのですが、2代ほど昔の当家当主が、訪ねた際に気に入って造らせたとか」
「確かにこれはいい。
今まで肩まで湯に浸かる経験はないからな」
「そうでしょう!
まず、温めた湯に浸かるのが気持ち良いなど、経験したことのない者には知るよしもないですし、燃えなくて水にも溶けない軽い材質の桶を造る必要もあります。
そしてその湯船へ張る水と沸かす為の熱を確保する事が出来なくては、当家のように毎日風呂へ入るのは難しいでしょう」
そうか。言われてみれば、お湯に全身を浸けると言う体験を自然界で体験するには温泉にでも行かないと難しい。
フォルセウスの記憶を辿っても地震が起きたと言う話は聞いたこともないし、この大陸自体が地熱の豊かな土地ではないのだろう。
加えて大陸性の乾燥気味の気候だから、布で拭くだけで十分汚れを払える。
「それに海風が吹き付けるこの街では、塩気を取ろうとすると何度も体を繰り返し拭くことになります。
ですから街の中には民衆向けに湯気で満たされた部屋で体を拭く公衆洗体場と言う場所もありますよ?
これとは違った趣ですし、近いうちに案内しますね」
「それはありがたいけど、アントン騎士爵家の次期当主が公衆の場に行くのは、面目に係わるのでは?」
サウナは楽しみだが、身分を隠している俺はともかく、次期当主が来るのはまずいだろ?
「大丈夫ですよ。
私は嫡位を外れています。将来は船乗りとして世界を回るのが夢ですね」
「廃嫡されていると?
別段、スルト殿に問題があるようにも見えませんが?」
「自分から破棄したんですよ。
『オケイアス』の血が色濃いのか、どうにも陸でジッとしているのは性に合いません。
今はまだ家から出ることが出来ませんが、一番上のジェネニスが近く結婚するのでそうなれば、アントン家名誉騎士号を得てから、何処かの海軍で操船を習う予定です」
そう言えば、ルナスフィアの魔貴族は元々個人の力が強い魔族の有力な血筋の性か、家を継いで護るより、冒険者として飛び回ることが多いのだったか?
「あのぉ。フォルセウス様?
私は少しのぼせそうなので、そろそろ上がりたいのですが?」
「ああ。俺はもう少しゆっくりしていく」
「…さすがにルナライトの若君を初めて利用するお風呂に置いてはいけないんですよ。
のぼせて倒れられでもしたら、多分、私は親父に殺されるかと」
「……分かった。上がろう」
これから毎日利用できるのだし、明日以降はダウン中の兄達とも一緒だろうから、長湯が出来るはずだ。
「お連れの方々が体調を戻すまで正式な晩餐はお控えします。
後程、妹達を連れてご挨拶に参ります」
……風呂の脱衣場でそう言っていたスルトだが。
そのスルトが一向にこない。
蒼い髪の女性3人と金髪1人、4人に比べて若干地味目だが茶髪の幼女が1人と馬車でダッタに聞いていたスルトの妹は全員集合しているんだが。
……沈黙が辛い。
「えーと。初めましてでいいかな?
フォルセウス・アルヴィスだ。今は身分を隠す為、セルラニア騎士爵家のフォル・ダムフォードを名乗っているし、伯爵領に着いたらフォルセウス・ルナライトに変わるのだが?」
初見だから、立場が一番上の俺が声を掛ける必要がある。
この目上どうこうも結構に曖昧になり厄介なのだが。
騎士爵家を継ぐ予定の長女ジェネニスが15歳だと聞いているが、今の俺がダムフォードの次男扱いで招かれた側だから、やや上の立ち位置になるかな? くらいの感覚だ。
騎士爵本人が来るのが一番楽だが、クライムとリムがダウンしているのでそれが出来ない。俺と気兼ねなく会える立場で一番上のスルトが仕切らないと本当に困る。
…苦肉の策で、今の本名と偽名、もうすぐ名乗ることになる名前をだしてこれを非公式のものにしようと提案する。
「…私は、先程館内を案内しましたスルトの妹で次期当主のジェネニス・アントンにございます。ジェネとお呼びください。
愚兄がご迷惑をかけ、申し訳ございません。
それから私の後ろにいるのが…」
どうやら乗ってくれるらしい。でなければオープン過ぎるスルトと違い、まともな貴族の子女に見える彼女らが他家の者に次期当主が第2子の女性であることを打ち明けまい。
ジェネの言葉に一歩前に出たのは、身長的には俺よりやや高い女性、隣のジェネニスが俺とほぼ同じくらいだから、この中で一番背が高い女性でもある。
「ウィンです。ウィンディ・アントン。駄兄スルトとこちらのジェネの同母妹です」
「シルナンテと申します。気軽にシンとお呼びくださいね。異母妹ですが、同じオケイアスの母を持つので、特徴的な蒼髪なんです」
「トアです。ルートアナイ。フォルセウス様の兄君にダイクライム様のお父上と同じ集落出身のエルフを母に持ちます。
ですから、オケイアスの一族ですけど、扱いはエルフになります」
その金髪はエルフ譲りか。ハーフ扱いでなく、エルフとして扱われるならオケイアスは遺伝的に完全劣等か?
この世界に遺伝子を調べる研究がされているかは不明だが。
「…キリエ」
思考が脇道に逸れる俺をよそに、そのトアが隣の幼女を小さく揺する。
キリエと言うのが名前か?
「…キリエ、です。ママが人間だからハーフオケイアス。になります」
人見知りなのか? 幼くて礼儀を習っていないのか。多分、前者だろうな。トアのスカートを両手で強く握っている。
こう言う子は。
「初めまして、キリエちゃん。
フォルセウスと言います。フォルと呼んで?」
目線を同じ高さに合わせて、頭を撫でながら話し掛ける。
孤児院時代の妹達を思い出す話だが、目線が同じ高さにあると恐怖心が薄れる。頭を撫でる事で触れても大丈夫と感覚的に教える。
……虐待されていた子とかの頭を撫でるのは逆効果だが。この場合は問題ない。
「キー」
若干頬を赤くしているが、これなら大丈夫だろう。軽い人見知りくらいかな?
目線を逸らさないから数日で馴れてくれそうだ。そう思った所で、キリエが小さく呟く。
「キー?」
「姉様達、皆そう呼ぶ」
呼び方かね? 周囲の女の子達へ視線を向ける。
「すみません。末の妹で甘やかしていまして、普段キーちゃんと」
代表して答えるジェネ。小さい子を呼ぶ呼び方だな。それで呼んで良いとお許しが出たわけだ。それじゃあ……。
「よろしく、キーちゃん」
微笑みかけるとすごい勢いで首を上下する。これなら仲良く出来そうかね。
「他の皆も、今は騎士爵家出身の客扱いでよろしく」
周囲の女の子達も好意的だし、これなら楽な滞在になりそうだ。
……30分くらいして会話の弾んでいるところにやって来たスルトは大ひんしゃくを買っていたが。
いくつか補足します。
風呂が普及しないのは、体を拭く布を濡らすお湯に体臭を抑えるために香油が入っていて、その香油が各種教会の財源になっているから、宗教勢力に遠慮している面もあります。
クリングオルフがはっきり聞こえた上に地方と言っているのでフォルセウスの中では北の方は似た地名が多くてややこしいと誤解に拍車がかかっています。
アントン家の兄妹は上から、
スルト 16歳
ジェネ 15歳
ウィン 14歳
シン 11歳
トア 11歳
キリエ 7歳
です。前世の感覚が強いフォルは、中学生や小学生が将来を見据えて婚活していると思っていません。
オケイアスと言う妖精は存在しません。エルフやドワーフに対応させて創ったオリジナルの妖精種族になります。
種族名は、古代ギリシャの哲学者ホメロス(当時は学問は全て哲学に分類されます。ホメロスはトロイの木馬で有名なトロイヤ戦争を含む叙事集『オデッセイア』の作者とされる人物です)が提唱した『水の神オケイアス』から。
身長は、成人男性でも平均150cm未満。
男女共にスラッとした外見ですが、元々半水棲の種族なので見た目に反して力が強い。
蒼い髪と同色の瞳で色白の肌。水の精霊と親和性が強く、1時間くらいなら息継ぎなし、魔術的補助なしの潜水が可能と設定しました。




