第8話 魔石だけが残された森と、吸血姫の独占欲
翌朝。
「恒一、朝よ。起きて」
「……ん……あと五分」
「起きないと、昨日のタルトを全部食べてしまうわよ?」
「それは起きる!」
俺は勢いよく上半身を起こした。
目の前には、満足そうな笑みを浮かべたリゼリアがいる。
「ふふっ。おはよう、恒一」
「おはよう……。朝から食べ物で釣るなよ」
「だって、昨日は私が選んだタルトをおいしいって言ってくれたでしょう? また一緒に食べたいと思ったの」
リゼリアは悪びれもせず、俺の隣に腰を下ろした。
「それに、今日は森へ調査に行くのでしょう? ちゃんと朝食を食べて、体力をつけないと」
「そうだな。昨日の報告も気になるし、準備はしっかりしておかないと」
「ええ。私もエレナも一緒にいるから、心配しないで」
そう言って、リゼリアは俺の腕に自分の腕を絡めた。
最近、彼女はこうして自然に距離を詰めてくるようになった。最初に出会った頃の気高く近寄りがたい雰囲気を思えば、ずいぶん変わったものだ。
もっとも、今の彼女のほうが俺としては接しやすい。
「……ところで、恒一」
「ん?」
「今日の調査が終わったら、私と二人でお茶を飲む時間を作ってくれる?」
「もちろん。エレナも誘うか?」
その瞬間、リゼリアの笑顔がぴたりと止まった。
「……恒一」
「はい」
「今のは、二人で、と言ったのよ?」
「……あっ」
「私だって、たまには恒一を独り占めしたいの」
最後の言葉は、いつもより少し小さかった。
いつも積極的な彼女が、こんなふうに素直な気持ちを口にすると、こちらまで照れてしまう。
「わかった。今日は二人でお茶にしよう」
「本当?」
「ああ、約束だ」
「……うん!」
リゼリアは嬉しそうに笑い、俺の腕をぎゅっと抱きしめた。
朝から甘い。
甘すぎる。
このままでは、森へ行く前に俺の心臓がもたないかもしれない。
◇
朝食を済ませ、俺たちは冒険者ギルドへ向かった。
受付で手続きを済ませてから奥へ進むと、ギルドマスターのガルドが待っていた。俺たちの姿を見るなり、彼は表情を引き締めた。
「来たか。昨日の報告について、話しておきたいことがある」
「何かわかったんですか?」
「今朝も似たような報告が入った。北東の森で採集をしていた冒険者が、獣道の脇で魔石を発見したそうだ」
ガルドは机の上に地図を広げた。
「周囲に魔物の死骸はなく、血痕もほとんどなかったらしい。発見された場所は、昨日お前たちがグレイファングを討伐した場所から、そう遠くない」
地図には、森の北東側に二つの赤い印がつけられていた。
昨日の討伐地点と、今回魔石が見つかった場所だ。
「昨日のグレイファングの群れも、普段の縄張りから外れた場所にいた。今回の件と関係がある可能性はある」
エレナが地図を見つめた。
「魔物が移動した先に、魔石だけが残されていた……ということでしょうか」
「まだ断定はできん。だからこそ、調査が必要なんだ」
ガルドは俺たちを順番に見た。
「依頼として受けることはできる。ただし、目的は現地の状況確認と記録だ。原因がわからなくても、危険を感じたら撤退しろ」
「わかりました」
「それと、見つけた魔石にはむやみに触るな。普通の魔石かどうかも、まだわかっていないからな」
「承知しました」
俺たちは依頼を受け、必要な道具を確認した。
回復薬、保存食、ロープ、採集用の袋。念のため、周囲を記録するための紙と筆記具も用意する。
俺は道具を手に取ると、《空間操作》を使って収納していった。
回復薬は薬品類、食料は食料品、ロープや採集用の袋は調査道具。
昨日の練習で試した分類を意識しながら、ひとつずつ整理していく。
「ずいぶん手際がよくなったわね」
エレナが感心したように言った。
「昨日、教えてもらったおかげだよ。必要なものをすぐ取り出せるようにしておけば、いざというときにも役立つからな」
「確かに便利ね。でも、取り出すことに集中しすぎて、周囲への注意を忘れないようにね」
リゼリアが念を押した。
「能力に頼りすぎるのも危険よ。恒一は、覚えたことをすぐ試したくなるところがあるから」
「……否定できない」
俺が苦笑すると、二人も小さく笑った。
緊張感のある調査になりそうだが、仲間とこうして話していると、少し気持ちが落ち着く。
準備を終えた俺たちは、北東の森へ向かった。
◇
森へ入ってから、三十分ほどが過ぎた。
エレナが先頭に立ち、地面や木々の様子を慎重に調べている。リゼリアは俺の少し前を歩き、周囲の気配に注意を払っていた。
俺も二人についていきながら、《空間操作》を意識する。
昨日の魔石に、何か異常があるのだろうか。
それとも、ただ魔物の死骸が見つからなかっただけなのか。
考えながら歩いていると、先頭のエレナが足を止めた。
「……妙ね」
「どうした?」
「ここ、獣道のように見えるでしょう?」
「ああ」
「でも、足跡が少なすぎるんです。普段なら、小型の魔物や森の動物がもっと通っているはずなのに」
エレナはしゃがみ込み、土の表面を観察した。
「こちらの草は踏まれているのに、あちら側はほとんど荒れていません。何かが特定の方向へ移動したのかもしれません」
「魔物が一斉に移動した、ということか?」
「その可能性はあります。ただ、足跡だけでは何が起きたのかまではわかりません」
リゼリアが周囲を見回した。
「このあたり、魔物の気配も薄いわね」
「気配が?」
「ええ。本来なら、森にはいろいろな魔物がいるはずなのに、妙に静かだわ」
俺は木々の間を見上げた。
風は吹いている。遠くから鳥の声も聞こえる。
それなのに、森全体が何かを警戒しているような、不思議な静けさがあった。
「とりあえず、先へ進もう。ただし、いつでも戻れるようにしておく」
「ええ」
「わかりました」
三人で確認し合い、調査を再開した。
しばらく進んだところで、エレナが再び立ち止まった。
「見つけました」
彼女が指さした先に、小さな紫色の石が落ちていた。
魔石だ。
俺たちはすぐには近づかず、まず周囲を確認した。
魔物の死骸は見当たらない。血痕もなく、何かを引きずったような跡もない。
「本当に、魔石だけなのね……」
エレナが呟いた。
「ガルドさんの話どおりだな」
俺は少し離れた場所から魔石を観察した。
大きさは親指ほど。色も形も、これまで見た低級魔物の魔石によく似ている。
しかし、なぜか違和感があった。
普通の魔石が落ちているだけなら、ここまで気になることはないはずだ。
「リゼリア、何か気づくことはあるか?」
「少し待って」
リゼリアは目を閉じ、魔石に意識を向けた。
しばらくして、ゆっくりと目を開く。
「……魔力が残っているわ」
「魔石なんだから、魔力があるのは普通じゃないのか?」
「ええ。でも、これは少し違う。魔石の内部にある魔力とは別に、表面にごく薄い魔力の痕跡が残っているの」
「表面に?」
エレナが慎重に尋ねた。
「どんな魔力なのですか?」
「まだ、はっきりとはわからないわ。ただ、自然に地面へ落ちただけの魔石とは違うように感じる」
俺はもう一度、魔石に目を向けた。
魔石を体内から取り出したのなら、普通は魔物の死骸や、取り出した際の痕跡が残る。
だが、今回はそれがない。
まるで、魔石だけがここに置かれたかのようだった。
「……少しだけ、能力を使ってみてもいいか?」
俺は二人に尋ねた。
「危険はない?」
リゼリアが心配そうに俺を見る。
「魔石には触れない。周囲の空間に何か異常がないか、確かめたいんだ」
エレナは少し考えてから頷いた。
「慎重にお願いします。何かあれば、すぐに中止してください」
「ああ」
俺は呼吸を整え、魔石の周囲へ意識を向けた。
《空間操作》。
これまで物を収納したり、《空間固定》で魔物の動きを一瞬だけ妨げたりしてきた能力だ。
今回は何かを動かすつもりはない。
ただ、そこにある空間を感じ取ろうとした。
木々の間。
地面の上。
魔石の周囲。
意識を少しずつ広げていく。
その瞬間だった。
――ぞくり。
背筋に冷たいものが走った。
「……っ!」
思わず息を呑む。
「恒一?」
リゼリアがすぐに近寄ってきた。
「どうしたの?」
「今……何か、引っかかるような感覚があった」
「引っかかる?」
「ああ。うまく説明できないんだけど……ここだけ、空間のつながりが少し歪んでいるような気がしたんだ」
エレナの表情が変わった。
「空間が歪んでいる……?」
「本当にそうなのかはわからない。俺の能力が、何かに反応しただけかもしれない」
そう答えた直後だった。
魔石の表面が、かすかに紫色に光った。
「下がって!」
リゼリアの声が響く。
俺たちは一斉に後退した。
魔石は地面に落ちたまま、ほんの一瞬だけ淡い光を放ち、すぐに元の色へ戻った。
何も起こらない。
爆発も、魔物の出現もない。
ただ、森の静けさだけが戻ってきた。
「……今のは?」
エレナが弓に手をかけたまま、周囲を警戒する。
「わからない。でも、普通の魔石ではなさそうだ」
俺は慎重に息を吐いた。
魔石の周囲に残る、わずかな違和感。
それは、《空間操作》が何かを感じ取った結果なのだろうか。
それとも、魔石そのものに何か秘密があるのか。
「恒一、もう能力を使わないで」
リゼリアが俺の手を握った。
「今は調べるより、無事に帰ることを優先しましょう」
彼女の声には、いつもより強い心配が込められていた。
「……そうだな。これ以上はやめておこう」
俺は頷いた。
魔石には触れず、発見した場所を記録する。周囲の木々や地面の状態も確認し、必要な情報をまとめた。
その間、エレナは周囲の警戒を続けてくれていた。
「記録は終わった?」
「ああ」
「なら、戻りましょう。これ以上の調査は、ギルドに報告してからにしたほうがいいわ」
俺たちは来た道を引き返した。
帰り道でも、魔物の姿はほとんど見かけなかった。
そのことが、かえって不気味だった。
◇
森を出る頃には、太陽が傾き始めていた。
街へ戻った俺たちは、ギルドでガルドに調査結果を報告した。
魔石の位置、周囲に死骸がなかったこと、表面に残っていた魔力の痕跡。
そして、俺の《空間操作》が異変に反応した可能性についても伝えた。
ガルドは最後まで黙って聞いていた。
「……わかった。お前たちの報告は、調査担当に回しておく」
「何かわかったら、教えてもらえますか?」
「ああ。ただし、原因がはっきりするまでは北東の森への立ち入りを控えろ。特に、魔石に触れるのは絶対にやめておけ」
「わかりました」
ガルドは地図を畳み、険しい表情で付け加えた。
「今回の件は、単なる魔物の移動だけでは説明できないかもしれん。お前たちが感じた異常も含め、慎重に調べる必要がある」
その言葉を聞き、俺は改めて事態の重さを感じた。
ただの採集依頼や討伐依頼とは違う。
原因のわからない異常に、俺たちは足を踏み入れているのだ。
ギルドを出ると、リゼリアが俺の顔を覗き込んだ。
「疲れていない?」
「少しは。でも、大丈夫だよ」
「本当に?」
「本当だって」
「……なら、約束どおり、お茶にしましょう」
リゼリアは少しだけ笑った。
「今日は私が、お店を選ぶわ」
「わかった。楽しみにしてるよ」
エレナが軽く手を振った。
「私はここで別れますね。今日の調査内容を、自分の記録にもまとめておきたいので」
「ありがとう、エレナ。今日は助かったよ」
「私も、二人と一緒だったから落ち着いて調べられました。また明日、ギルドで会いましょう」
「ええ。気をつけて帰ってね」
リゼリアが微笑むと、エレナも微笑み返し、街の通りへ歩いていった。
その背中を見送ってから、リゼリアが俺の袖を引いた。
「……恒一」
「ん?」
「今日は、私と二人きりよ?」
「はいはい、わかってるよ」
「はいは一回!」
「わかった、わかった」
俺が笑うと、リゼリアも嬉しそうに笑った。
◇
連れていかれたのは、街の広場に面した小さな喫茶店だった。
窓際の席に座ると、夕日に照らされた街並みがよく見える。
リゼリアは果物のタルトと温かい紅茶を注文し、俺には焼き菓子を勧めてくれた。
「今日は、私がごちそうするわ」
「いいのか?」
「ええ。昨日の報酬もあるし。それに……」
リゼリアは少しだけ視線を落とした。
「恒一が無事に帰ってきてくれたから」
「……リゼリア」
「森で、あなたの様子が変わったとき。本当に心配だったの」
彼女はカップを両手で包み込んだ。
「あなたの能力は、私にもわからないことが多い。だからこそ、何が起こるかわからないでしょう?」
「ああ……」
「私は、恒一を信じているわ。でも、信じているから心配しない、というわけじゃないの」
赤い瞳が、まっすぐに俺を見つめた。
「あなたが危険な目に遭うのは、嫌よ」
その言葉に、胸の奥が温かくなった。
リゼリアは、ただ俺にくっついていたいだけではない。
本気で俺のことを心配し、無事を願ってくれているのだ。
「ありがとう。俺も、リゼリアが心配するような無茶はしないようにする」
「……本当?」
「ああ。約束する」
俺は手を差し出した。
リゼリアは一瞬驚いたあと、そっと俺の手を握った。
「……じゃあ、約束の印」
「印?」
彼女は少しだけ身を乗り出した。
そして、俺の頬にそっと唇を触れさせた。
「……っ!?」
思わず固まってしまった。
リゼリアは顔を真っ赤にしながら、すぐに元の席へ戻った。
「こ、これで約束よ!」
「リ、リゼリア……?」
「な、何よ! 嫌だった?」
「いや、嫌じゃないけど……びっくりした」
「そ、そう……」
彼女は紅茶に口をつけた。
けれど、カップを持つ手が少しだけ震えている。
自分から頬にキスをしておいて、照れているらしい。
「……恒一」
「ん?」
「今のこと、忘れないでね」
「忘れるわけないだろ」
「……なら、いいわ」
リゼリアは嬉しそうに微笑んだ。
俺たちはそのまま、しばらく他愛のない話をした。
今日の調査のこと。
エレナの弓の腕前のこと。
これから挑戦してみたい依頼のこと。
そして、いつかもっと大きな街へ行ってみたいという話もした。
森で感じた不気味な違和感は、まだ解決していない。
それでも、こうして笑い合える時間があることが、今の俺には何より大切だった。
◇
その夜。
宿の部屋に戻った俺は、今日の出来事を思い返していた。
魔石だけが残されていた森。
表面に残る、普通とは違う魔力。
そして、俺の《空間操作》が感じ取った奇妙な違和感。
何かが起きている。
それだけは、間違いないように思えた。
俺はステータスを確認する。
《空間操作》
《空間収納:使用可能》
《空間固定:初期段階》
《固有異空間:未解放》
表示は、昨日と大きく変わっていない。
だが、今日の調査を通じて、ひとつだけ気づいたことがある。
俺の空間操作は、物を収納したり、動きを一瞬だけ止めたりするだけの能力ではないのかもしれない。
空間そのものに異常が起きたとき、それを感じ取る可能性がある。
もしそうなら、今日の魔石は――。
そのとき、表示の一番下に小さな文字が浮かんだ。
《空間操作:微弱な異常反応を記録しました》
「……何だ、これ?」
思わず呟く。
さらに文字が続いた。
《記録対象:未解析》
《解析条件:不足》
それだけ表示すると、文字はゆっくりと消えていった。
俺はしばらく、何も言えなかった。
能力が、今日の異変を記録した。
つまり、俺が感じた違和感は気のせいではなかったのだ。
「……明日、もう一度ガルドさんに相談するか」
今すぐ森へ戻るつもりはない。
リゼリアとの約束もあるし、エレナの言うとおり、慎重に進める必要がある。
俺は窓の外を見た。
夜の街は静かだった。
遠くの街灯が、柔らかな光を放っている。
この世界に来て、まだ間もない。
それでも、俺には守りたい仲間ができた。
だからこそ、力を磨かなければならない。
いつか、この世界で起きていることを理解するためにも。
そして――。
「……みんなと、もっと長く一緒にいるためにもな」
俺は小さく呟き、明日の準備を整えた。
魔石の謎は、まだ始まったばかりだ。




