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第61話 絶望の檻と、新たなる一撃

黒い肉壁が、低い音を立てて脈打っていた。


閉じ込められた八人の足元には、黒い霧が薄く漂っている。呼吸するたびに身体から力が抜け、魔力を練ろうとしても、指先に集まる前に霧散してしまう。


恒一は片膝をついたまま、荒い息を整えようとしていた。


「くそ……。この霧、吸い込むほど力が抜けていくのか」


「おそらくな……。魔力だけじゃない。体力まで持っていかれている」


答えたのはダリオだった。彼は剣を杖代わりにして立ち上がろうとしていたが、足元がふらつき、再び膝をついた。


予選を勝ち抜いた八人は、いずれも一流の冒険者だった。戦い慣れた者ばかりであり、多少の異常事態なら自力で切り抜ける自信もあったはずだ。


しかし、この檻はそんな自信を嘲笑うかのように、彼らの力を奪い続けていた。


「なら、霧の発生源を探す!」


大剣を持った男が、残った力を振り絞って床へ剣を叩きつけた。


轟音が響き、床の肉が大きく裂ける。だが、傷口から黒い繊維が伸び、瞬く間に元の形へ戻っていった。


「駄目だ! 壊しても再生する!」


「壁だけじゃない……床も、この檻そのものが生きているんだ」


恒一は周囲を見渡した。


壁、床、天井。どこを見ても黒い肉が覆い尽くしている。空間を固定して動きを止めようとしても、相手は単なる物体ではない。肉体の一部を変形させながら、固定された場所を避けて再生してくる。


ならば、空間を押さえつけるだけでは足りない。


何か別の方法が必要だった。


「おい、黒瀬! 何か手はないのか!」


別の冒険者が声を荒らげた。


責めるような言葉だったが、無理もない。全員がこの場から逃げ出したいのだ。誰かに助けを求めたくなるのも当然だった。


恒一は唇をかみしめた。


「……探してる。俺だって、ここで全員を見捨てるつもりはない」


「だったら、早くしろ!」


その声を最後に、再び触手が床から飛び出した。


「来るぞ!」


ダリオが剣を振るう。恒一も横へ跳び、触手の進路を《空間固定》で一瞬だけ押さえ込んだ。


その隙に、双剣使いの女性が触手を切り払い、槍使いの青年が反対側から突きを放つ。


連携は成立していた。


だが、切断された触手はすぐに再生し、今度は三方向から襲いかかってくる。


「きりがない……!」


恒一は身をひねってかわしたものの、別の触手が脇腹をかすめた。


衝撃で身体が吹き飛び、背中から床へ叩きつけられる。


「ぐっ……!」


立ち上がろうとしても、腕に力が入らない。


視界の端で、ほかの冒険者たちも次々と倒れていくのが見えた。


大剣使いは剣を握る手を震わせ、魔法使いの一人は詠唱を続けようとしながら、その場に膝をついた。


ダリオもまた、剣を構えたまま肩で息をしていた。


「こんなところで……終われるかよ……!」


彼は最後の力を振り絞り、襲いかかる触手へ斬撃を放った。


だが、その一撃は途中で勢いを失い、触手をわずかに傷つけただけだった。


触手が反撃する。


ダリオは避けようとしたが、足が動かなかった。


「ダリオ!」


恒一は考えるより先に身体を動かしていた。


残された力をかき集め、《空間固定》を発動する。


触手の動きが、ほんの一瞬だけ止まった。


その間にダリオは横へ転がり、直撃を免れた。


しかし、恒一自身は避けきれなかった。


別の触手が背中を打ち、彼の身体を床へ押しつける。


「がっ……!」


肺から空気が押し出され、息が詰まる。


ダリオが目を見開いた。


「お前……どうして俺を助けた!」


「どうしてって……」


恒一は苦痛に顔をゆがめながら、なんとか笑おうとした。


「目の前で仲間がやられそうだったら……助けるだろ」


「俺は、お前の仲間じゃない!」


「今は同じ檻に閉じ込められてる。そんなこと、どうでもいいだろ……!」


ダリオは言い返そうとしたが、言葉が出なかった。


恒一は再び立ち上がろうとした。


だが、身体はもう限界に近かった。


黒い霧は容赦なく力を奪い、呼吸するだけでも苦しい。手足は鉛のように重く、視界もぼやけ始めている。


それでも、倒れている冒険者たちを見捨てることはできなかった。


「まだ……全員、生きてる……」


恒一は震える腕で床を押した。


「俺が……何とかしないと……」


そのとき、檻の外から声が聞こえた。


「恒一! 聞こえる!?」


リゼリアの声だった。


恒一は顔を上げた。


「リゼリア……!」


「返事をして! 恒一!」


「俺は……大丈夫だ……!」


大丈夫なはずがなかった。


声を出すだけで胸が痛み、身体は今にも崩れ落ちそうだった。それでも、リゼリアをこれ以上不安にさせたくなかった。


外では、リゼリアが肉壁に両手を当てていた。


「嘘をつかないで! あなたの声が弱っていることくらい、私にはわかるわ!」


彼女の赤い瞳には、怒りと焦りが入り交じっていた。


エレナは肉壁の表面を観察し、魔力の流れを必死に追っていた。


「攻撃を吸収しているだけじゃない……。内部に取り込んだ魔力を循環させて、傷を再生している。外側から力任せに破壊しても、すぐに修復されるわ」


「じゃあ、どうすればいいの!?」


コハクが叫んだ。


「どこかに、再生を止める仕組みがあるはずです」


セレスは目を閉じ、壁の向こうへ意識を集中させた。


「……内部から、強い魔力の反応が複数感じられます。捕らえられた人たちの力を吸い上げているのでしょう」


フィリアは拳を握りしめた。


「そんなことを続けられたら、恒一たちは……!」


「だから、急ぐのよ」


リゼリアは低い声で告げた。


「この壁を破れないのなら、別の方法を探す。恒一を助け出すまで、私は絶対に諦めない」


彼女は再び攻撃を放った。


赤い閃光が肉壁を打つ。しかし、やはり傷はすぐに塞がってしまう。


「くっ……!」


リゼリアの表情が険しくなる。


その背後で、グレイヴがゆっくりと姿を現した。


「無駄な努力だ。君たちがどれほど攻撃しようと、その檻は簡単には壊れない」


「グレイヴ……!」


フィリアが振り返り、魔法を構える。


「あなたがこの事件の黒幕なのね!」


「黒幕とは、ずいぶんな言い方だな。私はただ、必要な研究を進めているだけだ」


「消えた冒険者たちはどこにいるの!?」


エレナが問い詰めた。


グレイヴは薄く笑った。


「彼らなら、すでに研究の一部になっている者もいる。だが、君たちが心配する必要はない。君たちもじきに、彼らと同じ場所へ送ってやろう」


その言葉に、コハクの尻尾が逆立った。


「絶対に許さない!」


彼女は地面を蹴り、グレイヴへ飛びかかった。


だが、グレイヴは軽く手を振っただけだった。


黒い魔力が盾のように広がり、コハクの攻撃を弾き返す。


「きゃっ!」


コハクは地面を転がり、すぐに立ち上がろうとした。


「コハク!」


フィリアが駆け寄る。


グレイヴは彼女たちを見下ろしながら、ゆっくりと告げた。


「君たちも、いずれ理解する。力には限界がある。どれほど大切な者を守ろうとしても、届かないことはあるのだ」


リゼリアの瞳が鋭く光った。


「……黙りなさい」


「何?」


「恒一は、あなたのように他人を道具として扱う男とは違う。あの人は、自分が傷ついてでも誰かを守ろうとする。だからこそ、私たちはあの人と共にいるのよ」


リゼリアは拳を握りしめた。


「あなたに、恒一の心まで折れると思わないことね」


グレイヴは一瞬だけ目を細めたが、すぐに興味を失ったように背を向けた。


「好きに言うがいい。檻の中の者たちは、もう長くは持たない」


その言葉を残し、彼は会場の奥へと姿を消した。


外の戦いが続く一方、檻の中では、ついに一人の冒険者が倒れた。


「もう……無理だ……」


魔法使いの男が床へ崩れ落ちる。


続いて槍使いの青年が膝をつき、双剣使いの女性も剣を取り落とした。


大剣使いは最後まで立ち続けていたが、やがて大剣を支えにしたまま動けなくなった。


八人のうち、七人が戦闘不能に近い状態へ追い込まれていた。


残っているのは、恒一だけだった。


いや、正確には恒一も立っているとは言い難かった。


両手を床につき、かろうじて意識を保っているだけだ。


「……くそ……」


視界が暗くなる。


仲間を守るどころか、自分自身さえ動けない。


こんなことになるなら、もっと力をつけておけばよかったのか。


もっと強いスキルがあれば。


もっと早く、グレイヴの計画に気づいていれば。


後悔が次々と浮かんでは消えていく。


それでも、恒一の脳裏に浮かぶのは、檻の外で自分を呼ぶリゼリアたちの姿だった。


リゼリアの赤い瞳。


エレナの冷静な声。


コハクの明るい笑顔。


セレスの穏やかなまなざし。


フィリアの真っすぐな言葉。


彼女たちを、ここで失うわけにはいかない。


「……まだだ」


恒一は、震える手を握りしめた。


「俺は……まだ、何も守れていない……!」


立ち上がろうとする。


しかし、足に力が入らず、再び床へ倒れ込んだ。


黒い触手が、ゆっくりと近づいてくる。


恒一は顔を上げた。


逃げ場はない。


魔力も、体力も、ほとんど残っていない。


今まで使ってきた《二重衝撃》も、《空間固定》も、この檻を破るには足りなかった。


空間を押さえつけるだけでは駄目だ。


力をぶつけるだけでも駄目だ。


ならば――。


恒一の頭の中で、何かがつながりかけた。


自分の《時空士》という職業。


空間を固定する力。


二つの衝撃を重ねる力。


これまで使ってきた能力は、どれも空間そのものを完全に断ち切るものではなかった。


もし、空間を操るのではなく。


もし、空間そのものに干渉し、そのつながりを断つことができたなら。


「……空間を、断つ……?」


その言葉を口にした瞬間、恒一の胸の奥で、かすかな熱が生まれた。


それは、これまで感じたことのない感覚だった。


新しい力が、意識の奥で目を覚まそうとしている。


だが、身体にはもう余力がない。


意識が途切れかける。


「恒一……!」


遠くから、リゼリアの声が聞こえた気がした。


「お願い……。帰ってきて……!」


その声に、恒一は歯を食いしばった。


帰る。


必ず、帰る。


彼女たちのもとへ。


仲間たちを守れる自分になるために。


恒一は最後の力を右拳に集めた。


黒い触手が目前まで迫る。


その瞬間、視界の中に、見慣れない文字が浮かび上がった。


《新規スキル条件達成》


《時空士の固有能力が変化します》


《新規スキル――《断空拳》を獲得しました》


「……断空拳……!」


恒一は、その名を確かめるようにつぶやいた。


右拳の周囲で、空間がかすかに震える。


炎でも、雷でもない。


目に見えない何かが、拳の先に集まっていく。


触手が襲いかかる。


恒一は逃げなかった。


「これで……終わらせる!」


右拳を、目の前の黒い肉壁へ叩き込む。


「《断空拳》!」


衝撃音は、ほとんどなかった。


代わりに、世界の一部がずれたような奇妙な感覚が走った。


拳が触れた場所から、黒い肉壁に一本の線が生まれる。


その線は、再生する暇さえ与えず、壁の奥へと伸びていった。


次の瞬間。


檻を構成していた肉体が、音もなく裂けた。


黒い霧が一気に散り、床を覆っていた触手が動きを止める。


「な……何だ、これは……!」


ダリオが驚きの声を上げた。


恒一自身も、何が起きたのか完全には理解できていなかった。


ただ、確かなことが一つある。


今までどれほど攻撃しても再生していた肉壁が、初めて再生できずにいた。


「……通じたのか……?」


恒一は立ち上がろうとした。


だが、新しい力を使った反動なのか、身体から一気に力が抜けていく。


それでも、彼は倒れる前に、裂けた壁の向こうを見た。


そこには、驚いた表情でこちらを見つめるリゼリアたちの姿があった。


「恒一!」


リゼリアが叫ぶ。


檻の裂け目は、まだ人が通れるほど大きくはない。


だが、確かに道ができていた。


絶望しかなかった檻に、初めて希望の光が差し込んだのだ。


恒一はかすかに笑った。


「……待たせたな」


そう言った直後、彼の膝が崩れた。


「恒一!」


リゼリアの悲鳴が響く。


彼女たちは一斉に裂け目へ駆け寄った。


一方、会場の奥では、異変を感じ取ったグレイヴが足を止めていた。


「……馬鹿な。あの檻を、内側から破ったというのか?」


彼の表情から、初めて余裕が消える。


「空間を断つ力……。まさか、時空士の能力がそこまで進化するとは……」


グレイヴの身体から、黒い魔力が立ち上った。


人間の姿を覆い隠すように、皮膚の下から異様な影がうごめく。


「ならば、予定を変更するしかない」


彼の瞳が、赤黒く輝いた。


「実験体として回収する前に、あの男を始末する」


肉壁の裂け目の向こうで、恒一は意識を失いかけていた。


新たな力を手に入れた代償は、決して小さくない。


そして、グレイヴとの本当の戦いは、まだ始まったばかりだった。

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