第62話 時空士の帰還
黒い肉壁に刻まれた裂け目から、黒い霧がゆっくりと流れ出していた。
その向こう側に、恒一の姿が見えた。
「恒一!」
真っ先に駆け寄ったのはリゼリアだった。裂け目をくぐり抜けると、膝をついて倒れかけた恒一の身体を抱き止める。
「しっかりして、恒一! 私の声が聞こえる?」
「……リゼ、リア……?」
恒一のまぶたがかすかに動いた。
「よかった……! 本当に、よかった……!」
リゼリアは安堵の息を漏らし、彼の身体を強く抱きしめた。普段は気高く振る舞う彼女の手が、今は小さく震えていた。
「悪い……心配、かけたな……」
「謝らないで。あなたが無事なら、それでいいの」
その言葉の最後は、わずかにかすれていた。
続いてエレナ、コハク、セレス、フィリアも裂け目を通り、恒一のもとへ駆け寄った。
「恒一さん、意識はありますか? どこか痛むところは?」
セレスが膝をつき、彼の様子を確認する。
「身体中が重い……。魔力も、ほとんど残ってないみたいだ」
「新しいスキルを使った反動でしょうね。あれほどの檻を内側から破ったのですから、消耗して当然です」
エレナは裂け目を振り返った。
黒い肉壁は、断ち切られた部分を再生しようとしていた。しかし、恒一が作った傷口だけは、黒い繊維が伸びてもつながらない。空間そのものが切り離されたかのように、再生の力が拒まれているのだ。
「《断空拳》……。空間を固定するのではなく、空間そのものを断つ力。これまでのスキルとは、性質がまったく違うわ」
フィリアが恒一の右手を見つめた。
「でも、今の一撃で身体が限界になったんでしょ? そんな力を何度も使えるとは思えない」
「ええ。強力な能力だからといって、無制限に使えるわけではないわ。今は、恒一さんをこれ以上戦わせないことが先決です」
セレスの言葉に、リゼリアも強くうなずいた。
「当然よ。ここから先は私たちが守る。あなたは少し休んでいなさい」
「……そうしたいところだけど、まだ終わってない」
恒一は、リゼリアの肩を借りながら顔を上げた。
「グレイヴがいる。あいつを止めないと、また誰かが犠牲になる」
その言葉に、全員の表情が引き締まった。
「グレイヴは会場の奥へ向かったわ」
エレナが報告する。
「檻が破られたことに気づいて、何かをするつもりみたい。さっき、黒い魔力があいつの身体から立ち上るのが見えたの」
「黒い魔力……?」
恒一は眉をひそめた。
その瞬間、会場全体を揺らすような轟音が響いた。
ドォォォン!
舞台の反対側にあった壁が崩れ、黒い煙が噴き上がる。
観客席から逃げ遅れた人々の悲鳴が聞こえた。
「何が起きたの!?」
コハクが耳を立てる。
煙の向こうから、ゆっくりと一つの影が現れた。
「……やはり、ただの人間ではなかったのね」
リゼリアが目を細めた。
グレイヴの姿は、先ほどまでとは大きく変わっていた。
人間の皮膚は黒い鱗のようなものに覆われ、額からは湾曲した角が伸びている。背中には影のような翼が広がり、指先は鋭い爪へと変化していた。
赤黒い瞳が、舞台にいる者たちを見渡す。
「ここまで私を楽しませてくれるとは思わなかったぞ、時空士」
その声は、もはや人間のものとは思えなかった。
「お前……魔族なのか?」
恒一が問いかける。
グレイヴは口元を歪めた。
「魔族、か。人間どもは、我々をそう呼ぶ。まあ、今さら正体を隠す必要もないだろう」
黒い魔力が彼の周囲を渦巻いた。
「私は、強者の力を集め、新たな存在を生み出すために研究を続けてきた。この街で消えた冒険者たちは、そのための材料だ。そして、今日集めた八人もな」
「人を材料呼ばわりするな!」
ダリオが怒鳴った。
彼は壁にもたれながら、なんとか剣を拾い上げていた。まだ身体は回復していない。それでも、グレイヴへの怒りが彼を立たせていた。
「お前のせいで、何人もの冒険者が消えた。そいつらが今どうなっているのか、答えろ!」
「答える必要があるか?」
グレイヴが手を振ると、黒い衝撃波が走った。
ダリオは剣を構えたが、衝撃を受け止めきれず、床を滑るように吹き飛ばされた。
「ダリオ!」
恒一が声を上げる。
「くっ……! この程度で……!」
ダリオは立ち上がろうとしたものの、腕に力が入らず、再び膝をついた。
グレイヴは興味を失ったように視線を戻した。
「力を失った者に用はない。私が必要としているのは、限界を超えられる可能性を持つ者だ」
その言葉を聞いた瞬間、恒一は自分の右拳を見つめた。
限界を超える可能性。
《断空拳》は、確かに檻を破った。しかし、今の自分にはその力を使いこなすだけの余裕がない。
一度使っただけで、身体は動かなくなった。
これでは、グレイヴを倒すことなどできない。
「……くそっ」
悔しさが込み上げる。
リゼリアが恒一の手を握った。
「恒一、焦らないで」
「でも……」
「あなたは一人で戦っているわけじゃないでしょう?」
彼女は真っすぐに恒一を見つめた。
「あなたは、いつも私たちを守ろうとしてくれる。でも、あなたが倒れてしまったら、私たちはどうすればいいの?」
恒一は言葉を失った。
「私はあなたの最初の契約者よ。あなたが背負うものを、少しでも分け合いたい。あなたが私たちを信じてくれるなら、私たちにも頼ってほしいの」
リゼリアの手が、恒一の手を包み込む。
その温かさに、恒一の胸が締めつけられた。
自分はずっと、彼女たちを守ることばかり考えていた。
けれど、守るということは、一人ですべてを背負うことではない。
互いに信じ、支え合うこともまた、守るということなのだ。
「……そうだな」
恒一は小さくうなずいた。
「俺は、みんなを信じてる。だからこそ……みんなの力を貸してほしい」
エレナが一歩前へ出た。
「もちろんよ。最初からそのつもりだったわ」
コハクも大きくうなずく。
「うん! コウイチが一人で頑張る必要なんてないよ!」
セレスは穏やかな笑みを浮かべた。
「私たちは、それぞれ自分の意思でここにいます。恒一さんと共に戦うことも、私たち自身が選ぶことです」
フィリアは拳を握り、真っすぐに恒一を見つめた。
「今さら遠慮なんてしないでよね。私だって、あいつを倒したいんだから」
恒一は四人の顔を順に見た。
彼女たちの目に、迷いはなかった。
そのとき、恒一の胸の奥で、時空士の力がかすかに反応した。
これまでの契約とは違う、新たなつながりを求めるような感覚。
恒一はその意味を、まだ完全には理解していなかった。
だが、今ならわかる。
この力は、ただ相手を従わせるためのものではない。
互いに信じ、共に歩む意思があってこそ、本当の意味を持つのだ。
「エレナ、コハク、セレス、フィリア」
恒一は、一人ずつ名前を呼んだ。
「俺と契約してほしい。これから先、どんな敵が現れても、一緒に乗り越えていくために」
四人は顔を見合わせた。
最初に答えたのは、エレナだった。
「……本当に、あなたは大事なところで不器用ね。もっと早く頼ってくれてもよかったのに」
そう言いながらも、その頬はわずかに赤くなっていた。
「もちろん、契約するわ。あなたと共に戦うと決めたのは、私自身だから」
「私も!」
コハクがすぐに手を挙げた。
「コウイチと一緒にいたいし、コウイチを守りたい! だから、契約して!」
セレスは静かに目を閉じ、そして開いた。
「私も、あなたを信じています。契約を通して、より深く支え合えるのなら、喜んでお受けします」
最後に、フィリアが恒一の前へ歩み寄った。
「言っておくけど、契約したからって、あなたの言うことを何でも聞くわけじゃないからね」
「それはわかってるよ」
「なら、いいわ。私も契約する。あなたが倒れそうになったら、今度は私が引っ張り上げてあげる」
四人の意思がそろった。
恒一は深く息を吸い、残された力を慎重に集中させた。
「……契約、成立!」
その瞬間、恒一と四人の間に、淡い光が走った。
それぞれの胸元に光が宿り、やがて身体の内側へと溶け込んでいく。
エレナは目を見開いた。
「これは……魔力の流れが変わった?」
彼女の周囲に、風のような魔力が渦巻く。普段よりも鮮明に周囲の魔力を捉えられる感覚が広がっていた。
コハクの獣耳がぴんと立つ。
「わっ……! 身体が軽い! いつもより、ずっと遠くの音まで聞こえるよ!」
セレスは自分の手を見つめた。
「防御の感覚が……深くなっています。守るべきものとのつながりを、以前より強く感じます」
フィリアの周囲には、複数の魔法陣が一瞬だけ浮かび上がり、すぐに消えた。
「魔法の組み立てが速くなった……。これなら、同時に扱える術式の幅も広がりそうね」
四人の力が、それぞれの特性に沿って強まっていく。
しかし、その変化と同時に、恒一の顔から血の気が引いていった。
「……っ!」
「恒一!?」
リゼリアが支えるより早く、恒一の膝が崩れた。
「おい、ちょっと! 大丈夫なの!?」
フィリアが駆け寄る。
恒一は返事をしようとしたが、声が出なかった。
四人との契約によって生まれたつながり。その力を受け止める負担が、弱りきった身体に一気にのしかかっていた。
新たな契約が四人を強くする一方で、契約を結んだ恒一にも大きな負荷を与えていたのだ。
「恒一さん、無理をしすぎです!」
セレスが慌てて身体を支える。
「契約の反動……? いえ、今の恒一さんは檻を破った直後です。消耗した状態で四人分のつながりを受け止めたから、負担が限界を超えたのかもしれません」
エレナの声にも焦りがにじんでいた。
「おい、コウイチ! 目を開けて!」
コハクが恒一の手を握る。
恒一はかすかに目を開け、みんなの顔を見た。
「……みんな……無事、か……?」
「自分の心配をしなさいよ!」
フィリアが声を上げた。怒っているように見えたが、その目には涙が浮かんでいた。
「俺は……大丈夫……。ただ、少し……眠いだけ……」
言い終える前に、恒一の意識が途切れた。
「恒一!」
リゼリアが彼を抱き止めた。
彼女は恒一の胸元に手を当て、呼吸が続いていることを確かめると、ほっと息をついた。
「……生きている。けれど、今は休ませなければならないわ」
「ここで休んでいる場合じゃないのに……!」
コハクが悔しそうに唇をかんだ。
そのとき、グレイヴの笑い声が響いた。
「なるほど。複数の契約者を持つ時空士か。しかも、契約によって相手の能力まで強化するとは……興味深い」
彼の瞳が、四人へ向けられる。
「だが、契約者を増やせば、その分だけ負担も増す。力を得ることと、力に耐えられることは別問題だ」
リゼリアは恒一をそっとセレスへ預け、立ち上がった。
「あなたに、これ以上好き勝手はさせない」
彼女の赤い瞳が、強い光を帯びる。
「恒一は休ませる。ここから先は、私たちが戦うわ」
エレナ、コハク、セレス、フィリアも、それぞれ武器を構えた。
契約によって強まった力が、身体の奥で確かに息づいている。
それでも、グレイヴの力は未知数だった。
そして、恒一は意識を失っている。
リゼリアは一度だけ、眠る恒一を振り返った。
「……必ず守るわ。今度は、私たちがあなたを守る番よ」
彼女は再び前を向いた。
グレイヴの周囲で、黒い魔力が膨れ上がる。
「いいだろう。どこまで耐えられるか、見せてもらおう」
人ならざる者と、契約によって力を得た少女たち。
決勝トーナメントの会場は、もはや冒険者たちの腕を競う場所ではなかった。
恒一が意識を失った今、仲間たちだけでこの強敵を食い止めなければならない。
そして、リゼリアたちの新たな戦いが始まろうとしていた。
契約成立までの葛藤を深めるグレイヴの正体開示を段階化する戦闘開始前の緊迫感を高める




