第19話 聖女候補と、今夜だけの二人きり
森の古い祠でセレスと出会った翌朝。
冒険者ギルドの食堂には、焼きたてのパンの香りと、朝から依頼を探す冒険者たちの賑やかな声が満ちていた。
「……つまり、祠の内部にはまだ入っていないんですね?」
テーブルを挟んで向かい側に座ったセレスが、確認するように尋ねた。
「ああ。入り口の奥から物音が聞こえたからな。準備もなしに踏み込むのは危険だと思った」
「賢明な判断です。聖堂にも古い記録しか残っていません。内部の構造も、どのような術式が残されているのかも分からないんです」
セレスは両手を膝の上に揃え、真剣な表情で説明した。
淡い金色の髪に、清楚な白い衣装。昨日、負傷した商人を治療していたときも感じたが、彼女には人を安心させる穏やかな雰囲気がある。
ただし、真面目すぎるところもあるらしい。
「それで、ギルドマスターに相談したいことがあるんです。私も調査に同行させてもらえませんか?」
「もちろん、構わない。ただし、まずは正式な依頼として手続きをする必要があるな」
俺がそう答えると、セレスはほっとしたように微笑んだ。
「ありがとうございます、恒一さん」
「……なあ、セレス」
「はい?」
「そんなにかしこまらなくてもいいぞ。俺たちは昨日、一緒に森を歩いた仲だろ?」
セレスは一瞬、目を丸くした。
「で、でも……皆さんは経験豊富な冒険者ですし、私はまだ聖女候補で……」
「昨日の治癒魔法、助かったよ。あれがなかったら、商人を安全な場所まで送り届けるのも、もっと大変だった」
「そ、そんな……私は当然のことをしただけです」
セレスの頬が、ほんのりと赤くなった。
その様子を隣から眺めていたリゼリアが、俺の袖を軽く引いた。
「恒一、ずいぶん優しいじゃない?」
「え?」
「別に? 新しい協力者を褒めるのはいいことだと思うわよ?」
そう言いながら、リゼリアは俺の腕に自分の腕を絡めた。
……いや、どう考えても何か言いたい顔をしている。
「リゼリア、もしかして嫉妬してるのか?」
「してないわ」
「即答だな」
「してないったら」
彼女はぷいっと顔をそむけた。
けれど、絡めた腕は離してくれない。
その仕草が妙に可愛くて、俺は思わず笑ってしまった。
「何がおかしいのよ、恒一」
「いや。可愛いなと思って」
「――っ!」
リゼリアの耳まで赤くなった。
「そ、そういうことを急に言わないで!」
いつもは余裕たっぷりの吸血姫が、こういうときだけ弱い。
そのギャップが、どうしようもなく愛おしかった。
◇
ギルドマスターのガルドは、俺たちの報告を聞き終えると、腕を組んで難しい顔をした。
「古い祠か。森の異常と関係がある可能性はありそうだな」
「入り口付近で魔力の反応がありました。内部からも何か音が聞こえたんです」
セレスが補足すると、ガルドは重々しく頷いた。
「よし。正式な調査依頼として登録しよう。お前たちには森の調査で実績がある。セレス殿には治療と、必要に応じて浄化を担当してもらいたい」
「承知しました」
「ただし、今回は内部の安全確認が最優先だ。危険が大きければ撤退しろ。原因を突き止めることより、全員が生きて帰ることを優先するんだ」
「ああ、分かった」
俺たちは依頼書を受け取り、必要な道具や消耗品を確認することにした。
報酬は調査の進行度に応じて支払われる。魔物の討伐が必要になった場合は、別途素材の買い取りも認められるらしい。
セレスは依頼書を胸に抱き、少し緊張した面持ちで俺たちを見た。
「皆さんと一緒なら、きっと大丈夫だと思います」
「油断は禁物ですよ」
エレナが落ち着いた声で釘を刺す。
「はい。分かっています」
そのやり取りを聞きながら、コハクがぴょこんと耳を立てた。
「じゃあ、今日は準備の日だね! 罠の道具も確認しなきゃ!」
「コハク、食料の確認も頼めるか?」
「任せて! あと、おやつも!」
「……おやつは必要なのか?」
「必要!」
即答だった。
俺たちは思わず笑った。
セレスも口元を押さえ、小さく笑みをこぼした。
昨日までは聖堂の使命を背負った、どこか近寄りがたい女性だと思っていた。
けれど、こうして一緒にいると、彼女も普通の女性なのだと分かる。
少し真面目で、責任感が強く、人の役に立ちたいと願っている。
そんな彼女が、この先どんな表情を見せてくれるのか。
俺は、ほんの少し楽しみになっていた。
◇
昼過ぎ。
道具の確認を終えた俺たちは、必要な薬草や携帯食料を買い足すために街へ出た。
コハクは食料品店の前で足を止め、店先に並ぶ焼き菓子をじっと見つめている。
「……コハク?」
「な、何でもないよ?」
「尻尾がすごい勢いで揺れてるぞ」
「こ、これは……風!」
「今日はほとんど無風だけどな」
エレナが淡々と指摘すると、コハクは耳を伏せた。
「うぅ……だって、おいしそうなんだもん」
「一袋くらいなら買ってもいいぞ。調査のときに皆で食べよう」
「ほんと!?」
ぱあっと顔を輝かせたコハクは、嬉しそうに俺の腕をつかんだ。
「恒一、ありがと!」
その勢いで、ふわりと柔らかな感触が腕に触れた。
「……っ!」
コハクも気づいたらしく、ぴたりと動きを止める。
数秒の沈黙。
「ご、ごめん! つい、嬉しくて!」
「いや、別に謝らなくても……」
俺が返事に困っていると、反対側からリゼリアがするりと腕を組んできた。
「恒一。私にも何か買ってくれるんでしょう?」
「え、リゼリアも?」
「何よ。私だって甘いものくらい食べるわ」
「もちろん。何がいい?」
リゼリアは少し考えてから、赤い木の実を使ったタルトを指さした。
「これがいいわ。それから……」
「それから?」
彼女は俺の耳元へ顔を寄せ、小さな声で囁いた。
「今夜は、私と二人きりの時間も作ってね」
その声は、いつものからかうような調子よりも、ずっと柔らかかった。
俺が返事をする前に、リゼリアは何事もなかったように離れてしまう。
「さあ、買い物を続けましょう!」
……この人は本当にずるい。
そんな場面を、エレナがじっと見つめていた。
「……恒一さん」
「ん?」
「私も、そのタルトを一口いただいてもいいですか?」
「もちろん。皆で食べよう」
「そうではなくて……」
エレナは何かを言いかけたが、結局、小さく首を振った。
「いえ。何でもありません」
その耳がわずかに赤くなっていることに、俺は気づかなかったことにした。
気づいてしまえば、また何か言わなければならなくなる気がしたからだ。
◇
夕方。
買い物を終えて宿へ戻ると、セレスは翌日の調査に備えて聖堂への報告書を書きたいと言い、自分の部屋へ戻っていった。
エレナとコハクも、それぞれ装備の手入れや道具の確認を始める。
そして、夕食後。
俺が宿の廊下を歩いていると、部屋の扉の前にリゼリアが立っていた。
「恒一」
「リゼリア? どうしたんだ?」
「少し、付き合ってほしいの」
彼女はそう言うと、俺の返事を待たずに手を取った。
連れていかれたのは、宿の裏手にある小さな庭だった。
夜空には星が瞬き、街の喧騒もここまではほとんど届かない。
庭の隅には木製のベンチがあり、月明かりがその上に淡く降り注いでいた。
「ここなら、誰にも邪魔されないでしょう?」
リゼリアはベンチに腰掛け、隣を軽く叩いた。
「ほら、座って」
「……今日はずいぶん積極的だな」
「悪い?」
「いや。嬉しいよ」
俺が隣に座ると、彼女は少しだけ身を寄せてきた。
銀色の髪が肩に触れ、ほのかな甘い香りが漂う。
昼間の冗談めいた態度とは違い、今のリゼリアはどこか落ち着かない様子だった。
「ねえ、恒一」
「何だ?」
「私たち、最近ずっと一緒にいるでしょう?」
「ああ」
「エレナも、コハクも、それにセレスも加わって……賑やかになったわね」
「そうだな」
「皆と過ごす時間は、嫌いじゃないわ。むしろ楽しいと思ってる」
リゼリアは夜空を見上げた。
「でも……私は、恒一と二人きりで過ごす時間も欲しいの」
胸の奥が、じんわりと温かくなった。
彼女は最初の契約者だ。
この世界で出会い、共に歩き始めた最初の仲間であり、今では誰よりも近くに感じる女性でもある。
「分かってるよ」
俺はそっと彼女の手を握った。
「これからは、ちゃんと二人の時間も作ろう」
「本当?」
「ああ。約束する」
リゼリアは俺の顔をじっと見つめた。
「……じゃあ、今日はもう少しだけ、こうしていてもいい?」
「もちろん」
彼女は安心したように微笑み、俺の肩へ頭を預けた。
しばらく、二人とも何も言わなかった。
夜風が吹き、彼女の髪が頬をくすぐる。
「恒一……」
「ん?」
「手、離さないでね」
「離さないよ」
その答えに満足したのか、リゼリアは指を絡めるように俺の手を握り直した。
そして、ほんの少し顔を上げる。
「……ねえ。私、今なら少しだけ、わがままを言ってもいい?」
「どんなわがままだ?」
「もう少し近くにいてほしいの」
俺は答える代わりに、彼女の肩を優しく抱き寄せた。
リゼリアは一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐに嬉しそうに笑った。
「……うん。これでいいわ」
月明かりの下、彼女の赤い瞳が柔らかく輝いていた。
俺たちは、しばらくそのまま寄り添っていた。
◇
どれくらい時間が経っただろう。
リゼリアが、ふと思い出したように顔を上げた。
「そういえば、恒一。最近、あなたのスキルの反応が少し変わっているのに気づいてる?」
「スキルの反応?」
「ええ。私と一緒に戦うとき、《空間固定》のタイミングが少しずつ合ってきている気がするの。以前よりも、連携しやすくなったわ」
そう言われて、俺は最近の戦闘を思い返した。
確かに、リゼリアが攻撃へ移る瞬間を意識すると、《空間固定》を使うタイミングが以前より分かりやすくなっている。
だが、それは俺自身が経験を積んだことと、互いの動きに慣れてきたことによるものだろう。
スキルが急激に強化されたと断言できるほどの変化は、まだない。
「……言われてみれば、少しは息が合ってきたかもしれないな」
「でしょう?」
リゼリアは嬉しそうに笑った。
「信頼関係が深まれば、契約者同士の力にも変化が現れることがあるのかもしれないわね」
「そうだとしたら、今後が楽しみだな」
「ええ。でも、焦らなくていいわ」
彼女は俺の手を両手で包み込んだ。
「私は、恒一が無理をしてまで力を伸ばすことなんて望んでいないから」
「……ありがとう」
「もう。そこは『どういたしまして』でしょう?」
リゼリアはいたずらっぽく笑った。
その笑顔を見ていると、彼女がただ強いだけの吸血姫ではないことを改めて感じる。
自分の力を求める一方で、俺のことも大切にしてくれている。
だからこそ、俺も彼女のためにできることを増やしていきたいと思った。
「リゼリア」
「何?」
「これからも、一緒に強くなっていこう」
彼女は少し驚いたあと、優しく微笑んだ。
「ええ。もちろんよ、恒一」
そして、彼女は俺の肩へ再び寄り添った。
そのとき。
「……あのー」
庭の入り口から、控えめな声が聞こえた。
振り向くと、コハクが立っていた。
その後ろにはエレナまでいる。
「二人とも……?」
「い、いや! 別に覗いてたわけじゃないよ! たまたま通りかかっただけ!」
コハクの尻尾が、落ち着きなく左右に揺れている。
エレナは小さく咳払いをした。
「コハクが、恒一さんたちが戻ってこないから心配だと言いまして」
「エレナも一緒に来てくれたんだな」
「……はい」
彼女は少し視線をそらした。
リゼリアは俺の肩から離れると、二人へ微笑みかけた。
「心配してくれてありがとう。でも、もう少しだけ恒一を借りてもいいかしら?」
「う……」
コハクは耳をぺたんと伏せた。
「そ、それは……いいけど……」
エレナも一瞬だけ表情を曇らせたが、やがて穏やかに頷いた。
「分かりました。明日の準備もありますし、あまり遅くならないようにしてくださいね」
「ええ、分かってるわ」
リゼリアは二人を見送ったあと、俺の方を向いた。
「……ふふ。皆、恒一のことが心配なのね」
「そうみたいだな」
「でも、今夜は私の番」
そう言って、彼女は再び俺の手を握った。
その言葉が嬉しくて、俺はもう一度、彼女を抱き寄せた。
リゼリアは少しだけ照れた顔をしたあと、俺の胸元へ顔を寄せる。
「……恒一と出会えてよかったって、本当に思ってる」
静かな声だった。
俺は彼女の髪をそっと撫でた。
「俺もだよ、リゼリア」
夜空の星々が、静かに瞬いていた。
◇
翌朝。
俺たちは祠の調査に向け、最終確認を行っていた。
食料、回復薬、照明器具、予備の武器。コハクが用意した携帯食料の袋には、なぜか焼き菓子が予定より多く入っていた。
「……コハク。これ、増えてないか?」
「えっ? 気のせいだよ!」
「昨日より二袋多いんだが」
「……非常食!」
「焼き菓子が?」
「非常時に甘いものは大事なんだよ!」
力説するコハクに、エレナが呆れたようにため息をついた。
「あなたの場合、非常時でなくても大事でしょう?」
「うっ……」
セレスはそんなやり取りを見て、楽しそうに笑っていた。
その笑顔を見て、俺は思う。
この仲間たちとなら、どんな困難も乗り越えていけるかもしれない。
もちろん、危険がなくなるわけではない。
祠の奥には、まだ正体の分からない魔力と物音が残されている。
何が待ち受けているのかは分からない。
それでも、今は一歩ずつ進んでいこう。
「よし。準備はいいな?」
「ええ」
リゼリアが微笑む。
「いつでも行けるよ!」
コハクが元気に手を挙げる。
「問題ありません」
エレナが弓の状態を確かめる。
「私も、皆さんを支えます」
セレスが胸元の聖印に手を添えた。
俺たちは頷き合い、祠へ向かう道へと歩き出した。
賑やかで、少し甘くて、時には胸が高鳴る毎日。
そして、その先にはまだ知らない冒険が待っている。
俺は仲間たちと共に、森の奥へと足を踏み入れた。




