また会おう
リリアンヌ視点
――波のささやき 耳に残して
夜の海辺に ひとり立つ
漂う想い 星のかけら
遠い誰かへ 届くように
孤独の海も 怖くはなくて
深い青さに 抱かれて眠る
海のうたは 静かに響く
遠くの声も 風に乗せて――
「…悲しい歌だな」
「…!」
リリアンヌは、はっと海から視線を離した。
「悲しいが、良い歌だ」
隣に立つキリが、優しく微笑んでいた。
「…私、歌ってた?」
そっと、口元を両手で隠した。
「君はどこでもよく歌う」
「…う」
「どれも良い歌だ」
「…ありがとう」
誤魔化すように、再び海に目を向けた。
北の海が夕陽に照らされ、赤く染まっている。
舟に波が当たる音が、心地よい。
そんな景色に浸っていたら、つい歌ってしまった。
北の海の先には、地図上、何もないとされている。
確かに、北を見渡しても、水平線が広がるばかりだ。
きっと誰も、あの向こうへ行ったことがない。
あの先には…もしかしたら、まだ知らない世界が広がっているのかもしれない。
この綺麗で深い海の向こうに、見たこともない種族が暮らしていたりして。
それとも、突然舟底から、大きな生き物が現れたり――
想像しただけで、背筋がぞくりと震えた。
「…冷えるか」
キリがそっと尋ねた。
「あ…違う。海に何か大きな生き物がいるかもって想像したら、ぞっとしちゃって」
くすっと、苦笑が漏れた。
「大きいのだと、クジラやサメがいる。あと、巨大なイカか」
「へぇ…!」
巨大なイカというのが、気になるけれど。
前世で聞き馴染みのある生物の名を聞けて、少し安心した。
「…知っている名前、ありました?」
「…ひとつも分かんなかった」
「同じくです」
キリの向こうで、同じように海を眺めるネウロとビッケが、何かをこそりと話していた。
少し離れたところでは、ブライアンがエルフたちと言葉を交わしている。
進行方向を指しているから、これからの航路でも確認しているのかもしれない。
「あとは、巨人がいると言われている」
「えっ…海に?」
キリの言葉に、ぎょっと肩を強張らせた。
「違う。海の向こうに」
キリが、北の水平線を指した。
「向こう側に何があるか、キリは知っているの?」
「いや…風の里にいる間、誰も行かなかった。興味もなかった」
「でも、巨人がいると言われている?」
「北の大地と呼ばれるところがある。エルデンの父が、死ぬ前にその話をしていた」
「じゃあ…キリのお祖父様?」
「そうなるな」
「キリのお祖父様…」
なんだか、不思議な感じだ。
「きゃきゃぁっ」
スミレが、リリアンヌの肩に向かって両手を伸ばした。
「スノウと遊びたいのかな」
「初めての海に、興奮している」
キリが人差し指にスミレを乗せ、舟の縁に座らせた。
すぐにスノウも肩から飛び立ち、その隣に降り立った。
「ホ~」
「きゃああ」
「会話してる」
リリアンヌは、くすくすっと笑った。
「あ…キリ。そういえば、この子の名前は決めた?」
“物語”では、スミレと呼ばれていたけれど。
ここでは、キリに名付けてほしい。
「スミレ」
「えっ」
「君が、そう呼んでいた」
「……」
口に出さないよう、気を付けていたのに。
どこで呼んでしまったのだろう。
「もうすぐ、波の荒い海域に入るらしい」
顔を上げると、いつの間にかブライアンがこちらに来ていた。
「相当揺れるようだが、部屋に戻るか?」
「いいえ。このまま、ここにいます」
「…僕は一度、部屋に戻らせてもらいます」
ネウロはそれだけ言うと、部屋に繋がる階段へ向かっていった。
その足取りはどこか重い。
「…大丈夫かな」
「慣れない者には、波の揺れはきついからな」
ネウロの背中を見送りながら、ブライアンが苦笑した。
「あっ…アランフォースは、平気?」
はっと、後ろに振り返った。
ブライアンは元水上特別隊の騎士だから、舟には慣れているはず。
ビッケも、大きな湖のある村で育ったのだから大丈夫だろう。
でも、アランフォースはどうだろう。
海のある故郷を十歳で離れてから、こういう舟に乗る機会はあったのだろうか。
「……」
アランフォースは答えず、じっとリリアンヌへ視線を落とした。
「…もしかして、もう酔ってる?」
「…いいえ。酔いを感じたことは一度もありません」
「お酒を飲んだ時も、同じようなこと言っていたね」
思わず、くすっと笑った。
「君こそ、大丈夫なのか?」
ブライアンが不思議そうに尋ねた。
「そうですね…遠くを見ていると、あまり酔いません」
酔ったら、遠いところを見ていた方がいい。
これは、前世で誰かに聞いた記憶だろうか。
「それに…北の海に来ることなんて、またあるか分からないし」
二度とない、とは言いたくなかった。
「だから、今のうちに堪能しておきたいです」
この、綺麗な北の海を。
目に焼きつけておきたかった。
「タッセントからなら、北の海へは容易に行けるだろう」
感傷に浸っていたら、ブライアンがあっさりと言った。
「首都コウランからも、確か数日で行けるはずだ」
「…そっか」
そうだった。
「同盟国になったから、いつでも行けますね」
「王都から向かえば、また何か月もの長旅にはなるが」
ブライアンが、ふっと苦笑をこぼした。
「…いつか、行けるかな」
淡い期待が、胸に灯った。
どれだけ先になるかも分からない。
それでも…
必ず、いつか。
「その時は、私も行こう」
キリが隣で言った。
「…うん。また、みんなで行こう」
リリアンヌは、小さく微笑んで答えた。
―――
「いろいろと、ありがとうございました」
舟を降りる前に、エルフたちに向かって頭を下げた。
「気をつけて帰ってください。それから、移り住むのも大変だと思うけれど、頑張ってください」
誰からも反応はなかったけれど、それでも言葉を続けた。
「じゃあ…またね」
「…気をつけて」
女戦士のセシラが、小さく呟いた。
「セシラもね」
そっと手を振って、みんなと一緒に舟から降りた。
「貴重な経験でしたねぇ」
「ネウロ、体調はもう大丈夫?」
「陸に足がつけば、どうということはありませんよ」
ネウロが肩をすくめて、けろりと言った。
「もう…適当だなぁ」
くすっと笑い、みんなの方へ顔を向けた。
「ここから川沿いにまっすぐ歩け。一時間もすれば砦に出る」
キリが、アランフォースとブライアンに道の説明をしている。
その横で、ビッケがじっと舟を見上げていた。
「舟を、このまま砦の近くまで進めるわけにはいかないのかな」
「この舟を人族に見られるわけにはいかない」
ビッケの声を拾ったキリが、素早く答えた。
「確かに…驚くかも」
一緒に舟を見上げて、つい苦笑が漏れた。
百人近く乗れるほどの、大きな舟だ。
こんな舟が、何の前触れもなく国境を流れる川に現れたら、かなり驚くだろう。
他国から海賊が攻めてきたと思われるかもしれない。
「ここから先は、兵もいるかもしれないしね」
舟から目を離し、正面を向く。
こちらを見つめるキリと、目が合った。
「私も、ここまでだ」
「……」
「…私たちは少し離れている」
ブライアンがそっと声を掛け、みんなを連れて歩き出した。
「リリアンヌ」
キリが近づいてくる。
「あ…あのね、キリ」
はっとベルトに手を回し、鞘ごとナイフを外した。
「私も、作ったの」
鞘の脇に下がる飾りを、ちゃりちゃりと鳴らして見せた。
「そうだな。気付いていた」
キリが、こくと頷いた。
貰ったナイフには、もともと、聖樹の葉を模した飾りが付いていた。
キリの瞳に合わせた、紫。
それがとても綺麗で、すぐに自分でも色違いの、赤い石の飾りを作ってもらった。
ビッケに頼み、タッセントへ行く前に、細工師のアデレードから受け取ってきてくれていた。
間に合って良かった。
「これは、キリに」
赤い石の飾りを外して、そっとキリの手に置いた。
「…いいのか」
「うん。持っていてほしいの」
そのために、作った。
キリは腰のナイフを鞘ごと外し、すぐに飾りを取り付けた。
「…綺麗だ」
嬉しそうに微笑むと、再びベルトに戻した。
「キリ。元気でね」
いつものように、右手を前に差し出す。
「風邪ひかないようにね」
「君も」
キリが、その手をぎゅっと握った。
しばらくのお別れだ。
あの崖の上で話し合った翌日から。
キリはずっと、一緒にいてくれた。
舟でも、たくさん話した。
これから何年も、寂しくならないくらいに。
「…じゃあね」
手を離し、ゆっくりとキリに背を向けた。
足を踏み出して――
「…!」
すぐに腕を引かれ、ぽすんとキリの腕の中に収まった。
ぎゅっと、強く抱きしめられる。
その瞬間、胸の奥から熱いものが込み上げてきた。
「…笑顔で、別れたかったのに」
我慢していた涙が、頬を伝った。
「何かあったら、オーリア様を呼べ」
キリが、耳元で囁いた。
「精霊王なら、私と君を繋ぐことができる」
「オーリア様に、橋渡ししてもらうの?すごく贅沢だね」
あはっと、声を上げて笑った。
また、涙が落ちた。
「…君が心配だ」
「大丈夫…また絶対、会えるから」
背に回した腕に、ぎゅっと力を込めた。
しばらく、キリの肩に顔を埋めていた。
「…キリ。スミレはね、“安らぎのちから”を持っているの」
「…安らぎのちから?」
キリは手を緩めると、顔を覗き込んだ。
「うん。心の痛みを和らげて、穏やかな気持ちにしてくれるの」
リリアンヌは、そっと微笑んで答えた。
白のちからとは違う、共有の類のちからのひとつ。
“物語”の終盤では、そのちからに何度も助けられた。
瘴気のせいで気持ちが沈んでいく仲間たちを、スミレが癒してくれた。
何度も、前を向く気持ちを取り戻させてくれた。
「またエルデンと喧嘩したら、そのちからを使って」
スミレのちからは、キリにぴったりだ。
きっと、エルフたちの心も癒してくれる。
「きゃきゃっ!」
「またね、スミレ。キリをよろしくね」
キリの肩で嬉しそうに手を上げている精霊に、にこっと笑いかけた。
ふいに、キリが両肩に手を添えた。
「え」
柔らかいものが、ちゅっと額に触れた。
「…リリアンヌ。ありがとう」
ひどく優しい声が、耳元に落ちた。
「…こちらこそ、ありがとう」
思わず額に手を当て、笑みがこぼれた。
これ以上ないくらい、胸が温かい。
「キリ、大好き!」
ビッケに駄目だと言われたけれど。
溢れる思いが止まらなかった。
「私もだ」
キリが、穏やかに微笑んだ。
そっと体を離し、互いに一歩ずつ後ろへ下がった。
キリの体が、ふわりと浮き上がる。
そのまま舟へと移動し、静かに降り立った。
「じゃあね」
その場で、小さく手を振った。
舟がゆっくりと動き、海へ向かって進み出す。
船尾にいたエルフたちが、甲板の奥へ戻っていく。
やがて舟は一気に加速し、あっという間に小さくなった。
「…またねっ!」
もう一度、大きく手を振った。
キリだけは船尾に立ったまま、じっとこちらを見つめていた。
その姿が見えなくなるまで、リリアンヌはずっと目を離さなかった。
第十八章・完




