第一章Ⅸ(見えはじめた綻び)⑤
リリアンヌ視点
「なぜ私が、昼のこの時間に帰ってきたのか不思議だろう?」
ロデオが、静かに口を開いた。
「あ…はい」
リリアンヌは口を手で押さえ、こくんと頷いた。
「実はな、準備のために、まっすぐここへ戻ってきたんだ。明日からしばらく、また留守にする」
「えっ…そうなのですか?また遠征なのでしょうか?」
「いいや、違う。南土諸侯…簡単に言うと、大きな会議が二週間後に王城で開かれる。
それまで、しばらく王城で泊まり込むことになった」
ロデオはグラスにワインをなみなみ注ぐと、くいっと飲み込んだ。
「よほど大きな会議なのですね」
「いや…まあ会議も大きいが…いろいろと行事が重なって、町が騒がしくてな。
いつでも指示を出せるよう、城に常駐していたいんだ」
「あ…ヴァメロ王子のお披露目会も、そのひとつですか?」
「ん?それを知っているのか?」
「っ…はい。侍女たちが話しているのを聞きました」
心の中で、ニアに謝った。
「その前日には、お母様と一緒に、エレメア様とヴァメロ王子へ会いに行きます」
「ああ、そうだったな…お前が城に来るのか…」
ロデオは、顔をしかめて呟いた。
「…お父様と、王城でお会いできるでしょうか?」
それとなく、話を逸らした。
母と、王子の話は避けようと約束していたのに自分から言ってしまった。
どうして避けるのかは分からないけれど、
王子たちの名を出すと、確かに父は不機嫌になってしまう。
「星の日だろう?…その日は、町の方に出ているな」
ロデオが、考えながら答えた。
「お父様は、町でお仕事をされることもあるのですか?」
「もちろんだ。第四王子の披露目会の日も、町のパレードへ参加する」
「そうなのですね」
リリアンヌはそう言うと、水の入ったコップを傾けた。
町で、パレードもあるなんて知らなかった。
それも、サムたちと見ることはできるだろうか。
「この話に、お前はもっと関心を持つと思ったんだがな」
「…えっ」
「町に行きたいとは、言わないのか」
ロデオの低い声が、静かに二人の間へ落ちた。
わずかに、空気が張り詰めた。
「…前回、絶対に駄目と言われましたから」
リリアンヌは誤魔化すように、もう一度水に口を付けた。
「興味がなくなったのか?」
「いいえ。…お父様、連れて行ってくださるのですか?」
「いや、連れて行きはしない」
ロデオは、カンッとグラスをテーブルに置くと、唐突に立ち上がった。
「…?」
リリアンヌは、不思議そうに父の動きを目で追った。
ロデオは執務机の前へ回り、引き出しを開けて何かを取り出した。
引き出しも閉めずに戻ってくると、勢いよくソファへ腰を下ろした。
「これを、ステファンから渡された」
そう言って、手に持っていたものを無造作にテーブルへ置いた。
「…!」
その瞬間――リリアンヌの顔から、さっと血の気が引いた。
「ステファンはこれを、お前の部屋を掃除する使用人から秘密裏に預かったらしい」
テーブルに置かれていたのは――
乾ききった血が、こびりついた布だった。
「リリィ…教えてくれ。どうしてこんなものが、お前のベッドの下から出てきた?」
「……」
リリアンヌは下を向き、ぎゅっと口を噤んだ。
これは――
初めて、自分が白のちからを持っていると知った時。
そのちからを確かめたくて、自分の手をあえて傷つけたものだ。
思ったより深く切れてしまい、真っ赤な血が白布の上に落ちた。
こんなもの、洗い物に出すこともできないし、捨てることもできなかった。
だから、ずっとベッドの下に隠していた。
ベッドの下なんて、見られることはないと思っていたのに。
もう、半年以上も前のものなのに。
無造作に押し込みすぎたのだろうか。
それに――
ベッドの下には、薬療院へ行くための服や靴も隠してある。
まさか…
そのことまで、知られてしまったのだろうか。
「ステファンが言うには、お前が怪我をした報告は受けていないし、実際、そんな事実も確認できなかった」
ロデオは、容赦なく言葉を続けた。
「これは、他の誰かの血か?部屋に動物でも持ち込んで、殺したのか?」
「…!」
リリアンヌは顔を上げ、強く首を振った。
「そうだな。お前は、そんなことをするような子ではない。それならこれは、お前自身の血だ」
ロデオはすぐに頷いた。
「どこを怪我した?なぜ隠した?」
「……」
「まさか、侍女がお前を怪我させたのか?だから、お前は庇って――」
「ちっ、違う…!」
ニアは、本当に何も知らない。
「…なら、なぜ隠す?」
「…あ、あの…は、鼻血を」
「…鼻血?」
ロデオは、ぴくりと眉をひそめた。
「自分の不注意で…鼻をぶつけて、血が止まらなくなったのです」
リリアンヌは目を伏せ、小さな声で答えた。
「その時は…混乱していて、誰かを呼ぶことも思いつきませんでした」
「ひとりだったのか?」
「はい。夜寝る前の話です」
「それなら、この布も隠さず、次の日に侍女にでも言えば良かっただろう」
「そ、そうしたら…お父様に、報告がいってしまいます」
「…私が叱ると思ったのか?」
ロデオの声が、わずかに和らいだ。
「…ごめんなさい」
リリアンヌは俯いたまま、じわりと目元を滲ませた。




