第一章Ⅸ(見えはじめた綻び)④
リリアンヌ視点
「…ただいま」
リリアンヌは、誰もいない部屋に向かって小さく呟いた。
小窓の縁から下りると、すぐに上着と靴を脱いで、ベッドの下へ突っ込んだ。
普段着のドレスを頭からかぶり、靴を履き直しながら、鏡台の前まで移動した。
「…うん、よし」
今回は、顔や体に泥が付いているようなことはなさそうだ。
髪紐を解き、手櫛をして髪を整えた。
「お嬢様ぁ、入りますよ~」
コンコン、とノックが響いた。
「!?…はい、どうぞ…!」
リリアンヌは、すぐに鏡台から離れて机へ向かった。
まだ、十二時の鐘が鳴ったばかりだ。
今日の昼食は、一時間遅らせるということだったのに。
どうして今、ニアが来るのだろう。
「まだお食事前なのですが…お勉強中でしたか?」
ニアは扉を開けると、椅子に腰掛けるリリアンヌのもとへ近寄った。
「いいえ、大丈夫。どうしたの?ニア」
いつものように、食事の載った盆も持っていない。
「先ほど、ご主人様が帰ってこられたんです」
「あっ…え?そうなの?」
夕食を一緒にするといっていたから、てっきり夜に帰ってくると思っていた。
「はい。それで、お嬢様と食事をご一緒されるとのことです」
「…ん?夕食のこと?」
「いいえ、違います。昼食です」
「え」
リリアンヌは、ぽかんと固まった。
「ご主人様の部屋まで来るようにと、伝言を承っています」
ニアは気にせず続けた。
「ええと…お父様と、私だけということ?」
「そうですよぉ」
「お母様は…?」
「奥様は、お茶会に向かわれています。昨日、お伝えしたじゃないですか」
「あ…そっか」
「まず、お着替えしましょう。遊び着のままでは、さすがに駄目です」
「…うん、そうだね」
リリアンヌは、そっと椅子から立ち上がった。
「…先に、お風呂に入ってもいいかな?」
「そうですね。今日も、お嬢様から土の匂いがしますから」
ニアはさらりと言った。
「……」
「お怪我さえなければ、いいんですよ。お嬢様は、まだまだ遊び盛りなのですから」
「…はい」
リリアンヌは間を置いて頷き、浴室の方へ向かっていった。
父と会うのは、二週間ぶりだ。
一緒に食事をするのは、数か月ぶりではないだろうか。
というより、二人きりで食事をするなんて初めてだ。
別に…ただ、二人で食事をするだけだ。
焦ることは、何もない。
ない、はずだけれど――
何か、嫌な予感がした。
―――
「リリィ…!久しぶりだな」
部屋に入ると、すぐにロデオが扉の前までやって来た。
「急にすまなかったな。お前と、どうしても話をしたかったんだ」
「お父様、お久しぶりです。遠征、お疲れ様でした」
リリアンヌはドレスの裾を軽く摘まみ、膝を曲げてお辞儀した。
「お出迎えできず、ごめんなさい」
「そんなこと、気にするな。急な帰りだったから、無理もない」
ロデオはリリアンヌの前で屈むと、額に挨拶のキスをした。
「すぐに昼食の準備をさせるからな。おいで…ここに座りなさい」
「はい、ありがとうございます」
リリアンヌはニアの手を借りて、ロデオの示したソファへ腰掛けた。
すぐに給仕がやって来て、目の前のテーブルに次々と料理を置いていった。
いつもの昼食より、ずっと豪華だ。
今日は、シルヴィアのおやつを食べてこなくて良かった。
「…お父様のお部屋に、初めて入りました」
思わず、きょろりと辺りを見渡した。
自分の部屋より、ずっと広い。
奥に置かれている机は、執務用だろう。
机の上には、大量の書類が積み重なっている。
ソファは、王城のもののように豪華だ。
浅く腰掛けても、足が床に届かない。
「そうだったか?いつも来ていたのは、寝室の方だったか」
「……」
寝室が別にあることも、初めて知った。
出迎えの時以外、父とは食堂でしか会ったことがなかった。
「後はいい。全員、部屋から出てくれ」
「かしこまりました」
「失礼します」
ニアや給仕たちが、部屋から静かに出ていった。
「…さぁリリィ、食べよう!お腹すいただろう」
ロデオはそう言うと、リリアンヌの正面にどさっと腰を下ろした。
「はい」
リリアンヌは、ロデオに続いてスプーンに手を伸ばした。
「お前と、こうやって二人きりで食事するのは初めてだな」
「はい。なんだか不思議です」
それに、二人きりで話すことも初めてだ。
「授業の方は、どうだ?何か問題はないか?」
「何もないです。多くのことを学べて、とても楽しいです」
「もう、読み書きも完璧だとアヴェリーンから聞いた」
「…完璧ではないです。まだ、間違えることもあります」
「記録文も読み始めているらしいな」
「あ…はい。まだ、簡単なものですが」
「すごいな。私が記録文や日誌を理解したのは、もっとずっと後だったぞ」
「確かに、難しいです。ですが、エラドリオール邸の日常記録文を読むのは、とても面白いです」
「お前は、本当に賢くて優秀だな。それなのに、決して得意にならない」
ロデオは、ふっと静かに微笑んだ。
「誰に似たのか、さっぱり分からない」
「……」
リリアンヌは、黙って料理を口に運んだ。
なんだろう。
会話が不自然な気がする。
いや…やり取りはいつも通りだ。
自分との会話の時は、いつも弾むような父の声が、淡々としているからだろうか。
何か――違和感を覚えた。




