第一章Ⅸ(見えはじめた綻び)③
リリアンヌ視点
「ごほっ、ごほっ…!」
「ぜぇっ、ぜぇっ…ごほっ!」
入るなり、中からいくつもの咳き込む声が聞こえた。
「ぼ、ボノ…っ、げほっ、ごほっ…!」
「おい、セイ、喋んな!食事を持って帰ってきたぞ」
ボノは扉のない部屋に駆け込むと、床に寝かされた女性の手前で屈んだ。
「ほれ、食えるか?お前らも起きれるか?」
「父ちゃん、お帰り…げほっ」
「けほっ…ぜぇ、ぜぇっ」
セイの奥から、少女と少年がゆっくりと起き上がった。
「ボノさん…!」
リリアンヌは、入り口からそっと呼んだ。
「…ああ、そうだった。すまねぇ」
ボノは、はっと振り返り、慌てて入り口まで戻ってきた。
「二人とも、ここまでありがとな」
「ボノさん、まず、薬を混ぜないと」
椀を渡しながら、リリアンヌは思わず囁いた。
「ああ…ええと、薬はどうしたっけか…」
「ポケットに入れてただろ。パンの下敷きになってる」
ギタンが静かに口を開いた。
「そうだった、そうだった。ええと、どこで混ぜるか…」
ボノは二人から椀を受け取ると、きょろりと辺りを見渡した。
「私が手伝うよ」
「あ、いや、いい…!そこまでは手伝ってもらうわけにはいかねぇ」
「…本当に大丈夫?」
リリアンヌは、心配そうにボノを見上げた。
「げほっ…ギタンね…?」
セイが、苦しそうに上半身を起こした。
「…その子は?」
「ああ、孤児院の子だ。ここまで運ぶの手伝ってもらったんだよ」
ボノは椀を抱え、再びセイたちの方へ戻っていった。
「げほっ…!ごめんなさいね、こんなことまでしてもらって。シルヴィアには、本当に頭が上がらないわ」
「……」
リリアンヌはマントを深く被ったまま、セイに向かって小さくお辞儀した。
「ほらお前ら、早く食うぞ」
ボノは椀を並べると、薬を少しずつスープへ入れていった。
「食ったらオレは、行ってくるから」
「…ボノあなた、本当にやる気なの?」
「ああ…成功したら、大金貨をくれる約束をあの野郎に取り付けた」
ボノの背中は、決意で強張っていた。
「そうしたら――ここに、凄腕の霊拝師を連れて来てやるからな」
「…!」
勢いよく体を持ち上げられ、一瞬で視界からボノたちが遠ざかった。
気付けば、今歩いてきた小路が目の前に広がっていた。
「すぐに帰る約束をした。もう、戻るぞ」
ギタンはリリアンヌを地面に下ろすと、すぐに歩き出した。
「…ねぇ、ギタン。今の話…」
リリアンヌは、小走りでギタンを追いかけた。
「俺たちには関係ねぇ。何も聞かなかったことにしてやれ」
「でも…絶対、何か騙されてる」
「そうだとしてもだ。それを選んだのは、ボノ自身だ」
「…何をする気なんだろう」
リリアンヌは不安そうに呟いた。
大金貨が、どれほどの価値なのかは分からない。
けれど町民の稼ぎが月に大銀貨数枚だとするなら、
一度でそんな大金を貰える仕事なんて、危ないことしか思いつかなかった。
「…ボノさんは、普段は何の仕事をしているの?」
「日雇いで食い繋いでいたんだろうな」
ギタンは、前を見たまま素早く答えた。
「…どうして過去形なの?」
「あいつは今、仕事をできる状況じゃねぇ」
「…え」
「あんな状態じゃ、貰える仕事もないだろうな」
「…でもさっきボノさんは、今ならたくさん働けるところがあるって言ってたよ」
「それは、五体満足で健康な人間の話だ」
「…そんな」
仕事がなければ、どうなるのだろう。
炊き出し以外、本当に食べるものがなくなってしまったら。
だから、何か危険なことをしようとしているのだろうか。
ボノの言う、“あの野郎”に唆されて。
「…国王は、何をしているの?」
リリアンヌは眉を寄せ、ぽつりと呟いた。
「どうして、こんな場所があるのに放っておくの…?」
薬療院ひとつで、四塔付近に住む貧民区の人たちを補いきれると思えない。
炊き出しを、シルヴィアやサムたちだけに任せていることもおかしい。
そもそも――貧民区があること自体、おかしい。
「…国王は、よくやってる。言ってやるな」
ギタンが、静かに口を開いた。
「たった数年前まで、ここはもっとひどかった。
貧民区に薬療院と孤児院ができたのは、お前が生まれた頃の話だ」
「…うん」
たった七年前まで、この国は戦争をしていた。
ようやく町のことに目を向けられるようになったのだろう。
それは、分かる。
分かってはいるけれど――
「お前は、何をしにここに来ている?」
「…え?」
リリアンヌは、きょとんとギタンに顔を向けた。
「お前は、ちからの使い方を知るために来ているはずだ」
ギタンは、まだ前を見たままだった。
「…うん。ちからの使い方を、知りたい」
白のちからを鍛えるのは無理ということは分かった。
だけどその代わり、ちからの使い方を教えてくれる人がいる。
「そうだな。貧民区の奴らを助けに来たわけじゃねぇだろ。趣旨を履き違えるな」
「…助けようとは、思ってない」
つい、言い訳のような言葉が出た。
「それでいい。お前はもっと、自分のことに目を向けていろ」
「…?どういうこと?」
「貧民区の奴らは、誰もが自分のことに必死だ。他人を助ける余裕はない」
ギタンの声は、低く沈んでいた。
「ここで、優しさは不要だ。そんなものを見せれば、命取りになる」
「じゃあ…どうしてギタンは、助けているの?」
小さな問いが、静かに落ちた。
「…あ?」
ギタンは、ゆっくりと顔をリリアンヌに向けた。
「ギタンは、私のことを助けてくれた。どうして何も知らない私を、薬療院まで案内してくれたの?」
リリアンヌは、まっすぐな目でギタンを見上げた。
「…お前が食い下がったからだろ。あれは、諦めだ」
「でも、命取りになるようなことなんてしなかった」
「お前には、先に助けられたからな」
「それに、サムたちだって助けたのでしょう?」
「助けたわけじゃねぇ。孤児院まで連れて来ただけだ」
「いつも、炊き出しで貧民区の人たちを護ってる」
「護ってんのは鍋だ。人間じゃねぇ」
「それは、嘘だよ。この間だって今日だって、ギタンはボノさんを助けたでしょう?」
リリアンヌは、むっと言い返した。
「…本当に、調子を狂わされるな」
ギタンは溜息混じりに呟いた。
「…え?なんて言ったの?」
「お前が、危なっかしいって言ってんだ」
「あぅ」
いつもより乱暴に頭を撫でられた。
「こうしろ。俺は例外だ。さっき言った中に、俺を入れるな」
ギタンは手をリリアンヌの頭に置いたまま、再び顔を前に向けた。
「…シルヴィアだって優しいよ?」
「ああ見えて怒らせると、怖いぞ」
「…ええ?本当?」
シルヴィアは、いつでも優しい印象しかない。
「優しいだけじゃねぇってことだ。あいつは、絶対に一線を越えない」
「…うん、そうだね」
「間違っても、それを非道などと思うなよ。サムたちのこともだ」
「ううん、思わないよ」
もう、分かっている。
シルヴィアが、頑なに白のちからを使わないことも。
サムが、ボノの状況を察してなお、深追いしない理由も。
ちゃんと分かっている。
ここには、ここの掟がある。
それを非道などと思うことは、間違っている。
ただ――自分が。
心のどこかで、納得できていないだけだ。
「そうだな。理解はできても、納得できないな」
「えっ」
心を読まれた気がして、どきりと心臓が跳ねた。
「世の中は、理不尽でできている。“ここ”は、そういうところだ」
「……」
“ここ”、とは。
貧民区なのか、
王都のことなのか。
それとも、世の理のことを指しているのか。
「…お前だけじゃねぇ。何年、何十年かけて、誰もがそのことを学ぶ」
頭の上に置かれた手が、ぽん、ぽんと動いた。
「言っただろ。――ゆっくり進めよ、リリィ」
「…うん」
今はただ――
ギタンの手の温かさだけが、胸に沁みていった。




