巻き込まれていく男③
ブルック視点
暗闇の中、感覚だけを頼りに馬を進めた。
「その先に見張り兵がいます。一度、川沿いから離れましょう」
ネウロの指示を、信じるほかない。
別に、自分が捕まっても困ることは何もない。
ただ、ホウレンベルク領を馬で移動しているだけだ。
しかも、王族を案内している。
悪いことは、何もしていない。
それでも、緊張感は尋常ではなかった。
「…“彼ら”が方向転換して、こちらへ向かってきています」
ネウロの声が、わずかに強張った。
「あとは、歩いて向かうべきだ。蹄の音は遠くまで響く」
「キリ、ここからもう、ビッケにお願いしちゃ駄目かな?」
「まだだ。ここまで呼べば、見張り兵に撃ち落とされる可能性がある」
エルフとリリアンヌが、よく分からない会話をしている。
「必要なものだけ持って行こう」
ブライアンが馬から降りた。
他の者たちも次々と馬を降り、荷物をまとめ始めた。
「ビッケ。近くにはいるんだな?」
「うん。近くまで呼んでいるから、いつでも大丈夫」
また、ブライアンと少年がよく分からない会話をした。
明るい時に顔も見たが、まったく見覚えのない少年だった。
話を聞く限り、恐らくリリアンヌの従者か何かだろう。
王太子相手にも、随分と馴れ馴れしい。
目深にかぶったマントの隙間から、首元に淡い光が覗いている。
リリアンヌの精霊が、なぜかこの少年の肩にとまっていた。
「ブルック、もうひとつお願いしてもいいかな?」
リリアンヌの声が、離れたところから聞こえた。
暗闇で位置が分からないのか、手探りするように両手を前へ伸ばしている。
「ここです」
ブルックは馬から降り、リリアンヌのもとへ近づいた。
やがてその手がブルックのマントに触れ、確かめるようにきゅっと掴んだ。
「ブルック。この子たちをお願いしてもいいかな?」
「…はい?」
何を頼まれるかは予想していたが、とぼけたふりをした。
「この馬たちを、私たちが戻ってくるまで預かっていてくれないかな?残していく荷物は、もし良かったら使ってください。保存食や道具が入っているから」
「……」
「ええと…もちろん、礼はします。私にできる範囲にはなっちゃうけれど」
「金なら要りません」
いまさら、金があっても使い道などない。
「じゃあ、何が欲しいか考えておいて?」
すでに、引き受けること前提で話が進んでいる。
「…なぜ、私がここまでしなくてはいけないのでしょう」
「本当、そうだよね…」
声が、しゅんと落ち込んだ。
「だけど、馬たちには何も罪がないから…できれば、面倒を見てあげてほしいな」
「…どこで面倒を見るというのです」
村には、絶対に連れ帰ることはできない。
こんな上等な馬が四騎もいれば、騒ぎになるに決まっている。
「出会ったあの山の中とかかな?」
「…そこまで、馬を引き連れて戻れと?」
空馬が三騎も一緒では、それもまた目立つ。
「お願いします…ブルックにしか、頼めない」
「……」
本当に…なぜこの方は、こんな頼み方しかできないのか。
王族として、命令すれば。
お前を自由にしたのは私だと、恩を着せれば。
あのエルフに脅させれば。
リリアンヌなら、いくらでもこちらに協力を強いることができる。
それなのに、ただ頼み込むだけでどうにかしようとするなど…
「…はぁ」
騎士時代に溜息をつくことなど――一度もなかった。
「リリアンヌ、行くぞ」
ブライアンが、静かに隣に並んだ。
「ブルック…お願いします」
リリアンヌは、さらにブルックのマントを握りしめた。
「…分かりました」
これ以上渋れば、いずれ王太子から命令される。
それならば、彼女の頼みを聞き入れたという形の方が、まだいい。
「ありがとう、ブルック!」
「頼んだ。…行くぞ」
話は終わりだとばかりに、ブライアンがリリアンヌの腕を引いていく。
「必ず、馬たちを迎えに行きます!いつになるかは、分からないけれど…」
マントを掴んでいた手が、するりと離れた。
そのまま森の中へ進んでいくと、すぐに誰が誰だか分からなくなった。
「また、お礼を言いに来るから…!」
暗闇の向こうから、まだリリアンヌの声が届く。
「そろそろ、静かに」
誰かが、さすがに止めた。
代わりに、ひとつの影がこちらへ手を振っている。
やがてその姿も闇夜に溶け――
何も聞こえなくなった。
ようやく、ランタンに明かりを灯した。
淡い光の中に、四騎の馬が浮かび上がる。
三騎分の手綱をまとめて握り、先ほどまで乗っていた馬に跨った。
もう、急ぐ必要はない。
あとは来た道を、一日半ほどかけて村まで戻るだけだ。
もっとも、馬を村まで連れて行くわけにはいかない。
リリアンヌの言う通り、山の中で面倒を見るしかないだろう。
「はぁ…」
なぜ、こうも溜息ばかり出るのか。
複数の馬を連れて戻ることなど、大した問題ではない。
ろくに眠らず、何日も移動することだって苦ではない。
騎士時代に、何度も経験してきたことだ。
彼女に、呆れ果てているからか。
とにかく…疲れた。
暗い森を抜け、人通りのまったくない街道へ出た。
ここまで来れば、月明かりだけでも進める。
夜の間なら、この道を使う者もほとんどいない。
彼女は、聞いてもいないのに、これから何をするつもりなのかまで話した。
これから戦争をする敵国の王と話したいだと?
一体、何ができると思っているのか。
もし私が裏切り、今すぐ見張り兵へ知らせたら、どうするつもりだったのか。
このまま私がアッシカル領へ向かい、すべてを伝える可能性を、少しも考えなかったのか。
…もっとも、周りにいた者たちなら、どうにでもできるのだろう。
王太子と宰相までいるのなら、敵国の王も無下にはできないだろう。
今から見張り兵にリリアンヌのことを知らせたところで、エルフに返り討ちに遭うだけだ。
あるいは、ネウロのよく分からないちからを使い、容易に逃げ切ることもできるだろう。
アッシカル領へ行けば…会いたくもない連中に会う可能性がある。
わざわざそんな真似をするつもりはない。
『ブルック。私たちを助けてくれませんか?』
あんな人間を…自分は、ずっと敵対視し続けてきた。
単純で、まっすぐで…あまりにも簡単に人を信用する。
隙だらけで、危なっかしい。
なぜ私は、あんな者を――
不意に、背筋に悪寒が走った。
「…!」
全身が、ぞわりと粟立つ。
この殺気を――知っている。
二年前、拘禁されていた部屋で。
五年前、ザンビア砦の厩舎で。
嫌というほど、この殺気を浴びた。
街道脇の森から、一騎の影が音もなく姿を現した。
「お前がなぜ、ここにいる」
揺れるランタンの明かりが、その姿をかすめる。
闇の中に、赤い髪が浮かび上がった。
馬が、ゆっくりと近づいてくる。
そして――目の前で、止まった。
「答えろ」
冷え切った眼差しが、まっすぐこちらを射抜いた。
逃げることは、不可能――
「…ここは私の領だ。いることが、おかしいか?」
なんとか平静を装い、答えた。
「その馬はどうした」
「知人に頼まれて引き連れているだけだ。お前には関係ない」
苦しい言い訳だ。
馬に掛かる荷物を調べられれば、すぐにリリアンヌたちのものだと分かるだろう。
「おい…五体満足でいたかったら、今すぐ答えろ」
化け物の向こうから、別の化け物が現れた。
「俺の妹を、どこに連れて行った」
リリアンヌの兄、サイラスだ。
これもまた、頭がいかれている。
「……」
ブルックは、わずかに息を整えた。
「…何の話でしょうか」
言い切った、次の瞬間――
何かが、視界の端で光った。
――キィィンッ…!
目の前で火花が弾ける。
次いで、一本のナイフが地面へ突き立った。
「…っ」
眼前には、大剣の刃があった。
「おい、なんで止める」
サイラスが不服そうに言った。
「こいつは、リリアンヌ殿下の使った馬を持っています」
アランフォースは、何事もなかったように大剣を背へ戻した。
「引き取りに行った時、何かを失っていれば、殿下に無駄なちからを使わせることになる」
「…ああ、お前…また、俺の妹に会う気か」
殺気が、さらに膨れ上がった。
「……」
いかれている。
躊躇いなく、ナイフを投げた男も。
この距離から、寸分違わず目を狙える腕も。
それを、前を向いたまま弾き落とした男も。
止めた理由まで、まともではない。
本当に、いかれている。
アランフォースたちの後ろから、さらに蹄の音が二騎分近づいてきた。
「…!お前は!」
「ブルック…!」
どちらも、国王直属騎士団の人間だ。
「…お前たちが探している方は、とっくにここを離れた」
ブルックは、静かに口を開いた。
馬がリリアンヌたちのものと知られた以上、もう言い逃れはできない。
「私ももう、どこにいるか分からない」
それならせめて――時間稼ぎをするくらいしかできない。
「知っていることを、すべて言え」
アランフォースの冷たい目が、じっとブルックを見据えた。
「体の一部を失わずとも、お前に吐かせることはできる」
「……」
この男に折られた肋骨が、疼いたような気がした。
「――…ォォッ」
どこか遠くで、獣が吠えている。
その瞬間――
「…!」
アランフォースの目が、はっと色を変えた。
「待て、馬鹿っ!」
サイラスの声が飛んだ時には、アランフォースは馬ごと闇の向こうへ消えていた。
「追いかけろ!」
「はっ!」
国王直属騎士団の二人が、すぐさま馬を駆る。
「おい、阿呆」
サイラスも馬を反転させ、ブルックを指さした。
「その馬は、アッシカル領へ持っていけ。リリィの荷物には、絶対に触れるなよ」
返事を待つことなく、そのまま獣の声がした方角へ駆けていった。
蹄の音が、瞬く間に遠ざかっていく。
再び、街道に静寂が訪れ――
張り詰めていたものが一気にほどけ、全身から汗が噴き出した。
さっさと馬を走らせ、アッシカル領へ進路を変えた。
あいつらと、また鉢合わせするくらいなら。
自分を嫌う騎士が大勢いるアッシカル領へ向かう方が、よほどましだ。
一体なぜ、私がこんな目に遭わなくてはいけない。
リリアンヌから馬を預かっていなかったら、今頃、体のどこかを失っていた。
案内を申し出たこと自体が、間違いだった。
そもそも、彼女が訪ねてさえこなければ、死にかけることもなかった。
…いや、違う。
私が、リリアンヌの命さえ狙わなければ。
自分が狙ったものは――
決して手を出してはいけない、化け物どもの至宝だった。
その至宝を狙ったことで、何度も化け物どもに殺されかけた。
そして、その化け物どもから自分を守ったのは――至宝自身。
なんとも、滑稽な話だ。
アランフォースは、リリアンヌたちが向かった方角へ迷わず駆けていった。
舟で川を渡るつもりなら、まず間違いなく追いつかれる。
奴なら、川へ入ることさえ躊躇わないだろう。
だが、舟が必要だと伝えても、リリアンヌたちは少しも困った様子を見せなかった。
…タッセント側から、迎えの舟でも来るのか?
いや、さすがにそんな危険を冒すはずがない。
セスランディア側に見つかれば、彼女たちとは違い、侵入者として殺される。
撃ち落とされる可能性がある…
近くまで呼んでいる…
「……」
…まさか。
月明かりが、不意に翳った。
見上げた夜空を、三つの巨大な影が横切っていった。




