密かな出立
リリアンヌ視点
「こちらです」
マントを深くかぶったルイージが、先を促した。
ブライアンの部屋の隠し通路は、レイセント湖のすぐ脇に繋がっていた。
ランタンも使っていないから、辺りは真っ暗だ。
すぐ前を歩くキリの気配だけを頼りに、前へ進んでいく。
「…ブライアン殿下にはお伝えいたしましたが、協力者が待っています」
いつの間にか隣に並んだルイージが、そっと囁いた。
「協力者?」
見上げても、人影しか分からない。
「あなたもよく知る者たちですので、ご安心を」
それだけ言うと、ルイージはまた闇に紛れた。
「……」
協力者とは、何だろう…
これ以上、誰かを巻き込みたくない。
明朝、誰もいないベッドを見たら、フローラたちは驚くだろう。
二人には、置き手紙を残してきた。
勝手に出て行ったのは、私の意志だ。
もし咎められるようなことがあれば、あの手紙が二人を守ってくれるだろうか。
本当に…多くの人に、迷惑をかけることになるだろう。
…けれど。
前方から、微かに馬の息遣いが聞こえた。
「…!」
「申し訳ありません…なんとか連れてこられたのが、四頭だけでして…」
誰かが、馬を連れてきている。
この声は――
「十分だ。本当に助かった」
ブライアンが返している。
「お前たちは、町まで戻れるか?」
「大丈夫です…!戻る手筈は整っています」
別の男が、元気よく言った。
「なんだか、すごいことになりましたね」
また別の男が、のんびり呟いた。
「テッド、カイル、トウマ!」
リリアンヌは、すぐに三人のもとまで駆けた。
「協力してくれたの?ありがとう…!」
近くにいた誰かの手を取り、感謝を込めてぎゅっと握った。
「…!」
握った手が、びくりと動いた。
「詳しいことは分かりませんが、本当にお気をつけください」
左から、別の声がした。
「ありがとう、カイル」
ぱっと手を離し、カイルの手を握った。
「もちろん、戻ってくるんですよね?」
さらに左側にいた人物が尋ねた。
「もちろん。トウマ、またね」
今度は、差し出されたトウマの手をぎゅっと握った。
「…どうか、ご無事でお戻りください」
「テッド、本当にありがとう」
再びテッドの手を取り、強く握った。
「リリアンヌ」
「あ、はい…じゃあね。本当にありがとう…!」
三人へ手を振り、ブライアンの声がした方へ歩き出した。
数歩も離れると、もう誰が誰だか分からなくなった。
「こっちだ」
ブライアンはリリアンヌの手を取ると、慣れた手つきで馬へ乗せた。
すぐにブライアンも後ろへ跨り、馬の背がぐっと沈んだ。
「このまま湖沿いを進めば、東ザンビア砦へ続く道に出る」
「…しばらくは、誰もいませんね」
「砦を通るわけにはいきませんよ」
「分かっています。山を越えるしかない」
「今は、早くここから離れるべきだ」
四頭の馬を寄せ合い、ブライアンたちは素早く進路を決めていく。
「リリアンヌ。何か欲しければ、小声でオレに話しかけて」
隣を進む馬から、ビッケの小さな声が聞こえた。
「ありがとう、ビッケ」
こくんと頷くと、かぶっていたマントが目元まで落ちてきた。
そっと持ち上げても、辺りは真っ暗なままだった。
「森を抜ければ、明るくなる」
ブライアンが、ゆっくりと馬を進めた。
「ええと」
リリアンヌは、ブライアンの脇から後ろを覗き込んだ。
「反対だ」
「テッド、カイル、トウマ…!行ってきます」
慌てて反対側へ振り返り、真っ暗な闇に向かって手を振った。
「どうか、お気を付けて…」
「王都で、帰りをお待ちしています!」
「無事に、戻ってきてくださいね」
三人の声が、次第に背後へ遠ざかっていく。
ブライアンの言う通り、森を抜けると、月明かりのおかげで辺りの様子が分かるようになった。
馬は、湖沿いを進んでいた。
先頭を行く馬には、キリとビッケが乗っている。
その後ろを、ネウロが続いていた。
最後尾を、ルイージが進んでいる。
「…スノウ、ごめんね」
「ホ~」
頭にかぶっていたマントを後ろへ払うと、肩の上からスノウが顔を出した。
「ここからザンビア山脈の東側の麓まで、七日はかかる」
ブライアンが、そっと口を開いた。
「…はい」
中央ザンビア砦までは、三日ほどだった。
倍以上の道のりだ。
「砦を通らずに山を越えるなら、三日はかかるだろう」
「砦を通るなら、どれくらいだったのですか?」
「一日もあれば、山は越えられる」
「そんなに…違うのですね」
「そこからホウレンベルク領まで、だいたい五日ほどだ」
「……」
「町に入るわけにはいかないから、すべて野宿になる」
「それは…まったく問題ありません」
そうじゃなくて。
「…私たちは、間に合いますか?」
戦争が始まる前に、タッセントへ入国できるのか。
「……」
少しの間、返事はなかった。
「ホウレンベルク領に入るのは、十五日後…早ければ、その頃には戦争が始まっている」
「…!」
ぎくりと、肩が強張った。
「だからこそ、ザンビア山脈を越えた辺りでショウレンに書状を送る。ビッケを頼るしかないな」
「…ショウレン?」
「タッセントの王の名だ」
「あの…ブライアン」
リリアンヌは、ちらりと振り向いた。
「なんだ?」
「タッセントのことを…できるだけ教えてもらえませんか?」
王の名すら、知らなかった。
そんな状態で、私は会おうとしていた。
「…私より、ルイージ宰相の方が詳しいと思うが」
「簡単なことでいいのです。首都の位置とか、文化とか、作法とか…」
「文化?」
「はい。何が糸口になるか、分からないから…」
私の何かが、ショウレン王の怒りを買ってしまうかもしれない。
できることは、すべてやっておきたい。
「タッセントは、七百年ほど前にできた国だ」
ブライアンはすぐに答えた。
「人口は八百万人ほどと言われているが、国交を断絶しているから、それが正確かは分からない」
「その数字は、国交断絶前のものなのですか?」
「いや、タッセントの南に位置するツェリコ国からの情報だ」
「!エレメア様の母国ですね」
セスランディアの、数少ない同盟国のうちのひとつ。
「そうだ。ツェリコは、タッセントと国交があるからな」
「そうなのですね」
「文化は…セスランディアと大いに違うと言われているな」
「そうなのですか?」
同じセスランディアでも、地域が変われば文化も違う。
ラジャタ村だって、王都とまったく違った。
「君のような黒髪が多くいると聞く。それから…タッセントは騎士ではなく、武官と呼ばれる者たちが兵を率いるそうだ」
「…へぇ」
それなら――もしかして、前世でいう東方の文化に近いのだろうか。
…それを知ることが、何の役に立つかは分からないけれど。
「…すまない、それくらいしか分からないな」
「いいえ。ありがとうございます」
今は、どんな情報でも欲しい。
「…先は長い。焦るな」
優しい声が、耳元に落ちた。
「今夜はこのまま休まず進むが、眠かったら寝ていてもいい」
「…!」
咄嗟に首を振った。
「寝ている場合じゃありません」
考えなきゃいけないことは、たくさんある。
「今から気負っても仕方ないだろう」
「そうじゃなくて…」
「残してきた者たちのことを案じているのなら、私もだ」
「!」
「父上から王都を任されておきながら、勝手に抜け出してきた。…父上は、私を決して許さないだろうな」
ブライアンの口から、乾いた笑いが漏れた。
「ブライアン…まだ、今なら」
「戻らない」
即座に遮られた。
「これは、私の意思でもある。巻き込んだなどとは思うな」
「…はい」
それは…もう、思っていない。
「…私は、今回の父上の選択に納得できていない」
ブライアンの声が、ぐっと低くなった。
「タッセントを放置できないことは分かっているが、父上なら強硬手段以外の道も探したはずだ。…戦争が最善の手だとは、どうしても思えない」
「…私も、そう思います」
「だが、君こそ本当にいいのか?」
「え?」
「君がやろうとしていることは、父上の意思に大きく背くことになる。…言わずとも、分かっていると思うが」
「……」
「それでも、行くのか?」
「…はい」
あれだけ、レックスに優しい言葉を掛けてもらった。
王都を護れという言いつけにも、従えない。
けれど。
レックスは、自分が招待されていたことをなぜ教えてくれなかったのか。
どうして、すぐに断ってしまったのか。
自分に何の権限もないことは分かっているけれど、戦争を選ぶなんてどうしても納得できない。
…今から焦っても、仕方ない。
怒っていても、戦争は止まらない。
悔やんでも、何も変わらない。
…たとえ、あの人の願いを裏切ることになっても。
『…どうか、お幸せに』
――それでも、引き返さない。




