第一章Ⅷ(二つの日々)④
リリアンヌ視点
「リリアンヌ。あなた最近、随分と上機嫌ね」
「そっ、そうですか…?」
リリアンヌは、はっと正面に顔を向けた。
「ええ。前より、ずっと量も食べるようになったわ」
アヴェリーンはグラスを片手に、まじまじと娘を見つめて言った。
「食べ盛り…?いいえ、まだ少し早いわね」
「…出てくる料理は、すべて美味しいですから」
リリアンヌは、誤魔化すように水を飲み込んだ。
「楽しい授業でもあった?」
「…すべて楽しいですが、やっぱり勉強が一番好きです」
「マルコ先生と、今日は話せなかったのよ。何を習ったの?」
「王都の地図を見ながら、どんな区画があるか習いました」
「まぁ…もう、そこまで習ったの」
「はい…!すごく楽しかったです」
リリアンヌは目を輝かせて答えた。
「王都には、いろいろな区画があるのですね。通りも多くあって、驚きました」
「それはそうよ。王都は、この国で一番大きな都市だもの」
「お母様は、金鐘通りに行ったことがありますか?」
「ええ、もちろん。顔を見せることも、大切な仕事なのだから」
「…そうなのですか?」
「買い物もするけれどね。宝石店や香料店は、必ず寄るわ」
「北の金鐘通りに、大きな書店があると聞きました」
「あら…そんなことまで聞いたの?」
アヴェリーンは、くすっと困ったように微笑んだ。
「あの人に、叱られてしまうわね」
「えっ…どうしてですか?」
リリアンヌは、きょとんと目を丸くした。
あの人とは、父ロデオのことだろう。
「いくら興味を持っても、あなたは、まだ城下町へは行けないわ」
「それは…分かっています」
「でも、行きたいのでしょう?」
「……」
「だから、行きたくなるようなことを習わせるなと言われてしまうでしょうね」
アヴェリーンが小さく苦笑を浮かべた。
「…あの、私が知りたいと言ったのです。マルコ先生は、悪くありません」
リリアンヌはおずおずと口を開いた。
「ふふっ…大丈夫よ。言いつけるようなことはしないわ」
「…本当ですか?」
「ただ、授業の内容は変えなくてはいけないわね」
アヴェリーンはそう言うと、静かにグラスを傾けた。
「…ごめんなさい」
教師の顔を思い浮かべ、小さく謝った。
「あ…そうそう、リリアンヌ。大事な話を忘れていたわ」
「はい、なんでしょうか」
「来週の星の日は、すべて授業はお休みよ」
「どうしてでしょうか?」
「私と一緒に、エレメア様へご挨拶に伺いましょう。やっと、ヴァメロ王子とお会いできることになったのよ」
「あっ…そうなのですね」
日中、サムとお披露目会の話をしたことを思い出した。
「その翌日はお披露目会で、お忙しいでしょうから…あら、ごめんなさい。あなたには関係ない話をしてしまったわ」
「…いいえ」
「きっと、他の王子たちも集まるでしょうね。ニア、着付けは頼んだわよ」
「かしこまりました」
リリアンヌの後ろに控えるニアが、深々と頭を下げた。
「シューゼン王子やマルウィン王子ともお会いできるのでしょうか。久しぶりで、嬉しいです」
「あら…ブライアン殿下とは、お会いしたくないの?」
アヴェリーンはさり気なく尋ねた。
「えっ…」
リリアンヌは、ぎくりと小さく肩を震わせた。
「…いいえ、とてもお会いしたいです。なぜでしょうか?」
「名を出さなかったからよ。昔はよくサイラスと三人で遊んだでしょう?まだあなたは二、三歳だったから、さすがに覚えていないかしら」
「覚えていますが…ブライアン殿下とは、最近まったくお会いしていません」
「王太子となられてからは、お忙しい身ですものね。だけど、さすがに弟のお披露目には参加するでしょう」
「そうですか…それは、とても楽しみです」
リリアンヌは、曖昧に笑って答えた。
「ふふ…この話もまた、怒られてしまうわね」
「…えっ?」
「…三日後、あの人が遠征から帰ってくるわ。夜は、三人で夕食よ」
アヴェリーンがゆっくりと立ち上がった。
「町の話も、王子たちの話も避けましょうね。分かった?」
「…分かりました」
「それじゃあリリアンヌ、おやすみなさい。ゆっくり休んで」
「はい、お母様。おやすみなさい」
リリアンヌは席から立ち上がり、母に向かってお辞儀した。
アヴェリーンが侍女を伴い、食堂から出ていった。
「お嬢様、お部屋に戻りましょうか」
「ええ、そうします」
リリアンヌはニアに答えながら、扉ではなく壁際に向かった。
「今日も、美味しかったわ。料理人たちに、よろしくお伝えください」
「ありがとうございます、お嬢様。料理人たちも喜びます」
壁際に控えていた給仕の男が、にこっと微笑んで返した。
「おやすみなさい」
「ええ。おやすみなさい、リリアンヌお嬢様」
給仕たちと挨拶を交わし、食堂を後にした。
「…お嬢様。三日後は、大忙しですよぉ」
廊下に出るなり、ニアが後ろから低い声で囁いた。
「ん?どうして?」
「ご主人様とお会いするんです。うんと準備をしなくてはいけません」
「えっ?いつも、そんな準備したことなんてないでしょう?」
リリアンヌは、目を丸くして振り返った。
「いいえ。授業が終わったらお風呂に入り、着替えましょう」
ニアがふるりと首を振った。
「それから、仕草もですからね。廊下で、そんな勢いよく振り向いては駄目ですよ」
「…ごめんなさい」
慌てて前を向き、ゆっくり廊下を進んだ。
「あと、言葉遣いもお気を付けくださいね。お嬢様は最近たまに、町で聞くような言葉を使いますから」
「…気を付けます」
「まったく、どこで覚えてくるのでしょうねぇ。さすがに、私はお嬢様にそんな言葉遣いをしないと思うのですが」
ニアは後ろから、ぶつぶつと小言を続けた。
「衛兵さんたち…いや、庭師でしょうか。お嬢様は気付いたら、誰彼構わず話しかけていますから」
「……」
「さすがに、奥様への言葉遣いはちゃんとしてますけれど。でも、たまにおかしな仕草をしていますからね。作法の先生にも、怒られてしまいますよ」
「……」
リリアンヌは口を噤み、ひたすらに自室を目指した。
薬療院へ行ってきた日は、特にニアの小言が増える。
ニアが昼食を持ってくるまでには、ちゃんと行儀よく自室で待っているのだけれど。
まさか、気付かれているのだろうか。
いや…さすがに、屋敷から抜け出しているとは思ってもいないはずだ。
薬療院に通うようになってから、あっという間に半年が経った。
週に四日、抜け道を使って向かうのも、もうすっかり当たり前になっている。
滞在できるのは、九時から十一時の二時間だけ。
シルヴィアの授業を受けて、空いた時間には収穫や炊き出しの準備を手伝う。
少しずつ、できることも増えてきた。
けれど――
いつまで経っても、自分の生活との差には慣れない。
有り余るほどの料理も、ふんだんに使える水も、
使用人の多さも、屋敷を護る衛兵の数も。
何もかも、違う。
当然だけれど…その違いに、いつでも戸惑っている。




