特別な一日のおわり
リリアンヌ視点
リリアンヌは、一段下の張り出した屋根へ着地すると、端まで一気に駆けた。
まだ、いるだろうか。
どうしても、会いたい。
どうしても、今日中に…
再び強く踏み切り、さらに下の屋根へ飛び移る。
もう一度――
「あっ」
足裏に、ガリッと嫌な感触が走った。
そのまま、頭から落ちていく。
「…っ!」
ぎゅっと目を瞑り、頭を両腕で覆った。
いつまでも学ばない。
せめて頭を守って、すぐに白のちからを――
ふわりと、体が浮いた。
キリが、気付いてくれたらしい。
さすが…
「…あなたは本当に、何をしているのでしょうか」
「…え」
耳元で声が聞こえ、薄く目を開けた。
「傍にいない時くらい…じっとしていてくれませんか」
腕の隙間から、眉を寄せるアランフォースの顔が見えた。
「…!」
アランフォースが、受け止めてくれたんだ――
「ごめんなさい、アランフォース…!」
急いで下りようと身じろぎすると、抱く腕にわずかに力がこもった。
「裸足でしょう」
辺りを見渡すと、リリアンヌを抱えたまま静かに歩き出した。
少し先にあった低い石壁まで運ばれ、ゆっくりと下ろされる。
足が、宙にぶらりと浮いた。
アランフォースはそのまま目の前に跪くと、リリアンヌの足にそっと触れた。
「もう、治しました…!」
「血が付いています」
マントを使い、残った血を丁寧に拭っていく。
くすぐったさに、つま先がぴくりと揺れた。
「…綺麗なマントが」
「気になさらず」
「……」
どうしよう。
不機嫌な時の声色だ。
「それで…なぜ、こんな無茶をしたのです」
アランフォースが、そっと足から手を離した。
「…ごめんなさい」
リリアンヌは、ぎゅっと眉を下げた。
「理由を尋ねています」
「どうしても、アランフォースに会いたくて…」
「…明日から、また会えるでしょう」
声が、少しだけ柔らかくなった。
「どうしても…今日、会いたかったの」
なぜか――そう、強く感じてしまった。
「だから…アランフォースを見つけて、つい…」
勢いのまま、飛び降りてしまった。
「……」
「…本当にごめんなさい」
「…いえ。私も、このあと部屋へ伺うつもりでした」
「…え?」
「ご成人の日、誠におめでとうございます」
アランフォースは、まっすぐにリリアンヌを見つめた。
「この言葉を、今日中にお伝えしたかった」
「…ありがとうございます」
リリアンヌは、ぱっと顔を綻ばせた。
その言葉を、聞きたかった。
どうしても、今日中に。
アランフォースも、ふっと目元を和らげた。
静かな夜風が、ふたりを通り抜けていく。
「アランフォース。祝宴の間は、どこにいたの?」
「…ずっと、近くにおりましたが」
「えっ」
まったく気付かなかった。
「あなたは王族なのですから、もう少し毅然としていてください」
また、叱られてしまった。
「だって…祝宴なんて、初めてだったから」
リリアンヌは、小さく俯いた。
「それに、アランフォースだっていなかったし…」
「…ですから、近くにはおりました」
「まだ三日しか経っていないのに…こうして話すのは、久しぶりに感じます」
お酒を、飲んでいるからだろうか。
それとも、この雰囲気に酔ってしまっているのだろうか。
「…寂しかった」
気持ちが、ぽとりと言葉になって落ちた。
そのまま、ゆっくりと夜空に目を向けた。
月が、綺麗だ。
数えきれないほどの星たちが煌めいている。
まるで、成人した私を祝ってくれているかのようだ。
「…酒を飲まれていますね」
「え?」
きょとんと視線を下げた。
「酔っていらっしゃいますね」
アランフォースが目を細めていた。
「だって、成人したもの」
成人したのなら、酒を飲んでも怒る人はいない。
「いつまでも、子供扱いしないでください」
むっと、アランフォースを見返した。
「……」
アランフォースは目を細めたまま、じっと見つめ続けた。
「な、なんでしょうか」
「…では、試してみましょうか」
「…何を?」
何の話を…していたのだっけ。
「リリアンヌ」
アランフォースは見上げたまま、リリアンヌの左手をそっと握った。
「っ…」
久しぶりの呼び捨てだ。
「以前に私を、我が騎士、と呼んでくれましたね」
『我が騎士、アランフォース。見事でした。おめでとう』
「…あの時は、その…勢いで呼んでしまって」
その場の雰囲気に押されて、そう呼んでしまった。
「もう一度、呼んでくれませんか」
「…!」
「お願いします」
アランフォースが、まっすぐに見つめた。
「……」
リリアンヌは小さく息を吐き、そっと口を開いた。
「…我が騎士、アランフォース」
「はい」
「これからも…私の騎士として…」
自然と、言葉がこぼれていく。
「…どうか」
“その時”が、来るまで――
「…ずっと、一緒にいてください」
「……」
握られた手に、少しだけ力がこもった。
顔を上げると、アランフォースが柔らかく微笑んでいた。
「…もう、いいでしょう」
リリアンヌは、顔を真っ赤にして目を逸らした。
とんでもないことを言ってしまった自覚は、ある。
離そうと手を引くと、優しく引き寄せられた。
「え」
リリアンヌの手の甲に、アランフォースがゆっくりと口づけをした。
「…!」
前より、長い――
やがて顔を上げ、ふっと目を細めた。
「ずっとお傍にいます」
「……」
「…少し、度が過ぎました」
アランフォースは手を離すと、静かに立ち上がった。
「部屋に戻りましょう」
「…は、はい」
信じられないくらい、顔が熱い。
胸を押さえ、小さく息を整えた。
「どうやって戻る気ですか」
「あ…ええと、跳んで戻るので、大丈夫です」
「…許すと思いますか」
アランフォースの声が低くなった。
「でも…城内は通れないから」
城内には、まだ客が残っているかもしれない。
裸足のままうろついたら、せっかく取り繕った応対がすべて台無しになってしまう。
「また怪我したら、どうするのです」
「じゃあ、キリにお願いしようかな」
リリアンヌは身を乗り出し、城の上へ顔を向けた。
きっと、このまま見続けていれば、いつか気付いてくれるはずだ。
「…私が運びます」
「…?どうやって――!」
ぎくっと、言葉を止めた。
「経験がおありでしょう」
「まっ…待って、アランフォース…!」
アランフォースは待たず、リリアンヌを軽々と両手で抱きかかえた。
「肩にしっかり掴まってください」
「む、無理です…!」
「…なぜでしょうか」
「八歳の時より、私は重くなったから…っ!」
スノウを見つけた日。
アランフォースの肩にしがみついて、城壁をふたりで登った。
あの時はまだ、アランフォースのベルトに足が掛けられた。
今はもう、体だってずっと大きい。
それに…今、しがみついたりなんてしたら――
「…ふっ」
低く笑う声が、すぐ近くで聞こえた。
「あなたが重いわけないでしょう。早く行きますよ」
「…うう」
リリアンヌは少し躊躇ったあと、アランフォースの肩に腕を巻きつけた。
「それでは落ちます。もっと、しっかり掴まってください」
「……」
同じ流れを、八年前もした気がする。
「失礼…します」
恐る恐る、さらに深く腕を回した。
アランフォースの軍服に、ぴたりと体が触れた。
「…あなたのおかげで、八年前より登ることが得意になりました」
アランフォースはリリアンヌの足をドレス越しに片手で支えると、助走もなしに上へ跳躍した。
「…!」
タンッ、タンッとわずかな足場を捉え、高い城を登っていく。
途中で片手で壁に掴まり、またすぐ上に跳んだ。
「…ふふっ」
堪らず、笑いが込み上げてきた。
「本当に、上手になってる」
「まさか…こんなに城壁を登る羽目になるとは思いませんでした」
「…懐かしい」
あの時は、緊張や恐怖の方がずっと大きかった。
でも、今は。
ちゃんと、アランフォースを感じることができる。
頬をかすめる髪が、くすぐったい。
石鹸の、良い匂いがする。
ほんのりと、汗ばんだ首筋が。
驚くほど、大きな胸板が。
不思議なくらい、心が落ち着く。
…今は。
今だけは、まだ――
「お帰り」
「!」
リリアンヌは顔を上げ、声の聞こえた方へ視線を向けた。
ビッケがテラスの手すりに座り、登ってくるふたりを見下ろしていた。
アランフォースは手すりを跨ぐと、リリアンヌをそっとテラスの椅子に下ろした。
「…ごめんね、ビッケ」
「…いいよ。お前の誕生日だし」
ビッケはひょいと手すりから下りると、リリアンヌの前に靴を置いた。
「…ありがとう」
いつもの、履き慣れた靴だ。
「リリアンヌ殿下、明日のご予定は」
「……」
リリアンヌは、ちらりとアランフォースを見上げた。
もう、仕事の時の顔つきだ。
「明日は…そうだなぁ…」
どうしようか――
「…久しぶりに、四塔の方に行きたいな」
サムやギタンたちに、早く会いたかった。
「分かりました」
アランフォースは小さく頷くと、手すりへ向かって歩き出した。
「あっ…ここまで、ありがとうございました」
慌てて靴を履き直し、そのあとを追った。
「…ひとつ、言い忘れていました」
手すりの向こう側から、アランフォースが振り返った。
「…なんでしょうか」
手すりの内側で、ぎゅっと肩を強張らせた。
まさか、ここに来て説教をされるのだろうか。
アランフォースがふいに身を屈め、耳元で囁いた。
「今日のあなたは、大変美しい」
「……」
「…では、また明日」
手すりから手を離すと、一瞬で姿を消した。
あとには、城下町の灯りだけが残った。
「…もう少しだけ、侍女たちを呼ぶのを待ってやるから」
ビッケが、後ろからそっと言った。
「…うん」
リリアンヌはふらりと椅子に戻ると、そのままテーブルに顔を伏せた。
大きく息を吐いても、少しも落ち着かない。
この眩暈は…
きっと、お酒のせいじゃない。
時の鐘が、十一時を告げた。
いつの間にか、夜もすっかり更けている。
…あと、一時間だけ。
一時間だけ、浸らせてほしい。
そうしたら、頭から吹き飛んでいってしまったものを思い出すから。
うるさいほど、早鐘を突く心臓も。
手に残る、唇の感触も。
耳元で囁かれた、あの低い声も。
この、胸を締めつける感情も――
すべて、閉じ込めるから。
第十五章・完




